2021年01月31日(日) |
84歳のタブレットデビュー |
携帯用URL
| |
|
84歳の母にタブレットを買った。理由は、スイス在住の孫とテレビ電話で話がしたいからである。母にはオレを含めて3人の子(男2女1)がいるわけだが、孫は5人(男3女2)いる。その孫娘うちの1人がスイス人と結婚してベルンに住んでいて、国際電話では料金がかさむのでLINEを使ってテレビ電話でおしゃべりしたいということになったのである。
母は携帯を持っていない。LINEのIDを取得するためには携帯番号が必要だ。しかし、固定電話でも音声で認証番号をもらえるということで、我が家の主に母が使う固定電話で認証し、IDを入力して使用開始したのである。
LINEのお友達のところにさっそくスイスの孫娘1を登録し、日本にいるもう一人の孫娘2も登録した。するとすぐに孫娘2からスタンプで「おおー」と返ってきた。これから母はLINEでのコミュニケーションの世界にハマっていくのである。84歳のデジタルデビューである。
タッチパネルの操作にもこれから自然になれるだろうし、いずれその画面を見ることがいろんな楽しみへとつながっていくだろう。YOUTUBEなんかも楽しむようになるだろう。今は韓流ドラマをよく観ているが、そうした余暇の使い方も変わってくるかも知れない。
母はよく数字のパズルとか、漢字クロスワードとかで遊んでいる。ボケ防止ということなんだが、ボケ防止に一番有効なのは家族との会話であるとオレは思っている。そこで新しい情報を積極的に吸収してそこから刺激を受けることが大事なのだ。
ちなみにタブレットは10.1インチの画面で、持ち運ぶことを考えればそのくらいがちょうどいいかと思ったのである。楽天市場の通販でスタンドにもできる手帳型の専用カバーを購入した。あとはこれから少しずつ使い方を覚えていってもらうだけである。カバーにはタッチペンが付属する。指先での操作が苦手な老人にはタッチペンでの操作はちょうどいいかも知れない。
ライフスタイルの変化で三世代同居なんて家庭は激減した。我が家も息子たちはもう独立してしまい、広い家を持て余すようになった。この家でまだ幼い息子たちが私の両親と一緒に過ごしていた時間というものはもう二度と手に入らない宝物のような時間だったのである。
オレの父が最期の時を迎えて入院したとき、沖縄からわざわざ帰省した孫娘が食事介助をしていて、仕事を終えてから病院に来たオレはその場面に遭遇してわけもなく涙が溢れたことを思い出す。今84歳の母はいつまで元気でいてくれるのだろうか。これから後の時間をどのように過ごすのだろうか。
←1位を目指しています。
2021年01月29日(金) |
テロ国家中国を排除せよ |
携帯用URL
| |
|
特定の国や地域に対して「戦争をする」と宣言している国家を世界は認めるのか。中国国防省の報道官の発言を聞いてオレはものすごく腹がったのである。このような国家を断じて許してはならない。「戦争をする」ということは、その地域に住んでいる人に対する無差別テロを宣言しているのに等しいのである。匿名掲示板に殺害予告を書いてるのと同じだ。
記事を引用しよう。
中国国防省「台湾の独立は戦争を意味する」© NNN 中国国防省「台湾の独立は戦争を意味する」
アメリカのバイデン政権が台湾との関係を重視する姿勢を打ち出す中、中国国防省は「台湾の独立は戦争を意味する」と強くけん制しました。
中国国防省の報道官は28日開いた会見で、台湾海峡で行っている中国軍の軍事活動について、アメリカを念頭に外部勢力の干渉と「台湾独立」勢力の挑発に対する厳正な対応であると表明。その上で、「台湾の独立は戦争を意味する」と、これまでにない強い表現で関係強化を進めるアメリカと台湾をけん制しました。
アメリカはトランプ前政権のもと、武器の売却や政府高官の訪問など台湾との関係強化を進めてきました。バイデン政権も台湾との関係を重視する姿勢を示していて、中国は神経をとがらせています。
台湾は中国の一部などではない。独立国家である。習近平という独裁君主に支配された独裁国家の一部などではなく、民主的に選出された代表が議会を通して政治を行うすぐれた民主国家である。日本のような文字もろくに読めない馬鹿が総理になってる国とは大違いのすばらしい国だ。隣国の新型コロナウイルスに対してしっかりと水際防御を成功させ、徹底した感染対策で抑え込みに成功したすぐれた国家である。世界のどこにこれほど立派な国があるだろうか。
中国がウイグル自治区で続けているウイグル族への弾圧や虐殺に関して世界の多くの国が非難しているが、日本政府はその問題に関して「傍観」という態度を示した。これはいじめが起きているときに見ていて何もしないのと同じであり、実質的に加害者であるということである。オレはそのことを日本国民の一人としてたいへん恥ずかしく思っている。政権中枢に二階俊博のような中国の回し者(売国奴とも呼ぶ)がいて、そいつが権力を握ってるからと忖度して中国を批判しないというのは、いじめっ子を恐れて傍観するのではなく、いじめっ子の取り巻きとして行動しているのと同じである。
中国は決して日本の友好国ではない。日本の領土である尖閣諸島に対して堂々と領有宣言しているという点で明らかに敵対国家である。そんな無法国家に対してどうして忖度する必要があるだろうか。
ただ、中国共産党は日本に敵対しているが、中国人民は日本人の敵ではないということは忘れてはならない。国と国が戦争したとしても国民同士は何も戦う必要はない。第一次大戦の時に欧州では塹壕に籠って戦う前線の兵士たちに厭戦ムードが高まったということがあった。戦争は指導者の罪であり国民とは本来関係ないものである。国家総動員なんてことで戦わされる国民はいい迷惑なのである。やりたいなら国家の指導者同士がステゴロで決着つければいいのである。誰も柔道家のプーチンには勝てないのである。そうなるとロシアが世界の覇者になってしまうが、核戦争なんかが起きるよりもずっとマシなのである。
←1位を目指しています。
2021年01月28日(木) |
菅義偉という無能な男 |
携帯用URL
| |
|
収入の道を絶たれて困窮している国民を救うのは政府の役割である。今の状況はもはや「自助」でなんとかなるものではない。ところが菅義偉は野党議員の質問に対して「生活保護を活用して」と答えたのである。政治の責任を完全放棄したこの発言にオレはあきれている。
菅義偉は日本丸という船の船長みたいなものである。今、嵐の中で船はコロナ禍という波にもまれて沈みかけている。乗客は必死で振り落とされまいとしてしがみついてるのだが、力尽きて海に投げ出されるものが後を絶たない。それが今の日本である。
その船の中で、酒を飲み贅沢な食事をしながら「落ちるやつはほっときましょう」と平然としてる連中がいる。二階俊博をはじめとする自民党の政治家たちである。いくら乗客が振り落とされようと平気なのである。これは「タイタニックは沈まない」と安心しきっていた人たちと似ている。
しかし、このまま行くと日本丸は沈むかも知れないのだ。医療崩壊が進めば救急車が行き先を失い、交通事故が起きても運ぶ病院もなくてそのままケガ人が死ぬことになるのだ。もう運べないからと道端でそのまま放置されてしまうのだ。現にコロナ陽性のままで家で亡くなる人がすでにたくさん出ているじゃないか。もう医療崩壊しているのである。自分たちは安全と思っている政治家たちは、街のそこら中に治療を待つ病人が倒れてる状況下でも自分たちは安全と思ってるのだろうか。
