加藤のメモ的日記
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2010年12月30日(木) ライト・パターソン基地の死体

9月1日にシンシナティー市のランケン空港ビル内で開かれた旧軍人パイロットのクラブ集会に出席し、依頼されたUFO問題の抗議を終えた後、参加者25人の元パイロットの一人が近づいてきて、個人的な話がしたいからと彼を会場裏の一室に連れ込んだ。そこには大きな合衆国地形全図がかけられていた。

この情報提供者はいきなり「じつはこの目で、回収されたUFO乗務員の死体を見たことがある」そう切り出すと、地図のアリゾナ州あたりを漠然と指さして続けた。「円盤が落ちたのはだいたいこの辺だ。砂漠地帯のどこかだが、正確な地点は知らない。1953年に間違いない」ストリングフィールドには、この男の表情や態度が誠実、率直、真剣そのもので、決して人を冗談や作り話でからかっているのではないように見えた。以下、男が打ち明けた話を要約するとこのようになる。

「私が”死体”を見たのはライト・パターソン基地でだ。夜間にDC7型機で枠箱が運ばれて来た、ちょうどその時間と場所に居合わせたのだ。そこには格納庫の中で、12フィートほど離れた所から、フォークリフトに乗った5個の枠箱をのぞき見した。枠箱は木造りでいかにも急ごしらえのように見えた。そのうち3つに、4フィートほどの背丈の小さなヒューマノイド(人間型生物)が、敷布の上にむき出しのまま横たわっていた。敷布はその下に詰め込まれたドライアイスで、凍傷ができないようぬするためだった。

木箱のそばには、たくさんの空軍憲兵が黙って番をしたが、私はヒューマノイドの特徴をかなりはっきり盗み見ることができた。頭部は細くて毛がなく、人間に比べて不釣り合いに大きかった。肌色は格納庫の照明のせいか、茶褐色に見えた。目は開いているように見え、口は小さく、鼻はほとんど目につかなかった。両腕は脇腹にそえられていたが、手と足先についてはよくわからない。

どれも体に密着したダークスーツを着ているので、体つきがくっきり浮き出していた。一体だけの胸の筋肉がいやに盛り上がっていて、私には女性のように見えた。あとで兵舎の中で輸送機の乗員の一人と出あったとき訊いたら、やっぱり死体の一つは女らしいとのことだった。


……こうした一連の動きには、当然何か裏がありそうだ。ストリングフィールド自身、何者かが自分の研究をインチキくさく見せかけて、信用の失墜を狙っていうのではないかと疑っているが、それも至極当然である。墜落、回収問題は人類文明にかかわる最重要問題のはずなのに何故か、いやだからこそかもしれないが、この問題の深い追及を恐れて“真実”の隠匿に狂奔している正体不明の強力な組織、いうなれば“闇の機関”が確かに存在する気配が感じられるのだ。

彼らはあらゆる手段を使って、証人たちに裏から脅しをかけ、研究陣の切り崩しをはかり、研究そのものが嘲笑の的になるように仕向けかかっている。そう見ていいのではないか。マッキンタイアという人物はそうした連中の秘密エージェント(手先)で、ウィルヘルムや、ストリングフィールドといったまじめな研究家同士を衝突させ、自滅に追い込もうとしているのかもしれないし、あるいはまた彼自身それと気付かず“闇の機関”に巧みに操られて動く、いわば人形にすぎないのかもしれない。


『米はエイリアンの死体を隠している』





2010年12月26日(日) 生まれる言葉、死ぬ言葉

かっては盛んに使われたものだが、今ではすっかり忘れ去られてしまった言葉を死語という。太平洋戦争で日本がまだ威勢が良かった頃、ラジオのスイッチを入れると、勇壮な軍艦マーチに続いて、大本営発表というのが行われた。わが日本帝国海軍機動部隊は、ソロモン沖の海戦で、敵大型空母1隻を轟沈、駆逐艦3隻を撃沈、2隻を大破……。

などという成果を発表した。今にして思えばだいぶ誇大宣伝だったわけだが、何も知らない国民は万歳を叫んで大喜びしたものだ。「轟沈」というのは、そのころ戦意高揚のためにつくられた言葉で、魚雷などが命中し、逃げ回りながら沈没したというのではなく、一瞬のうちに海の藻屑となったような場合をいった。この勇ましい言葉も、敗戦と共にはかなく消えさった。

またこのころは、戦争を批判する者には「非国民」とか「国賊」というレッテルが張られ、太平洋戦争を「聖戦」と称していた。そして戦後間もなく「供米」(きょうまい)という言葉ができた。敗戦による混乱期で、足りない食料を確保するため、政府が国家権力を用いて、米を供出させたことからできたものだが、最近になって米が余るようになり、水田の耕作反別を減らす時代になったので、使われなくなった。

国際関係では「低開発国」という言葉がある。かっては「後進国」と呼ばれていたが、固定した価値判断は好ましくない、ということで、戦後「低開発国」と改められた。しかしこの言葉も、これらの国々が経済的に立ち遅れ、未開発のままで置かれてきたのは、先進資本主義の長期にわたる植民地体制を表徴するものだ、という議論があって、この頃では「低開発」という表現を避け、”発展しつつある国”とうことで、「発展途上国」という言い方に変わってきた。

「落第」が「留年」になってから久しい。「落第」は昔の『扶桑集』(ふそうしゅう)にも出てくる由緒ある言葉だそうだが、どういうわけか、すっかり嫌われてしまった。「落第」というと、、いかにも勉強ができなくて、原級にとどめられたという印象なので、最近は心ならずも「留年」するのだとか、就職の都合で卒業しないのだ、とか、いろいろな理由がつけられるらしい。

人権問題がやかましく叫ばれだしてから「死語」になったものに、「女中」「子使」「百姓」「土工」などというのがある。「女中」は「殿中に奉公している奥女中」のことで、元来、婦人の尊称だったはずだが、いつの間にか蔑称として嫌われ「お手伝い」となった。

同じように「子使」が「用務員」「校務員」にとって代わられ、「百姓」は「農民」、「土工」は「作業員」などに変身した。戦後、「活動写真は」「映画」に変わり、トーキーが出現してから「活弁」という職業は消滅し、当時華やかだった「モガ・モボ」も今では70過ぎたお年寄りだろう。

「楽隊」「蓄音器」も姿を消し、「円タク」も、物価の値上がりで1円では走れなくなった。「乗合自動車」は「バス」に駆逐され、古めかしい「いいなずけ」は「婚約者」や「フィアンセ」に、「後家」さんは「未亡人」となった。




