加藤のメモ的日記
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| 2011年01月31日(月) |
シュメール文明(6) |
歴史学者ロバート・テンプルの説によれば、ノンモ発祥の地はエジプトであるという。そのエジプトは、紀元前3000年ごろ、それまで2000年ほど続いていたのどかな農耕社会から、突然に大発展を遂げる。全土が一国として統一され、象形文字が作られた。さらに、大ピラミッド群が建設されるのは、それからわずか500年後のことである。
この急激な文明の影に、メソポタミア文明の影響があったことは、ほぼ間違いないといわれている。紀元前3000年といえば、シュメール人による都市国家文明がピークを迎えていた時期である。だとすれば、ここに一つの仮説が成り立つ。オアンネスの伝承は、技術や文化とともに、メソポタミアのシュメール人からエジプトに伝えられた。そしてエジプトで大きく脚色を加えられ、ノンモと名を変えてドゴン族へと伝わった。
しかし、仮にそうであったとしても、シュメール人に関する謎は消えない。彼らはいったい何者なのか。そして、オアンネスとは一体、何なのか、今のところそれらを調べる方法は存在しない。粘土板の記録によれば、やがて彼らの中に階級社会が起こり、富める者と貧しい者の差が極端に開き、権力者の間では陰謀が渦巻き、法律は形骸化し、秩序は乱れ次第に暗黒化していったという。
そして紀元前2000年ごろ、その機に乗じて北部の部族であるセム人が侵入し、高度文明都市はことごとく占領される。ここにシュメール文明は幕を閉じ、セム人によるアッカド文明に引き継がれることになるのである。高度文明をもたらした彼らは、今日にも通じる数々の社会問題の先駆者でもあったわけだ。
その後シュメール人は忽然と歴史から姿を消す。文字や都市社会といった文明だけが地理的にも時間的にも独り歩きを始め、その創造者の肖像は土中に埋もれた。彼らの存在が確認されたのは、およそお4000年を経た、19世紀末になってからのことである。
シュメール人はメソポタミアの南部で、大規模な潅漑工事を行い、運河を作り農作物の品種改良を行なった。これらの偉業は同時に、彼らが本格的な共同社会、つまり都市国家を形成したことを意味する。指導者のもとで共同で大作業を行い、また互いに助け合う社会を作った。
さらに彼らは、人類の中で文字というものを初めて使用した民族であるともいわれている。彼らの都市遺跡からは、最古といわれる粘土板に書かれた記録文書が見つかっている。それは象形文字だったが、後のくさび型文字の原型であることは、ほぼ間違いないという。「世界の歴史はシュメールから始まる」と称されるのも、彼らがこうした数々の文明の発祥者であるためである。
ところがこのシュメール人は、あまりにも謎が多い。いつ、どこから現れたのかさえ、わかっていない。発掘調査によると、もともとメソポタミア南部の住民は、先に栄えた北部からの移民だったらしい。その移動の時期はおよそ紀元前5500年ごろだったという。しかし、いつからか、どこからともなく現れたシュメール人が、ここに住み着くようになる。そして急激にこの土地を文明化していく。
彼らがメソポタミアの原住民ではなく、また北部からの移民でもないことは、19世紀以降に行われた現地の発掘調査によって明らかになった。その証拠の第一は、骨格である。頭がい骨が妙に幅広く、他の周辺住民のもとはまったく違う。そればかりか、人種の確定すらできていない。
そして、第二は、粘土板に記された文字である。たまたま後にこの地を支配するアッカド人による、アッカド語・シュメール語の対訳辞書が発見されたため、かろうじて判読することはできたが、その文法はまったく違うものだった。さらには、世界中のどの言語の系統にも属さないという。
彼らはいったい何者だったのか、それに、この地で急激に文明を開花させたということも、妙である。それはつまり、彼らがメソポタミアに移る前から、その技術や文化を身につけていたことを意味するのではないだろうか。だとすれば、それらをどこでどのようにして手に入れたのか。
遺跡はただ、その高度な文明の姿を今日に語るのみである。だが、発掘された粘土板に記された神話にはこの謎と少なからず関連していると思われるものがある、その中の一つが、奇妙な生物オアンネスである。海から登場したこの生物は、シュメール人の人びとに農業、都市や神殿の建設、文字、法律、数学、芸術、それに秩序などを人間の言葉で平和梩に伝授したという。
これらの者は、シュメール文明を特徴づけているものと見事に合致する。つまりオアンネスこそが、彼らの文明の”開祖”だったということだ。だとすれば、この生物は、結果的に全地球に文明をもたらした始祖ということになる。
またこの神話から、シュメール人の出身地を南方とする説がある。メソポタミアから見て海といえば、南に広がるペルシア湾しかない。この物語は、船を使って北上してきた彼らを反映しているということである。実際に彼らが輸送や交易で船を多用したいう事実もこれを裏付けている。ただし、南方だとしても、それがどこなのかは特定できていない。
『神々の造った地球』 知的冒険倶楽部
熱帯降雨林が地球の陸地に占める割合は6%にすぎないが、少なくとも地球上の生物の半分はここ生息するといわれている。ある学者によると、数百万もの種が、広大な熱帯降雨林地域である、南アメリカのアマゾン盆地、アフリカのコンゴ盆地、東南アジアに存在しているという。この地域に生息している動植物は、科学的な研究が進んでおらず、名前さえついていないものが多い。
さらに熱帯降雨林の大半の野生生物は、樹木の樹冠部分に茂る枝葉に生息していて近づきにくく、未確認の種もたくさん存在している。珍しい新種は絶えず発見されている。2006年、東南アジアのニューギニア島では、熱帯降雨林に覆われた人跡未踏の地域、いわゆるロストワールドに入った遠征隊によって、新種の鳥類1種、数種類のカエル、チョウ、植物など、それまでまったく知られていなかった種が数多く発見された。
「ほとんど人目につくこともない、熱帯降雨林の得体の知れない動植物を、どうしてわざわざ保護しようとするのか」と疑問を呈する人もいるだろう。しかし、現在に至る数百年間を振り返るだけでも、熱帯降雨林に見いだされる豊富な資源が、人類の生存と幸福に多大な恩恵をもたらしているのは事実である。
バナナ、アボガド、カカオといった食料から、キニーネのような医薬品、他にも多数の動植物が医薬品として利用され、ガンをはじめとするさまざまな病気の治療に使われている。ブラジル産パラゴムの木に由来する工業製品まで、熱帯降雨林の多様な生物が人間社会の発展に深い影響を及ぼしているのだ。
熱帯降雨林の秘密について、多くを明らかにしてくれたのは、生活と文化をその環境に依存している先住民で、彼らはしばしば野生生物について深遠な知識を持っている。熱帯降雨林に生息する動植物などは荘厳な真の美しさを持っている。時を超えて大自然が生み出してきたものの多様性、複雑さ、ユニークさには驚嘆せずにはいられない。
『熱帯降雨林の世界』
| 2011年01月25日(火) |
集団的自衛権とは(4) |
自国の軍隊を持たないうえに、アメリカに守ってもらいながらも「自衛権を放棄しない」というのはどういうことでしょうか?そんなことができるのでしょうか?
