加藤のメモ的日記
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これまでの院内感染の主流はグラム陰性菌であったため、グラム陰性菌に強いという第三世代セフェム系の抗生剤が感染予防・感染後に多用されてきた。ところがこの第三世代セフェム系の抗生物質はグラム陽性菌に効力が弱いため、この第三世代セフェム剤を投与しているうちに、抗生物質のほとんどが効かない耐性を持った黄色ブドウ球菌(グラム陽性菌)が多発するようになった。
この耐性ブドウ球菌に感染することを、MRSA(メチシリン耐性ブドウ球菌)感染症という。また、メチシリンだけでなく他の多くの抗生物質にも耐性を示すので、他耐性ブドウ球菌ともいわれている。
MRSA感染に対する有効な抗生物質がほとんどない現状では、一旦感染すると治療に難渋し致死率も高く、東京大学の第一外科では1985年から1987年の間に57名が罹患し、うち9名が死亡、15.8%の致死率と報告されている。60歳以上の高齢者では病院内感染者の死亡率が62%という例も報告されている。高い死亡率だ。
この感染症はアメリカ、イギリス、オーストラリアなどでは1970年代の初めから文献的には問題になっているが、日本では1980年代になって全国各地の病院で多発するようになり、医師の間では深刻な問題とされてきている。しかし、日本の習慣として、感染を起こしていることを医師が患者や家族に告げない場合が多く、一般の人にはあまり知られていない。新しい感染のタイプなので、医師が知らない場合もあるという。
1、1988年2月に行われた日本環境感染学会で発表された50の演題のうち、9例がMRSA関連であり、老人病院、小児科ICU,重症病室などに発症が多いこと、細菌感染では最も主要なタイプであり、増加傾向にあること。2、患者の体表、寝衣、寝具、ベッドの床下、ナースステーションの水道栓及び緊急用注射薬入れ、ワゴンのとって、医師の靴底などから検出されたこと。3、MRSA感染者の口腔吸引、オムツ交換などの後には介護者の手指にMRSAの付着が認められたこと、などが報告されている。
東大病院では、夫の後にもMRSA患者は引き続き発生している。病院の近くに住むHさんのご主人(62才)は私の夫の亡くなったほぼ半年後に、東大病院の分院で、MRSA感染による多臓器不全で亡くなった。胃がんの手術後、10日目で耐性の黄色ブドウ球菌に感染し、肺炎になったそうだ。「一日で片肺の半分、次の日にはもう一方の肺の半分」という具合に大変なスピードで肺炎は進行していった。
手を握っていても脈があまりに早く、苦しそうでこれまでの生活で経験したことのないほどの異常さだったので、医師に「大丈夫ですか?この抗生物質で効いているのですか」と何度も確認にいったが、「たいしたことはない」と男の先生に叱られた。「家族というのは、日頃の患者の様子を知っているだけに、医師以上に異変がわかる時がるものですよね」と私が感じていたことと同じことをHさんの奥さんは言われた。
直ちに人工的な呼吸管理が必要になり、気管切開が行なわれた。気管が切開された場合、意識があるととても苦しいため、意識レベルを下げる薬を入れられたので、ほとんど意識のないまま、手術から50日ほどで亡くなった。最期には腎透析が繰り返されたという。解剖したら脾臓もすい臓も肝臓もすべての内臓がダメージを受けていたという。死亡診断書には、合併症の欄に「耐性黄色ブドウ球菌による肺炎」と明記されていた。「胃がんだったから再発するまで1年か5年かわからないが、たぶんダメだったと思うけれど、こんなに早く突然亡くなってしまうとは納得できない」寂しそうに奥さんは語った。
東大の分院では、その前にも30代の若い男性が胃ガンの手術後にMRSA感染で亡くなっている。その方は会社の検診でようやく胃がんを発見されたほどの全く無症状のガン患者であったため、奥さんはご主人の思いもよらぬ展開に言葉もなく、小さな子供の手を引いて茫然と立ちすくんでいたという。
抗生物質への過度の依存、高度な医療用機器などの発達の中で助長される消毒、手洗い、清掃など基本を軽視する傾向、大学病院での臨床よりも研究論文を競う風潮、各科のセクショナリズム、教室内の情報交換システムがスムーズにいっていないこと、チーム医療・システム医療がスムーズにいっていないことチーム医療・システム医療が苦手なこと、一人一人の医師の極度に細分化された専門領域、、大学病院の労働力である研修医の教育問題、病院長のコーディネィト力の低下、国民皆保険による医療費の使途に対する国民意識の甘さ、院内感染への国の無策、高い薬を使い薬価差益を稼がねばならない医療費も仕組みなど、MRSAのバックグランドを探って行くと、MRSAが日本のゆがんだ医療システムの中で構造的に生まれてきたものであり、ちょっとした対症療法では到底根治できないものであることが見えてくる。決して「運が悪かった」という言葉や「確率」で処理されてしまえるものではない。
『院内感染』
問題はスケーラーである。これは歯科医に行くと「歯石を取ります」と言って、器具で歯石を取る、あのキィーンという音を立てて歯を掃除する器具である。ネットで実物写真を見ることができる。この器具が口の中で歯を”掃除”しているというのは半分ウソである。歯についた歯石を取るのに何故歯ぐきがしみるような痛みがあるのか。これは歯肉を切っているのである。血まで出ることもある。
私の友人は今まで4回ぐらいこの痛い治療を受けたことがあるそうだ。2年前にその痛い治療を受けた後、約10カ月経ったころ上の奥歯がグラグラ動き出し、今では奥歯から前のほうにかけて9本の歯を抜いてしまったという。歯は上下それぞれ14本で、合計28本ある。14本のうち9本が抜けたのだから食事が大変である。下の歯も左右の奥歯5〜6本もグラグラしているという。
女性の歯科医師が女性の助手にスケーラーを使うよう指示したということだ。この時歯科医に行ったのは、数日前入れた刺し歯が少し高かったので、削ってもらいに行ってたのだが、ついでにスケーラーの治療を受ける羽目になったそうだ。その時スケーラーで歯ぐきを切られ60歳という年齢もあり、ついに限界を超えたのだろう。