『ミステーク日本語』


2010年12月23日(木) 国民不在で決まった珍制度

裁判員制度は、これまで裁判官だけが裁判所を構成してきたやり方を改め、一般国民から無作為に抽出した人を裁判員と名付けて裁判官と共に、裁判所の構成に入れる点に特徴がある。ところがこの制度には、重大な欠陥があって実施は許されない。その欠陥とは、裁判員が参加した裁判所は、法律に基づく裁判ができないという重大な憲法違反があることである。国の最高法規である憲法に違反する制度を実施すべきではないのである。

裁判員制度とは、簡単にいうと重罪の刑事訴訟について、一般国民の中からくじで選ばれた裁判員が裁判官と一緒になって裁判所を構成し、審理も判決も担当する制度である。裁判員に選任された人は、いやでもやらなくてはならない。

また被告人は、裁判所に裁いてもらいたいと願ってもダメなのである。この制度は、「裁判官は世間知らずだ」というマスコミや世論の批判を考慮し、日弁連が強く押す陪審員制度をつぶすために、一種の妥協の産物として裁判員制度を持ちだし、議論の着地点を作ったものだと解釈することができる。

裁判官は法律のプロなのに対し、裁判員は法律の素人である。ここには、法律を知っているかどうかの点で決定的な差がある。法律の素人なのに、裁判官と一緒になって裁判所の構成に入るなんてことが本当に可能なのか?という疑問が自然と湧き出てくる。これは国民的疑問だし、この点こそがこの制度の問題点を浮き彫りにする本質的な疑問だといってもよいと思う。

裁判員には、警察官、検察官、被告人、弁護人、証人などの示す調書・証拠・証言などの真偽を見極めることが求められる。実際、調書などの任意性、信用性が厳しく問われ、容易に「事実認定」しがたいものが多い。また、言葉の分かりやすさや単純さに流されたり、印象に引きずられたりする恐れも否定できない。無理のない話であるかどうかを見定める推察力が必要となる。また、法律についても一定の知識が求められる。法律用語は、日常語とは必ずしも同じ意味ではないので、誤解しないように注意しなければならない。

裁判所の構成員9人のうち、6人を占める裁判員が基準なき判断をするのである。このような裁判所に、法律に基づく裁判を期待することはできず、基準のないままでは、いかなる結論が出てくるのかわからないのである。しかし、法律を知らなくとも、普通に生活をしている中で自然と身につけている社会常識に基づいて判断するから、そうとんでもない結論が出ることはないということなのか。

裁判員制度の導入時の議論でも、非常識な裁判官だけではおかしな判決が出かねないので常識を吹き込ために、裁判員を送り込むのだともいわれた。常識に基づく裁判がよいというのだろう。しかし、常識に基づくというだけでは裁判などはできない。細かく見ていけば、常識とは人の数だけあるのだから、常識に基づいて裁判をすることは無理なのである。

法令は知らないし、常識は判断の基準にならないとすれば、裁判員は一体何を基準に判断するのだろうか?この場合、裁判員は、自己の正義感や常識と信ずるものに従って判断するしかなくなることになる。極端にいって、直感だけが頼りということになる。主観的裁判の登場である。このように、裁判員が自己の正義感や直感を頼りに赤裸々なユニークな意見を述べ、どれが正しいかの基準もないという評議の場となる。

裁判員は、審理全体を丼勘定的に「えいやーっ」と決断して、評決で「死刑」などと意見を述べることになる。こんなことでは、判決では何が出てくるのか見当もつかない。これでは法令も何もなかった大昔の裁判に逆戻りである。これまでの人類社会の進歩の歴史を一気に逆戻りさせるとは、なんと無謀な裁判員制度なのだろうか。

国民は、「裁判員制度って何?」という風に、その意味さえわからず、なぜそのような制度が導入されるようになったのか、そのために国民自身の受ける現実的負担の大きさ、制度そのものが憲法違反である点、裁判員制度とは客観的な基準のない第六感裁判であること、国民の人権侵害の危険性の大きさなどの多くの問題点を何も知らない。それもこれもすべて裁判員法の制定が、国民を無視した態度で一貫しているからなのである。本書の主張は、裁判員制度は丸ごと憲法違反であるから廃止せよというものである。


『つぶせ!裁判員制度』


2010年12月21日(火) 小さくなる日本

人口減少は自治代だけではなく、日本の産業界にとっても深刻な問題となる。2050年までには1億人を切り、70年代までには「人口7000万人社会」の到来が予測される。経済予測には常に楽観と悲観が存在するが、悲観的な見方によれば、現在約390兆円の国民所得は、2030年には約315兆円まで縮小し、同様に現在マイナス0.2%の経済成長率は、2030年にはマイナス1.7%まで拡大と、日本経済はまさに右肩下がりになることが予測されている。

経済力低下による最も深刻な問題が、輸入購買力の低下によって、食料やエネルギーといった重要な「資源」を手に入れられなくなることだ。日本が人口減少に苦しむ一方、世界の人口は増え続けており、食糧・エネルギーの価格は高騰する。

農林水産業の従事者が減ることも考えると、最悪の場合、国民を養う十分な食糧・エネルギーが調達できなくなる。日本全体が「限界集落」となるのを防ぐためには、人口が減少する中で、経済力を維持するという難題を解決しなければならない。

しかし、労働力人口が現在の3分の2以下に減り、国内市場が縮小する中で、はたしてこの国の企業はこの難題を解決する答えを見つけられるのだろうか。


『週刊現代』


2010年12月19日(日) 鳩山安子

「りえママ」とは宮沢りえの母親のことである。そのママゴンぶりは世間周知となったが、まだまだ恐ろしさが知られていないもう一匹のママゴンが「ユッキー」こと鳩山由紀夫と、「クーニー」こと鳩山邦夫の母親の鳩山安子である。邦夫によれば、50にも手が届こうという兄弟同士がそう呼び合っているらしいのだが、それだけで、乳離れできないこうしたアホボンをつくった母親は失格だろう。

ある人が、由紀夫の目は死んでいる、と評していた。あれは細川護煕の目と同じで生きていないというのだが、爬虫類的あの目は、どうしてそうなったのか?兄弟の父親、つまり安子の夫は、田中角栄に頭の上がらなかった大蔵次官で、政治家に転身後、一応外務次官をやった鳩山威一郎である。彼は愛称を「ポッポちゃん」と言い、ハトが豆をついばむように手当たり次第に女をつくっていった。その数は少なくとも5人は下らないといわれる。

ブリジストンの創業者、石橋正二郎の娘として生まれた安子には、それは耐え難いことだった。この元お嬢様はその寂しをを紛らわすため、ただただ、長男の由紀夫を溺愛しそれを受け止めかねた由紀夫は感情を失って能面になった。息子たちのどちらかを首相にとママゴンが出しゃばるのは、あるいは外相で終わった夫への復讐という意味もあるのかもしれない。

それにしても、「ハヤの頭」で有名になった邦夫の傍若無人ぶりは、由紀夫の能面と対照的である。安子が夫の放蕩をあきらめ、泣かなくなったことによって、邦夫はまったく感情を抑えない子供として育ったのだろう。抑え過ぎた子と、抑えることを知らない子をつくった鳩山家の教育は、いずれにせよ落第である。