それはどういうことかといいますと、自分の国は自分で自衛するという大原則もありますし、集団的自衛権の行使もサンフランシスコ講和条約で認められているわけです。その結果、いちおう現在の憲法解釈によっても、日本は集団的自衛権を認められているわけです。ただし、権利は認められているが、行使はできない、というのが、法制局の解釈です。この集団的自衛権については、日米安保条約においても認められています。日米安保条約の前文は「日本国およびアメリカ合衆国は、両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有している」とあります。
ここにある「個別的」というのは、日本が自分で自分の国を守るということです。そして、日米安保条約があるために、日本には集団的自衛権もある、とここで書かれています。
この日米安保条約での集団的自衛権とは、本来的にいうならば、アメリカが攻撃された時に日本がアメリカを助けに行くことができるということです。そしてその逆に、日本が攻撃されたならアメリカが助けに来る、ということです。また、たとえばフィリピンが襲われたとしたら、それはフィリピンと軍事同盟を結んでいるアメリカにとって不都合なことであるから、同盟国のアメリカがフィリッピンでの非常時に助力してほしいと言ってきたならば、日本はフィリピンまで出ていくことも法律上は許されてる、ということになります。これが集団的自衛権というものです。
これを法律上ではどう解釈するのかというと、「集団的自衛権の固有の権利を保持していることは認めましょう、しかし行使する権利はないですよ」という非常に持ってまわった解釈が、現在の法制局の憲法解釈なのです。
このように、日本には集団的自衛権を保持することが許されています。しかし、その権利を行使することは許されていない、というのです。なぜそんなもってまわった解釈がなされているのかというと、集団的自衛権で国外に出ていった軍隊というのは、当然「武力」とみなされるからです。憲法第9条では「武力はこれを保持しない」とうたっているため、日本は憲法上は武力を持っていないことになっています。そうすると、集団的自衛権で国外に出て行った自衛隊は、現地で「武力」を使えなということになるのです。
ここに、現在の憲法が持っている、非常に大きな矛盾というか、まやかしが出てくるわけです。このように考えると、中曽根元首相が言っている憲法の改正というものと、自分の国は自分で守るという自主防衛、これは最終的には集団的自衛権になりますが、この問題とは表裏一体の関係になるということです。
普天間基地移設問題で、鳩山政権の迷走は少なくとも日本の国民にとっての問題提起にはなったと思うのです。2009年末から現時点まで、普天間基の地移設問題における「最低でも県外、可能なら国外」という鳩山さんの中にある大原則が実現できなかった結果、批准の矛先がアメリカではなく、すべて鳩山さんに向けられることになってしまったのです。つまり、「ヤンキー・ゴー・ホーム!」という声が上がらなかった。
しかし、いろいろな案が上がっては消えてゆく過程で、「日本にアメリカの駐留軍があるということは、本来おかしいことかもしれないなあ」という問題提起となったという効果はありました。それは鳩山さん、つまり国家の最高責任者があれだけうろうろとさせられた影響だといえます。鳩山さんの要求は「アメリカの海兵隊全体を撤退させろ」というものではなく、普天間基地だけをグアムに移設してほしいというものでした。
海兵隊の一部をグアムに写すことはアメリカがすでに決めているわけですし、普天間基地というのは民家がたくさんある中につくられている基地ですから、鳩山さんの要求自体は、それほど高飛車なものではないのです。
普天間基地というのは沖縄県民の生活エリアの真っ只中にある基地といえるものでした。そういうことを考えてみると、今回の問題は普天間基地の移設だけの問題ではない、そもそも沖縄にはなぜアメリカ軍基地が集中しているのか、そうして日本にアメリカ軍基地を半永久的に置き続けることを許している日米安保条約とは何か。そこに問題を広げて考えてみなければいけないと思えるのです。
戦後の日本国憲法が制定される時、アメリカに憲法の原案を見せられ、これで日本の国会は議決して憲法を制定しろといわれたのですが、この時の憲法担当の国務大臣であったのが斎藤隆夫です。その斎藤が戦後の憲法の草案、特に9条2項を読んで「この条項では軍隊を持てない」ということに気付きました。しかし、斎藤をはじめとして当時の日本人には、誰もこの憲法の草案はアメリカが作ったものだったので触れることができませんでした。そのため、斎藤はこの憲法に失望したそうです。
軍隊を持たないかぎり近代において国の独立は守れないのです。軍隊がなければ「国土」「国民」「主権」の三つの近代国家の要素を守れないのです。そうでなければ他国の軍隊に独立や平和を守ってもらう保護国になるしかありません。これは世界の常識です。
当時は吉田茂の内閣でしたが、当時の共産党書記長であった徳田球一が国会の討議で、「今度の新しい憲法の9条は、このような内容になっているが、これでは国は独立を維持できないのではないか?」という趣旨の質問をしました。日本共産党でさえ驚き、そんな反論をする性格の憲法だったのです。ですからアメリカも、日本が占領を解かれて独立を回復したら当然憲法を改正するだろうと、と見ていました。
どうして戦後の日本は、国家として独立できないような憲法を受け入れてしまったのか。それは、戦前において、日本政府が軍部をコントロール(シビリアン・コントロール)することができなかったことが問題でした。つまり、戦前においては、軍部が内閣の上位にきてしまったことが問題でした。なぜ軍部が内閣の上位にきたのかというと、それは天皇の統帥権というものが戦前にはあり、この統帥権に政府は触れることができないと、「統帥権の独立」が明治憲法では規定されていたからです。
だから、政府がどんなに反対しようとも、軍部がその統帥権を盾に動くというように、統帥権が発揮されてしまうと、戦前の日本政府は何もできなくなってしまったからです。さらに、軍部によって「統帥権干犯!」といわれれば内閣は総辞職しなければならないような構図だったのです。
そのようにして、軍部が独裁化し、暴走していった経験が日本にはあるわけです。さらに、満州事変は侵略であると戦前に警告されていたのに、その侵略戦争を続けたことの罪を問われたために、そのような過失を犯した軍隊を持つことができないという憲法を受け入れざるを得なかったのでした。
しかし、この憲法が施行された時、日本は占領下にありました。当時、アメリカ軍は占領軍として日本に駐留していますから、日本に軍隊がなくともアメリカ軍が駐留して日本の独立と平和を守ってくれているという状況でした。だから日本に軍隊(武力)がなくてもいいのだ、国際信義を重んじ、それにのっとった上で自分たちは軍隊を持たないとしたということが、憲法の前文や第9条での規定を見ればわかるのです。
