江草 乗の言いたい放題
コラムニスト江草乗の日記風エッセイ
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ご愛読ありがとうございます。「江草乗の言いたい放題」は読者100万人を目指す社会派コラムです。一人でも多くの方が読んでくださることで、執筆意欲は倍増します。ぜひ、お友達に勧めて読者数UPにご協力ください。掲示板へのご意見の書き込みもお願いします。
2015年03月30日(月) |
なぜ iPhone は割れやすいのか? |
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うちの次男は画面の大きく割れたままの iPhone 4Sを使い続けていたのだが、他社に乗り換えれば値引き分で本体無料になるということで、au→ソフトバンクへのお引っ越しをすることとなった。アプリの引っ越しとかいろいろと方法があるそうだが、そんなことに介入して失敗したら何を言われるかわからないので、すべて自己責任で自分でやらせてみた。オレが介入したのは、ソフトバンクの店についていって、auからの引っ越しに必要な署名などをしたくらいである。あとはそばについてショップ店員の説明をただ聞いていた。
iPhone 6にするか、それとももう一回り画面のでかいやつにするか、結局次男は使いやすさ、大きさなどいろいろ考えたあげくにiPhone 6(64GB)を選んだ。オレも少し触ってみたが、薄いし軽い。手から思わず落としそうなくらいに小さい。そして落とせばほぼ確実に画面は割れる。
その後、どうやら次男はパソコンを使ってアプリ引っ越しに成功したようである。なんでも自分でやらせてみるものである。前回のガラケーから4Sへの引っ越しの時は、アドレス帳を添付ファイルにしてメールで送るという方法でデータを移動させたことを思い出す。前回はオレが手伝ったが、今度は自力でなんとか完了したようである。
そう、iPhone の画面はよく割れる。これはガラケーをしょっちゅう落としてるオレには考えられないことである。ガラケーで画面が割れてるというのを見たことがないし、そもそもガラケーは落としたくらいでは割れない。しかし、iPhone は落とせば割れるし、うっかりジーンズのケツポケットに入れれば割れる。きわめて脆弱な構造なのだ。
どうしてこんなに割れやすいのだろう。
割れにくいようにもっと別の素材を使うとか、衝撃が吸収されるような構造にするとか、なんらかの工夫はあってしかるべきだし、もちろん落下時の衝撃を防ぐような頑丈なケースだってあっていいと思う。そして「落とせば確実に割れる」ということが周知されている以上、落としても割れないケースをみんながふつうに携帯してることが当然なんじゃないかと思うのだが、なぜかそうではなく、みんなあまり頑丈でもなさそうなケースで持ち歩き、当然の結果だが画面を割っている。ヒビが入ったスマホを使用してる率は3割くらいになるだろうか。みんな割れたままで使ってるのである。もちろん「買い換えたい」と心の中では思いつつ。
昔、携帯電話が普及し始めた頃オレは思ったのである。
「みんなが買ったらもうそれ以上売れへんやん」
しかし、クルマがモデルチェンジした新しい型に買い換えられるように、携帯電話もどんどん進化して機能が強化されるから、結局「買い換えたい」という人達に支えられて携帯電話ショップは繁盛し続けた。そして使用中の携帯も、機器の経年劣化やバッテリの劣化が避けられず、同じものを長く使い続けるというのは不便そのものということになった。
ところがスマホ、しかもiPhone というのはそのほぼ究極の進化形である。もうそこから次に買い換える必要がないほどに多くの機能を持っている。だったらどうやって買い換えさせたらいいのか。そこで「液晶画面が衝撃で壊れやすい」という脆弱性を与えることで、買い換えが発生するように仕向けたような気がするのだ。
もちろん「こんな割れやすいのは欠陥商品だ!」と怒る人達もいるだろう。しかし、割ってしまうのは必ず本人の不注意であり、それは防げるものである。本体そのものの欠陥ではない。オレはアメリカがモノを大切にしない国民性だからこそこのような壊れやすい製品を世に送り出したのだと思っている。日本製品だったら絶対にこんな壊れやすいモノは売り出さなかっただろう。
壊れやすいので買い換えたくなり、結果としてモデルチェンジのたびに新しいものが売れるというのは、WINDOWS95以降のマイクロソフトの戦略と重なる。OSを未完成のまま出し続けることでバージョンUPを誘い続けたからだ。もっともXPをそのまま使い続けるユーザーの多さというのはビルゲイツの大いなる誤算だったわけだが。