「兄弟は菅(直人)に乗っ取られた。社さ丸ごとになるなら、おれだけ別の党をつくる。母に『兄貴とケンカ別れするかもしれない』と電話したら、『それはお前のほうが正しい』と言ってくれた。やっぱり、母は、俺のほうが可愛いんだ……」

『週刊文春』の9月26日号には、邦夫のこんな声が載っている。武村正義を切って弟を選んだ由紀夫といい、この弟といい、兄弟そろってすさまじいまでの欠陥人間だが、とにもかくにも兄弟が一緒にやることを条件に50億円を用意したといわれる母親の安子は、日本を私物化するママゴンである。ならば、わかりやすく民主党の党首には安子がなったらいい。

邦夫の「ハヤの頭」事件とは、自分が頭を残してハヤを食べ、秘書に頭を食べるように勧めたというのだが、人間を対等の関係で見ず、家来のように扱う人間は自分もすぐ他人の家来になりたがる。小沢一郎の子分だった邦夫は「民主」とは一番遠い人間である。武村をあそこまでに排除するのを見ても小沢と切れていない可能性が強い。「民主党」とは安子の抱く「鳩山家の野望」に始まるものでありそれに乗っかって菅直人は鳩山家の執事になりさがった。


『寸鉄刺人』


2010年12月16日(木) なぜ神は黙っているのか

十字架に組んだ二本の木が、波打ちぎわに立てられました。イチゾウとモキチはそれにくくりつけられるのです。夜になり、潮が満ちてくれば二人の体は顎のあたりまで海につかるでしょう。そして二人はすぐには絶命せず二日も三日もかかって肉体も心も疲れ果てて息を引き取らねばならないのです。そうした長時間の苦しみをトモギの部落民や他の百姓たちにたっぷり見せつけることによって、彼らが二度と切支丹に近づかぬようぬさせることが役人たちの狙いなのでした。

モキチとイチゾウが木にくくりつけられたのは昼過ぎ。役人は四人ほど監視人を残して再び馬で引き揚げていきました。雨と寒さのため、はじめは海岸に群がっていた見物人たちも少しづつ戻り始めました。潮が満ちてきました。二人の体は動きませぬ。波が彼らの体を、足を、下半身を浸しながら、暗い浜に単調な音を立てて押し寄せ、単調な音を立てて引いていきました。夕暮れ、オマツと姪が監視の男に食事を持っていき、あの二人にも食べ物をやっていいかとたずね、許しをえてから小舟でやっと二人に近づきました。

「モキチよ、モキチよ」オマツがそう声をかけますと、「はい」モキチは返事したそうです、今度はイチゾウ、イチゾウと申しましたが年とったイチゾウはもう何も答えられませぬ。しかし、彼がまだ死んでいないことは時々、首をかすかに動かすのでわかりました。

「きつかろうね、辛抱するとや、パードレさまもわしらもみんなオラショば祈りよるけん、二人がパライソ(天国)に行くやろうって思うとるとよ」懸命にオマツがそう励まし、持ってきた干し芋を口に入れてやろうとしますと、モキチは首をふりました。どうせ死ぬのなら一刻も早くこの苦しみから逃れたいと思ったのでしょう。

「婆さま、イチゾウさんに」とモキチは申しました。「食べさせてやってくれんね。わしはもう堪えられませぬ」オマツと姪は泣きながらどうしようもなく浜に戻りました。浜に戻っても彼女たちは雨に打たれたまま声をあげて泣きました。夜が来ました、監視の男たちのたく焚火の赤い火は、我々の山小屋からもかすかに見えました。が、その海岸にはトモギの部落民たちが群がり、ただ、暗い海を凝視していたのです。



司祭は司祭で壁板に頭を強く押しつけたまま、老人の告白をぼんやりと聞いた。老人が言わなくても、その夜がどんなに真っ暗だったかは、もう知りすぎるほど知っている。それよりも彼はフェレイラの誘惑を自分と同じように、この闇の中に閉じ込められたことを強調して共感を引こうとするフェレイラの誘惑に負けてはならなかった。

「わしもあの声を聞いた。穴吊りにされた人間たちの呻き声をな」その言葉が終わると再び鼾のような声が高く低く耳に伝わってきた。いや、もうそれは鼾のような声ではなく、穴に逆さに吊られた者たちの力尽きた息絶え絶えの呻き声だということが、司祭にも今ははっきりとわかった。

自分がこの闇の中でしゃがんでいる間、誰かが鼻と口から血を流しながら呻いていた。自分はそれに気がつきもせず、祈りもせず、笑っていたのである。そう思うと司祭の頭はもう何が何だか分からなくなった。自分はあの声を滑稽だと思って声を出して笑いさえした。自分だけがこの夜あの人たちと同じように苦しんでいるのだと傲慢にも信じていた。だが自分よりももっとあの人たちのために苦痛を受けているものがすぐそばにいたのである。

どうしてこんな馬鹿なことが。頭の中で、自分ではない別の声が呟き続けている。それでもお前は司祭か。他人の苦しみを引き受ける司祭か。主よ。なぜ、この瞬間まであなたは私をからかわれるのですかと彼は叫びたかった。

「称えよ、主を。わしはその文字を壁に彫ったはずだ」とフェレイラは繰りかえしていた。「その文字が見当たらぬか、探してくれ」「知っている」怒りにかられて司祭は始めて叫んだ。「黙っていなさい。あなたはその言葉を言う権利はない」「権利はない。たしかに権利はない。私はあの声を一晩、耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからではない、三日間……このわしは汚物を詰め込んだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」

フェレイラはまるで吼えるような叫びをあげた。「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」「黙りなさい」

「では、おまえは祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼らがあそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか」司祭は狂ったように首を振り、両耳に指を入れた。

しかしフェレイラの声、信徒の呻き声はその耳からその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。よしてくれ、主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ、あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わなければいけない。

マストをかすめる鳥の翼のように大きな影が心を通り過ぎた。鳥の翼は今いくつかの思い出を、信徒たちのさまざまな死を運んできた。あの時も神は黙っていた、霧雨の降る海でも沈黙していた。陽の真っすぐに照る庭で片眼の男が殺された時も物言わなかった。しかしその時、自分はまだ我慢することができた。我慢するというよりこの恐ろしい疑問をできるだけ遠くに押しやって直視しまいとした。

けれど今はもう別だ。この呻き声は今、なぜ、あなたがいつも黙っているかと訴えている。「この中庭では今」フェレイラは悲しそうに呟いた。「可哀想な百姓が三人ぶらさげられている。いずれもお前がここに来てから吊られたのだが」老人は嘘を言っているのではなかった。耳を澄ますと一つのように聞こえたあの呻き声が突然、別々なものになった。一つの声があるいは高くなり、低くなるのではなく、低い声と高い声は入り乱れてはいるが別の方向から流れてきた。