生活保護を受給させるということは、さきほどの船のたとえで言うと「救命胴衣」みたいなものである。船から落ちたらどうしたらいいかという場合を述べているのだ。船長が最初から「沈んでも大丈夫、救命胴衣があります」などと発言してもいいのだろうか。少なくとも船長ならば、船が沈まないように全力を尽くすべきではないのか。オレはこの「生活保護云々」の発言に本当にあきれたのである。この老人には一国の宰相としての器がないことをはっきりと知ったのである。いますぐお前のような無能な老人はその場を降りろといいたいのだ。
今入院できずに亡くなってる大勢の人をどうやって救えばいいのか。どうすれば民間の病院がコロナ患者を受け入れてくれるのか。そんなこと簡単だろう。じゃんじゃんゼニを出せよ。コロナ感染リスクを忘れられるような大盤振る舞いしてやれよ。退職してる看護師が職場復帰するなら一人100万円くらい一時金を出せよ。志願してコロナ病院に来てくれる人に支度金100万円と、二倍の報酬が得られるようにもともとの月々の給与相当額を国から出せよ。ブルーインパルスを飛ばしても疲れが吹っ飛ぶわけではないんだ。励ましの言葉なんかもらっても気休めだ。そんなことよりもgo toの残りの予算の1兆円以上のゼニを全部医療従事者に配れよ。なんでそんな当たり前のことがおまえらにはできないのか。どうしてそんなにやる気がないのか。
コロナ収束の日まで、毎月10万円を国民に支給し続けるということにすれば安心して店を休業できるのだ。大学生はバイトではなく学業に専念できるのだ。失業した人も一息つけるのだ。どうしてそんなことができないのか。国は国債を発行してその予算にあてればいいだけじゃないか。その国債はどうせ日銀がみんな買ってくれるから実質無限に発行できるじゃないか。インフレを懸念する必要などどこにもない。バブル崩壊後国の借金はずっと増え続けたわけだが、ずっとデフレのままだったじゃないか。インフレにできるものならしてみやがれとオレは言いたいのである。
今の自民党には危機管理能力も政権運営能力もない。しかも国語力もない。「募ってはいるが募集はしていない」と言った総理とか、「一緒の部屋にいたが一線は超えてない」といった尻軽女とか、「高級クラブには行ったが酒は飲んでない」と語った自民党議員とかを見ていると、ここまで言葉の魂を踏みにじった連中に対して強い怒りを覚えるのである。
全国民に給付金を出せよ。オレにも毎月10万円出せよ。ホームレスにも赤ちゃんにもまんべんなくゼニを配れよ。インフレにしてくれよ。住宅ローンを抱えて苦しんでる人の借金を軽くしてやれよ。貧乏な大学生の奨学金をチャラにしてやれよ。加計学園みたいに文部科学大臣に賄賂を贈って国から補助金もらうようなクソ大学はどんどんつぶせよ。この国に正義を取り戻せよ。安倍晋三を逮捕しないような検察の連中は職務専念義務違反で全員免職にしろよ。
無能な人間が総理の地位にいるために大勢の人が死ぬ今の日本の状況はまさに人災である。能力のない議員はみんな辞めてくれ。
←1位を目指しています。
NHKの番組『逆転人生』で大阪府立西成高校のことが紹介されていた。教育困難校が「反貧困教育」を通じて生徒に学ぶ意欲を与え、就職率100%を達成する感動的な実話だった。生徒の家を家庭訪問し、学校に来られない理由を一緒になって考えて解決し、親に捨てられた子どものために行政と掛け合って生活保護の受給を認めさせて退学せずに学べるようにするというあたりは本当に素晴らしい取り組みだと思った。
何かを達成したからといってそれで特別にボーナスが出るわけでもない、橋下徹のせいでボーナスはカットされている。給料も減らされたわけで大阪の公務員はそれほど待遇的に恵まれているとも言えない。そんな中で働く大阪の公立高校の先生が、ここまで献身的に生徒のために働いていることをどうして知事は称賛しないのか。
オレは吉村知事のツイッターのアカウントをフォローしている。吉村はこの日本中に発信しないといけない西成高校の奇跡の取り組みに関して、全く無関心だった。何も発言しなかったのである。自分をdisる発言にはすぐに噛みつくくせに、大阪の価値を高めるこの番組のことに関しては何も触れなかったのだ。理由は簡単である。吉村は心の中できっと「西成のセンコー、余計なことしやがって」と思っていたからである。そんなふうに教育困難校が次々と再生していけば、維新のこれからの重要なシノギである「学校をつぶして土地を売り飛ばす」というビジネスモデルが成立しないからである。教育困難校をどんどんぶっつぶすことがおそらく維新の政策だからだ。
番組の中ではシングルマザーになった高校2年の女子生徒が出てくる。子育てと学業を両立することはどれほど困難なことだろうか。西成高校の教師たちは彼女をちゃんと卒業させ、就職を紹介して自立できるように支援したのである。女子高生が妊娠したら中絶させるか退学させるというのが今の高校のスタンダードな対応だ。そうして中退で放り出された女性はその後どうやって生活を築いていけばいいのか。
こんなすばらしい取り組みがあるのに、維新の会はそれを「維新の会の実績」という形では紹介していない。確かに維新の会は何もしていないし、どちらかというと足を引っ張りそうだ。だから勝手に実績にされても困るのである。ただ、この学校再生は少なくとも維新府政の中で起きたことである。維新のやった民間人校長とかの、パワハラ教育長の登用とかとは無関係に現場の先生方の努力で実現したことである。自分たちとは無関係な前市長の業績まで「維新の業績」とデマをばらまく連中が、明らかに維新府政の時代に起きたことなのにこの西成高校の実例を紹介しないのは、オレの憶測通りにこれが維新の会にとって都合が悪いことだからである。
若者は賢くならないといけない。きちんと投票して自分たちのために働く政治家を選ばないといけない。「やってる感」しか出さないペテン師を見抜き、自分たちを搾取することしか考えてないクソどもを政治の世界から追放しないといけない。西成高校はそうした「生きる力」を生徒に与えてる点で実に素晴らしい。同じ教師でもオレのようなただの罵倒野郎とは違うと思ったのである。オレは恥じ入ったのである。
←1位を目指しています。
2021年01月24日(日) |
映画『ひとくず』〜本当のクズは誰か? |
携帯用URL
| |
|
MOVIX堺で映画「ひとくず」を観てきた。監督、脚本、主演を一人でこなす上西雄大さんの圧倒的な演技力、そして迫力に圧倒され、117分の中で何度も涙を流さずにはいられないみごとな作品だった。
殺人事件を起こして長く刑務所にいた人をたとえば役所広司が演じるならば、おそらく「心優しい元受刑者」という描かれ方になるだろう。しかし、「ひとくず」の主演のカネマサは暴力的で、乱暴で、とにかくクズだ。こんな人間とは絶対に関わりあいになりたくないと誰もが思うように描かれている。
カネマサの仕事は空き巣狙いである。彼がある日ガラスを割って侵入した部屋には、電気も止められた真っ暗な部屋でゴミに埋もれるように身を隠している小学生の女の子がいた。部屋には何も食べ物がなく、何日も食べてない少女にカネマサはサンドイッチやジュースを買ってきてあげる。少女の胸には母親の愛人の男に虐待されてアイロンを押し付けられた火傷があり、手の甲にはタバコを押し付けられた根性焼の跡がある。カネマサの手にも同じ火傷があり、彼はその少女にかつて母親の愛人から虐待を受けた自分の過去を重ねてしまう。