我が家の二人の息子のiPhone はどちらも割れた。我が家に関して言えば割れる率は100%である。今日本中で使用中の iPhoneのうち、画面が割れている率は何%くらいなのか、オレは知りたいのである。 ←1位を目指しています! m(_ _)m 投票博物館
2015年03月29日(日) |
殺人自殺にどう向き合うか? |
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乗客乗員150人が死亡したドイツのLCC、ジャーマンウイングス機墜落事故は、副操縦士が意図的に行ったものだという。精神疾患を抱えた副操縦士が自殺をはかり、その道連れに乗客乗員が犠牲になったということである。ただ、このような事例は過去にも数件存在する。オレはそのような事例を「殺人自殺」や「拡大自殺」と呼びたい。さて、このような行動に対して社会はどのように対処すべきなのか。
たとえば無差別殺人を行うテロリストの中には「自殺する勇気がなかったので、死刑にしてもらいたかった」という動機を語る者がいる。これも「殺人自殺」の中に分類できるだろう。また日本にかつて多かった「一家心中」も、同様に我が子を道連れにした「殺人自殺」「拡大自殺」と分類できる。
人口の中に一定の比率で精神疾患を抱えた人達が存在し、またうつ病などの形で病を抱えたまま、ストレスを貯めつつ社会生活を営む多くの人々が存在する。その多くは衝動的行動に走ることもなく、社会の中で静かに過ごしているのだが、ひとたび今回の航空機事故のような事件が起きると、社会の精神疾患者に対する風当たりがきつくなってしまう。同じようなことをするのではないかという偏見の目で見られてしまうのだ。
今回の飛行機事故の賠償額は無制限だという。そして「故意の墜落」であるために親会社のルフトハンザはもはやどんな請求であっても支払うしかないという状況に追い込まれてしまうのだ。大企業であるか中小企業であるかは関係なく、企業はその社員の起こした事故はすべて「雇用者責任」という形で賠償義務を負うわけである。もちろんその企業に対して個人的に損害賠償を請求することは可能だが、そもそも支払えないような巨額の賠償を求めても意味がない。
事故で犠牲となった人達の遺族は、そのやり場のない怒りをどこに向ければいいのか。パイロットの体調管理がきちんとできていなかったということは過失なのか。しかしそもそも精神疾患の程度をどの程度外から把握可能なのか。社会はこうした病とどのように向き合えばいいのか。
日本では心神喪失者の行為は罰さないことになっている。また心神耗弱者の場合は罪が減じられる。それでは認知症による交通事故、高速道路逆走などの大事故はどのように考えればいいのか。認知症で自分が何をしてるかわかってない状況は心神喪失とどこが違うのか。オレにはもちろんわからない。
ただオレは、突然の飛行機事故で人生をいきなり断ち切られた多くの命を思う。なぜこんな理不尽なことでその生命を奪われないといけなかったのか。それも墜落・衝突の瞬間まで全く何も知らずにいたことを。
この世には、回避可能な悲劇と回避不可能な悲劇がある。たとえば地震や津波や噴火によって一瞬にしてその生命を奪われるというのは回避不可能だろう。しかし、今回の飛行機事故のような悲劇は、防げる可能性が皆無だったわけではない。
自動車の運転免許の取得を制限すれば事故はかなり減るだろう。高齢者の交通事故が多いということならば、70歳以上は運転禁止ということに法律で決めればそれだけでかなりの事故を回避することができる。しかし、自動車を必要とする多くの高齢者が生活に困ることになる。危険な人をすべて排除すればそれでOKなのか。危険と危険でない、正常と異常の線引きはどこにあるのか。それはいったい誰が判断するのか。
理不尽な形で幼い子を残虐に殺されても、加害者が精神疾患の場合は処罰されない。運転士が度重なるパワハラで心を病んで正常な運転ができなくなって大事故が起きても、会社のトップは責任を取らないし、裁判に訴えても無罪という結果が出る。しかし、自分にとって大切な存在を奪われた側はその悲しみをどこにぶつければいいのか。かつての「仇討ち」というのは、少なくとも残された側に「生きる目的」を与えてくれる一つの仕組みであったような気がするのだ。