「わしがここで送った夜は5人が穴吊りにされておった。五つの声が嵐の中でもつれあって耳に届いてくる。役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、縄をとき、薬も付けようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬのかと。役人は笑って教えてくれた。彼らはもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけにはいかぬと」「あなたは」司祭は泣くような声で言った。「祈るべきだったのに」

「祈ったとも、わしは祈り続けた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴が開けられている。その穴と鼻と口から血が少しづつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない」

司祭は覚えていた。西勝時で初めて会ったフェレイラの耳の後ろにひきつった火傷の痕のような傷口があったことを、はっきり覚えていた。その傷口の褐色の色まで今、まぶたの裏に甦ってきた。その映像を追い払うように、彼は壁に頭を打ち続けた。


『沈黙』








2010年12月15日(水) 金正日「死亡」に備えよ

すでに「金正日の死」は目前に迫っていると、各国情報機関は分析している。「韓国や米国の情報機関では、もはや金総書記の健康状態は末期的であり、長くて5年、おそらく2〜3年以内に思慕する可能性が高いと判断している。また、中国共産党内ではさらに短く、1年以内の死を予測しているという。金祖書記は現在68歳。08年に脳卒中で倒れて以降は常に健康不安説がささやかれてきた。

自分の死期がそう遠くないうちにやって来ると悟った時、金総書記がなるべく早く後継者の三男・正恩氏に体制を引き継ごうと考える。それ自体は政治家や家業を持つ親ならば自然な発想かもしれない。だが、その息子はまだ28歳で、実力も未知数。

韓国防衛省幹部はこう断言した。「今年3月の哨戒艦沈没事件を発端とする一連の武力攻撃は、あまりに煩雑で連続的すぎる。北は金正恩に後継者としての”箔”をつけるために、矢継ぎ早に我が国に攻撃を仕掛けた。正恩が北の国内で『軍事の天才』などと喧伝されている以上、最大の敵であるアメリカに対して一定の戦果をあげない限り、後継者としてふさわしい伝説は完成しない。そのためには、定期的に自国付近に飛来する米偵察機に攻撃を加える可能性が高い。

次なる大規模攻撃実施の時期について、ある北朝鮮ウオッチャーが語る。「直近では12月24日が濃厚だとみています。24日は金正日総書記が朝鮮人民軍の最高司令官に就任した日(91年)であるとともに、正恩氏が金正日軍事総合大学を卒業した日(06年)でもある。伝説作りにはうってつけの日です」親子には禅譲の日までの猶予が残されていないことに焦り、伝説づくりのために暴走を続けている、それが一見、強気に見える金王朝の実態である。

民間内部告発サイト「ウィキリークス」が入手した米外交公電によれば、今年2月韓国は駐韓米大使に対し「北朝鮮は金総書記の死後2〜3年で崩壊する」との見方を伝えたという。今回、本誌は日韓中の北朝鮮専門家に取材したが、正恩氏えの権力移譲がすんなり成功すると予想する専門家は皆無と言っていい。半年から1年もすれば、党や軍から不満の声が吹き上がるのは間違いない。

不穏な動きをするのは長老ばかりではない。不気味なのが、正恩氏の異母兄であり、01年5月に日本に不法入国を試み、入国管理局に拘束された長男正男である。正男氏は現在、マカオを拠点に活動しているとされ、日本のメディアに対して、世襲には反対であると語ったこともある。現在の金ファミリーから見れば、お荷物のような存在だが、国内外に今でも正男氏を担ごうとする勢力がある。彼の世襲反対や北朝鮮に自由が必要であるという主張はいたってまともで、中国共産党内では国際感覚のあある正男氏ならば、交渉が成立すると期待し彼に後を継いでもらいたいと願う声は多い。

さらに、地方の軍人に内在する経済的な不満が爆発する可能性も高い。地方にいる現場レベルの兵士たちは経済劇にかなり困窮している。彼らの大半は農村出身で、自分たちの故郷がどれほど貧しいか身に染みてわかっているために、金一族の支配に対する怒りも強い。

金総書記の死後、地方で食料を求めるデモが起きた場合、本来これを鎮圧するはずの地方軍が同調し、反乱軍として金一族の側近部隊である護衛司令部と衝突する恐れもある。そうなれば内戦状態は避けられない。

軍長老の謀反、金正男氏の復権、地方軍の反乱…。金総書記が死亡すれば、これまで国内に燻ぶっていた火種が一気に燃え上がりかねない。ある地方共産党幹部は、そうした混乱が起きた倍、正恩氏に事態を収束させる力はないとみている。

正恩を支持しているグループというのは、軍幹部や党幹部の二世が多い。そして2世たちは親の威光で出世しただけのひ弱な連中だ。一方で、金一族に不満を持つ軍人らは叩き上げが多い。この両者が衝突すれば、どちらに軍配が上がるかは自明だろう。敗れた正恩氏らが中国を頼ってきたとしても、かくまうのは2カ月までだ。その後はスイスなどの第三国に放り出す。彼らを匿っていると、新体制となった北との交渉もできない。その先のことは知ったことではない。

北朝鮮に限らず、独裁国家のリーダーたちの末路は哀れだ。他国に亡命できればいいほうで、反乱軍によって粛清されることも珍しくないことは歴史が証明している。正恩氏が暗殺される可能性について聞いたところ、この共産党幹部は「あり得る話だが、先に言ったように、体制崩壊後の彼のことは、我々の関知するところではない」と語った。「金王朝」が内部から崩壊しつつある兆候はすでに見えている。


週刊現代




2010年12月14日(火) アスレチックスはスターの墓場

エンゼルスからFAとなった松井秀喜外野手(36)について、米メディアは早ければ13日日にもアスレチックスと契約を交わす見込みだと報じた。しかしこのまま入団すれば、アスレチックス軍の本拠地オークランドが”ゴジラ終焉の地”となるかもしれない。アスレチックス軍入りしたスター選手の多くはその後、放出されたり、引退したりと悲惨な末路をたどっており、関係者の間では「スターの墓場」とさえ言われている。中でも心配されるのがアスレチックス軍の剛腕ビリー・ビーンGMとの関係だ。

顕著なのが09年で、超大物外野手ホリディーを筆頭に、08年、不振から復活して大活躍したジオンビー、大スターのガルシアバーラ、メジャー屈指の遊撃手カブレラと、巨大補強を敢行した。しかしふたを開けてみれば、シーズン中にホリディーとカブレラはトレード放出、ジオンビーは解雇、ガルシアパーラは2度故障者リスト入りしてオフに引退…と末路はさんざんでチームは最下位。