このように、戦後に制定された日本国憲法というのは、日本がアメリカ軍の占領下にあるという前提で作られたものなのです。しかし、この占領状態というのは、法的には昭和27年(1952年)には終わっています。
その当時、GHQのメンバーであり、日本国憲法の草案を作成したケーディス大佐という人がいますが、ケーディス大佐は占領が終わったあとに「占領が終わっても、日本があの憲法を使い続けるとは思わなかった。日本が独立を回復したら必ず憲法を改正して、自分たちの軍隊を持つようになるだろうと思っていた」というわけです。しかしそうはならなかったということを、アメリカ人であるケーディス大佐ですら不思議がったのです。これは、日本人が戦前の軍部の暴走を反省し「もう戦争はいやだ」という心理に陥っていたからでしょうね。
世界を東西に分かつベルリンの壁が壊された1989年というのは、まさに冷戦構造が崩れたときでした。二つに分かれていた世界が一つになったのだから、アメリカが自由主義圏を守る「世界の保安官」ではなく、もうアメリカのことしか守らない、という戦略に変わっていったことを認識するならば、その時に日本の土地ばかりか、アメリカの土地やエンパイアステートビルさえ買っていた「金あまり」の余剰資金を用いて、日本は「自分の国は自分で守る」という戦略を立てるべきだったのです。
つまり冷戦構造解体以後の国家戦略や防衛、安全保障の問題を考え、日本の国の形、ナショナルアイデンティティーを再構築するという方向へと、転換をはかるべきだったのです。冷戦構造解体後、世界各国はアイデンティティー・ゲームへと舵を切っていたのです。
しかし、日本はそれをしなかった。その結果、経済至上主義のままで、ナショナルアイデンティティーをつかみ直すこともなく、自分の国は自分で守るという気概や戦略思想も国民の中に根付かないままできてしまった。国民にはアメリカから保護国扱いされているという現状認識もないし、保護国状態にあるということに屈辱を感じない国民になってしまった、という問題点が浮かび上がってきているわけです。
『なぜ日本にアメリカ軍の基地があるのか』
海上保安庁の第一線の航海士・一色正春氏が11月4日、動画サイト、ユーチューブに中国船の衝突映像を流出させた動機は、民主党政権に対する「義憤」だった。「正義は我にあり」というのが、一色氏の偽らざる心境だ。「中国漁船が逃げ惑って、当たっちゃった」ということだ、とか、「ビデオの公開はタイミングを逸している、外交カードとして持っておくのがベストだろう」と中国寄りの発言をしていた民主党議員に、海上保安官は心底呆れていた。
無法行為のこれだけ明白な証拠を前にして、まだ中国を擁護するような発言をする神経が、まったく理解できない。仮にこのビデオがこのまま封印されてしまえば、間違った世論が得形成されたしまう可能性ある。
「外交カードとして使う」という発言に至っては何をかいわんやです。一色さんには、このビデオの扱いを民主党政権に任せてはおけない、という激しい怒りがあった」ある海保OBもこう率直に語る。「はっきり言って、一色君の行動は理解できます。政権は、あまりにも無頓着すぎる。いくら経済的な関係があるからといっても、顔が中国のほうを向いているという印象を受ける」
痔海上保安官たちの怒りは、せっかく逮捕した「無法者」の中国人船長をおめおめと釈放したことに端を発している。その後も民主党政権は中国首脳との会談の道を探ってソデにされたりと、迷走を続け中国政府と密約して「決定的証拠」であるはずのビデオまでオクラ入りにしようとしたという報道もある。
「尖閣のエリアには、周辺に海洋資源があるということがわかって以降、中国漁船が入り込んでくるようになりました。私が警備にあたっていた頃も、中国漁船から卵や石を投げつけられましたし、私の顔のすぐ横にホーガンの矢が飛んで来たこともありました。
相手は一応漁船ですが、乗務員はほとんどが軍人上がりで。今回衝突した船の船員も元軍人で間違いないでしょう」海上保安庁はアメリカの「コーストガード」にならっ設立された組織で、軍隊ではなくあくまで沿岸警備隊という扱いである。しかしその第一線で行われているのは、限りなく戦闘行為に近い危険なミッションである。
「一色氏は名乗り出る直前、地元のテレビ局記者に連絡を取り「職場への不満は何もない」と語っています。記者に渡したメモも、「時の為政者の意向によらず、国民が真実を知ることは大切なことではないでしょうか」とつづっている。流出の舞台となった漫画喫茶は職場のすぐ近くで、露見することは覚悟の行動だったようです。
今回の焦点は、一色氏の行動が本当に罪に問えるのかどうか、である。一色氏自身、「ビデオテープを公開することが何の違反に当たるのか」とメモに書いている。「どこの省庁でも、秘文書指定の区分というものがある。機密、極秘、秘、部外秘、取扱注意と5ランクに分けられている。それを国家行政組織法によって、所轄大臣が決裁する。それを承知することで、はじめて国家公務員の守秘義務の対象になるんです。
今回のビデオは、おそらく秘密文書指定をやっていない。彼自身、「だれでも見ることができた」と言っていたくらいですから。本来は行政罰が先ではないでしょうか。先ず懲戒委員会を開いて、どの程度の違反か審査する。この程度の事なら減給で十分。そもそも国交大臣が間抜けなんですよ。自分のところの職員を守らないでどうするんですか。(佐々淳行氏)一色氏の行動は、一色氏なりの正義感に貫かれている、隣国に嫌われまいと右顧左眄する政権とは、見事なまでに好対照である。
『週刊現代』 sengoku38(仙谷左派)
| 2011年01月21日(金) |
日本の黒幕・笹川良一 |
こんなにも濃い96年を生きた日本人が他にいただろうか。巨万の富を稼ぎだしながら、自らは吝嗇家で贅沢はせず,福祉に使う。ただし数多の女性を愛した。愛した女性の名前は70人近くといわれる。国内ではハンセン病撲滅のために慈善事業でその名を知られ、評価も高い。このギャップは一体何なのか。彼の人物像については「胡散臭い大金持ち」というイメージだけが浸透している。
お手伝いさんも、こう語ったという。「旦那様は『絶対贅沢をしちゃいかん』と話していました。晩年に秘書がガス湯沸かし器を取り付けようと言っても、『もったいないから買わない』といい、毎朝自分でお湯を必要な分だけガスで沸かして顔を洗って今した。秘書が見かねて自腹で購入して取り付けたら、『これは便利だな』と喜んでいましたけど」