女性の歯科医には私自身過去1回、口の中が血だらけになる治療を受けたことがある。予約の時に女性の歯科医は断ったほうがよい。男性の歯科医が残そうとした歯でも、彼女達にかかれば抜かれてしまう。
医大や歯科大では解剖実習がある。死体を切り刻む授業である。普通の感覚の女性なら耐えられず途中で退学してしまうという。残ったのはサド的な要素のある女性が多いのではないか、というのがある歯科医の感想である。自分の娘は医学部や歯学部に入れるつもりはないと言う。
「歯石を取ります」と言って超音波スケーラーを出したら「超音波スケーラーではなくて、普通のスケーラーでしてください」といわなければならない。普通のスケーラーはただの細い金属の棒で、良心的な歯科医はこれを使って歯石を取る。このスケーラーで十分である。それを嫌がる歯科医は行くのを止めたほうが賢明である。
夜、寝る前に歯磨きをするが、この時は市販のデンターライオンとかホワイライオンなどの甘い歯磨きを使う人は今夜から止めたほうがよい。砂糖分が歯にわずかに残りいずれ虫歯になる。砂糖業界が国会議員に政治献金をするため、表立った批判ができないそうだ。塩を歯ブラシにつけて掃除したほうがよい。そのあと「イソジン」といううがい薬で時々うがいをすると完璧である。イソジンはもう何十年も前からあるうがい薬である。歴史のある薬はそれだけの価値があるから生き残る。市販の歯磨きは研磨剤が含まれているので歯を白くする。朝はこれを使うといつまでも白い歯が保てる。
超音波スケーラーで歯ぐきを切ると、歯ぐきにがストレスを受けるので歯の根をを支えている歯槽骨という小さいい粒状の骨が溶けてしまう。また糖分が歯と歯ぐきについたままだと、酸に変わり歯と歯槽骨が溶ける。歯槽骨が減ると歯ぐきも痩せてしまい歯を支え切れなくなり、グラグラし抜けてしまう。昼間は常に唾液が出るので糖分は洗い流されるが、夜睡眠中は唾液が出ないので歯についた糖分は酸に変わる。
その歯を失った友人は弁護士に、損害賠償の相談をしたという。弁護士費用は60万〜70万かかるとのことだ。裁判の勝敗を決するのはセカンドオピニオンといって、もう一人か二人の歯科医の診断書が必要ということである。裁判官は歯の専門家ではないので、別の専門家の意見が必要ということである。
その診断書に歯を失った理由が、「超音波スケーラーを使ったため」と書いてあれば勝訴できるという。その友人は歯を抜いてもらった歯科医に原因を聞いたら「歯槽膿漏です」と言われたという。歯科医はどこでも超音波スケーラーを使うので、本当のことはわかっていても黙っているのだろう。
この二つの高いハードルがあるため、友人は泣き寝入りをするしか方法がないようだ。しかし被害を受けたのだから、もう一度弁護士に相談して被害届を出そうかと言っている。相手の歯科医が逆に損害賠償を請求するのは歯科医が損害を受けた時であるらしい。裁判することは損害を与えたことにはならないということだ。
日本人が歯を失う原因は虫歯、歯周病(歯槽膿漏)がほとんどと言われている。だが、こういう一部のとんでもない歯医者による行為で歯を失う人が圧倒的に多いのではないか。おそらく歯を失う原因のトップはこれだろう。私の父もこのような悪徳歯科医に抜かなくてもいい歯を抜かれ、総入れ歯になってしまった。
結局何か事件が起こればノンキャリアから血を流す。キャリアの犠牲は最低限に留め、どうしようもなくなったら若手からスケープゴートを出す。これが霞が関における、一般的な決着のつけ方といえそうだ。少なくともここ数年のうちに立て続けに起こった旧大蔵省、外務省のスキャンダルを見る限り、それが国民の率直な感想ではないか。そういえばお隣の永田町においても、似たようなセリフをしょっちゅう耳にするな……と誰でも連想してしまう。疑惑の浮上した政治家による常套句。―「それは秘書が勝手にやったことで……」。
「いや。処分内容は懲戒減給といったって、現実には自主退職を迫られる。これさえなければ将来事務次官になれたかもしれない幹部職員からすれば、その経歴を捨てなければならなかったというだけでも、社会的な罰は受けたと言えるのではないか?」好意的に解釈すれば、このような弁護の声も聞こえてきそうである。実際、内部的な処分は“停職”や“減給”でも、その後これを機に追われるように省を離れた幹部たちも多い。
それでも法律で罪に問われたノンキャリアたちの身の上からすれば、そんな社会的制裁など屁みたいなものだろう。司法機関によりはっきり“犯罪者”と名指しされた彼ら。理想論はどうあれ、いかに塀の中で罪を償ってこようとも、いったん”前科者”の烙印を押されれば一生社会で肩身の狭い思いをすることになるのがこの国の“現実”なのだから。
「いや。実際にキャリアは省内で、自らの手で金を扱うようなドロドロした実務に従事していない。巧みな経理操作で裏金を捻出するような、そんな知恵も技術も持っていないんだ。そうした裏方の仕事は常日頃から、すべてノンキャリアがやっている。そしてそんなノンキャリアから差し出された裏金を、出所も知らずにノホホンと使っているのがキャリアだ。本当に悪い事と知らずにやっているんだから、現実に法で罪に問うのは難しいんじゃないの?」
そういう指摘をする向きもあるかもしれない。なるほどそれは一理あろう。確かに役所の中で経理や人事という“キナ臭い“実務はすべてノンキャリアがこなしているのが現状。そして裏でどんなドロドロした操作が行なわれているかトンと知らぬまま、対外交渉などの表の仕事をしているのがキャリアの実像なのだ。だから現実に法を適用する際は、ノンキャリアに対するより“技術的”困難があるのは事実かもしれない。
しかし忘れないでほしい、これまで名前の取りざたされた“不逮捕”キャリアたちはいずれも逮捕されたノンキャリア職員を指揮する立場の高い位置にいた。当然彼らには監督責任というものがある。もちろんそれが問題とされて”懲戒減給”その他の処分になった。だが、それにしても基本的に全体的に処罰が甘すぎないか。責任ある者ほど重い罪に問われる。それが一般社会における常識であろう。