ビーンとGMと折り合いが悪かった選手もおり「独裁者気質のためベテランの扱いは下手」と指摘する声もある。この大補強の失敗後にはアスレチックス軍が「スターの墓場」とからかわれることもあった。

アスレチックス軍で不振に陥ったホリディーがカージナルス移籍直後から大活躍したことは皮肉としか言いようがない。今オフにはポスティングシステムでメジャー移籍を目指した楽天・岩隈久志投手(29)との交渉が前代未聞の破談となり、同GMの誠意のない対応が問題視された。

これまでア軍として移籍してきたベテランスラッガーには、ここが選手生命の“終着駅”となっている前例がある。ホワイトソックスでMVPを2度獲得しながら、度重なる故障などが原因で放出された当時38歳のフランク・トーマスは、わずか1年50万ドルで06年にア軍に移籍し大活躍した。その後ブルージェイムスと2年1800万ドルで契約するなど見事にカムバックを果たした。だが、その後もう一度ア軍に移籍した時には結果が出ず引退。同じく、野茂の女房役として有名だったマイク・ピアザも、ア軍のDHで選手生命を終えている。

長くプレーオフ進出から遠ざかっているビーンGMに、地元メディアは厳しい目を向けている。ビーン・GMにとって、松井獲得は眼力がまだ衰えていないことを証明する格好の投資であり、二人は互いのクビをかけた運命共同体ともいえる。ビーン・GMから価値を再発見された36歳の松井が「引退」の二文字を覆す反撃のシーズンを迎えるか、それとも引導を渡されるのか。正念場の一年となる。



九州スポーツ


2010年12月13日(月) イエス伝説

キリストの宣教の開始は30才頃である。いとこのヨハネによる洗礼。およそ3年間、12人の弟子たちと共に広範囲の旅。教えを説き、病人を癒し、死者をよみがえらせた。しかし、ユダヤ人の大司祭カヤバと全議会によって濡れ衣を着せられる。ローマの総督ピラトによる判決は必ずしも不利ではなかったのに死刑の宣告を受け、4人のローマ軍兵士により架刑。十字架から降ろされて、アリマタヤのヨセフとニコデモによって墓に置かれた。

彼の生涯と教えの与えた力は、はかり知ることができない。心を純化することによって、人を変えようとした。最高の革命家と呼ばれてもよい。物語は『新約聖書』、また聖書外典の中でさまざまに語られている。彼に従うものはクリスチャンと呼ばれ、今全世界で14億人にのぼる。信徒の数は全宗教中最大である。キリスト教国は文化的、経済的、政治的に優位を占め、人類史は彼の誕生によって二分されている。紀元前(BC)と紀元後(AD)。このことは、彼がこの世に現れたことが、歴史の要であることを意味している。

最も謎に包まれた問題……、12歳から30才まで、イエスがどこで何をしていたかについて、何の記録も残されていない。「イエスの失われた歳月」と呼ばれるこの17年。学者たちは議論した、イエスとは実在の人物か、架空の人か。もしくはそのどちらででもある何ものか。1894年、ロシアのジャーナリスト、ニコラス・ノートヴィッチが、フランス語で一冊の本を著した『知られざるイエス・キリスト伝』彼は小チベットを旅行中、古代仏教者による手書き文書の写しを発見した。その日はなんと失われた歳月、イエスはどこにいたのか、―インドだ、と明記されていたというのがノートヴィッチの主張だった。イッサとはアジアでのイエスの呼び名である。

『聖イッサ伝』は三部に分けられる。第1部はイッサの受肉をめぐる事情と誕生、そして幼児期。第二部は「失われた歳月」の細部が扱われ、13歳から29歳までのインド、ヒマラヤ時代が取り上げられている。イッサがインド、今日のパキスタンを横切ったのは14才の時だった。6年間の学びの後、イッサは聖典の完全な解説者となった。その後にヒマラヤを去って、西に旅立つ。道々、偶像崇拝を非難して教えを説きながら。そして遂に29歳、パレスチナへ帰る。そして最終部はパレスチナ伝道時代の出来事のすべてが述べられている。イエスの名と名声は、彼の生涯の最後の3年、パレスチナでの3年間によって、ただそれだけで、世界の諸国民のもとへ届けられたのである。

アジアの探検行を推進したレーリッヒ教授の体験は、豊富な資料となって後に現れる多くの著作の中に行かされた。『ヒマラヤ』の巻頭には、古写本から取られた長い文章が引用されている。「イッサはひそかに両親を捨て、エルサレムの商人たちと共にインドへ向かった、神の言葉において完全になるために、そして大ブッダのを学ぶために」

教養豊かなあるインド人が、イッサ伝の写本について意味深長にこう語った。「イエスがイスラエルを留守にしていた間、なぜ人々はいつもその期間イエスはエジプトにいたことにするのでしょう。いうまでもなくイエスは、青少年時代を学んで過ごしたはずです。その説教がどんな源に帰着するのか。どうしてそこエジプト人がいるのですか。そして誰も仏教の、インドの痕跡を見ようとしないのか。キャラバンの道をたどったイッサの遍歴が、インドへ、そして現在はチベットに区分されている地域へ入ったということが、どうしてこうも激しく否定されねばならないのか、私には理解できません」

チベット仏教とキリスト教との類似点について、エンサイクロペディア・ブリタニカには次のように書いてある。「チベットの仏教が、歪められたキリスト教だというのは、かなり古くからあった考え方である。彼はチベット人が、確かに正しい三位一体の考えを持っているとして、そこにキリスト教の実に不思議な浸透力の働きを主張した。チベットの宗教は、それがどんな源流から発したにせよ、純粋であり、質朴であり、その源流における極めて高貴な神性の存在をうかがわせることは真実である。

チベット人の宗教は、本質的なあらゆる点でローマ・カトリックと一致する。例えば彼らは、パンと葡萄酒でミサの聖餐を祝う。死者に聖油を塗り、結婚したカップルを祝福し、病人を癒すために祈り、行列を作り、崇拝する人の遺品を敬い、修道院や尼僧院を持ち、カトリックの僧と同じく聖歌隊の奉仕を受けて歌い、年間幾度かの断食を守り、ムチ打ちさえ伴う厳しい悔い改めの苦行に耐え、そして外地へ派遣された伝道団は極端な窮乏を忍んで日を送り、また中国まで広がる砂漠の中を、裸足で旅する。

オロチオ・デ・ラ・ベンナ修道士はこう言っている。「概してチベット人の宗教は、ローマ・カトリックのコピーだと言える、彼らは唯一神と三位一体を信じ、天国、地獄、それに煉獄も信じている。死者のために取りなしの祈りを祈り、施し、供え物をささげる。たくさんの修道院を備え、そこには修道僧や托鉢僧が溢れるほどである」僧たちは貧乏、従順、慈悲の三つの誓いのほかに、なおいくつもの戒律に従う、僧院には院長によって選ばれた聴問僧がおり、僧たちは大ラマ、もしくは僧正よりライセンスを受け、ライセンスに従ってのみ告解を聞き、悔い改めの権行を命じることができる。彼らは聖水を使い、十字架やコンタツを身につけている。