親に虐待されて殺される子どもが現実にはたくさんいて、死に至らなくても何らかの深い傷を心に負ってしまった無数の人がいる。それは決して目を背けることのできない日本社会の現実であり、正しく受け止めないといけないことなのだ。救いを待っている多くの子どもがこの世には存在する。
長年の間父親から性虐待を受けていたことを娘が訴えても、裁判でその父親が無罪にされることもあるのが日本の現実だ。大人の残酷な行為に対して世間はとにかく甘すぎる。そして目の前の子どもを救うには越えなければいけないハードルが多すぎる。もしもオレが隣家の虐待を知ってその子を守るために家で匿えば、児童誘拐犯人の疑いをかけられてしまうかも知れない。
虐待は連鎖する。子を虐待してしまう親の多くは、過去に自分が虐待を受けているという。そして貧困がそこに追い打ちをかける。やりきれない明日の生活への不安をついつい身近な存在にぶつけてしまう。DVや児童虐待の原因は、多くの人々が不安定な状況で働かなければならず、労働者の多くが搾取される構造の中にも存在する。当事者だけで解決可能な問題ではない。そして子どもと向き合う教師や児童相談所の職員の努力だけではどうにもならないことが多いのだ。
オレは定年退職して自由な時間が手に入れば取り組んでみたいことがある。それは塾に通うような余裕のない子供たち、虐待を受けて居場所のない子供たちのためが無料で学べる場を提供することだ。いじめを受けていて生きる希望を無くしている子どもたちに生きるための学力を与えることだ。知識や教養はよりよく生きるため、人生を豊かにするために必要なものである。学校や親がその役割を果たせないのならば、オレのような老人が何かできないかと思うのだ。
映画『ひとくず』は、豊かなはずの日本に確実に存在する子どもたちの置かれた悲惨な状況を多くの人に訴えている素晴らしい作品である。「鬼滅の刃」のような商業主義に堕した娯楽映画ではなく、この「ひとくず」をもしも100万人の人が観てくれたならば、それは世の中を変える一つの力となるはずである。
←1位を目指しています。
2021年01月21日(木) |
受験クラスターを防げるのか? |
携帯用URL
| |
|
2月になると大学受験のための大勢の受験生が東京や大阪といった大都市にやってくる。その期間のホテルはどこも大量の受験生がいる。1979年にオレが大学受験をしたとき、貧乏人のオレはなんと前日に東山ユースホステルに泊まって受験するというありえないパターンだったわけだが、まともな受験生たちはちゃんとホテルに泊まっていた。JR京都駅近くのホテルが1泊7000円で合格弁当付きという受験生パックを商品化していて、そいつらは京都大学の正門の所にホテルが仕立てた観光バスで乗り付けていた。ただ、その受験生パックの利用者の合格率はさほど高くなく、高校で同じクラスだった人も落ちたのである。すばらしい環境で受験した級友が落ちる一方で、ドミトリー形式のユースホステルというおよそ受験勉強に向かない宿を選び、しかも前日夜には「宇宙戦艦ヤマト」というアニメを視ていたオレが合格するわけだから試験というのは非情なものである。
今年の受験生はどんなホテルに泊まり、どんな戦略を立てているのだろうか。京都や東京という大学の多い街のホテルは受験生の宿泊でかなり混乱しているはずである。部屋で勉強するのに向いていることを売りにしているホテルなどはあるのだろうか、ビジネスホテルの机は狭くて勉強するにはとても不便である。ついつい有料TVでアダルト放送を見てしまう受験生もかなりいるだろう。その結果さらに悶々として落ちることになる馬鹿も絶対にいるはずである。それがいわゆる「自己責任」というヤツである。
それはそておき、そうして東京や京都、大阪などの新型コロナウイルス感染拡大地域に行くということは今の状況から考えるとかなりのリスクである。もちろん受け入れる大学も感染対策を徹底しないといけないので大変だ。横浜国大のように個別試験をやめてしまう大学が出てくることも納得できる。北海道大学とか、試験日直前に寒波がやってきて飛行機が飛ばなかったら受験生はどうやって北海道入りすればいいのか。津軽海峡を泳いで渡るわけにもいかないし、その時はもうどうしようもないのである。
おそらくどこかの大学で確実に「入学試験クラスター」は発生するだろうし、東京で市中感染することも防げないだろう。田舎者の受験生の中には受験の時に吉原とかススキノに繰り出すとてつもない馬鹿もきっといるはずだ。そこで誰かと濃厚接触して新型コロナウイルスに感染することになり、多くはそのまま無症状で地元へ帰ってくるのである。
1月はじめの感染爆発はクリスマスと忘年会が主原因だったとオレは思っている。そして3月に確実に発生する感染爆発は受験が理由である。この受験クラスターによってせっかくの緊急事態で少しだけ抑え込んだ感染者数が爆発的に増加するというのがオレの憶測なのである。
かといって入学試験を実施しないわけにもいかない。昭和44年に東京大学の入学試験が流れたために多くの受験生が代わりに京大を受験し、その結果として京大の価値観と相容れない変な奴が入学してきたというあの悲劇を繰り返してはならない。共通テストはむりやり実施されたわけで、入学試験もリスク覚悟でやっちゃうしかないのだ。絶対に中止できないのだ。
新型コロナウイルスの感染拡大を止める術はない。たった一つ方法があるとすれば国民全員に2〜3か月引きこもれるくらいのゼニを与えて、生命を維持する以外の最小限度の活動以外を休止させるしかないのである。冬眠政策である。それを実行しつつ、無症状感染者の発見を全力で行うしかないのだ。
軽症の感染者を収容するホテルがなくて自宅療養するしかないという。どうして全館を提供して国からゼニを受け取るというホテルが増えないのか。隔離に応じたら一日いくらというふうに日当が出る台湾のような仕組みにできないのか。
確実に起きる受験クラスターを前に、オレは自分の担任するクラスの生徒の無事を祈るしかないのである。
←1位を目指しています。
2021年01月19日(火) |
サケは川で散乱する |
携帯用URL
| |
|
国語の試験で漢字の書き取り問題を出題するとする。その時に注意しないといけないのはどんな誤答が出るかということを事前に予測できるかということである。たとえば「産卵」という熟語を答えさせる場合にどんな問題文にすればいいのか。理想的な問題文はこうなる。
鮭が川でサンランする。 (「サンラン」)を漢字で答えよ。
しかし、この問題に対して少なからずの生徒が「散乱」という答えを解答欄に書くことになる。「産卵」という答えを思いつかなかったのか、全く意味を誤解していたのかどちらかだろう。
もしかしたら音だけを理解して「燦爛」という答えを書く生徒もいるかも知れないが、たぶんそれは頭がおかしいヤツである。なんでそんな難しい漢字を書けるのに「産卵」が書けないのかということで変態認定である。
また「散卵」「産乱」という答もごくまれに発生するわけだが、そんな熟語はない。「産卵」と書くのか「散乱」と書くのか、迷いに迷った挙句にそのまま混乱して答えてしまったという可能性がある。時として人は思ってもみない文字を自動書記してしまうものである。7割と言おうとして「ナナナナナ」と言ってしまうどこかの国の総理のように、ついうっかり手が違う文字を書いてしまうこともあるだろう。