生活も質素であった。夕食のおかずはメザシ2本が定番。ご飯は切り干し大根を一緒に炊いた大根飯。あるいは生卵かけごはん。うどんは、とけるまで煮込んだ鍋焼きうどんが好物で、具はなし。著書では秘書がこんな話をしている。
「協定関係の会議の時の昼食は、鍋焼きうどんと決まっていましたけど、汁を吸いつくしてドロドロに伸びきったうどんを食べはるんです。しかも、残したものを『うまいぞ、お前食え』と鍋が回ってくる。伸びきってぐじゅぐじゅになった鍋焼きうどんなんて、涙が出ますよ」中華料理もよく食べたが、中華といってもチャーハンだけだった」
笹川の質素倹約は両親の影響が大きい。父、鶴吉は大きな造り酒屋を営んでいたが、高等小学校を卒業した息子を進学させずに、15歳から2年間寺に預けて厳しい修行をさせた。また、鶴吉の死後、家を出て本格的に先物取引を開始する笹川に母・テルはこう言った。「いっそう心して世のため人のために働くよう心がけなあきまへん」
その言葉を守り続けた笹川は、質素な食生活を好む一方で、世界中のハンセン病患者の施設を慰問し、患者の手を握り励ましたのだ。また終戦直後は、東京裁判の戦犯家族を支援し、関係者からの感謝の手紙が3000通も残っている。だが、倹約かであり、福祉事業に熱心だった一面はマスコミに報じられてこなかった。笹川が亡くなったとき、毎日新聞はある文化人のこんなコメントを掲載している。
〈戦犯に問われながら、終戦後に米軍の慰安所を作ったりして「変わり身が早い人〉という印象がある。各国に多額の寄付をしたが批判も多く、結局「リッチなファシスト」という評価を変えることはできなかった。金儲けがうまく、何でも金で解決しようとしたところがあった。「金がすべて」という戦後日本人の考え方を作った人ではないか〉
なぜ笹川は一度も有罪になったこともないのに、「カネに汚い」人物として書かれ続けたのだろうか。工藤氏はこう説明する。「今なら名誉棄損ですぐ訴えられるような記事を新聞や雑誌に書かれても、笹川氏は『書いている人にも女房や子供がいて、生活があるんだから』と、一切提訴をしなかった。だから、いい加減な情報が野放しになったと思います。
何百億円はあると思われた笹川の遺産総額は約53億円で、自宅や山林、非上場会社の株など換金しづらいものばかり。一方、福祉事業などで残した借金は約37億円にも上った。資産の多くを使いきっていたのである。「こんなハチャメチャに人生を送ることができたのは、日本では笹川氏が最後だと思います。あまりにスケールが大きくて、とても黒幕、首領という枠に収まる人物ではありません」今の政財界に笹川氏ほどの傑物がいないことは間違いないだろう。
『週刊現代』
| 2011年01月20日(木) |
事業仕分けは終わった |
92兆4000億円の予算が、クリスマスイブに閣議決定された。財政危機を訴えていた菅政権だが、過去最高規模の歳出額を計上した。財源が足りないと直前まで調整は難航したが。土壇場になると突如、鉄道得建設・運輸施設整備支援機構の余剰金1兆2000億円に「プレゼント」が降ってきて、帳尻があった。
霞が関の官僚たちにとって、予算を関係団体などに配分することこそ、力の源泉である。今や、民主党、自民党の双方が増税積極派になった中で、彼らは歳出を減らすつもりなどさらさらない。消費税増税が実現するまでは埋蔵金でしのぎ、歳出規模はどんどん増やしいていこうという魂胆なのだ。
無駄な歳出削減の特効役と期待された事業仕分けも、力不足を露呈した。大きく報じれらる事はなかったが、とりわけ労働保険特別会計をめぐる一件は、「事業仕分けはもうオシマイ」(内閣府中堅幹部)と関係者を驚かせた。
10月の事業仕分け第三弾で、ジョブカードなどの数事業が「廃止」判定を受けたが、労組組合と厚生労総省が手を組んで抵抗した。結局、12月15日の雇用戦略対話の場で、ジョブカードは「制度を推進」、産業雇用安定センターと介護労働安定センターへの予算措置や、社会復帰促進等事業は「今後とも実施」と、全面的に引っ繰り返されてしまったのだ。
哀れだったのが蓮舫行政刷新担当大臣。労組と官僚の前には無力であることがはっきりした。もはや霞が関では、「官僚の了解さえ取ってしまえば、蓮舫さんの意向など無関係」とすっかり軽視される有り様だ。「仕分けの女王」の賞味期限は短かった。
『週刊現代』
免疫学者の多田富雄さんは大の病院嫌いで、エッセイに「病院は病人の病気を悪くするところ」と書いている。そのため自宅療養を続けていたが、亡くなる一ヵ月半前には、ついに寝たきりになってしまい、書斎にベッドを運び入れた。大切にしていた着物や蔵書の寄贈先も、すでに決めていた。多田さんは長い闘病生活の中で、覚悟を決め、死の準備を確実に進めていたことになる。
政治評論家の細川隆一郎氏は03年に脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残り、目が見えにくくなりました。頭は最後まで明晰で、死の1週間前には、入居していた老人ホーム内でラジオ番組の収録をしている。死後、遺言とともに手帳に書かれたメモが書斎から見つかった。細川さんも、人知れず老いを見つめ、死の準備をしていたのである。一通のメモにはこう記入されていた。
《五体満足、五体不満足。その身にならなければ何もわからぬ。その身になった時がスタートだ。すべて明るくプラス思考で人生を開くことが大切だ。絶望は逃避であり敗北だ。目が見えなくても匂いがわかる、音がわかる、歩ける、体操ができる》
小説『月山』で74年芥川賞を受賞した作家・森敦さんは‘89年に77歳で亡くなった。晩年インタビューで、こう述べている「人間は本当に悟りを開いたとき、恍惚の人になるんです。老人になれば肉体が恍惚になっているから、悟りやすい。生と死がおのずから背中合わせだ。だから僕は、ガンといわれても怖くない」単なる好々爺になったわけではなく、文学の志を失ってはいなかった。最期の日まで執筆を続けていたのである「これをやりたいという意思を持って生きていれば、その通りになる。それは本当のことなんですね」
淀川長治さんが気管支炎で退院後、赤坂にあるホテルで暮らすようになる。そのころから、淀川さんは「僕、明日死にますから」とよく言うようになったという。本心ではなかったかもしれないが、挨拶代りのように口にする「死にますから」には、欲得を超越したある種の潔さが漂う。病院が大嫌いで、検査を勧められても行かず、それがアダになったのか、98年に大動脈瘤と内臓のがんが見つかった。
漢文学者の白川静さんは、‘06年に96歳で亡くなった。「あと何年生きられるかなんて考えない人でした。『命は神様の思し召しだ』とよく言っていましたから」そうして亡くなる前、病室でこう呟いた。「ようけ書いてきたな」それから間もなく、意識が混濁し、眠るように亡くなったという。死因は多臓器不全。「体のどこが悪いということはではなく、休養のつもりで入院したら急に容態が悪くなり、間もまく逝ってしまった」