ましてやコトは、公的資金や権限を私的に活用し、国の信用をドン底まで貶めた“犯罪”に対するものである。一般の使用者責任などよりずっと重い罪に問われるべきなのは当然ではないのか。しかも外務省におけるスキャンダルは、代金水増し請求からプール金の私的流用と、犯している宇野は逮捕された者とまったく同じ行為である。松尾元室長の捻出した裏金で、飲み食いをさせてもらっていたキャリアも数多いという。それどころか旧大蔵省の中島元次長にいたっては問題視されたのは中国の健康飲料輸入、販売契約を民間と取り交わすという国家公務員法上の「兼職禁止」に触れるであろう違法行為。なのに彼は現在、民間企業から役員待遇で職を得ているというのだから何をかいわんやである。塀の内に落ちた面々からすれば、まさに“雲泥”の境遇であろう。
結局彼らの“塀の内外”の運命を分けたのは、懐に入れた金額の多寡ともう一つ。何よりキャリアとノンキャリアの差、これであろう。責任ある地位にあるキャリア幹部が逮捕・起訴などされたのでは、省全体の名誉が失墜してしまう(そもそもそんなものとっくに失墜しているのだが)職員の士気に与える影響も大きく、到底そういう事態は避けなければならない。
つまりはそういう判断なのだろう。だから横の繋がりもある(首相官邸や内閣府などの出向先で席を並べることも多い)検察・警察上部のキャリアと手打ちをして、ノンキャリアの首を差し出すだけで勘弁してもらう。そのあたりの“思慮”についてはおそらく一般の市民も薄々感づいているのではないか。
『霞が関残酷物語』
「がんになったことで、僕ははからずも自分の人生をリセットできました。やっていることは以前と変わりませんが、走ることの楽しさや醍醐味をもう一度、真っ白な状態から見直していきたいと思っています。」金氏は、このほど長く封印してきたガン病棟体験を赤裸々に記した著書「走る意味」を上梓した。なぜ、彼はひた隠しにしてきた自らの病を公表する気になったのだろうか。
「先ほどお話しした通り、がんになる前の僕は、病気になることは人生の負けだと思っていました。でも、術後はそれは負けではないと考えるようになった。ガンになって、ぼくは逆に自分を取り戻すことができたんです。だからこそ、同じ病気で苦しみ、悩んでいる人たちに自分のがん体験を正直に伝えることで、勇気を与えらえるのではと思ったのです。もちろん、僕自身、再発の不安がないわけではありませんし、気持ちが沈む時もある、しかし、僕は限られた命を日々精一杯生き、今後もランニングが文化として根付くための努力をしていきたい」
草の根の努力は実を結びつつある。その成果の一つ、「東京マラソン」が今年も2月28日に行なわれる。金氏の教え子の多くも東京も街を楽しげに駆け抜ける。金氏は言う。
「3万5000人の中には、がん闘病の経歴がある人も、他の持病がある人も数多くいます。人間ドッグでどこも悪くない、健康体だといわれた人だけにマラソンを走る資格があるのではありません。僕のような〈病気持ちのマラソンランナーは、いわば、病気だけど健康でもある〉というような存在でしょう。市民ランナーはそれでもいいのだと、ガンは僕に教えてくれたのです」
マラソンコーチ 金哲彦
2年前、”これが日本かと”改めて知る機会があった。一つの調査からだ。高校入学から大学卒業までにかかる子供一人当たりの教育費は、平均およそ1024万円である。学校と家庭での教育費の合計である。
日本政策金融公庫が、国の教育ローンを利用している家庭の実情を調べた。もちろん、授業料だけではない。通学費や塾の月謝も含まれる。小学校以上の学校に在学中の子供全員にかかる費用も調べている。合計すると、平均で年収の3分の1を超え34%。年収が200万から400万円と少ない家庭の場合は、56%に達している。
先日、高校授業料を無償にする法案が衆議院を通った。まだまだ改善するところが残っている。公立と私立の格差や財源などである。しかし、ひとまず一歩進んだ。政府はずっと頑なに無償化を認めてこなかったのだから。
「中等教育は全ての適当な方法により、特に無償教育の斬新的な導入により、…すべての者に対して機会が与えられるものとすること」。国連総会が1969年に採択した、国際人権規約13条の一部である。日本の高校は中等教育にあたる。政府は大学授業料の無償化を定める部分と共に、受け入れを拒んできた。他にただ一国、マダカスカルと並んで。
人権規約の採択から半世紀近い。い。今なお日本には“無償化は社会主義”と批判する人もいる。30の先進国のうち、26カ国が無償だというのに。
『潮流』
2010年03月21日(日) |
精神障害者を孤立させるな |
犯罪白書によると、殺人事件のうち12%が精神障害者が占めている。いきなりグサリとやられるケースが、かなりあるということだ。ただし精神障害で刑法犯罪を犯した者は1648名でしかない。精神障害者数は厚生省の推計で160万人といわれるから一部の通り魔的犯罪が喧伝されるおかげで、大多数の必死で病気と闘っている人々が誤解を受けていることも忘れてはならない。
4年前に精神衛生法が改定され、障害者の人権を重視した精神保健法が施工されたのは、解放治療が時代の趨勢になったからである。精神病患者の人権を擁護せよ、との主張も理解できる。確かに一部のひどい精神病院の実体が暴露されたこともあった。
だが、解放治療によって不意に殺人事件に巻き込まれる可能性が減じたわけではない。殺される側の人権は無視されたままだ。退院後のアフターケアもシステムが作られないのは不可解である。精神障害者を孤立させずにきちんと社会が受け入れ、退院後の住居や仕事の保証をする素地ができていれば、事件はかなり未然に防げると思うのだが。
『ニュースの考古学』猪瀬直樹
私は幽体離脱の体験を何度かしています。そのたびに人間の魂の不思議さを感じています。魂は幼い頃にいつも遊んだ象山という丘に登ったり、小さい頃に通っていた小学校の校舎のそばを流れる川を見に行ったりします。夢と現実の中間地帯にいるような不思議な感覚で、言葉で表現するのが困難な体験です。かといって現実では絶対ありえないような体験です。生まれて初めて魂が肉体を離れて徘徊した時のことをお話しましょう。
今から30年近く前です。それは暑くて寝苦しい真夏の夜のことでした。幼稚園に通っている一番下の息子に寝冷えをさせないようにと、扇風機を止め、少しだけ窓を開けました。でも、なかなか寝付けず、しばらくの間は寝苦しさに体をもてあまし、右をむいてみたり仰向けになったり、寝ようと努力していました。