航空会社の過当競争がLCCという存在を生み出し、コスト削減によって給与をカットされたパイロットたちはこれまで以上のストレスを抱えることとなった。今回の事故がそうした世の流れと無関係であるとはオレには思えないのである。
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2015年03月26日(木) |
裁判に正義はあるか? |
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なぜ日本の刑事裁判は性犯罪や少年犯罪に対してかくも甘いのか。オレはいつもそう思ってきた。2013年に三重県で女子中学生が家の近所の空き地で殺された事件もそうだ。犯人の少年は事件直後も他人事ののようにツイッターでつぶやき、平然としていた。そのまま逃げ切れるとでも思っていたのだろうか。
その裁判の判決が出た。記事を引用しよう。
三重の中3女子死亡、少年に懲役5〜9年の不定期刑 TBS系(JNN) 3月25日(水)6時4分配信 おととし、三重県朝日町で当時中学3年生の女子生徒が花火大会から帰宅途中、少年に暴行され死亡した事件の裁判員裁判で、津地裁は、強制わいせつ致死などの罪に問われた少年に対し懲役5年以上9年以下の不定期刑を言い渡しました。 判決によりますと、19歳の少年は当時18歳だったおととし8月、三重県朝日町で、当時中学3年生だった15歳の女子生徒の口と鼻を手でふさぎ、わいせつな行為をして死亡させた強制わいせつ致死などの罪に問われていました。 24日の判決で増田啓祐裁判長は「少年の身勝手な行動で重大な結果が生じた」と指摘したうえで、「責任の重さを自覚させるのが相当」と述べ、懲役5年以上10年以下の求刑に対し懲役5年以上9年以下の不定期刑を言い渡しました。 「ある意味、殺意を認めているのになぜ懲役5年〜9年の不定期刑なのか」(女子生徒の父親) 女子生徒の遺族は「判決が求刑を下回った理由がわからない」と、判決への不満を示しました。また検察は、「遺族の心情が控訴への重要な要素。最大限考慮したい」とコメントしています。(24日23:19). 最終更新:3月25日(水)12時27分
なぜこの罪名が「強制わいせつ致死」なのか。金額の多寡はともかく、少女の金銭を奪った時点でなぜ殺人罪や強盗殺人を適用しなかったのか。オレは理解に苦しむのだ。「強制わいせつ致死」というのは「わいせつ目的でうっかり死なせてしまった」という意味である。これもオレは納得いかないのだ。なぜ殺人罪を適用しないのか。
日本の刑事裁判は性犯罪に対して甘い。再犯率の高い性犯罪者はどんどん死刑にすべきであって、もしも死刑を適用しないのなら去勢などの身体刑を科すというのがオレの従来からの主張である。しかし、そもそも法律がそんな内容になっていないのである。たとえば「強姦致死傷罪」というのがある。5年〜無期懲役ということなんだが、なぜか「死刑」がないのである。単純な殺人と強姦致死を比較した場合、どう考えても後者の方がはるかに重い罪だというのが市民感覚であり、被害者家族の処罰感情も重いはずである。しかし司法の世界では強姦致死というのは「強姦が主目的であり、うっかり死なせてしまったのは過失であって殺すことは本来の目的ではなかった」というとらえ方をするのである。
今回の三重県の事件が「強盗殺人」や「強姦致死」ではなく「強制わいせつ致死」となったのは、量刑を軽くするための欺瞞である。どう考えても死刑や無期懲役を選択すべき事案ではないのか。
今回の判決で「5年から9年の不定期刑」というきわめて軽い罰でこの少年はまた刑務所から出てくるのだ。オレがもし殺された少女の父親ならこんな軽い罰では絶対に納得しない。死刑以外絶対に考えられない。出所して平然としてる少年を拉致して、自分の手で処刑したいという気持ちになるだろう。もちろんそのときは自ら警察に出頭して「オレは正義を実行した。娘の仇をとった。どんな裁きでも受ける」と語るだろう。
裁判員裁判で凶悪事件の量刑は重くなったという。これまでの裁判官だけの裁判では量刑というのはきわめて機械的で、殺した人数によって量刑が決まっていてその中味に踏み込んで判決を下すと言うことはなかった。1996年に沖縄県名護市で15歳の女子中学生が二人組の男に拉致されて輪姦された後、顔面を石でつぶされ絞殺され、遺体が崖から投げ落とされたという事件があった。どう考えても死刑しかないのに、裁判官は「被害者が1名、偶発的犯行」という実に機械的な単純な理由で無期懲役という判決を出したのである。少なくともこの二人の外道は、生きたまま顔面を石で殴打された後に崖から投げ捨てられるという応報刑が妥当なのではないのか。どうしてかくも犯罪者に甘い判決が出せるのか。