『週刊現代』
患者さんの多くは病気よりも孤独に苦しんでいる。死ぬことよりも、一人で死んでいくこと、誰にも知られないで死んでいくことのほうが怖いのだ。見守ってくれる人、たとえ自分が死にゆく時も見守ってくれる人が必要なのだ。人はつながりを求めているのだ。
『転生と地球』157
| 2011年01月17日(月) |
独立できない憲法(3) |
どうして戦後の日本は、国家として独立できないような憲法を受け入れてしまったのか。なぜこのような憲法であるのに、受け入れざるを得なかったのか。それは、戦前において、日本政府が軍部をコントロールすることができなかったからである。
つまり、戦前においては、軍部が内閣の上位にきてしまったことが問題だった。なぜ軍部が上位にきたかというと、それは天皇の統帥権(軍部に対する最高指揮監督権。通常は国家元首がこの権利を持つ)というものが戦前にはあり、この統帥権に政府は触れることができないと、「統帥権の独立」が明治憲法には規定されていたからである。
だから、政府がどんなに反対しようとも、軍部がその統帥権を盾に動くというように、統帥権が発揮されてしまうと、戦前の日本政府は何もできなくなってしまっていたからである。さらに、軍部によって「統帥権干犯!」(政府がその権限をこえて天皇の統帥権にふれようとしている)といわれれば、内閣は総辞職しなければならないような構図だった。
そのようにして、軍部が独裁化し、暴走していった経験が日本にはある。さらに、満州事変は侵略であると戦前から警告されていたのに、その侵略戦争を続けたことの罪を問われたために、そのような過失を犯した軍隊を持つことができないという憲法を受け入れざるを得なかったのである。
しかし、この憲法が施行された時、日本は占領下にあった。当時、アメリカ軍は占領軍として日本に駐留しているから、日本に軍隊がなくてもアメリカ軍が駐留して日本の独立と平和を守ってくれている、という状況だった。だから日本に軍隊がなくてもいいのだ、国際的信義を重んじ、それにのっとった上で自分たちは軍隊(武力)を持たないとしたということが、憲法の前文や第9条での規定を見ればわかるのである。
このように、戦前に制定された日本国憲法というのは、日本がアメリカの占領下にあるという前提で作られたものである。しかし、この占領状態というのは、法的には昭和27年(1952)年には終わっている。
その当時、GHQのメンバーであり、日本国憲法の草案を作成しためーディス大佐という人が、占領が終わった後に「占領が終わっても、日本があの憲法を使い続けるとは思わなかった。日本が独立を回復したら必ず憲法を改正して、自分達の軍隊を持つようになるだろうと思っていた」というわけである。しかし、そうはならなかったということを、アメリカ人であるケーディス大佐ですら不思議がったのである。これは、日本人が戦前の軍部の暴走を反省し「もう戦争は嫌だ」という心理に陥っていたからだろう。
日本は独立国ではなく保護国
本来であれば、現在の憲法はとっくに変わってしまっていてもおかしくない。では、規定の上では憲法そのものを変更できるはずなのに、なぜ日本はそれをしなかったのだろうか。
なぜ、日本が軍隊を持たない、戦力の不保持という憲法を保持し続けたのかというと、それは日本とってはそうし続けることが都合がよかったからということがある。戦前の軍部が独裁化してしまったという失敗を味わったこと、その失敗の味がとても苦かったということもある。結果として他国に守ってもらうことの安楽上に甘えたわけである。
また、財政的にみても、軍隊を持たなければ軍事費があまり発生しないというメリットもあった。それに軍隊を持てばその軍隊をどのような規模で整備するとか、戦略そのものを考える困難さと手間の必要があるが、軍隊を持たなければそういったことを一切考える必要もない。国家としての重要な仕事を一つ減らすことができたわけである。そのかわりにアメリカ軍が日本を守ってくれるのである。
しかし、そのような状態は独立国であるとはいえないのである。だから、文芸評論家だった江藤淳氏などは「日本は半独立国である」という発言をしたわけである。しかし、政治上や外交上では、江藤氏がいうような「半独立国」という言い方ではなくて「保護国」という概念、呼び方がされる。
アメリカによる占領は昭和27(1952)年で終わるが、アメリカはその後も日本のことを保護国と考えていた。こういった考え方を代表していたのが、カーター大統領の政策補佐官を務めていたブレジンスキーという人物だった。
彼は「日本はアメリカの非保護国である」ということを1997年に論文の中で述べている。また彼は、「日本なんていっているが、あれはアメリッポンである」ともいっている。つまり、「日本とは、ほとんどアメリカの従属国で、アメリカによって守らなければ自分の国を守れない国である。だから日本はアメリカの保護国である」というわけである。保護国とは、主権・国土・国民を持った独立国ではあるが、他国に守ってもらわないと独立を保っていけない国ということである。
独立国とは、必ず自分の国を守るための国軍を持たなければならない、というふうに考えられるものだが、日本の場合は建前とすると、憲法上で軍隊を持つことができなくなっている、第9条に「陸海空軍そのほかの戦力は、これを保持しない」という条文があるからである。しかし、自衛権を保持しているから、そのための自衛隊を持つ、というのが日米安保条約を結んだ自民党政権の解釈だった。
ただ、これは専守防衛の組織であって、周辺地域の平和を守る役割を放棄していることにもなる。だから、アメリカ軍が駐留軍基地を設けて日本を保護してあげているんだ、という考え方になるわけだから、その意味で日本はまさにアメリカの保護国であるともいえるのである。
日本が単独で自国の独立と平和を守れない状態を改めて自主防衛を図るとすれば当然のことながら「戦力の不保持」を宣言している憲法を改正しなければならない、自主防衛と憲法改正はセットになる。鳩山由紀夫氏の祖父・鳩山一郎や中曽根康弘元首相は、これを当然セットと考えていた。
『なぜ日本にアメリカ軍の基地があるのか』
いまさら断るまでもないが、日本年金機構の前身、社会保険庁時代の本部及び現場の主要ポストは、無責任な幹部連中で占められてきた。彼らの多くは、職務への使命感に欠け、良識に欠け、いかにサボるかといったことのみ情熱を燃やしていたのである。おかげで、年金記録の正確かつ厳密な管理がなされず、今日の大混乱を招くことになった。しかし彼らは、いまだその過去と真摯に向き合っていない。