しかし、問題文の設定に誤りがあればどうなのだろうか。
問題文:鮭が川でサンランする。
例文1:鮭が川にサンランする。
問題文にある場所を表す格助詞の「で」を「に」に変えたとしよう。すると例文1になる。もちろん例文1であっても「川に産卵する」という鮭の本能について述べた文であるわけで何も問題ない。しかし、例文1で「散乱」という答を書いた場合にそれを誤答にできるだろうか。
「鮭が川に散乱している」という状況はありえない状況ではない。ヒグマが川を遡上する鮭を食いまくって、食い散らかされた鮭の残骸がそこら中に「散乱」しているような光景は決してないことではない。つまり、「散乱」は間違いとは言えないのである。
そこで「産卵」だけを正解にしようとする採点者は「常識で考えろ」と主張するかも知れない。しかし、知床半島で暮らしている人にとってはヒグマの食い散らかした鮭の残骸がそこら中に散らばってるのはもしかしたら常識かも知れないのである。
そういうわけで、この問題文の格助詞「で」「に」の違いはとても大きいのである。両者にはどちらも「場所」を表すという共通の用法があるのだが、「で」には特に「活動場所」を表す用法があってこれは「に」にはない。「塾で勉強する」とは言えるが、「塾に勉強する」とは言わない。その違いである。正しい日本語が使えるということは、このような助詞の微妙なニュアンスまで間違わないということなのである。
今の小学校での国語の授業の中で口語文法というのはどの程度教えられてるのだろうか。小学校の教員の中で正しく口語文法を指導できるレベルまで理解してる人は何割くらいだろうか。
まだ教員になったばかりの頃、同僚の女性教諭の家に招かれてその母親と挨拶した。翌日、職員室でうっかり私は「先生のお母さんは美人ですね」と失言してしまった。「は」には主語の明示だけではなく「区別」の意味がある。「お母さんは美人ですね」という言い方は言外に「ところがあなたはそうじゃない」という意味を内包してるのだ。だからそこでは「先生のお母さんも美人ですね」と「は」ではなくて「も」を使う必要があったのだ。その瞬間の同僚の不愉快そうな表情をオレは今でも覚えている。
「鮭が川にサンランする。」という問題文には欠陥がある。「に」を「で」に変えるだけでその欠陥は解消する。日本語というのは実に奥が深いのである。
←1位を目指しています。
2021年01月17日(日) |
震災から26年〜語り継ぐもの |
携帯用URL
| |
|
阪神大震災から26年目の朝、早起きしたオレは目覚めてすぐにテレビつけた。とちょうど神戸の東遊園地が映っていた。テレビから流れる音声に合わせてオレも黙祷した。26年経った今でもあの朝の衝撃は忘れられない。1分近い揺れの間、オレはこのまま家と一緒に押しつぶされて死ぬのではないかという恐怖を感じていたからである。
その後も日本ではさまざまな自然災害が起きた。東日本大震災の時は津波によって多くの犠牲者が出た。地震による津波で福島第一原発はメルトダウンした。東京電力が津波対策を十分にしていなかったために被害は甚大なものとなった。原発のメリットとデメリットを比較した場合、事故の起きたときのデメリットの方があまりにも大きいということを国民は十分理解したのである。理解していないのはいまだに原発利権にしがみついている自民党の議員と土建屋だけである。
昨年は豪雨によって人吉盆地や球磨川の流域が大きな被害を受けた。毎年のように台風や集中豪雨があり、大きな自然災害が起きるのが日本の宿命である。地震も定期的に必ず起きる。首都圏に起きる直下型の大地震は関東大震災以来起きていないのだが、いつ同じような規模の地震が起きてもおかしくないのだ。その時は日本経済はほぼ壊滅的な打撃を受けるだろうし、死者も10万人を超えるかも知れない。阪神大震災は未明に起きたのでまだ新幹線は動いてなかった、もしも昼間に阪神大震災が起きていたら、倒壊した高架橋から新幹線車両が乗客を大勢乗せた状態で脱線して転落していたのである。
今、日本株は政府の買い支えによって高値を更新しているが、もしも首都圏直下型地震が起きれば外資は一斉に売り手に回るだろう。持ち株の値下がりを恐れた個人投資家も狼狽売りするだろう。空売りで暴利をむさぼろうとするオレのような卑怯な投資家も全力で売るだろう。全銘柄が値幅制限いっぱいのストップ安で売買が成立しないということになるかも知れないのである。東日本大震災が起きたのが東証の終了時間の直前だったのに、そのわずか10分ほどのタイミングに東証では大量の売り注文が入ったことを思い出せばいい。
首都圏の直下型地震は必ず起きる。今高値で購入してローンを組んだタワマンが、倒壊して無価値になってローンの残債だけが残るということが必ず起きる。そのリスクがあるのに首都圏では今でもタワマンが売れ続けている。タワマンは地震に強いということだが本当だろうか。中規模のマンションは阪神大震災で大きな被害を受けた。今、関西でテレビCMをじゃんじゃん打ってるディベロッパーの販売するマンションが、実は阪神大震災の時に壊滅的打撃を受けていたことを覚えてる人は多いはずだ。家に住めなくなって新たに購入した家と、前の家のために残ったローンとの二重ローンに多くの人が苦しんだが国は救済しなかった。首都圏直下型地震で必ずそうした悲劇を繰り返されることになるだろう。
地震で死なないようにするためにはどうすればいいのか。防災教育には何が大事なのか。そこには確実な正解は存在しない。我々は日々経験の中で学んでいくしかないのである。そして、今のボンクラ首相ではとうていそんな災害には対処できないことを思うのである。
←1位を目指しています。
2021年01月16日(土) |
リニアもういらない |
携帯用URL
| |
|
JR東海が「のぞみ」の大幅減便を決めた。今運行中の「のぞみ」もほとんど空気を運んでる状態である。コロナ禍が終息した後、乗客は戻ってくるのだろうか。その時はもうすっかり生活様式が変化し、人々はリモートで多くのことを済ませられるようになり、大企業は役員会もテレビ会議でいちいち集まらなくてもよくなり、出張なんかも激減してるのじゃないか。アフターコロナの世界を考えたとき、中央リニア新幹線なんかに巨額の投資をしてもほぼ回収不能な気がするのである。そんなもの作るくらいなら国内線の飛行機に乗客を回せばいいじゃないか。
北陸新幹線が敦賀まで伸びるが、敦賀から大阪は特急サンダーバードが結んでいる。もしも東海道新幹線に何らかのトラブルが発生して不通になった時は、北陸回りや在来線でなんとかなるわけである。それでもリニアは必要なのだろうか。もうそろそろ「リニア辞める宣言」をすべきである。
大深度地下というのが危険なものだったことは調布市で次々と発生する陥没事故で明らかになった。地下に巨大な穴を掘って上で何も起きないわけがないのである。地上で起きた住宅の被害をすべてJR東海が補償しないといけないということになれば、被害規模によっては経営的に破綻することになるかも知れない。ここは勇気ある撤退が必要だ。JR東海のボンクラ社長にその勇気があるだろうか。