裁判に正義はない。少なくとも日本の刑事裁判は被害者遺族にとって全く納得できない状況である。機械的に量刑の1割引で判決を下すような裁判官は、自分で何も考えてない無能なクズである。
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2015年03月23日(月) |
実家の田んぼで米作って停職? |
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公務員は副業禁止だという。しかしそれはたとえば、奈良市役所のポルシェ野郎とかみたいな悪質なものを想定してのことではないのか。昼は公務員で夜は風俗嬢とか、昼は公務員で夜はキャバレーの用心棒とか、そういう「副業」を禁止するのはよくわかる。しかし親から相続した実家の田んぼで米作って何が悪いんだ。
産経新聞にこんな記事があった。 産経新聞 3月21日(土)7時55分配信 さいたま市職員が水田耕作の副業 毎年赤字も停職6カ月 さいたま市は20日、市に無許可で水田を耕作し収入を得ていたとして、市環境局の男性業務主査(56)を、地方公務員法に基づき21日から停職6カ月の懲戒処分とした。農機具の購入費などで経費がかさみ、収支は毎年赤字だったという。 市人事課によると、男性は昭和63年から相続した県内の水田約2・6ヘクタールでコメを生産。平成13年ごろからは知人らに依頼されて耕作放棄地でもコメを作り、現在は約7ヘクタールもの水田で農業を営んでいた。 男性は市に対し「赤字であれば許可を得なくていいと思った。耕作放棄地を何とかしたかった」と話しているという。地公法は、市職員が市長の許可を得ずに副業を行い収入を得ることを禁じている。
副業っていったいなんだろう。たとえば公務員が株式投資で利益を得ていたり、親から相続した不動産をたくさん持っていてそこからの賃貸収入があった場合、それは「副業」とされるのだろうか。
このさいたま市環境局の職員が7ヘクタールの水田を所有し、そこで農業を営んでいたということがどの程度の労力を必要としてそれがどの程度の規模なのか、正直言って農家の方に訊かないとわからない。ただ、その動機が「じゃんじゃん金儲けしたい」ということであったとは思えないのである。「耕作放棄されてる土地を守りたい」という動機で農業を営むことはむしろ国益である。
「許可を得なかった」ことに罪があるのならば、改めて「許可」を出すべきだ。少なくともオレはこの市職員の行為が悪質なものであるとは思えないし、停職6ヶ月という重いペナルティを科されるようなものではないと考える。
田んぼを守ると言うことは市役所の公務よりももっと大切なことだ。少なくともオレはそう思うのである。それを「副業」と決めつけてペナルティを科すさいたま市は、そんなことよりも議員の政務調査費が切手代とかに大量に支出されていないかどうかをチェックする方が先だろう。
耕作放棄地がどんどん増えて、過疎の村が無人になっていくというのが今の日本の残念な状況である。そういう土地を「どんどん利用しよう」という人が一人でも増えるようにするのが「行政」のつとめである。
オレがさいたま市民で市職員ならば、この男性の処分撤回のための署名運動でも起こしたかも知れない。そんなことを思ったのである。
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2015年03月19日(木) |
こんな参考書マジ無理っスよ! |
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新年度を迎えて、出版社からは参考書や問題集の見本がたくさん届く。その中のある参考書を何気なく見ていてオレはぶっ飛んだのである。なんだこの参考書は! それは駿台文庫から出てる『生きるセンター漢字小説語句』だ。著者は霜栄さんである。
オレがいきなり度肝を抜かれた例文はこれだ。
このミッションをノーミスでスイコウしろなんてマジ無理
問題になってる箇所は、「スイコウ」の「スイ」の部分で、それを「栄枯盛衰」「完遂」「類推」「純粋」「懸垂」から選ぶというセンターの5択形式になってるのだが、その例文のユニークさにぶっ飛んだのである。他の例文にはこんなのがあった。
葬式にて坊主がコジンを「いい人」に仕立て上げる。 僕の好きな芸人をタイケイ的にまとめてみた。 ああ、あの、生え際がだいぶスイタイしてる人?