どのくらいの時間そうしていたか覚えていません。すると、自分の体から、もう一人の自分が抜けていくことに気付いたのです。体はゆっくりと天井に吸い寄せられていき、マグネットでもついているかのように、背中の一部を天井板にくっつけ、さらに二度、三度その場を回転したように思います。天井にある魂は寝苦しそうに布団の上で動き回っている、もう一人の自分を眺めていました。
開いている窓の隙間から、涼しげな風が部屋の中に入ってきます。もうたまらなく外の空気を吸ってみたくなりました、私は難なく窓の隙間を抜け、空を浮遊していました。子供たちを散歩に連れていく公園を見降ろしながら、さほど高くはなくそう、屋根よりも2,3メートル上空あたりを徘徊しました。私が日常の生活をしている街の家並みや道路を眼下に眺めるのは奇妙に楽しかったし、なにしろ、家の中は暑さでむっとした感じですから、こうしてずっと浮遊していたいと思ったほどでした。
真夜中ですから、さっきの夕食どきに買い物をしたマーケットは、鎧戸をおろして暗闇の中に静まりかえり、どこか見知らぬ土地を旅しているような気分でした。浮遊しながらも自分の意思で生きたい所には自由に移動できるのは便利でした。目的地はないのですが、止まってみたい、降りてみたいという時にはそれができるのです。
商店街を過ぎて、写真屋さんの所まで来た時です。どこからかニワトリの朝を告げる声が聞こえて来ました。もう帰らなければ。それまで気分よく徘徊していたのが、急に家に残してきた子供たちのことが心配になりました。私はゆっくりと家の方へと旋回しました。実際、さほど遠方には行こうという木は当初からなかったようです。
私の頭からはいつだって、どんなときだって子供たちのことが離れなかったのですから。朝になったら、子供たちを起こしてご飯を食べさせなければ、学校にやらなければと、ただそれだけが頭にいっぱいで、こうしてははいられない、帰らなければと焦る気持ちになってしまうのです。
わたしの魂は部屋を出た時と同じコースを通って、布団の上の体へと戻っていきました。朝、起きようとしたら、体がへとへとに疲れて、起き上がれるような状態ではなかったことを記憶しています。幽体離脱した後はいつでも、極度の疲労感に口をきくことさえできなくなります。
『宜保愛子の死後の世界』
宜保愛子 2003年5月16日 71才 胃がんで死去
肺がんの転移が見られるなど手術ができない場合は、抗がん剤治療や放射線治療となるが、抗がん剤については、今のところ延命が主な目的となる。「抗がん剤治療を開始してからの生存期間は、平均で14〜18か月というデータがありますから、かなり厳しいといっていいでしょう。有効な抗がん剤が出てくることを期待しているのですが、これは副作用などの関係からなかなか厳しい状況です。
最近「イレッサ」という抗がん剤が話題になりましたが、イレッサは非小細胞に用い、女性やや非喫煙者によく効きます。放射線治療も一時的にはよくなっても、再発の可能性が高い。都内在住A氏(40代男性)は会社の健康診断で右肺の上部に大きな影が見つかった。専門医の診察を受けると、やはり肺がんで「ステージ4」と診断された。非小細胞ガンではあったが、すでにガン細胞は大きく転移もあるので手術はできない。この時点で余命1年と宣告された。
「その前年の健康診断では、まったく異常はなかったんですよ。タバコも吸っておらず、それだけにショックでした」(A氏)だが週1回の点滴による抗がん剤治療を開始したところ、ガンが小さくなっていった。そのまま数年が経過したが、あるとき脳への転移が見つかった。A氏は驚いたが、これはガンマナイフと呼ばれる治療により事なきを得た。
その後肺がん治療に戻り、今年でがん宣告から7年になる。「今も週に1回、外来で点滴を受けながら仕事を続けています。ガンは小さいのですが、消えてはいません。でも、、余命1年と言われた人間がこうして元気に働いています」こうしたケースがあるとはいえ、がんは早期発見にこしたことはない。
ただし非小細胞ガンは、線がんや扁平上皮がんなどにいくつかの種類に分かれていることにも注意が必要だ。「線がんは肺の端に多いので咳や出血といった症状が出にくい。線がんで症状が出たら手術は難しいことが多い。ところが喫煙者に多い扁平上皮ガンは肺の入口付近に近いので、早期であっても症状出ることが多い。その場合、手術で治療できる可能性が大いにあります」(森川教授)
だがこの早期発見にこだわるあまり、自分が深刻な肺がんだと思い悩むケースが増えているという。森川教授はこう語る。「近年、肺がんには新しい種類のものが見つかっているんです。これはスリガラス様陰影」と呼ばれています。これは確かにガン細胞なのですが、10年、20年たっても進行しないものも大部分で、本質的には”がん未発達の病気”というものです。手術をせずにひとまず経過を観察していけばいいのですが、”がん”という名前にパニックになる人が少なくありません」
スリガラス様陰影はレントゲンには写らないが、最新の「ヘリカルCT」だと捉えてしまうゆえの”悲劇”だ。とはいえ、「治る肺がん」をみつけるためには、CTを含めた検査を受けるしかない。「喫煙者の方で、血痰が出た人は気管支鏡検査を受けたほうがいいでしょう。
「自覚症状がなく、CTで見つかるレベルの肺がんの多くは手術で治すことができ、しかもその多くは体に負担の少ない内視鏡手術で治すことができるようになっています。ただしスリガラス用陰影は冷静になって専門医に相談してください」(森川教授)肺がんの「治る」「治らない」の分かれ目は、まず正しい知識を持つことなのだ。
『週刊現代』
豆は穀物の中でも特筆されるべき食べ物である。代表は大豆。これは畑の肉と呼ばれる。つまり肉を食べたいなら、大豆を食べればいいということだ。ある広さの畑に、ここで取れる大豆で20人分のたんぱく質を賄なえるとする。ところがその大豆を牛に食わせて、その牛肉でたんぱく質を賄うと一人しか生きられない。
つまり牛肉を食べるということは20人分の食料を一人占めすることに他ならない。ハワード・ライマンはこれを「食物のハイジャック」と呼ぶ。その報いは激増するガン、心臓発作、糖尿病などなどによる残酷な死だ。牛肉に含まれるたんぱく質は約20%、ところが大豆には約40%と2倍のたんぱく質を含む。