1844〜46年にチベットを旅したムッシュウ・ユックはラマ教の信仰とカトリックとの間の近縁関係に言及し「十字架、かぶり物、式服、外出の際に大ラマが着る長マント、重唱による奉仕、讃美歌、悪魔払い、5本の鎖につるされた香炉、協会制度に基づく独身生活、霊的隠棲、聖人崇拝、行列、聖水、これらすべて、仏教徒と我々自身の間にある相似点である」

儀式、再点灯に見られるこれらの類似点は、もともとチベット仏教に備わっていたものか、あるいは初期のローマカトリックが持っていたものか、という厄介な議論に立ちいることは避けよう。自分の発見が本当のものとして承認されるために、ノートヴィッチ氏が言いたいのはこういうことではないか。つまり二つの宗教団体が、実は共通のある源から出ているかもしれないこと、そしてもし、いくつかの伝道団が想像したように、使徒の時代、チベット人に福音が説かれていたとしても、それは決してあり得ないことではなかった。イエスがその生涯の不思議な空白の期間をどこでどうしていたか、彼の同労者、キリストの使徒たちは、彼の口から直接聞いていないはずはない。そして彼らの中のだれかが、主の若き日の仕事場を訪ねたいと願い、現実に訪ねていたとしても決して不自然なことではなかったのだから。



『イエスの失われた17年』エリザベス・クレア・プロフェット


2010年12月07日(火) なぜ円高になるのか?

なぜ円高になるのか。それは円を持ちたいと思う人が増えれば円高になる。投資家は円安の1ドル100円の時に買い、円高となった80円の時に売る。すると20円儲ける。

円高の原因は、2008年9月から始まったリーマンショックという金融危機である。投資銀行のリーマンブラザーズの破綻をきっかけに金融危機が起こった。これが日本の円高の発端である。金融危機が起こると景気を良くしようとする。その対策として米は国債をどんどん発行し借金が増えた。米の政策は投資家に国債を売って借金し、金融機関に資金援助をした。つまり、米のの借金増加でドルの信用が落ち、価格が下がった。

米のドルは持っていないほうがいいのではないか、と思う人が増え、投資家はドルをユーロに換えた。これによりさらにドルが安くなった、皆がユーロを持ったら2009年ギリシア危機が起こった。

ギリシアの巨額の財政赤字が発覚した。ギリシアはEUに加盟し、ユーロを使っているため、ユーロの価値が下がりヨーロッパ各国の経済にも影響が出た。つまり、ユーロを持っているとユーロの価値が下がってしまうのではないかという不安が、ユーロもドルもダメとなると残ったものは「円」だナとなった。

しかし日本経済は借金を抱えていてダメだと日本人は考えているけど、海外から見るとドルやユーロより、円が安全と考えている人が多い。イギリスのポンド、スイスのフランもあるが、イギリスのポンドだとユーロの影響を受けるし、小さな国の通貨は売り買いする人が少ないと売買が簡単にできない。しかしドル、ユーロ、円ならいつでも売り買いできる。

こうしてアメリカの金融危機やギリシアの影響でドルやユーロを持つより、円を持つほうが得だと判断し円を買う人が増えたことで、今の円高が起きている。円高を止めることはできないのか?円高を止める方法として、口先介入がある。これは、実際に8千円まで円が上昇した8月12日に菅さんが官房長官に「値動きが急過ぎる」と言ったとたん、急激に円が下がった。すると投機家は日本の政府は円高を止めるために何かをするんじゃないか、と考えた。

では、円が下がるかもしれないので、その前に売ってしまおうとするから、円が下がった。ところがこの後、野田財務大臣が「重大な関心を持って、極めて注意深く見守ってまいりたい」と発言した。ということは、見守っているだけなのだと、投資家は考えた。するとまた1円ぐらいの円高になった。この発言が原因だとははっきり言えないが、たぶんこの発言のせいだろうと考えられている。

しかし、口先介入は、相撲の猫だましのようなもので、瞬間的なもので効果的にも限度がある、と言われている。では次は「円売り・ドル介入」を国がやり円高を止めるしかない。今なぜ円高なのかというと、ドルはいらない、円がほしいという人が多いから円高になっているが、逆に円はいらない、ドルを買う、という人が多くなれば、逆の動きになって円安になるのではないかと、政府が円売り、ドル買いをすることになる。

日本は6年前、円高になったとき、円売りドル買いに大規模介入して、効果を得た。しかし、今回の円高では踏み切れない理由がある。昔は効果があったが、今は投資家のお金の流れのほうがはるかに多くて、一国で介入しても効果がない。一国が売ったり買ったりしても効果がない。

はるかに大きな金が動いている。投資家の金が大きい。15年前、日本はアメリカと共同で円売りドル買い介入をしたことがある。協調介入。アメリカ、イギリスなどが一緒になってドルを上げ、円を下げるようにしようとしたことがあるが、今はどこの国もやろうとしない。これは円安になると輸出が増え、景気がいいということだが。米にとってもドル安のほうが景気が良い。米製品が海外で安く売れるから、米にとってもドル安はうれしい。ヨーロッパも同じでユーロは安いほうがよい。

当時アメリカは、ドル安が進み過ぎて、物価が高騰するのを防ぐため日本と協調介入したが(クリントンと村山党首)、米の景気が悪い今、ドル安にブレーキをかける協調介入の可能性は低い。

結局、ヨーロッパも米も円が高いほうがいい、と思っている、だから円を下げようということに協力してくれない。では円高を止める最後の手段とは、日銀が金利を下げれば、円を持っていても儲からないことになる、と皆が考えれば円安になるのではないか。人々も高い金利の通貨を持とうとする。日銀が金利を下げれば他の国の金利の高い通貨を買おうとする。そうなると円の価値が下がり、円安となる。

そこで日銀は、新たな金融政策を発表した。その内容は銀行が今まで日銀から3カ月しか借りられなかった金が、6ヶ月間借りられる。また、借りられる金も増えたため、銀行が多くの金を持てるようになった。20兆円に10兆円をプラスした。これにより円高に歯止めがかかるのではないか?と期待されている。この政策により、今後円相場がどんなどんな動きを見せるか、注目されている。



『日本改造計画』





2010年12月05日(日) 全国民的怒り「住専問題」

テレビ朝日やTBSに比してフジテレビや日本テレビから私に声がかかることは少ないのだが、今度の住専問題では各局からコメントを求められる。それだけ全国民的怒りとなっているのだろう。『潮』の96年3月号は「住専糾明」と題したその特集で一冊を埋め尽くしている。関東は財部誠一の「住専のすべて」100枚。中に金融アナリストのこんな解説がある。