日本年金機構がスタートして、ちょうど1年経つ。昨年10月からは、民主党政権の目玉政策でもあったコンピューターに収録されている約3億件の記録と、その“元帳”ともいうべき約7億2000万件の紙台帳記録との突き合わせが始まった。これは本人では把握のしようのない記録の漏れや誤りを日本年金機構で洗いだし、その訂正をはかっていくものだ。作業には約2000億円の税金が投入されるなど、多大な国民負担のもとに実施される。
本格作業を前に実施されたサンプル調査では、これまで予想もしなかった深刻な記録問題が潜在していることも明らかになった。そんな憂慮すべき事態を前にしても、社保庁から日本年金機構に横滑りした幹部連中や、やる気のない理事たちは十分な対策を打たず、相変わらず涼しい顔を決め込んでいる。
いったい何が起こっているのか。突き合わせの結果、今まで記録がないとされ、無年金になっていた人たちの記録が発見されているのである。例えば大阪府貝塚市在中の男性(52才)の場合、これまで存在しないとされてきた11年分以上もの年金記録が見つかっているのである。
この男性は、年金の受給資格を得るための25年の加入期間を満たしていないとして年金が支給されていない。しかし今回、新たに見つかった記録を統合すれば、あと8カ月分の保険料を追加納付すれば受給資格が得られる。結果、毎年86万円の年金が受給できるようになったのである。ところが法律で保険料の納付が認められている70歳の年齢制限を超えているからだという。
自分たちのいい加減な記録管理で、このような事態を生みだしておきながら、そのミスを棚に上げ、一方で法律を盾に被害者の救済に消極的なのは、いくらなんでもひどすぎる。今後突き合わせを進めていけば、同様のケースが多数浮かび上がってくる可能性は高い。それもまた、救済しないで放置するというのでは、それこそ年金制度への信頼を失わせ、制度を崩壊に導くのに等しい。
このような悪しき業務姿勢や理不尽な法律解釈は、早急に改めるべきだが、それすらできないのが、日本年金機構の実態でもある。未来永劫、日本年金機構の職場風土は改善されないといっても過言ではない。機構に自浄能力がない以上、国民の批判力でもって彼らを厳しく追及していかなければならない。
『週刊現代』
| 2011年01月15日(土) |
軍隊と警察の違い(2) |
同じ国家の公的武装集団としては、軍隊と警察がある。この二つのどこがどう違うのか。一番分かりやすいのは、軍隊は24時間勤務で、警察は8時間勤務だということ。警察官というのはサラリーン、官僚だ。勤務が交代制で夜勤もあるかもしれないが、勤務が終われば家に帰る。ところが軍隊は違う。勤務時間という制限そのものがない。時間外勤務という考えもない。つまり軍隊には残業手当がない、警察にはある。
これを別の面から言うと、軍隊はそれ自体で完結した自活集団だ。軍隊は自分で飯もつくれば、トイレも風呂もつくる。そういう能力を持っている、病院も持っている。警察病院というのもあるが、それは普通の官僚の共済組合が持っている場合とまったく同じで、軍の病院はそれとは全く違う。
例えば昭和60年に日航機が群馬県の御巣鷹山の山中に墜落した時、群馬警察の機動隊と陸上自衛隊の第12師団が出動したが、県警の機動隊は全部自衛隊に「おんぶにだっこ」だった。何かから何まで世話になった。
自衛隊は出動して、まず何をしたか、山の中にトイレを作った。入り口の集落の小学校の校庭に風呂を作った。炊事場を作った。毎朝、全隊員に炊事班が作った温かいメシを出した、機動隊は配られる冷たい「折り詰め弁当」しか食えない。
警察に自活能力なんて最初からない。機動隊なんて言うが特別の機動力は何もない。県警本部直轄で全県下を所管しているという、ただそれだけ。時間外勤務のサラリーマンの集団とまったく同じ。
朝、山へ上がって遺体の捜索をする。機体の残骸を片づける。自衛隊も県警もそれはまったく同じだが山を下りると、自衛隊は真っ先に風呂に入る。その風呂の水はちゃんと消毒剤が入っている。それが済まないと、降りてきた隊員を宿舎に入らせない、県警はそのあとに「お願いして」残り湯に入れてもらった。
『軍事頭脳を持っているか』
USA/TODAYにショッキングな記事が載った。「たった1本のタバコがDNAを傷つける―公衆衛生局長官」今まではヘビースモーカーとかチェーンスモーカーとかいう言葉があったように、喫煙には軽重があると考えられてきた。4年ぶりに発表されたこの報告によると、タバコの煙にちょっと晒されただけで、人体には直接の被害をもたらす。細胞を傷つけ、組織に炎症を起こし、重大な病気や死に導く可能性がある。
さらにこのレポートは、喫煙の害だけでなく、なぜタバコが習慣性が強いのかという問題にまで突っ込んでいる。最近のタバコには、ニコチンがより速く、より効果的に脳に達するように設計されているのだそうだ。
アメリカのタバコ産業は、近年設計や成分を変えて「初めて吸った人をトリコにする」「年配者を喫煙に復帰させる」ように勤めているという。公衆衛生局長官は、その方法をを次のように報告している。
�.織丱海鵬辰┐蕕譴襯▲鵐皀縫△砲茲辰謄縫灰船鵑倭瓩�脳に達する形に変えられる。 ��煙が肺に深く吸い込まれるようにフィルターの穴を工夫する。 ��砂糖および湿気増加剤を加えることによって喫煙の“焼けるような感じ”を減らし、より心地よくする。
アメリカのタバコ産業は、私営の企業だから、常に政府と対立してきた、企業の利潤を上げるためには、このくらいの事はするだろう。だから政府も必死なのだ。とにかくアメリカには、まだ4000万人も喫煙者がいて、年間のたばこ関連の死者は44万人に達する。
喫煙はこの国に、年間1900億ドル(約16兆円)の損失(医療費と生産性の減少)を与えているのである。年々減っているとはいえ、日本人の24%(男36%女12%)は喫煙者である。日米の大きな違いは、日本のJT(日本たばこ産業)が独占企業で、しかも実質上の国営(財務省が過半数の株を保有している)からである。
喫煙者はほとんどすべての臓器を痛める。潜在的に心臓病を抱えている人には、1本のタバコが心臓麻痺につながる、という強気なアメリカ政府と、喫煙による罰則は2020年という日本政府では雲泥の差である。政府が頼りにならない以上、どこかの民間団体に頼むしかない。日本の政府は国庫への収入減を何よりも心配し腰が引けているからである。
果たして最近の日本のタバコに、アンモニアや砂糖は加えられていないか、フィルターの質は変わっていないかを調べて発表していほしい。恐るべき結果が出るかもしれない。
『週刊現代』
誰もが二度と体験することはないという意味で、人間にとって氏は「永遠の謎」だ。だからこそ、「死」を解明するアプローチは、綿々と続けられてきた。精神科医E・キューブラー・ロスが「死ぬ瞬間」を上梓したのは1969年のことだ。200人の末期がん患者にインタビューして「死にゆく過程」を明らかにした同書は、全米でベストセラーになった。それから40年―先端医学が捉える「死」の実像とは。