今のウイズコロナの世界というのは、ぼっちの世界である。「ぼっち食」「ぼっち映画」「ぼっち旅行」「ぼっち酒」こそが正しいとされ、集団での行動が厳しく規制される。5人以上の会食は禁止とか、集団での宴会は禁止という状況は当分の間続くだろうし、その結果生活様式が劇的に変化すると思われるからだ。
おそらくコロナ感染者を根絶するには4〜5年かかるだろう。その間人々はずっと耐えることを強いられるのである。たかだか一か月の緊急事態宣言が効果があるとは思わない。広島県が80万人の徹底検査を導入したところで他府県が何もしてないから無意味である。大阪の吉村知事などはテレビで放言するだけで、大阪が都道府県別死者数1位になってることをまるで他人事のように受け止めている。何の検証もせず「大阪は高齢化率が高い」とか「大阪は三世代同居が多い」などと思いつきで語っている。ちゃんと細かいデータに目を通したことがあるのか。
まあ吉村洋文に限らず、日本中の政治家はオレに言わせればほとんどがボンクラだ。そんな連中が指揮していてまともな効果が上がるはずもなく、精神論だけで勝てると思った旧日本軍のようになっていくことはもう逃れようがない。戦争で一番情けない負け方は大将が馬鹿だから負けることである。今の日本はまさにその状況である。
それなのに、リニア新幹線とか大阪万博とかは何の見直しもされずにそのまま進められているのである。静岡県の水源にあたる山をぶち抜いてトンネルを掘れば、必ず大井川の水量などに影響するだろう。静岡県知事の抗議はもっともなことである。ここはルートを変更して静岡県を通過しないようにするしかないのである。いっそのこと諏訪経由で大幅遠回りにすればいいのである。そうすれば新たな地域の振興策になるのだ。
このままリニア建設を強行すれば建設費が回収できないわけではなく、それは新たな負の遺産となって国民負担につながるだろう。そんな先のことも見通せないのが今の政権与党であり、利権にまみれた政治家たちなのである。そういう売国野郎たちのせいで日本はこのままどんどん滅びていくのだ。世界中で化石燃料の使用が停止された頃には、日本は貧困と飢餓の大国になってるかも知れない。
←1位を目指しています。
2021年01月13日(水) |
文学の教養について |
携帯用URL
| |
|
オレはクルマを運転中によく古い歌を聴く。森田童子の「孤立無援の歌」という曲の歌詞には「孤立無援の思想」(高橋和巳)が出てくる。昭和の時代に京都大学で学生生活を送った私にとって、高橋和巳を読んでいることは至極当然のことであった。今の若者で高橋和巳を読むものなどほとんどいないだろう。
渡辺美里の「BOYS CRIED ~ あの時からかもしれない」という曲の歌詞には「The Catcher in the Rye」というJ.D.サリンジャーの本の題名が出てくる。高校生の頃に英語教師から「きみはこの本の主人公みたいだね」と言われて読んだことを思い出す。そうした一種の「本歌取り」のような技法は、「歌詞」という限られた文字数の中で多くの情報やイメージを詰め込むために有効だ。もちろんそれは本の題名ではなくて、特定のブランド名や固有名詞であってもいい。山口百恵が歌詞の中で「真っ赤なポルシェ」と歌ったことも、そういうクルマに乗ってるのはどんな人間なのかというイメージがおそらくは聴き手に共有されているから意味が通じるのである。
そうした「本歌取り」を最近の歌が使わなくなったのは、おそらくは意味が通じないということなんだろう。映画「天気の子」の中で主人公が「The Catcher in the Rye」のペーパーバックを持ってるシーンがあるが、あの映画の観客でその意味に気が付いたのはオレ以外にはごくわずかしかいなかったと思われる。
本を全く読まないような教養のない人間とはオレは付き合いたくない。逆によく本を読んでいる人とはいろんな話がしたくなる。その人の書棚にどんな本が並んでいるかということはその人の性格や嗜好を理解するための参考になる。これはとても大切なことである。
もちろん紙の本でなくてもタブレットの画面でも本は読める。しかし、書物として物理的に存在することとは意味が違う。オレの家には大量の本があるが、おそらくオレが死んだあとはこの本の多くは廃棄されてしまうのだろう。さまざまな文学全集や古典文学大系などというものは検索の便利さを考えればデジタルデータの方がはるかに使いやすいわけで、もはや紙の本の出番はない。遺品整理の業者はその本の多さに文句を言い、高価な費用を請求するだろう。
オレの二人の息子たちはどちらも学者になるどころか本もほとんど読まない。オレの父親は読書好きでオレにもその血は流れていたが、三代続くことにはならなかったのである。そしていずれ日本人の生活習慣から「読書」という生活様式がどんどん失われていくのだろう。今は維新の会のような「反知性主義」「学問・教養の軽視」ということを党是とするような政党が大阪を支配しているわけだが、このまま彼らが権力を握る限り大阪の未来はDQNの天下となってしまうのである。
滅びゆく旧時代の人間としてオレはこのまま年を取っていく。最近物忘れもひどくなってきて、もしかしたら認知症の入り口にすでに立っているのかも知れない。今のうちに思ってることや考えてることをどんどん書き残して、デジタル遺品としてWEB上に記録していくしかないのだろうか。noteのサービスはいつまで続いてくれるのだろうか。
←1位を目指しています。
2021年01月12日(火) |
タトゥーと入れ墨 |
携帯用URL
| |
|
大みそかのボクシングの試合で井岡一翔のタトゥーが露わになったことが問題になっている。ボクシングの興行というのは昔から暴力団と関係が深く、暴力団はボクサー崩れを用心棒として雇い入れたりしたのである意味引退後の再就職先でもあったのである。今から30年くらい前ならリングサイドは暴力団関係者で埋まっていたものである。
日本ボクシングコミッション(JBC)が暴力団排除という方針を打ち出した時、選手に対して入れ墨(タトゥー)の禁止というルールを課したのはある意味当然のことだと言える。今でも「入れ墨」=「ヤクザ」というのが世間の感覚であり、ボクシング選手に対して入れ墨禁止とすることは試合がテレビ中継されることを前提にすれば納得できるルールである。海外では「タトゥー」=「ファッション」だが、日本では「入れ墨」=「ヤクザ」であるからだ。温泉施設の多くがタトゥー禁止にしてるのも暴力団排除という流れである。たとえ有名作家の吉本ばななであってもタトゥーをしていれば温泉施設には入れなかったのである。
井岡一翔は「タトゥー禁止」というルールは理解していた。それでタトゥーの上にすぐに汗で流れるように薄くファンデーションを塗っていたのである。試合が進むにつれてどんどんそれは露わになった。
さて、ここで世間の反応を見ると「タトゥー禁止というルールは世界標準から外れている」という形で井岡選手を擁護しつつルールが間違ってるという意見が目立つ。オレはそれは違うと思うのである。ルールがおかしいと主張するのなら、先にルールを守ってからそのうえで堂々と主張するべきである。自分がルール違反をしてから指摘されると「ルールがおかしい」と主張するのはただの我儘である。世間によくいる「そんなルール知らなかった」というDQNと同じ程度に情けない。