つまり、牛肉など足元にも及ばぬ超高タンパク質食品なのだ。さらにビタミんB1は牛肉の8倍、カルシウム、鉄分、カリウムなどミネラル分も牛肉よりはるかに多い。そして肉類には食物繊維はゼロ、大豆は繊維分もリッチだ。さらにレシチン、イソブラボンなどの薬効成分が驚くほど豊か。
その効用は数え切れないほど。なのに戦後50年間で日本人の大豆消費量は50%も激減した。まさに占領国アメリカに餌づけされた悲劇だ。一方で動物たんぱく質は2倍、動物脂肪は4倍強。病人と肥満の超大国アメリカを追いかけている。
一方、肉食一辺倒だったアメリカは、その事実に気付き、今や大豆を「驚異の未来食」と絶賛している。最先端都市ニューヨークでは豆腐、味噌、しょうゆ、大豆モヤシまで“超健康食品”として売られている。何という皮肉。アメリカ国立ガン研究所は、がん予防効果のある食物の上位に大豆をあげている。
大豆には免疫力を高める作用があり、ガン細胞の働きを抑えるのだ。「毎日味噌汁を飲んでいる人はガンになりにくい」という研究報告も当然なのだ。大豆加工品の納豆には、さらに抗がん作用も確認されている。納豆菌が腸の働きをよくする。納豆キナーゼという成分は血栓防止効果もあり、心臓病などの予防も最適だ。
ガンの死亡者数はタイ人は、欧米人や日本人に対して約半分。その理由は伝統食トムヤムクンなど大量に使われるショウガ、香草などにあることが立証された。これら成分は皮膚や消化器系がんの予防効果が動物実験で確認されたのだ。(京大、カセトーテ大学などのの共同研究による)
大豆に含まれるサポニンは強い抗酸化作用があり、心臓の筋肉を活性化する。細胞膜が傷つくのを防ぐ。一日コップ1杯の豆乳で十分。高野豆腐もサポニンが豊か。豆腐1丁には2ミリグラムものビタミンEが含まれる。これは酸化したコレステロールを中和して、善玉コレステロールを増やし脂質の酸化を防止する。
またレシチンは血管に付着したコレステロールを掃除してくれる。東日本の女性は骨粗鬆症が少ない(厚生省報告1995年)これは納豆に含まれるビタミンKがカルシウム沈着を促進するから。また大豆イソブラボンも骨カルシウム溶出を防ぎ骨粗鬆症の予防になる。
高血圧には大豆のカリウムが塩分を排出してくれる。寝たきり老人の半数は、脳卒中が原因だ。大豆のサポニン、レシチンなどは血管を強くし、動脈硬化に移行させない。寝込まぬ日ごろの養生は大豆から。枝豆好きに糖尿病なしといわれる。大豆はインスリン分泌を活発にする。
『ガンにならないゾ!宣言』
そうだ豆乳を毎日飲もう。
2010年03月11日(木) |
日本共産党の負うべき罪(2) |
日本共産党が、他国工作員による「誘拐事件」である拉致疑惑の調査をなぜそうまでして”妨害”し続けたのか。兵本氏の証言によると、この党ならではの特殊な背景が横たわっているようだ。一つは世間的に北朝鮮が社会主義の国として知られており、その国が日本人を拉致したことが明るみになれば、社会主義や共産主義の大きなイメージダウンにつながるとの理由である。
戦後、資本主義陣営と社会主義陣営に大きく世界が色分けされたとき、最盛期には世界の3分の1が社会主義で占められた時代もあった。社会主義は何もかも平等で、国民全員が豊かな暮らしを送ることができるという“幻想”がはびこっていた時代でもある。だがその社会主義陣営も盟主であったソ連邦が91年に崩壊し、東欧革命などを経て総崩れとなった。このとき日本共産党もあおりを受けて、国政選挙などで党勢を衰退させている。
今や曲がりなりにもマルクスレーニン主義を掲げる国は中国、ベトナム、キューバなどごく限られた国となってしまった。そのわずかな陣営である北朝鮮が、日本の無辜の国民を誘拐し、自国に連れ去っていたなどということが事実として明るみになれば、同じマルクス・レーニン主義を掲げる日本共産党も大きなダメージを受けてしまう。そうしたイメージダウンにつながりかねない調査を、わざわざ自ら行なう必要はないというのが日本共産党幹部の考えであっただろう。
そこには拉致被害者や家族の”苦しみ”といったものに対する同情の念は皆無といってよい。つまり国民の利益よりも、自身の”主義・主張”を優先しているということだ。第二の理由は、北朝鮮がそのような「危険国家」であることが国民の前に明るみなれば、有事法制が必要だという国民世論が芽生え、日本共産党のとる政策の方向性と逆行するとの考えもあった。
第三に近年、日本共産党がとってきた他国共産党との融和路線が挙げられる。中国共産党とは1967年に関係を断絶し、互いに批判しあうといった関係が続いてきたが、90年代半ばになって関係を修復した。赤旗特派員を北京に常駐させるようになった。一方北朝鮮とも80年代以降関係が途絶えていたが、党規約改正などを決めた2000年11月の党大会で、朝鮮総連の幹部を来賓として招くなど、朝鮮労働党との関係修復の動きを進めていた。そんな矢先に、関係融和に水を差すことになる拉致事件の真相究明にかかわることは何とも都合が悪かった。
…「赤旗離職から6年余り立ち、58才になった。私の人生の持ち時間はさほど多くはない。体力的にもやれることは限られている。今やらねばならないと思っていることは、北朝鮮に帰国した在日朝鮮人10万人と、朝鮮人の夫と共にかの地に渡った日本人妻数千人の一日も早い救出である。日朝の国交正常化も遠くない。この機会に帰国者全員の一時親族訪問と日本人妻の里帰りをとりあえず実現しなければならないと考えている。
その上で、荻原氏は社会主義というものが何であったのか、これらを分析し、総括しなければならないと綴っている。説得力のある文章なので、そのまま引用する。
「北朝鮮だけではない。スターリンのソ連、毛沢東の中国、ポルポトのカンボジア、ホーネッカーの東ドイツ、チャウシェスクのルーマニア、すべて同時代のできごとである。当初社会主義を掲げて出発しながら、行き着いたところは虐殺と強制収容所と相互監視、密告、猜疑の地獄であった。なぜそうなったのか。何がそれを許したのか。なぜ中途で是正できなかったのか。人民の力はそれほど無力なのか。元社会主義国の人民と世界の共産党はこれらの疑問に答えなければならない。これらを分析し、総括する義務がある。その徹底した分析と総括だけがこうした悲劇の再発を防止する後世への教訓となる」
『北朝鮮問題と日本共産党の罪』