……ただ、視覚や発声、呼吸機能などがどんどん衰えていくのに対して、聴覚だけは死の瞬間まで保たれている可能性が高い。大津医師も数々の死の現場に立ち会ってきた経験からこう話す「死の数時間前となり、医学用語でいう“レベル300”つまり叩いたり揺らすという刺激や痛みに反応しない状態になっても、どうやら耳だけは聞こえているようなんです」
とにかく死に行く者は、家族が横になっていることをわかっているようなのだ。死の瞬間、意識が朦朧としつつも、遠くのほうで人の声は聞こえている。それはまどろみの状態を思い浮かべればいいのだろう。「どうやら死の直前に苦痛は少ないようです。たいていの方が、安らかにスーッと逝かれます」
東大病院放射線科准教授で、緩和ケア診察部長の中川恵一氏は、「死の瞬間の在り方として、日本人が理想としているのが、直前まで元気でいて、苦しむことなく息を引き取る“ピンピンコロリ”です。私は、できればがんで亡くなりたいと思っています」と語る。
08年度のがん死亡者は約34万人だった。日本人の2人に1人がガンになり、3人に1人がこの病気で死ぬ勘定になる。「ただし、それには十分な緩和ケアが必要です」緩和ケアでは、抗がん剤や放射線治療などだけでなく、医療用麻薬を用いて肉体の痛みを除去する。「がんの痛みは不要な痛みです。モルヒネで中毒になる、早く死ぬというのはウソで、かえって痛みをとったほうが長生きします」
「昨秋亡くなった元日ハム監督の大沢啓二さんがその好例になります。大沢さんは免疫療法を中止し、放射線治療を受けた後で、私と雑談を交わす緩和ケアを始めました。彼は死の2週間前までテレビに出演しています。歌いながら登場し、歯切れ良くコメントする大沢親分を見て、末期がんだと気抜いた視聴者は少なかったはずです」「がんは肝臓にも転移していました。転移すると治療はほぼ不可能です。本人もそれを承知していました」
中川氏はシニカルな意見を付け加えるのも忘れなかった。「それに死ぬのは一生に1回だけ。苦痛に満ちていても、もう2度と経験することはありませんから、安心してください」焼死は先に一酸化中毒が原因で死ぬので、肌が焼ける熱さと痛みは感じていないという。「最も苦しいのは溺死でしょう。多量の水を飲み、それが肺に入るばかりか、心理的にパニックをきたし、おまけに呼吸困難で亡くなるんだから……」
死の瞬間に「脳は幸福物質で満たされる」というのは、脳機能学者の苦米英人氏だ。「死を察知した脳はドーパミンや、エンドロフィン、セロトニンらの脳内伝達物質を多量に出し、”超気持ちいい状態”にします。lこれは自然死、他殺、自殺を問わず共通する幸福感です」死んだらどうなるのか、どこへいくのかという疑問も、死に関する重大なテーマとなる。医学者たちは、おしなべて「死んだらそれまで」と明快だった。しかし、誰もが死後の世界や宗教的見地を全面否定しているわけでもない。
これに関連して興味深い研究がなされている。昨年4月、スロベニアのマルボリ大学研究チームは、52例の心臓発作について調査し、死に瀕した状態で血中の二酸化炭素濃度が高いと「臨死体験」が起こりやすくなると発表した。また米国ジョージ・ワシントン大学の医学センターチームも、臨死の患者7人の脳波を精密に計測し「臨死体験」や「幽体離脱」のメカニズムに迫っている。
同チームは「血流の途絶えで脳の低酸素状態が起こったら、最後に一度、電気的な脈動を発した。その際に患者たちは強烈な感覚を得たはずだ」と報告した。臨死体験は洋の東西を問わず、強烈な光に包まれたり、魂だけが肉体から分離して浮きあがった、とか、先祖や物故者、神仏と出会ったという話が多い。
米山氏は苦笑交じりで思うところを述べてくれた。「科学的には、脳が壊れる過程で幻覚症状が起こるのだと思います。人類は多様性を持つことで生き残って来たから、世代交代として死が必要です。死で世代交代が果たせ、新しい遺伝子が出来上がり、また人類が生き延びていく。そう考えれば死は悲劇でも何でもありません」
『週刊ポスト』
| 2011年01月09日(日) |
「カティンの森」の教訓 |
中国はインド洋の沿岸国に港湾施設を作る「真珠の釘飾り」戦略でインドを締め上げようとしています。真珠の首飾り作戦が奏功して、インドが危機に陥れば、インド洋の航行の自由が危うくなります。世界的な視野で見た場合、この状況は民主主義勢力側の後退を意味します。一党独裁の全体主義国家が優位に立ち、その価値観が世界を覆うことになれば、人類は悪夢の時代を迎えることになるのです。
日本の北方領土を不法占拠しているロシアもまた、形の上では民主主義の体裁はとっていますが、実態は強力な軍事・警察権力に裏打ちされた独裁国家です。かって東西冷戦の一方の雄だったロシアにとって、中国の後塵を拝する現状は極めて屈辱的なものでしょう。最新鋭の潜水艦や戦闘機など優れた軍事技術は依然として持っていますが、規模の面では軍事的にも経済的にも米国と中国に遠く及ばず、政治力はかっての旧ソ連時代とは比ぶべくもありません。
北方領土はロシアが戦後のドサクサに紛れて、日本から盗み取ったものです。日本はポツダム宣言を受け入れて1945年8月15日に降伏し、平和武装解除に無条件に応じました。そこで戦闘を終えなければならないにもかかわらず、ソ連は米軍がいないことを確認しながら南下をつづけ、8月18日、初めて北方領土に軍事侵攻しました。北方領土を占領し終えたのは9月5日でした。
日本その3日前の9月2日、東京湾に浮かぶミズーリ号の艦上で降伏文書に署名しました。つまり、戦争も降伏の儀式も終わった時点でもなお、ロシアは軍事侵攻をを続けていたのです。その間、北方4党に住んでいた日本人は殺され、強姦され、島を追い出されました。にもかかわらず、ロシアは恥じることもなく、9月2日を「戦勝記念日」としてして制定したのです。
日本はまずこのことに猛然と抗議し、いかにソ連が国際法を無視した野蛮な行為で北方領土を不法占拠したか、ことあるごとに国際社会に訴えていかなければなりません。
ポーランドは、スターリンの時代に1万数千人のポーランド将校が殺害された「カティンの森事件」について、どんな国際会議でも必ず、ソ連、ロシアの責任を追及し続けました。民間でも『カティンの森』という映画を製作しました。ソ連、ロシアは一貫して「捏造だ」と主張し続けていましたが、ついに昨年4月、ソ連に責任を認めたのです。日本も腰をすえて、ロシアの不法行為をしつこいほど国際社会に訴え続け、北方領土が返還をことあるごとに求め続けなければなりません。
こうした国際情報戦を何年何十年とくり返し、積み上げていくことが重要です。鳩山前首相が政権についたとき、「半年で領土問題を解決してみせる」などと述べましたが、そんな甘い認識が、ロシアの大統領に北方領土上陸を許すことのなったことを、民主政権は猛省すべきです。