ファッションとしてワンポイントのタトゥーを入れることが海外では普通だという。それを日本に持ち込もうとすることが「グローバル化」なんだろうか。オレはそんな未開人の風習は別に持ち込まなくてもいいと思うし、そんなものでしか自己を表現できないヤツというのはどうせ中味のない人間だと思うのでタトゥーに価値は感じない。谷崎潤一郎の小説「刺青」に感じられるのは背徳のエロチシズムであり、それが非日常の耽美的な世界だから文学としてとらえられるのである。
そして井岡選手が腕に入れていた堂々たる絵柄は、ファッション性の高い「タトゥー」ではなくて「入れ墨」である。その見事な彫り物は反社会勢力の方々の入れる「倶利伽羅紋々」の世界につながるものであり、見ていてかなりの不快感をオレは覚えたのである。こんなのを入れている人とは実生活で関わりたくない。
オレはDQNが嫌いだ。北九州市の成人式(通称DQN式)に集まる派手な衣装のDQNたちと仲良くしたくはないし、向こうもきっとオレのような昭和のオッサンは嫌いだろう。「入れ墨」がカッコいいというのはそのDQN文化の特徴である。改造車に竹やりマフラーをつけたり、昔はやったシャコタン(北海道の積丹半島のことではない)とか、デコトラを電飾まみれにするとか、それがDQN文化(ヤンキー文化)なのだ。
ヤンキー文化というのははぐれ者の文化である。戦国時代で言う「傾奇者」の系譜の延長線上に存在するのである。自らがアウトローであることを宣言するためにそれらしい服装、髪型、化粧を身に着けるのだ。タトゥーもその一つである。
中学生高校生は髪を染めたがる。これをファッションだと思って肯定する人も多いわけだが、彼ら彼女らの心の中にあるのはその行為が一つの反抗であるということである。進学校に於いての染毛は「勉強しない宣言」の場合が多い。それまでのまじめに勉強してきた自分をかなぐり捨てて、「これからは自由に生きる」という宣言を形であらわした行為が染毛なのである。
オレはボクシングに「タトゥー禁止」のルールがあってもいいと思う。もしもそれをなし崩しに許せば、ボクシングというスポーツのさらなるDQN化を進めるだけである。もっともボクシングだけではなく、スノボとかスケボーとかのように世間からDQNスポーツと思われてるものがたくさんある。その有名選手が大麻で捕まったりすると多くの人は「やっぱりな」と思うのである。
←1位を目指しています。
2021年01月10日(日) |
吉村洋文という大馬鹿者2 |
携帯用URL
| |
|
「ガラスの天井」というたとえがある。「見えないけど強固に存在する容易には破れない障壁」という意味で、「女性の社会進出や昇進を阻むもの」として使われる。それがどういう意味の言葉なのかは教養のある普通の大人なら周知のことである。
首都圏の一都三県が緊急事態発令を要請したのに対して大阪が要請しないことに対して吉村知事は「まだ大阪はその段階ではない」という見方をしていた。経済を止めたくなかったからだと思われる。しかし、1月6日・7日の感染者数はそれまでの数字が倍になったように跳ね上がった。吉村知事に言わせれば「昨日今日のこと」である。
これまでと態度を一変させて「緊急事態を要請する」ためには理由付けが必要だ。大阪の新型コロナウイルス感染者の爆発的増加の状況に対して、大阪府知事の吉村洋文は「感染者数はガラスの天井を突き破った」と語ったのである。なんでここで「ガラスの天井」というたとえを使ったのかオレのようなことばを大切にする人間には全くわからない。
以前に吉村知事が蓮舫の「昨日今日のことではない」という言葉の意味を理解していなかったということがあった。蓮舫議員は今回も吉村知事のこの「ガラスの天井を突き破った」という言葉が誤用であることを指摘した。それは女性の社会進出を阻む壁であり、今回は使い方が間違ってるということである。誤用を指摘された多くの方の中には元大阪府知事の太田房江という私が大嫌いな方も混じっていた。
吉村知事は多くの間違い指摘の中で、蓮舫と太田房江の二人を名指しして反論した。これは自分の支持者たちを味方につけたいという姑息な戦略である。自分の支持者ならこの二人のことが嫌いだろうという戦略である。
誰にでも間違いはある。間違ったことを言ってしまったら「すみません、私がアホでした」とすぐに謝ればいいのである。間違ってるのにそれを認めなかったら、「無知」は「無恥」へと変化する。最近では安倍晋三がその好例である。知らないことは恥ではない。自分が知らなかったことに対してどう反省するかが大事なのである。
吉村知事はあわてて「ガラスの天井」という言葉の意味を調べたのだろう。そして今度は自分が役所内で女性の地位向上のために頑張ってると言い訳を始めたのである。
蓮舫議員や太田議員が「吉村が『ガラスの天井』を間違って使ってる!」と一生懸命だが、僕が役所内の「ガラスの天井」を打ち破る為に何をしてるのかも知らないんだろうな。その意味で使ってない。記者会見では、いつ割れてもおかしくない状態を「ガラス」に喩えただけ。会見の中身を見たら明らか。
この吉村知事のツイートを分析すると彼は二重に間違ってることがわかる。吉村知事は「あなたはガラスの天井という言葉の意味を分かってない」という指摘に対して「私は」役所内で女性の地位向上に取り組んでいる(ガラスの天井を破ろうとしている)」と答えて論点のすり替えを行った。おそらく無知を指摘されたことに対して「ガラスの天井の意味はちゃんとわかってましたよ」という嘘を言いたかったのだろう。あくまで「無知」を認めたくなかったのである。続いて出てきたのは新たな言葉の解釈である。「いつ割れてもおかしくない状態」のたとえとして「ガラス」という比喩を使ったという言い訳である。
いや、「ガラスの天井」って、見えないけど破れないことのたとえなんだよ。なんで「いつ割れてもおかしくない」になってるんだ。もう吉村は究極の馬鹿である。そして「いつ割れてもおかしくない」ということなら、大阪の感染爆発は必然的なものだったということになる。そんなもの、おまえらが住民投票をコロナ対策よりも優先させた結果じゃないか。なんでいつまでも言い訳ばかりしてるんだ。早く責任とって辞職しろよ。
オレは大阪府民としてかつてこの維新の会に期待してしまったことを後悔している。彼らが竹中平蔵のパシリであり、大阪中の役所をパソナの出先機関にしようとしている本質を理解した今、オレは断固として反維新の立場を主張したいのである。どうか大阪の人間は目覚めてほしいのである。維新の会を一刻も早く大阪から追放しないといけない。
←1位を目指しています。
2021年01月08日(金) |
吉村洋文という大馬鹿者 |
携帯用URL
| |
|
大阪府知事ともあろう人が、まるで漫才のコントのようなツッコミを公開の場で行った。しかも本人は大まじめに発言していたのである。オレはほとほとあきれてしまったのだが、その後のツイッター上の吉村知事の発言を読むとさらに自己弁護を繰り返してるのである。無教養な人間が教養のなさが露呈した時、素直に無知を認めてお詫びするのがもっとも適切な行動だ。しかし、そのような行動をとらず、「馬鹿を認めたくない」ために重ねる言い訳ほど情けないものはない。
小池百合子は国に緊急事態の発令を要請した。その結果、1月7日から一都三県で緊急事態が発令されることとなった。首都圏とあまり状況が変わらない上に死者数では東京を上回る大阪でどうして緊急事態を要請しないのか、オレは不思議に思っていた。その吉村知事も状況の深刻さに東京には遅れたがついに緊急事態要請に踏み切ったのである。