数年前読んだ北朝鮮から脱出した人の書いた『北朝鮮強制収容所』という本によると、北朝鮮の強制収容所では”家畜”並みの生活を強いられる。死ぬまで出られない状況になると、人間は本能むき出しの驚くべき行動を展開する。理性のタガが外れたら人間は動物にもどる。動物以下かもしれない。不倫、窃盗などでさえそこに入れられる。密告、相互監視による悲惨な状況が書かれてあった。独裁政権は恐ろしい。
2010年03月10日(水) |
日本共産党の負うべき罪(1) |
…だが、そうした兵本氏の調査活動を最も熱心に”妨害”したのが、実は、日本共産党委員長(当時)だった不破哲三氏であり、結論としてこの拉致調査が原因で、兵本氏は98年に党を「除名」されるのである。そうした事情を知っている者が先の発言を耳にすれば、まさしく”開いた口がふさがらない”ということになろう。
結論すれば、拉致問題に最期まで“消極的”だった政党が日本共産党であり、その共産党が「拉致疑惑の存在を認めさせ、道理ある解決方法を提案した」などと声高に主張しているのは、この党ならでハレンチ行為に他ならない。加えて、この党には日本国民から糾弾されるべき過去の重大な歴史的事実がある。それは昭和34年から始まる北朝鮮帰国事業を、その中心となって推進したことであり、同党はその責任についていまだに頬かむりしたままである。
差別もないし、新しい祖国で自分の能力を生かそうと胸をふくらませ、希望に燃えて日本海を渡った9万3千人の在日朝鮮人とその家族たち…。社会主義はバラ色との幻想に騙された在日朝鮮人は、地域的にいえばその9割が今の韓国地域の出身者だった。だが、“宣伝”されていた「地上の楽園」とは裏腹に、その実体は地上の“生き地獄”に他ならなかった。
その状況は、第一陣が帰国して二年もしないうちに届いた帰国者らの手紙などによって十分推察できた。帰国者らの手紙の内容は、生活物資や金を送れという「地上の楽園」であればおよそ考えられないような悲惨なものだったからである。
こうした現実を無視し日本共産党は、彼らを「凍土」に送り込む”先頭”に立ち続けた。日本人配偶者も1.800人がかの地に渡ったが、現存するのはいまや300人以下ともいわれている。同党は1968年くらいから朝鮮労働党との関係はまずくなっていたと弁明するが、何のことはない。その後の1971年の帰国事業の再開にいたるまで、継続してその活動を推進していたのは日本共産党にほかならない。
最初の帰国船が出航したのが、同党の最初の赤旗祭りが行なわれた翌月(昭和34年12月)だったというのも、なんとも因縁めいた話である。その40数年後の赤旗祭りにおいて、同党のトップである不破氏が「北朝鮮を正面から厳しく批判したのは日本共産党だけでした」というような発言を臆面もなく繰り返しているのである。
歴史的犯罪ともいえるこれらの行為に対し、日本共産党はなんら総括しないどころか、被害者に対するいっぺんの謝罪すら行なっていない。「あれは人道支援だった」と述べ、ひたすら”結果責任”から逃れようと躍起になっているていたらくだ。果たしてこのような政党がまともな政治勢力といえるのだろうか。自分の行動に責任を持ち模範となるべき政党が、そこに背を向け自己に都合のいい“宣伝”のみを繰り返している。こうした「欺瞞的体質」にもはや国民は呆れかえっている。
2002年9月17日。この日は、日本外交史において特筆すべき日としてとどめられるあろう。小泉純一郎首相が、北朝鮮を戦後の日本国首相として初めて訪問し、朝鮮労働党の金正日総書記と直接会談し、懸案であった北朝鮮工作員らによる日本人拉致問題について、金総書記がその事実を自ら認め、謝罪するに至ったからである。
だが北朝鮮にとって、小泉訪朝はかっての帰還事業の功罪という、別の“パンドラの箱”を開ける結果ともなった。もしも近い将来、北朝鮮と日本が国交正常化し、両国民の自由往来が可能になれば、帰国者10万人の行方や暮らしぶりが責任問題として大きくクローズアップされることになろう。さらに北朝鮮を逃れ、中国との国境で生死をさまよっているこれら帰国者たちについても同様だ。
その意味でも日本共産党は、帰国運動を熱心に煽ったかっての「罪」を認め、被害者といえる帰国者やその家族に謝罪し、贖罪の意味からも北朝鮮に現存する帰国者と日本人配偶者やその家族らを連れ戻すべく、先頭に立って行動すべきである。
逆に同党は、そうした運動へ参加しようとする党員を処罰し、追放し、党のメンツのみを守ろうと努めてきた。そうした事実を目の当たりにすれば、多くの国民が憤りを感じるだろう。朝鮮労働党と最後まで強い信頼関係を持ち続けて来たあの日本社会党でさえ、拉致問題の対応について国民に謝罪を行なった事実を指摘しておかねばならない。それに比べ日本共産党は、過去の責任について無視を決め込み、逃避し、美辞麗句な言葉で党員だけでなく、国民をも欺き続けている。果たしてこのような事態が許されていいのだろうか。
歯学部に入る人って、医学部に行きたくても行けなかった挫折者が多いんです。医学部に進みたくて、高校の頃から専門の予備校に通って受験勉強していたのに、受験に失敗したり偏差値が足りなかったりで、仕方なく歯学部に転がり込むんです。「僕は大きくなったら医者になる」という夢を抱くことはあっても「大きくなったら歯医者になって、いっぱい虫歯の治療をするんだ」なんていう子供はいないでしょう。
「歯医者は往診がないから楽だ」「歯医者は夜中に急患で起こされる心配がない」などと昔から言われてますけど、お嫁に行く条件ならともかく、男も女もそうですが一生の仕事を決めるのにそんなことを考える人はいませんよ。
仕事を決める上でありそうな考えは、「歯医者は儲かりそうだ」ということぐらいです。「歯医者になって貧しい人々の命をを救いたい」などと赤ひげのようなことを考えている人なんて、まず、いるわけないんです。「医学部を落ちたら歯学部に行けよ。間違ってもサラリーマンになろうなんて思うなよ」そう親から尻をたたかれ、“歯学部でもいいか”という気になるんです。
私はとにかく歯学部に進みたかったんです。慶応と慈恵医大が目標で現役の時はその2校しか受けませんでした。そして2校とも落ちたら、父親が「全寮制の医学部専門予備校があるからそこに入れ」です。今どき全寮制の予備校があるなんて、信じられなかったですよ。目の前が真っ暗になりました。現役で合格していれば大きい顔ができたし、合格プレゼントでハワイにも行かせてくれる約束だったんです。そんなバラ色の夢はどこかに吹き飛んでしまって、自由のない全寮制の生活が待っていたわけです。