という具合なのである。多くの参考書がまじめな例文を並べていてクソ面白くもないだけに、こういう参考書は本当に目立つのである。
アダルト系もなかなかの充実ぶりである。
彼女のなだらかなキュウリョウをうっとりとして眺めた。 ひと夏の経験が俺を大人にしたのはイチモクリョウゼンだろ? 教授と私のミッセツな関係を誰にも気づかれてはいけない。 彼女の体のユルやかなラインが僕をほっとさせる。
いやもう、想像するだけでドキドキしてしまうのである。中には罵倒系の例文もたくさんある。
自分がイヤされることばっか考えるから彼女できねーんだよ。 何をコンキョに俺をチャラいと決めつけるんだ。 一定スイジュン以上の女の子しかここには入れないんだよ。 うぜーから俺のまわりでたむろするなよ。 こういう具合なのである。もしも試験の時にこういう問題文なら面白いなあと思うが、品がないというふうに評価されてしまうのも事実で出題することはかなりの冒険だ。そういう意味ではこの本が「駿台文庫」という形で予備校が参考書として出してることは実に面白いのである。これを世に出した駿台予備校の英断と勇気にオレは拍手を贈りたい。
これ以上本の中身について触れると、ネタバレになるので後は実際に書店で買って読んでもらいたいのである。ただもう面白いので、同じように感じた人はどんどん拡散してもらいたいのである。そうしたら本が売れて著者も喜ぶだろう。この傑作の参考書はなんとたった900円なのである。そんなわずかな金額で、楽しみながら漢字も覚えられるというすばらしい効果があるのだ。
最後にオレが気に入った例文を一つあげておきたい。
俺の人生の一大ジョジ詩を奏でてくれないか。
おまえは中二病かよ!と突っ込みたくなるのである。マジ無理なのである。
生きるセンター漢字・小説語句
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2015年03月16日(月) |
北陸新幹線開業雑感 |
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大阪から長野に行く場合、以前なら名古屋まで新幹線で行き、名古屋で乗り換えの時にホームできしめんを食べ、そして特急「しなの」で長野まで行くというのが一般的で、所要時間は4時間15分くらいだった。
しかし、北陸新幹線の開通で、どうやら北回りの金沢経由の方が長野に短時間で到着しそうなのだ。ヤフーで路線検索してみると、ちょうど4時間くらいで到着する乗り継ぎもある。もちろん運賃+特急料金は2000円ほど高くなるわけで、わずかな時間の違い程度ならば安い方がいいということになるが、たった2000円程度の差ならたまには北陸新幹線に乗ってみたいという者も出てくるだろう。
まあよいことばかりでもない。関西から富山に行くにはこれまではサンダーバードで直通で行けたのだが、新幹線開業に伴って大阪発のサンダーバードはみんな金沢までになってしまうので、富山に行くにはそこで新幹線に乗り換えないといけなくなってかなりの出費増である。JRの側の勝手な都合でこれまでよりも運賃が高くなってしまうのはいかなるものか。特例運賃を設けて、金沢富山間の新幹線乗車は、サンダーバードからの乗り継ぎの場合は無料にすべきではないかとオレは勝手に思うのだ。金沢から富山は新幹線で20分ほどで行けるのだが、自由席特急料金が1840円かかる。並行在来線なら約1時間かかるが追加料金はない。40分余分にかかっても、1840円安くなるのならのんびり行くか!と、そういうセコイことを考える人もいるだろう。
新幹線が開業すると、並行在来線はとにかくみんな3セクになってしまう。この3セクがどこも経営が苦しいわけだが、せっかく新幹線が開通してやってくる人が増えてるのに、どうして並行在来線の乗客が増えないのかオレは不思議なのである。新幹線の停車駅までやってきた人を、乗り換えさせて3セクの路線で行ける観光地になぜ引っ張ってこれないのかということだ。
移動手段としては新幹線がすぐれているが、トンネルばかりで車窓の景色を楽しめないことを思えば在来線の方が「乗る楽しみ」がある。だから3セクの経営者は積極的に新幹線からの乗り換えをアピールすべきである。「トワイライトエクスプレス」があんなに人気を呼んだように、「乗る楽しみ」を求める乗客に対応することで新たなビジネスチャンスが生まれるとオレは思うのだ。「親知らず」を長大なトンネルで通過するのと、そこから日本海の雄大な景色が眺められるのと、いずれが旅の楽しみにつながるだろうか。
九州新幹線が鹿児島まで伸びたとき、鹿児島からJR九州の特急で1時間ほどかかる指宿温泉の宿泊客がかなり増えた。新幹線の駅で乗り換えさせて、さらに鉄道を利用させるためにはどんな仕掛けが必要なのか、それをJR九州は教えてくれているのである。
学生時代に少しでもゼニを節約して旅行しようと思っていたオレにとって、新幹線というのは高嶺の花だった。新幹線のない地域の在来線の急行や特急も「ワイド周遊券」のおかげで乗ることはできたが、各駅停車の旅の楽しみもまた捨てがたいものがあった。