その吉村知事の優柔不断な行動に対して蓮舫は「大阪は昨日今日で感染者が急増したのではありません。今日の宣言対象になぜ早く要請しなかったのでしょうか。」とツイートした。まあ当然の批判だろうし、住民投票なんて不要不急のバカ騒ぎをすることをコロナ対策よりも優先したクソ知事は批判を受けて当然である。
しかし、吉村知事はこの蓮舫の発言の「昨日今日で感染者が急増したのではありません」という部分にかみついたのである。
大阪府の年末からの感染確認数の推移はこのようになっている。
▽1月7日 607人
▽1月6日 560人
▽1月5日 394人
▽1月4日 286人
▽1月3日 253人
▽1月2日 258人
▽1月1日 262人
▽12月31日 313人
▽12月30人 307人
▽12月29日 302人
▽12月28日 150人
6日、7日の2日間で確かに急増してることがわかる。このデータをもとに吉村知事はなんと午後6時すぎ、蓮舫氏のツイートを引用し「昨日と今日で感染者は急増してます。11月以降の大阪の感染状況、事実を確認してから発信して下さい。」と投稿したのである。救いようのない馬鹿である。「昨日今日のことではない」という慣用句の意味を理解せずに「昨日今日のことです」と返したのである。これはまるで漫才のボケとツッコミレベルの発言である。
このことを報じたデイリースポーツの記事は維新応援団よろしくまるで蓮舫に落ち度があるかのような書き方だった。オレは阪神ファンだから時々デイリースポーツを読んでいたが、おまえらは維新のごますりなんかせずに野球の記事でも書いとけよと言いたくなったのである。
「昨日今日のことではない」という慣用句は、「それは昨日や今日に突然起きたようなことではなく、ずっと前から起きていたことである。」という意味である。だから蓮舫の発言の意図は、大阪府のコロナ対策を過去にさかのぼって批判しているのである。ところが吉村知事は脊髄反射的に「昨日今日に急増した!」と返してしまったのだ。とにかく反論したいという気持ちだったのはわかるが、きちんと相手の言ってることも理解せずにその言葉の一片に対して反論して、そして勝った勝ったと大騒ぎするのは吉村の師匠筋に当たる橋下徹のよくやる手法である。オレのようにきちんとディベートを理解している人間からみれば瞬間に論破できる程度のデマゴーグそのものである。
オレはある特殊な事情から吉村洋文に対する批判を少し手加減していた。しかし、知事たる者が言葉の意味を理解していないというのは一国語教師として断じて許せないことである。それでこうして公開の場で批判することにしたのである。
大阪の感染拡大の主原因は維新のコロナ対策が無策だったからである。住民投票にかけたゼニは本当ならコロナ無症状者への検査にあてるべきだったのである。
戦場で兵士にとって一番みじめなことは無能な指揮官のせいで死ぬことである。今起きているのは新型コロナウイルスと人類との戦争である。その指揮官として小池百合子や吉村洋文が有能であるとは全く思えない。もっとも菅義偉という超無能がその上に君臨している時点で日本は完全にアウトである。
自民党内には今の状況を打開できる人材はもういない。かといって野党の中にもめぼしい人はいない。日本はこの国難に対してもう何もできないのである。ただオレには秘策がある。
国民全員に一人50万円配って、「2か月引きこもってください」と人の移動を極端に制限してしまうのである。水や食料、最低のライフラインを維持するための活動以外をすべて停止して引きこもってもらうという方法で感染拡大は止むだろう。中途半端な税金を使い方しかできないから、いつまでも感染が拡大するのである。
残念ながらオレはこの国の指導者じゃないし、何の権力も持たないただの暴言野郎のオッサンである。おそらく今の国難を打開できる本邦で唯一無二の存在だが、休日はのんびりと家で桃太郎電鉄で遊んでるのである。世を憂いながらつぶやくのみである。
←1位を目指しています。
2021年01月07日(木) |
死んだのはオレだったかもしれない |
携帯用URL
| |
|
1月6日の午前0時40分頃というから真夜中である。西名阪道路の上り線で78歳が運転するクラウンが逆走して軽自動車と正面衝突し、軽自動車を運転してた35歳男性が死亡した。オレはよく西名阪道路を使うし、深夜に走ることもある。一年前までは軽自動車を通勤に使っていた。もしもその時間に通りかかったのがオレだったとしたら、その逆走車の老人によって殺されていたかも知れないのだ。
そもそもどうしてその78歳はそんな深夜に車を走らせる理由があったのだろうか。斑鳩町に住むということだから、おそらくは誤進入した法隆寺インターの近くに家があったのだろう。家に帰ろうとしていて間違って出口から高速道路に入ってしまうようなボンクラにそもそも免許を与えていいのか。その老人のせいで、若い前途ある男性が亡くなったのである。これほどの罪があるのにどうして名前も顔も出ないのか。何の落ち度もなくいきなり人生を奪われた男性の無念さを思えば、この老人の罪の重さはあまりにも大きい。この老人にはきちんと顔出ししてもらって自身が犯した罪の重さを受け止め、刑務所で罰を受けてもらいたいのである。あの上級国民、飯塚幸三の行為と同様に刑務所で償うべき重さの罪である。
もしもこの老人が認知症だったとしても、だから罰を受けなくていいということにはならない。認知症であればなおのこと、世間に「認知症でも刑務所に入れられて人生の最期を迎える」という悲惨さをわからせるべきである。そうして免許の返納や、自動車から別の乗り物への乗り換えを勧めるべきである。
田舎は交通機関が不便だからクルマがないとどうしようもないという。だったらどうしてクラウンに乗る必要があるのか。もしもクルマが軽自動車なら車重が軽くなった分その運動エネルギーも小さく、もしかしたらぶつかった相手の男性は死なずに済んだかも知れないのである。それに斑鳩町はそれほど田舎ではないのである。オレはそのあたりはよく知ってるぜ。
いずれオレも高齢者になって・・・というかすでにオレは周りからジジイ呼ばわりされている。運転能力は若いころとあまり変わらないと思ってるが、スポーツカーはやめて今はさまざまな安全機能の付いたサポカーを運転している。何よりも慎重に運転している。回りには信号無視を平気でする無法者たちがたくさんいるが、そういう連中のことを常に苦々しく思ってるのがオレである。
逆走を防ぐ、というか認知症の方の運転を防ぐ方法が一つある。それはエンジン始動時にいくつかの質問をされて、答えられないと始動しないような仕組を搭載すればいいということである。今日の日付とか、今の総理大臣の名前とか、そういったやさしい質問が10個くらいランダムに出るようにして、答えられないとエンジンが始動しないようにすればいいのである。認知症検査を始業前点検のように行えるようにするのだ。
もっとも認知症の老人にまで車を売りたいという自動車メーカーは、アルコール検知機の搭載といったことにも否定的だった。事故を減らしたいという意欲に欠けるクソメーカーはつぶしてくれよと思うのである。
←1位を目指しています。
2021年01月03日(日) |
県札の発行許可を! |
携帯用URL
| |
|