「銀行業界に預金保険機構があるように、実は農協系金融機関にの貯金保険機構がある。信連が倒産したときには貯金保険機構を使って処理すればいい。しかしそれをしないということは、農協系金融機関の経営者や幹部が経営責任の追及から逃れるためとしかいいようがない。政治家にしても、信連の幹部は票の取りまとめ役だからむげにはできない。極論すれば信連の幹部救済のために税金を使ったようなものですよ」

まだ使うことが決まっていないから「使った」と過去形にはできないが、しかし、農協系よりもずっと責任が大きいのは大蔵省と銀行である。私は、「住専問題は銀行問題であり、大蔵問題であり、そして暴力団問題だ」と言っている。地上げなどに暴力団を使った銀行は彼らに食い込まれ、バブル期に”狂存狂栄”の道を歩む。それがこの問題のポイントであり、それでおかしくなった銀行を救うために大蔵省が「公的資金」という名の税金の投入を考えたということなのである。

官房長官になる前に書いた『文芸春秋』2月号の一文で梶山静六は、アメリカでは経営責任の追及と金融政策担当者の責任の明確化を徹底してやり、千数百人が有罪判決を受けたことに触れながら、こう指摘している。

「公的資金の導入とは、これほどの血を流さねば許されないのであり、政治の役割は公的資金をつぎ込む前に、誰がこの危機を招いたのか、どの組織が政策決定を行なったのかを国民の前にさらけ出すことなのである。90年代の初め、バブルの破綻は目に見えていたのに、大蔵省が何をしたのかを思い起こさねばならない。

バブル経済を押しとどめようとしなかったばかりか、『赤字公債依存からの脱却』を金科玉条のように唱えてバブルの波に乗った、当時の大蔵省幹部が、今も素知らぬ顔をして重要ポストに居座ったり、、天下り生活を謳歌することなど、許されるはずがない。銀行の経営者も同様だ。いま銀行は、空前の低金利の中で膨大な利益を得ている。それは預金者の犠牲に基づくものであり、換言すれば国民はすでに形を変えた増税を強いられているのである」私はこれに全く異論がない。梶山は官房長官になってもこの線で強く推していくことを望みたい。

『潮』の別冊には私も大蔵省批判を書いたのだが、私とはさまざまな点で意見が違う矢沢永一の「税金を使うのは国家を『私』することだ」という一文が、ほとんど私と同じ主張なのに驚いた。冒頭に書いたように、フジテレビが私にコメントを求めてくるはずである。谷沢は当時の大蔵省銀行局長土田正顕を槍玉に挙げ、こう書いている

「私はこれまでいろいろな人々を批判してきましたが、必ずその人物のどこかに、その人の社会的存在の可能性を認めてきました。人をとことん追い詰めたことは一遍もありません。意識的にそうしてきました。しかし今回のこの人物だけは許すことができない。引き回しにし、鋸引きにして、串刺しにして、それから車裂きにして、釜茹でにして、火あぶりにし、磔にして、獄門首にしてもなおあきたりないと私は思っています」

……
岸は、30才前後にやる地方の税務所所長生活が大蔵官僚を狂わせるとして、ある中堅幹部のこんな声を紹介する「昨日まで夜中の12時、1時までコピー取りや夜食の手配といった小間使いをさせられていた人間が、次の日からいきなり床の間を背に座らせられる。宴会、ゴルフ、視察旅行と連日、下にも置かぬもてなしを受け、やがて接待慣れしてくると、これが当たり前と思い始める。

所長を辞める時には常識をはるかに超えるせんべつをもらい、金銭感覚までマヒしてしま。うちで起きたさまざまなスキャンダルの原点に、税務署長の制度があるような気がしてならない」それあらぬか、大蔵官僚に「思い出のポストは」と尋ねると、ほとんど全員が「税務署長」と答えるという。

……
『彷書月刊』という小さな雑誌が「自由律俳句の人びと」という特集を組んでいる。取り上げられているのは荻原井泉や尾崎放哉。そこに山頭火の名はない。生というもの、つまりは死というものを深く考えた点で、山頭火は放哉に遠く及ばない。上野ちづこという俳人の一文がそれに触れて興味深い。

「私にとっては、放哉は自由律俳人のうちに入らない。彼は俳人でさえない。彼は俳句を超えたところで、極限の『詩』を書いた、それは失語の果てのため息、誰も聞いていないのにそれでも漏れてしまう呼吸、生命の音、そしてその音が言葉のかたちをとってしまうために、自分以外の他者へとつながるか細い通路なのだ」こう書いた上野は放哉の句に「にんげん」であることのユーモアと畏敬を見ている。
せきをしてもひとり
これが上野と共に私の好きな放哉の句である。

……
開拓団として中国に渡ったスミは、ソ連軍の侵入によって驚天動地のひどいことになり、日本の関東軍はまったく頼りにならなくて、自決を決意する。その開拓団の団長だった夫は、真っ先に自分でのどを突いて死んだ。地獄の光景を、はじめてスミは夢千代に語る。

「…私も、主人に遅れたらいけないと急いで主人の手から、ナイフを取りました。……あっちでも、こっちでも親が子供を殺しておりました。兄が妹を殺しておりました」「………」「私は長男を抱き寄せて、ごめんね、ごめんねと言って、ナイフで……ナイフで……」「おスミさん……」「夢千代さん、私は子供を捨てたなんて言いましたが、ウソです。子供を殺したんです。自分の手でのどを切って殺しました」

……
そこで横田は、クリスマス・イブに銀行でクリスマス・プレゼントの交換会をやるために、こんな事態が発生する、と発言した。「女の子なんか、イブの日は彼氏とどこかに行きたいのは当たり前です。ところが、その女の子たちを出席させることが上司の『管理能力』になる。一人一人支店長室に呼んで、女の子がそんなの行きたくないと泣いているのを、40、50の男が3人、4人で取り囲んで、出席者の欄にハンコを押せとやるんです。それでも出席させられないような上司は管理能力ゼロだとみなされる」

すさまじい話である。これでは銀行は”収容所”か”監獄”だ。しかし、中にいる人間はそうだとは思っていない。退職してからも、迷惑がられながら銀行に行って何かの役に立とうとする元支店長の哀れな姿を見て、たまらなくなった夫人からの長い手紙が載っている。

「それはもう。会社への忠誠というより、何か得体の知れない、宗教に取りつかれているものとしか考えられません。一生、死ぬまで抜け出すことができない、会社という宗教。主人はその宗教に乗っ取られてしまっているのです」