何の対策もせず、工夫もせずに放置すれば遠からず並行在来線の3セクは経営破綻する。田中康夫元長野県知事が「しなの鉄道」の乗客を増やそうとしてワイン列車を走らせたりとさまざまな工夫を行ったが、石川・富山・新潟の各県にそれぞれ置かれる3セクの各社はどんな仕掛けを用意してるのだろうか。
ふだんはクルマばかり使っていて、ろくに鉄道を利用もしない地元民も「乗る人がなかったら廃止される」ということを理解して、積極的に鉄道を利用すべきなのである。そのためには本数を増やして便利にすることがもっとも重要だ。
東京から北陸へ人は確実にやってくる。富山の黒ラーメンを食べに来る人も増える。そこから先に何が起きるのか、オレは静かに見守りたいのである。
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2015年03月12日(木) |
日本海エクスプレスを実現しよう! |
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トワイライトエクスプレスは最終便が大人気だ。最終の列車に乗りたがる、いわゆる「葬式鉄」の方々が大挙して予約に殺到したという。しかしこのような「移動の手段」ではなくて「乗ること自体が娯楽」という形で鉄道を利用する人々が確かに存在するのならば、いっそもっと長い距離を走る企画列車を恒常的に運行したらどうかと思うのである。
日本列島の最南端と最北端の駅を結ぶ列車、それも日本海側を走らせる「日本海エクスプレス」を走らせたらどうだろうか。枕崎から稚内まで3日くらいかけてゆっくりと走るのである。もちろん乗客はその区間を通しで乗ってもいいし、売れ残った席は区間乗車する客に販売すればいい。(たぶん売れ残らないような気がするが・・・)そうして週に一本でいいから平日に運行するのだ。
おそらくどこかの国が「日本海じゃなくて東海だ」といちゃもんをつけてくることが予想されるが、そんなのは黙殺すればいい。
始発駅の稚内や枕崎に行くには飛行機や在来線の列車を使うことになるわけだが、もちろんどちらも乗降客数の少ない駅だからそこに人が集まる効果は大きい。いろんな企画列車を走らせて話題となってるJR九州とかが中心となって、豪華な旅を実現する日本縦断列車を走らせるのだ。
この日本縦断列車が通過する3セクの路線にはそれぞれ「線路使用料」が払われることとなるので3セクにとっても大きな収入となる。もっとも週に一往復ではたいした金額ではないかも知れないが。
新幹線と違ってトンネルも少なく、海岸沿いを走る在来線から見る日本海の風景の美しさは乗客を楽しませてくれることだろう。別に全席寝台車にする必要はない。西洋風のコンパートメントみたいな客室を「家族室」として設けてもいいだろう。高額の価格設定にして客を制限するのではなく、高いけど手が届く程度の価格にしてより多くの人に乗車の機会を与えるのもいいだろう。
「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」が我々に教えてくれた事実は、鉄道を単なる移動の手段ではなくて、ただ「乗ること」を目的とする多くの人々の存在である。海外からの旅行者が増えた今、そうした人達もまた日本のローカル線での旅にさまざまなよさを見いだす可能性である。
私は28歳の頃、トーマスクックの欧州鉄道時刻表を読みながらワクワクして、ユーレイルパスでの旅を楽しんだものである。日本にやってきた多くの海外の若者が、日本の鉄道時刻表を手にしてバックパックで貧乏旅行してくれることを願う。「日本海エクスプレス」という形で失われた「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」よりももっと充実した旅が生まれることを願うし、鉄道旅行の楽しさをより多くの人々にわかってもらいたいと思うのである。
「日本海エクスプレス」が海外のメディアやブログで紹介されれば、その列車で日本の最南端から最北端まで旅をすることを望む多くの外国人観光客がやってくるだろう。やはりこれから日本が世界にアピールする産業は「観光」だと思うのだ。昨年に日本にやってきた外国人の数ははじめて1000万人を超えた。これが2000万、3000万と増えていけばその経済効果は莫大なものとなる。東南アジアや中東のイスラム圏の観光客を誘致することに成功すればさらに可能性は広がるのである。1000万人が一人10万円のゼニを使うだけで1兆円の経済効果が生まれる。中国からやってくる観光客の「爆買い」もまた日本の産業にとっては大きな追い風である。
オレが北欧や東欧を旅した時、現地の人にとっては何でもない見慣れた日常の風景が、オレにとっては感動的で忘れられないものとなった。それと同じことを日本を訪れた外国人観光客も感じるはずだ。日本人にとってもはや「終わってしまった」という感のあるさびれた温泉地や田舎の景色が、外国人観光客にとっては「日本で出会えた奇跡」になるかも知れないのである。