江戸時代、各藩は藩内で流通する貨幣の不足を補うために「藩札」というものを発行した。藩札の多くは兌換紙幣であり、銀1匁などと記載されていてその正貨との交換が可能だったのである。そもそも藩札を発行する理由が藩の財政的窮乏であったために、兌換用の正貨がちゃんと準備できてるわけもなく、藩札の発行しすぎでインフレに陥る藩も多かったのである。
さて、この「藩札」だが、もしも現代に「県札」というものを導入して、その都道府県内だけで流通を許されるという地域通貨を発行すればどうだろうか。商品券のようなものではなく、通貨として流通させるのである。自動販売機には通らないので対面販売の店でしか使えない。キャッシュレス社会の今の流れには逆らことになるが、現金として流通させることと銀行に預金できないということになればそれこそババ抜きのジョーカーのようにみんなすぐに使って他者に押し付けあうだろう。実はそれが狙いなのである。
経済活動が活発で景気がいいということはどういうことか。それはお金が短時間でいろんな人の間を移動することである。1万円のお金を一人が一週間持っていても意味がない。ところがその1万円をすぐに散財し、そのお金を受け取った店はすぐにその1万円を使うという形にすればいいのである。
この地域通貨である「県札」は有効期限を定めておけばいい。偽造されないように精巧な作りにする必要はあるが、3年くらいの期限を定めて最終的には県庁で期限切れの県札に額面の金額を支払うようにすればいいのである。結果的に都道府県は無利子で借金(県債の発行)をすることが可能になるわけだ。公務員の給与の一部を県札で支給という形にしたり、県発注の工事代金の一部が県札で支払われるということにして流通させるのである。
オレの憶測だが、おそらくかなりの額の県札は使用されずにそのままコレクターの手にわたるだろう。また、日本中の県札を全部集めるなどという猛者も出てくるだろう。もちろんそういう酔狂な御仁がいても何も問題はないのである。
給与の一部を振り込みではなく県札で受け取ることを選んだ人にはなんらかの特典を与えればいい。極端な方法としては県札で受け取った分は課税対象から控除できるとかである。上限を収入の10%以内ということにして制限して歯止めを掛ければいいだろう。
地域通貨としての「県札」を発行することは、公明党のよく主張する割引した商品券を発行することとどう違うのか。商品券は一回買い物をすれば終わりだが、県札なら何度も何度も使用されることで景気回復に役立つわけで、何倍もの経済効果があるのだ。
インフレに誘導する方法として「政府貨幣」という形が以前に検討されたことがあったという。それは実現しなかったが、まさか「県札」というアイデアを思いつくような酔狂なオッサンはそんなにいないだろう。
コロナ下の経済対策として「国がゼニを配ってくれないのなら、我々が配る!」という知事が出現しないだろうか。「財源がないのならゼニを作ればいい。だって国もそうしてるじゃないか。」「県札を県民に1兆円配れば県民が1兆円分豊かになる」という破天荒なことをする知事が出てくれば面白いのである。いっそのこと変動相場にして、県札の方が円よりも価値があるなんていう自治体が出現してほしいのである。
←1位を目指しています。
2021年01月01日(金) |
アフターコロナの世界とは何か? |
携帯用URL
| |
|
世界がグローバル化に突き進み、まるで各国政府が多国籍企業の下請けとなってしまったのが2019年までの世界の姿だった。日本政府もその出先機関の一つに過ぎず、種苗法改正などはモンサントのような巨大企業の支配力を強めるだけだった。国産の品種改良されたものを守るためだけならもっと別の方法があったのに、自民党政府はいとも簡単に外資の軍門に下ったのである。国益よりも献金や自分の利益を優先する低レベルの政治家が増え、教養もなければ未来を見通すだけの賢さもない安倍晋三のようなカスが長期政権を維持した。もはや日本は取り返しのつかないレベルまで壊れてしまったのである。
そこにやってきた新型コロナウイルスという災厄は、世界のグローバル化に歯止めをかけた。人の移動そのものができなくなるという事態は全くこれまで想定されてなかったのである。日本から海外に行けないだけではなく、海外から日本への来訪者がほとんど消失したのだ。グローバル化どころか、孤立化、非流動化こそが各国の生存戦略となってしまったのである。もしもすべての必要材を国内でまかなえるような国があれば鎖国することで新型コロナウイルスの流入を100%止められた。食糧自給率が低く、中国の回し者みたいな政治家が多数いるわが国にはボンクラの政治家がそろっていてまともな司令系統もないし、中途半端な規制しかできない国家体制である日本がまともな戦略を打ち出せなかったことは容易に想像できる。
ワクチンが普及して新型コロナウイルス感染症拡大が終息した時、果たして世界はもとのように戻れるのだろうか。マスクをして外出するという日常はなくなるのか。そもそもこの感染症は収まることなどあるのだろうか。もう二度と過去は戻ってこないような気がするのである。
感染者の多い国とそうでない国の違いは、そのまま国民の自由度と為政者の能力との二つの要素による。国民の自由度の低い国ほど行動を規制しやすいし、為政者の能力の高い国ほど正しい封じ込め政策を実行できる。前者の代表が中国なら、後者の代表が台湾である。そして世界で最も国民の自由度が高いアメリカは世界一多い死者が出ることになってしまったのである。
国民の自由度が高く、為政者の能力が世界一低いという最悪の条件がそろっている日本はなぜか初期の段階では感染拡大が抑えられた。しかし、そこで政治家たちは安心してしまったのか経済優先に舵を切るために禁じ手の「GO toキャンペーン」という政策を導入してしまったのである。利尻島や沖縄の離島で発生したクラスターなどは明らかにこの政策のせいである。せっかく恵まれた状況がったあったのに安倍晋三や菅義偉はそれをぶち壊したのである。旅行業界からの政治献金が欲しいというゼニのために国民の健康を売ったのだ。
アフターコロナの世界とは何か。それはまず「反グローバル化」の流れである。多国籍企業の支配からの脱却、そして各国独自の移動制限や国家間の信頼関係の再構築、日本のように政治家の質が低い国への容赦のない批判ということが起きるだろう。新型コロナ対策に失敗した国は政権交代が起きるかも知れない。日本の場合も政策的には完全に失敗しているが、国民の政治関心が低すぎるという特殊事情があるので政権交代はまだ起きない。起きてほしいところだが、あれほどクソ野郎ぶりを見せつけている菅義偉をまだ4割も支持してるのだから国民の中に馬鹿がいかに多いかということである。馬鹿の心さえつかめば日本は選挙に勝てるので、衆愚代表としての自民党政権は安泰である。
日本国内を見れば、鳥取県や和歌山県のように検査能力が高く保健所が十分に機能しているところが感染数を抑えることに成功している。大阪のように検査能力の低い自治体は濃厚接触者の基準を厳格にして減らすことで検査数を絞り込み、結果として無症状感染者の拡散を招いてしまった。同様のことは海外でもあてはまるだろう。
為政者の能力の高さで完璧なコロナ対策に成功した台湾。逆に国民の支配を強化して強制的に抑え込んだ中国。この二国以外に封じ込めに成功した国があればその理由が知りたいのである。このことで台湾の国際的地位が上昇し、それが中国への牽制になることをオレは期待している。
←1位を目指しています。
前の日記 後の日記