そこでは朝7時のラジオ体操に始まり、一日中勉強勉強の生活です。生活のリズムは軍隊に似ているんじゃないかと思います。朝起きる時間から、食事の時間、風呂の時間まできっちりと決まっているんです。夜11時が消灯の時間ですが、1時や2時まで勉強している奴がいました。
部屋は一応個室なんだけど、三畳間です。しかも窓の外に見えるのが墓地だたんです。こんな世界にいるのは厭だ、何が何でも来年は合格しなければ、と必死になりました。もし落ちたら、また地獄を味わうことになりますから。
一浪した末、慶応と慈恵医大の医学部、そしてO大の歯学部などを受けました。医学部は二つとも落ち、合格したのはO大の歯学部だけです。「来年も医学部を受けるか?」と父親は聞きましたが、とてもそんな気にはなれません。地獄は一年でたくさんだから、結局O大の歯学部に入るしかなかったわけです。
…解剖には献体された遺体を使います。医者の用語でライゲといいますが、大学病院の地下にある部屋にストックされています。その部屋にはアルコールを満たしたプールがあって、そこにライゲがぷかぷか浮いているんです。解剖学の講師に「君たちは15番のライゲを持って来なさい」そう言われて取りに行きます。ライゲはプールの中に十数体浮かんでいました。1年も2年もストックされているんです。プカプカ浮いていている姿を見た時は衝撃でした。でもこれが医学の道なんだと自分に言い聞かせたんです
…解剖実習は女の子であろうとしなければなりません。ほとんどの子は私たちと同じように最初は気味悪がりますが、2週間もすると慣れてくるものです。ただ一人だけ、実習が終ってから退学してしまった子がいました。その子はとても可愛くて子供っぽいぐらい。何でこんな娘が歯学部に入ったんだろうと思っていました。
医学部や歯学部に入ってくる女の子って、表面はおとなしくても芯が強いっていうか気が強いもんなんです。ところが彼女はキャピキャピしていて女子大生のノリだったから目立ちました。そういう性格だったんで解剖でショックを受けてしまいノイローゼになって精神科に通っていたそうです。
結局耐えられずに辞めてしまったわけです。将来私に子供ができても、女の子だったら医学部や歯学部に入れるつもりはないですね。あるタイプの女の子には向かない職業といってもいいんじゃないかと思いますから。仕事としては精神的にも肉体的にもハードですし、偏見といわれれば確かにそうなんですが、これが歯科医の実感です。
『私は悪い歯医者』
女の歯科医は要注意である。男の歯科医なら残す歯でも、女の歯科医は抜いてしまう。私の友人も超短波スケーラーという歯を掃除するという器具で歯ぐきを切られ、10か月ぐらい経ってから奥歯から動き出し2年たった今では9本の歯を失った。損害賠償を請求しようと弁護士に相談したら、裁判費用が60万円かかるといわれたという。裁判する場合はセカンドオピニオンといって、なぜこうなったのかという理由をもう一人か二人の歯医者に診断書に書いてもらうことが必要で、それが裁判の勝敗を決するということである。しかし他の歯科医も超短波スケーラーを使うので、これが原因だとは言わない。歯槽膿漏です、とか歯周病です、としか言わないので、結局泣き寝入りすることになる。
2010年03月07日(日) |
ピラミッドはだれが作ったのか |
例えば三大ピラミッドは、それぞれ伝統的に第四王朝のファラオであるクフ、カフラー、メンカウラーの王墓とされてきた。だが、ファラオの遺体は何一つの発見されていない。大ピラミッドの「王の間」の上部にある空洞には「粗雑に塗られた落書き」があり、その文字こそがクフ王に所属する証拠だと見られてきたが、実際にその見解を裏付けるようなものはない。
大ピラミッドにはこれ以外に全く碑文がないが、それはカフラーとメンカウラーのピラミッドでも同じことだ。さらに大ピラミッドの脇にある三つの小さな「衛星」ピラミッドや、メンカウラーのピラミッドの脇にある三つの小さな衛星ピラミッドにも全く碑文が書かれていない。六つの衛星ピラミッドの中からは、第四王朝時代の遺品が見つかってはいるものの、それが遺跡が建造された時代のものかどうかは定かでない。
それは葬祭殿で発見されたメンカウラーの彫像や、河岸神殿で発見されたカフラーの彫像でも同じだ。これらの彫像こそ碑文もなく、作者不詳の大建造物をファラオと結びつける唯一の証拠である。だが論理的には、ただ結びつきを示唆しているにすぎない。裏付けにな成っていないのだ。言いかえれば、カフラーとメンカウラーが神殿を築いたかもしれない。だが、可能性は他にもある。
以前から存在していた建造物を遺産として受け取り、修復した上である目的を持って自分たちの彫像を作ったとも言えるのではないか。考えてみれば、ロンドンのトラファルガー広場にネルソン提督の彫像が立っている」からといって、広場の建物をネルソンが建てたものだとは誰も思わないだろう。
エジプト学者は河岸神殿でカフラーの彫像が見つかったからといって、この神殿をカフラー王が建てたと主張するがこれは行きすぎではないだろうか?事実、これはギザのネクロポリス全体に対して言えることなのだ、第四王朝と関係があることに疑いの余地はない。だが、どんな関係であったかはまったくさ証明されていない。
碑文がたくさん書き込まれた第四王朝時代のマスタバ墳墓が、大ピラミッドの東と西、スフィンクスの西に大量に存在するのは事実だ。だが、スフィンクスが「単なる墓でしかない」というのはまったくの推量にすぎない。世界中の遺跡を見てもわかるように、ある目的で作られた太古の聖なる場所が、別の人々にはまったく別の目的で再利用されるのはよくあることだ。
例えば、ピラミッドとその周辺の遺跡は、もともと純粋に葬儀や儀式、宗教の行事を行なう場所だったかもしれない。遺品から判断して、周囲には主に第四王朝の王妃や貴人の遺体が埋められているが、最初に建造された時とは何ら関係がなく、太古からの有名な聖地だというので埋葬したことも考えられる。
欧米では現在でも、中世の大聖堂に知遇を得ていた個人が、その庭に遺体を埋葬する習慣がある。しかし、だからといって大聖堂が墓であるとか、埋葬のために造られてという結論にはならない。