おっと、「日本海エクスプレス」の話題から少しズレてしまったが、アベノミクスによる円安効果は輸出増にはつながらなかったが、外国人観光客の増加という意味では劇的な効果をもたらしてるとオレは思うのである。今が大きなチャンスなのである。
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2015年03月11日(水) |
3・11で我々は何を学んだのか |
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東日本大震災からまる4年を迎えた。かなり復興は進んだように見えるし、人々の日常の生活も戻ってきた。しかし今でも故郷に帰れない大勢の人々がいる。そのほとんどは福島第一原発周辺の人々である。あの震災で我々日本人が学んだ最大のことは、大きな地震で原発がメルトダウンすれば、その周辺には居住できなくなるということだった。
ここで我々がとれる対策というのは二つである。一つは「メルトダウンしない原発を造る」もう一つは「原発をやめる」である。前者は海外の原発安全基準をみればすでに実用段階にあることがわかる。ヨーロッパでは「コア・キャッチャー」と呼ばれる、メルトダウン時に炉心がスライドして安全に除去できる機能を備えている。この設備がないと安全基準を満たしていないということで原発の建設は認められないのである。
しかし、日本の原発の中にはこの「コア・キャッチャー」を装備したものは一つもないし、今建設計画中の大間原発にもそれを装備する予定はないらしい。コストダウンという目的のために、安全性を犠牲にしていて、ひとたび大事故が起きれば対処できないというのが日本の原発の実態なのである。それどころか日本のマスコミは「コア・キャッチャー」という原発の安全に関わる重要な装置の存在について、報道管制でもしいてるのか全く国民に伝えようとはしないのである。日本人でその存在を知ってるのはオレの日記の読者か、「きっこのブログ」の読者くらいではないだろうか。
もう一つの方法は「原発をすべてやめる」ということである。そうすればどんな大地震が来ても原発がメルトダウンして大きな被害をもたらすという事態だけは避けることができる。前者の方法がコスト的に無理なら、後者の方法をとるしかない。もちろん廃炉にするにも多大なコストがかかるわけだが、それはメルトダウンした後のコストに比べればはるかに少ないのである。地震国である日本において安全な場所などない。海岸線に立地している原発はすべて津波の危険にさらされている。ひとたび巨大津波がくれば被害は避けられないのである。津波だけではなく、噴火などのリスクも日本では常に存在するのだ。
「発電」の方法はいくらでもある。火力も水力も風力も太陽光もある。そうしたいくつもの選択肢の中でなぜ危険なものをあえて選ぶのか。オレには理解できないのだ。それ以外の方法で電気を作り出す手段が存在しないのならば、我々は文明を維持するためにやむなく原発と共存しないといけないわけだが、幸いなことに「発電」にはいくらでも他の代替手段が存在する。それを多くの国民は理解しているはずだ。
福島原発の事故によって帰還困難区域となったのは日本の国土面積の何%だろうか。政府は北方領土や竹島、尖閣諸島といった地域に関して「日本の国土を守れ」と声高に主張する。しかし、原発事故によってその土地が利用できなくなるということは国土が失われたことに等しいのではないのか。それなのにどうして「原発をやめてこれ以上国土が失われる可能性をなくせ」とは言わないのか。オレは理解に苦しむのである。
いまの石炭火力発電所は昔とは全く違う。有害ガスの発生は極力抑えられて排気はフィルターできれいになってるし、エネルギー効率もいい。神戸製鋼が神戸市の臨海地区の工場跡地に建設した火力発電所は多くの原発が停止中の関西電力にとって不可欠の存在である。神戸製鋼は二号機を建設する計画を進めているが、オレは大賛成だ。そして、景気に変動される鉄鋼価格ではなく「発電による売電収入」という安定収益を得た神戸製鋼の株は迷わず「買い」だと思うのである。
復興住宅の建設はなかなか進まないそうだが、どうして「復興住宅」なのか。一時的な住居を建設するのならば、豪華なトレーラーハウスを提供してそれを空き地に並べ、必要なくなったらレジャー用に貸し出すというふうにすれば全く無駄がない。どうしてそういう発想がお役所にはないのだろうか。これだけ日本中に「道の駅」があるのだし、家族旅行用のトレーラーハウスのレンタル需要はいくらでもあるとオレは思うのである。
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2015年03月09日(月) |
中国では死刑、日本では無罪 |