中国が嘘を平気でつき、恥じない国であることは尖閣諸島領海侵犯事件でも明らかです。中国は日本の巡視船が中国の領海に侵入して中国漁船に衝突してきたと主張し、イラストまで使ってこの情報を流しました。衝突ビデオが流出した後も、「たとえビデオを公開しても、真実は曲げられない」と開き直ったのには、もはや言うべき言葉ありません。中国の嘘や謀略に対し、日本は正しい情報、真実の情報を訴えることで徹底的に戦っていかなければなりません。
歴史問題でも同様で、中国は南京大虐殺を国際社会で宣伝し続けてきました。日本は反論もせず、黙って見逃してきましたが、立命館大学教授・北村稔氏をはじめ、幾多の研究などから大虐殺が中国の捏造であることは明らかです。また、中国は日本が教科書に事実を書くとクレームをつけ、圧力をかけますが、日本は逆に中国の歴史的事実にことごとく反する反日教育、歴史の“捏造”にしつこいほど抗議を続けなければなりません。
中国は世論戦、法律戦、心理戦の三つの戦いを挑んできます。世論戦で国際世論。日本の国内世論を操作し、法律戦ではすでに92年に領海法制定し、尖閣諸島は中国領土だと宣言しました。さらに圧倒的な軍事力を背景に、戦う気力を失わせ、屈服させるのが心理戦です。この戦いに敗れれば、その後に待っているのは悪夢の世界です。私たちは自由や人権、民主主義などの大切な価値観を旗印として掲げ、中国的手法と彼らの価値観を阻止していかなければならないのです。
『週刊ポスト』
| 2011年01月02日(日) |
左翼反日集団 (1) |
日本は国家存続の正念場にさしかかっているといえるのではないか。中国による主権の侵害や北朝鮮の拉致に手も足でない政府のテイタラクをみると、おおげさではなくそんな強い危惧を抱かざるを得ない。中国の胡錦涛政権は「新思考」どころか、ますます、首相の靖国神社参拝批判や日本の歴史認識への攻撃を強めている。ここにきて公然と日本を軍事力で威圧し、日本の領土、資源をかすめ取る動きも本格化させた。
北朝鮮は組織的な日本人の拉致を認め、謝罪してからもさらった日本人を返そうとしない。それなのに日本政府は、さらった多数の日本人を今すぐ全員返せともいってこなかったし、主権侵害に強く怒ることもしないのである。国と国との関係でこれ以上の「傲慢」と「屈辱」があろうか。それを傲慢とも感じないのだとすれば、国家としても、個人としても正常な感覚が麻痺してしまっているというほかない。
人の命を虫けらほどにも思わない独裁者となお、話し合いが可能であるかのような言論が横行したり、中国の脅威がここまで高まっているのに、中国をパートナーとしてEU(欧州連合)のアジア版といわれる「東アジア共同体」が真顔で語られたりしているのがその愚かさの何よりの証左である。2005年の年頭の朝日社説も「東アジア共同体のすすめ」といった内容だった。
中国や韓国の教科書への介入にあたふたする日本を見てある外国人が、「先進国の日本は何でもそろっているが、たった一つないものがある。それは独立だ」と語ったというが、外国人の指摘を待つまでもなく精神的に他国に隷属する国民はもはや、亡国の民としかいえまい。
このように日本人を麻痺させ、精神の武装解除と呼べるような状況に追い込んできたのが国を売る政治家や文化人、マスメディアの存在である。とりわけ「不偏不党」「客観報道」を標榜し、それがさもまっとうな言説であるかのように日本人を洗脳してきたマスコミの罪は重い。その代表は新聞では朝日新聞、出版では岩波書店、テレビでは筑紫哲也、久米宏両氏らとその番組であったといえば意味するところは明白だろう。
彼らは冷戦で共産主義陣営を支援したいわゆる左翼だが、「心の祖国」ソ連が敗北し、消滅してもその心根を変えない。共通しているのは、日本を憎悪し、進んで中国など隣国の干渉を受け入れる自虐的な姿勢である。
かって、思想家の福田恒存は、戦後の日本が侵されている病を「平和の呪い」といったが、彼らはまた、「平和」とか「人権」とかいう言葉が大好きで、イラク戦争では人間の盾まで推奨したが、テロとどう戦うのかは語らず、中国や北朝鮮という共産党独裁国家の人権問題にも興味を示さない。北朝鮮にさらわれた日本人の運命にも冷淡である。
そして中国や韓国の力を借りてする日本叩きだけは熱心なのである。まさに「反日派」、「虐日派」と言われるゆえんだろう。和私事だが、私が朝日新聞の害毒を考えざるを得なくなったこんな経験がある。私がまだ新聞社の政治部記者だった時のことだった、冷戦がソ連の敗北で終わって間もなく湾岸戦争が勃発したとき。首相官邸での記者会見で朝日新聞の記者が声を張り上げて海部俊樹首相を追及したのである。
「自衛隊を海外に派遣していいのか」その声はまるで出来の悪い子を叱りつけるような口調だった。自衛隊の医療や後方支援が話題になったときのことだ。首相は大声で反論するのかと思いきや、しきりに何やら言い訳するかのごとき印象だった。慌てて、私は手を上げて「逆の立場から質問したい。自衛隊を派遣しなくて本当に日本の名誉を守れるのか」と首相に質した。首相はまたしてもしどろもどろだった。
世界の危機と呼ばれ、米軍を中心とした多国籍軍が組織されたあの戦争を日本の岐路だと感じていた。だから、私たちも必死だったが、結局、日本は金は出したが、人的支援は行わず、「日本は湾岸戦争を対岸の火災視」「日本の外交は小切手外交」「日米は紙の同盟」と言われて世界の笑いものになってしまった。
平和が重要なのは言を俟たない。だが、その平和を守るためには、平和を侵すものに対して時には武器を持って戦わなければならないというのが人類社会の変わらぬ真理なのである。ところが日本の戦後ときたら、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という憲法に象徴されるように、平和は叫んでいさえすれば実現するという幻想が、蔓延するにいたった。そのとどのつまりが、今のぶざまな日本の姿である。
湾岸戦争では、朝日新聞の影響力の大きさというものも思い知らされた。学界や財界、政府、特に外務省、自民党内、メディアにも朝日新聞に呼応する「平和主義者」がウヨウヨしていたのである。同時に朝日的な言論を打ち破らなければ日本が真の独立国家になることはないと確信した。
あのころから朝日新聞は、変わったのだろうか。確かにPKO(国連平和維持活動)を限定的に認め、日の丸、君が代の法制化を追認する程度のことはしてきた。しかし、イラク戦争や北朝鮮の拉致事件、また中国に対する取り組みなどをみると、日本に対する嫌悪を断罪、口先だけの平和主義、反米などと言ったこの新聞の特徴はいささかも変わっていないと断じざるを得ない。
『朝日新聞が中国を驕らせる』
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