『創世の守護神』
ピラミッドは宇宙人がつくって、その中に後世のエジプト人が王のミイラを入れたのだろう。ピラミッドを構成する一個数百トンから2.000トンもの石は、現代のクレーンでも持ち上げられないという。また石切り場から運ぼうにもびくともしないだろう。内部に長い通路があるが、その直線の誤差は数ミリということだ。ピラミッドの頂上で、時々止まっているUFOが見られるという。エネルギーを充電しているのではないかといわれている。
かって、1968年のメキシコ五輪で、注目すべき事件がおきました。男子陸上200メートル競争で、当時の世界記録で優勝した米国の黒人アスリート、トミー・スミスと、同じく米国代表の黒人選手で3位となったジョン・カルロスが表彰台でアメリカの国歌が流れる中、星条旗に向けて拳を突き上げたのです。
顔はうつむいたまま、靴をはかず黒いソックスと手袋をはめていました。lこのとき米国は公民権運動の真っただ中。黒人差別の悲惨な状況を世界に訴えるための行動でした。二人は当時、メダルをはく奪されるなどの制裁を受けましたが、現在では、出身大学に銅像が建立されるなど、差別問題に敢然と立ち向かった信念が評価され始めています。
五輪というのは、場合によってはそれだけの主張を世に発信できる場でもあります。それに比べ、今回の国母騒動の何とだらしないことか。やはり国母選手は、「五輪出場者」としての自分に無自覚でありすぎたと感じるのです。
私たちは、彼の周囲の大人たちが「オリンピックのドレスコード(服装規定)とは何か」を説けなかったことと同様、若者たちに「自覚」を促せずにいるという社会の現状に気づくべきなのです。
週刊現代
どの集団にも必ず一人は“はみ出し者”がいる。それにしてもマスコミは第四の権力といわれるだけのことはある。彼の映像のクローズアップが騒動のもとになった。NHKはさぞ喜んでいることだろう。
1993年の3月5日、ニューヨークの出来事です。夕方の6時ごろ明菜さんから「今すぐ来て」という電話がありました。その前に、アメリカでのコーディネーター・三木(孝介)さんからも「明菜さんの具合が悪いので様子を見に行ってください」と電話で言われていたので、私は大急ぎでニューヨークの8番街にある彼女ののマンションに向かいました。ニューヨークの冬は寒さが厳しく、冷たい風がビルの隙間を擦り抜け地面に吹きつけていました。
明菜さんの部屋につくと、彼女はリビングのソファーにうずくまっていました。「どうしたの?」「胃が痛いの」明菜さんはよく胃痙攣を起こし、気分が悪くなったり胃の痛みを訴えたりすることが多かったので、私は彼女の横に座り、「痛い、痛い」というところをさすってあげました。
しばらくして落ちつくと彼女は、今まで何回か彼女から聞かされたことのある「病気」の話をし始めました。生まれた時、彼女は未熟児でした。その頃から彼女は体が相当に弱く、いつも熱が出て体力がないので、ある日病院で皮下注射をされたそうです。それが左の腰あたりで明らかに失敗だったようです。その医療ミスによって彼女はずっと左足が悪く、足を引き摺って歩いたり、疲れると痛くなったりするのです。
カラオケに行ってもボックスに長時間座っていられず2時間くらいすると、ソファーから降りて床に正座したりすることもあるのです。ドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系)を収録していた時もそうでした。彼女はダンサーの役でしたのでかなりハードな踊りをします。収録が終わるたびに脚が動かないと言っていました。バターンと仰向けに倒れたりすることも、よくあったそうです。
千葉の幕張メッセでコンサートをした時もそうです。舞台に立てば彼女もプロですからシャンとするのでしょうが、終わった後救急車で運ばれました。幕が閉まった直後その姿勢のまま真うしろにバターンと倒れていたというのです。一緒にニューヨークの街を歩いていてもそうでした。「明菜さん、足を引き摺っているんじゃない?」と聞くと「お母さん、痛いの」と泣き出しそうな顔をしていました。
明菜さんはその頃私のことを「お母さん」と呼んでいました。「病院に行きなさい」「うん、でも病院に行ったら、歩けなくなるかもしれないって言われたの。だから怖くてもう行けない」彼女の脚に関しては日本でかかり付けの先生がいると聞きました。彼女の脚は年齢を重ねるごとに、ひどくなるらしいのです。
だから「私はもしかして、歌手もダメじゃないか」という不安が、彼女の中にでとても大きな影を落としていたのです。「お母さん、私、もしかして歌えなくなるかもしれない。足が動かなくなったら、どうしよう。歩けなくなるかもしれないって言われたし……」そういう彼女を、私が叱咤激励しても「続けられなくなるかもしれない。お母さん、脚が動かなくなったらどうしよう」と泣くのです。
その日彼女は黒のスパッツに薄手のブラウスを着ていたのですが、その上から「ここよ。ここに注射をしたの。それで、失敗して固くなったの」と私に示したのです。ちょうど左の腰骨の下あたりから大腿部にかけて、触ると本当にカチカチに固くなっているのです。右側の同じ場所は普通で柔らかいのですが、左側は本当に驚くほど固いのです。
カチカチに固まった皮膚を、私はさすったり揉んだりしてあげました。少し柔らかくなったかなと思っても、やはりすぐ固くなってしまいます。20分ほどすると、彼女は私の膝に頭を乗せたまま眠ってしまいました。足を動かすと彼女を起こしてしまうと思い、私はそのままの姿勢で膝枕をし、彼女の腰や足をさすり続けました。
すやすやと寝息をたてて眠る彼女を見ていると。ふと彼女の頬に一本の涙の跡があるのに気がつきました。体が痛くて泣いていたのでしょう。歩けなくなることが不安で泣いていたのでしょうか。それとも何か他の理由でもあったのでしょうか。彼女のことを想うと私も目頭が熱くなってしまいました。(彼女のために、何か私にできることはないかしら。何とかして、彼女に幸せになってほしい……)
私はぼやけた視界のまま、彼女の固くなった脚を一生懸命さすっていました。
「悲しい性」
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