加藤のメモ的日記
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篤姫は1836年、薩摩藩士島津忠綱の長女として生まれた。兄が二人いた。幼い頃から強靭な体躯と明晰な頭脳、向学心を持ち合わせ、もし男に生まれていたならといわれるほどの娘だった。1853年、島津家の名君といわれる島津斉彬にそのすぐれた天分を認められ、斉彬の養女となった。彼女は忍耐力があり、人と接するのが巧みという斉彬の人物評であった。この養子縁組は、篤姫を徳川将軍に輿入れさせる布石だった。島津斉彬から、一橋慶喜を将軍とするよう使命を帯びていた。
13代将軍徳川家定は子供のようで将軍には向かないとされていたが、篤姫は21才の時、家定の正室となった。しかし婚礼を挙げてわずか1年半、8月に家定は病死してしまう。7月には斉彬が亡くなった。篤姫は23才で髪を下ろし、天璋院と名乗る。斉彬は家定の病弱さを予知していたようで、篤姫を幕府内に送り込み、次の後継選びを優位にとの秘策を練っていたようだ。この頃、日本は尊皇攘夷の気運が高まり、弱体化していた幕府は家茂の正室に皇女を降嫁して戴き、公武一体で政局を乗り切ろうと画策していた。その時、白羽の矢が立ったのが、孝明天皇の妹君・和宮であった。
しかし和宮には6歳のときからの許婚「有栖川たる仁」がおり、たる仁を慕う和宮はこの縁談に強硬に反対した。しかし幕府側からの熱心な申し入れに、遂に和宮は縁談を承知する。しかし和宮は皇室の風習を大奥に持ち込むことを降嫁の条件とした。これを機に、徳川の気風を重んじる天璋院派と、京風を誇示する和宮派との争いが始まった。
朝廷側にも幕府を利用して攘夷をとの企みもあり、女同士の意地と政局上の策略が絡み合い大奥は前代未聞の大騒ぎとなった。しかしこの争いも攘夷から倒幕への時代の波に飲み込まれる。家茂は慶応二年、長州との戦中に、わずか21歳で大阪で逝去した。続いて慶喜が15代将軍となるが、倒幕の波を止めることはできず、遂に大政奉還を迎える。この時、鹿児島からは西郷率いる薩摩軍が江戸城攻撃のため、三方向からあと10キロの地点に迫っていた。この時篤姫・天璋院は地元薩摩軍の西郷隆盛に、江戸城攻撃を思い止まらせる1300字の手紙を出し、平和的解決を促した。そしてそこで軍は止まった。
1868年4月11日、江戸は無血開城となった。一般的には勝海舟と西郷隆盛の会談で無血開城となったといわれている。歴史の教科書にもそう書いてある。しかし別の視点から見ると様相が違う。歴史は多面的に見ることで立体的になる。無血開城された後、和宮は京都に帰京した。篤姫は大奥時代のお付の人たちを世話しながら、徳川の世継ぎ家達を育て上げた。やがて東京へと遷都されるのを機に、和宮も再び上京した。自分の最後には夫である家茂の墓に共に供えて欲しいと願い、明治10年に永眠した。
篤姫も徳川家が公爵の称号を得るのを見届け、明治17年激動の生涯を閉じた。48歳であった。30年間鹿児島へは一度も帰らなかった。篤姫が嘆願書を書いた理由は、男に人材がいなかったから、とされている。
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