………
なるほどと思ったのは、オウム真理教の信者にはクレジットカード破産者が多いということである。たしかに、一時は、上九一色村等に逃げ込めば、誰も債権を取りには行けなかった。ピープルズ・バンクを標榜する銀行がいかに庶民のためになっていないかであり、弁護士がいかに特権的な既得権擁護に躍起となっているかである。一度でも銀行から金を借りようとした人は、その手続きがどんなに面倒で、結局は、銀行がなんとか貸さないようにするかに腹を立てた経験があるだろう。その陰湿、無責任な土壌の上にクレジット社会の徒花は咲いた。



『佐高信の寸鉄刺人』




2010年12月02日(木) イエスキリスト

12月25日が「何の日か?」と聞かれればほとんどの人は「キリスト教の開祖、イエス・キリストの誕生日」と答えられるだろう。ちなみに、「イエス」というのはごく一般的なユダヤ人の人名、「キリスト」はギリシア語で「救世主」の意味で、姓ではなく称号のようなものだ。欧米をはじめキリスト教国の人々は、クリスマスを「降誕祭」とし、この世に救いをもたらす“救世主”の誕生を盛大に祝う習慣がある。ただし、実際にイエスが12月25日に生まれたという証拠はどこにもない。生涯を通じて謎に満ちたイエスだが、誕生から「謎」に突き当たってしまう。

何故キリストの誕生日が12月25日なのかというと、この日は当時の暦では「冬至」に当たる。冬至といえば1年中で昼の時間が最も短くなる日。古代ヨーロッパの人々は、1年の折り返し点となる冬至を重要な祝日とし太陽の復活を祈る冬至祭りを行なっていた。

つまり、生命の誕生を祝う意味の祝日ではあったが、もともとはキリスト教のお祭りではなかった。それがイエスが没して300年以上が経過した4世紀になって、イエスの誕生日と定められたという経緯があり、実は本当の誕生日は不明なのである。

誕生年についても不明で、紀元前8〜前4年ごろというのが通説である。この誕生年から、「紀元元年が、イエスの誕生日ではないのか?」と疑問を持った方もいるだろう。たしかに、西暦ではイエスの誕生年を紀元元年とし、それ以前を紀元前BC、それ以降を紀元後ADとするが、これは6世紀以降の考え方であり、初期教会史の誤りから実の誕生年と西暦の間にズレが生じてしまったようだ。このようにキリストの生涯は、はじめから歴史的な大誤算に彩られている。

出生地や誕生についても謎だらけ。通説つではイエスは中東パレスチナにある小村の馬小屋で誕生し、母マリアは「処女懐胎」つまり聖霊によって身籠ったとされる、父(養父)は大工のヨセフで、真の父は神である。ただし、出生地についてはパレスチナのベツレヘムといわれる一方で、同じくパレスチナの「ガリラヤ地方のナザレ村」である可能性が高いとする説もあり、母の処女懐胎についても諸説ある。福音書の分析によると、最古の「マルコ伝」には処女懐胎の神話はないという。そこで、処女懐胎は後に救世主であるイエスの存在を強調するために加筆されたのではないかという見解が現在では一般的だ。

一方、イエスを敵視したユダヤ教の文献を見ると、イエスは私生児であり不倫の子であることを強調する記述も見られる。敵対した背後には、イエスが独自の教えを説き、ユダヤ教のあり方に批判的だったという事情がある。イエスがヨハネから洗礼を受け、ユダヤ教の法律教師となるのは30才の頃、自分は神の子であると確信したイエスは40日40夜を荒野で過ごし、悪魔の誘惑を退けたのち、12人の弟子を得てガラリア地方で本格的な宣教を始める。その教えはユダヤ教とは異なり、誰もが「神の愛」によって救われ、父なる神の愛は弱きものにこそ及ぶ、というものだった。

布教活動の際には数々の奇跡的な行為にも及んだ。重い病を治す、目の見えない人に光を与える、水上を歩行する、5つのパンと2匹の魚だけで5000人もの人々を満腹にさせるなどの奇跡を目の当たりにし、民衆の支持は広がりを見せた。イエスは人の生死さえ操れるほどの神通力をいつどこで宿したのだろうか?残念なあら、幼少期をナザレで過ごして以降、13歳から30才で洗礼を受けるまでの約17年間の足跡は空白になっている。

福音書の内容の多くは洗礼後のイエスの動向だが、彼が実際に教えを説いた期間はわずか3年。布教活動によって信者も順調に増えていた矢先、イエスは弟子と共に性と得るさえr無に入場する。ユダヤ教の大祭の日だった。しかし、弟子のひとりユダの裏切りからユダヤ教指導部によって捕えられてしまう。反ローマの危険人物としてローマ総督に引き渡されたイエスは死刑判決を受け、ゴルタゴの丘で十字架刑に処せられた。イエスの生涯は34年といわれているが、ただし、正確な没年は不明だる。イエスは事前に自らの死と復活を告げていたが、復活を信じる弟子たちによって原始キリスト教団が成立した。そして、イエスを救世主、キリスト、すなわち神の子であるとして、この宗教を世界中に広めていった。

予言通り、イエスは3日後に復活する。弟子たちの前に現れ、「全世界に行って福音(神の教え)を宣告せよ」と告げる。そして復活から40日目、弟子が見守る中、オリーブ山の山頂から肉体のまま昇天し、姿を消す。福音書によると、イエスは十字架に釘打たれ、ほどなくして息耐え、ローマ軍兵士によって槍で胸を突かれた。つまり、息を引き取ったのはローマ兵が剣でイエスの体を突き刺す前だったことになる。死体は総督の許可のもとに取り降ろされ、仮埋葬されたが、3日後には超常的な復活を見せ、弟子たちのもとに現れた。一度死んだ人間が肉体をもって姿を現したというのは不思議だが、この復活劇については、さまざまな仮説・奇説がある。

十字架上では死なず蘇生していた。この伝承から、さらに多くの奇伝が生まれた。例えば、蘇生したイエスは故郷に帰って生き永らえた。あるいは、イエスには双子の兄弟がいて、その兄弟が処刑死した後復活劇を演じた。秘密結社エッセネ派がイエスの体に薬剤を塗り、仮死状態になるための工作を施していた。いずれも仮説の域を出ていないが、イエスを埋葬した墓穴が三日目までに空になっていたことは事実とされる。

イエスは本当に蘇生して墓穴から脱出したのか、それとも死体は盗みだされたのか、移し変えられたのか?死体の行方についても多くの仮説があるが、真相は謎のままである。

福音書はイエスの死後、紀元60〜100年頃に弟子たちによって編纂されたとされている。そこで弟子たちの主観や希望から改ざんされた可能性、または創作が加えられた可能性は否定できない。確実な物的証拠が乏しく、謎がさらなる謎を呼ぶ、イエスキリストのミステリー。しかし、2000年余前に誕生した一人の男が、長い時間を経て壮大なる歴史力を保持し続けていることだけは紛れもない事実である。彼の登場によって歴史の流れが大きく変わったことも。



『世界史の謎と暗号』


加藤  |MAIL