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大量の覚醒剤を密輸したヤツは無条件で死刑にしてもらいたいとオレは思っている。安易な気持ちで運び屋になるクズ野郎は、その結果どれだけの被害が発生してるかというおとを考えることもできない馬鹿だ。アフリカにタダで旅行できるとだまされて運び屋になる馬鹿女子大生もみんな死刑でいいとオレは思う。それがまっとうなアルバイトではないということくらい常識で判断できる。そして、そんな常識も持ってない馬鹿は社会にとって害毒である。実際に中国では大量の麻薬や覚醒剤(つまり、自己使用ではなくて密輸目的)を所持していた者には情け容赦なく死刑判決が下される。オレは中国政府は嫌いだが、麻薬に関する厳しさだけは評価している。
その麻薬や覚醒剤だが、隠してそうな怪しい人間を取り調べるときにはきちんと相手の同意を得ないといけないらしい。そこで同意がないのに所持品検査をするのは違法だそうだ。大阪地裁の長井秀典裁判長は3月5日、覚醒剤取締法違反の罪に問われたイラン人男性に対してなんと無罪判決を下したのである。西成署の巡査部長が同意を得ないままに所持品検査をしたからその取り調べは違法だということになったのだ。
違法に収集された薬物は罪を問う証拠にできない
ということなのである。麻薬や覚醒剤に無縁の世界で暮らしているまっとうな市民として、この決定にはオレは納得できないのである。このような決定を下す裁判官は馬鹿だと思いたい。同意を得たかそうでないかという些末なことは、そのイラン人が麻薬や覚醒剤を所持しているという罪の重さに比べればハナクソみたいなものである。それなのに、そんな些末なことを理由に無罪にしてしまえるのだ。こんな馬鹿なことがまかりとおるならば、麻薬や覚醒剤を持ってる人間は職務質問されても絶対に所持品検査を拒否すればいいのである。拒否してるのにむりやりに検査されて見つかっても「無罪」である。だって大阪地裁の長井秀典さんというご立派な裁判官がそのように判決を下しておられるのだ。
逆の場合を考えてみよう。ある人が空港で誰かに勝手にスーツケースを開けられて、そこに覚醒剤をこっそりと入れられたとする。本人は全くあずかり知らぬことであり、運び屋にされてしまった被害者である。もちろん本人は自分のスーツケースに覚醒剤が隠されてることなど全く知らないので所持品検査があっても「どうぞどうぞ見てください」と笑顔で応じるだろう。そこで覚醒剤が見つかれば彼は有罪となる。だって所持品検査は本人が同意してるから合法なのである。本人には全く罪はないのに、重い罰を受けてしまうのだ。こんな不合理なことがあっていいのか。
覚醒剤や麻薬を隠し持ってる人間が、そもそも所持品検査に応じるわけがない。それなのに「同意がないから捜査は違法」と結論づけたこの裁判長は、究極の馬鹿であるとオレは思うのだ。とにかくあまりにも馬鹿すぎるのである。麻薬や覚醒剤を所持していたこの被告は、そのことに関して罪を問われずに大手を振ってのうのうと麻薬の密売を続けるのである。そしてまた検挙されても、所持品検査に「NO!」と答えればそれでOKなんだ。断ってるのに検査するのは違法だからだ。日本の裁判なんてチョロいものである。
犯罪者に対して世界一甘い国、日本。こんな状態が続けば、世界中の犯罪者が「日本に行って罪を犯しても罰を受けることはない!」「日本の裁判官は馬鹿だから簡単にだませる!」と大挙してやってくるだろう。日本が誇る治安の良さもいまだけかも知れない。
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2015年03月06日(金) |
人をはねるくらいならおまえが死ね |
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高校3年の次男がクルマの免許を取った。そういうわけで我が家にある2台のクルマのうち、さすがにオレのFTOを運転させるわけにはいかないので、スバルドミンゴの任意保険の年齢条件を外してそちらに乗れるようにした。そういうわけで次男はドミンゴを乗り回している。任意保険料はかなり高額になってしまった。
調子に乗って乗り回してる次男に向かってオレは「ガソリン代自分で出せよ!」と言った。しかし次男は「カネないし、無理や」としゃあしゃあと答える。あまりにも親を舐めきった態度である。さすがにオレも腹が立ってきた。
「ええか、クルマを運転するということは責任が発生することなんや。事故起こしたらちゃんと対応できるんか?」「警察に電話したらええんやろ、そんなんわかってるわ」「いや、そもそも事故起こさんようにちゃんと運転できるんか?」「うるさいなあ、おかんやおとうよりもオレの方がよっぽどうまく運転できるわ・・・」
オレは語気を荒くして言った。
「覚えとけよ。絶対に人をはねるな! 目の前に人とガケがあったら、人をよけてガケにぶつかれ! 人をはねるくらいならおまえが死ね!」
息子に向かって「おまえが死ね」なんて、サイテーの父親である。
しかし、オレが言いたかったのは、それくらいの覚悟で運転して欲しいということだったのだ。さすがにオレのその暴言を受けた次男は目を伏せた。
息子の無事を願わない親はない。しかし、オレはそれよりも息子が誰かを傷つけることの方を恐れるのだ。その不注意な運転が誰かを傷つけることはないか、それによって取り返しのつかないことになりはしないかと恐れるのだ。誰かの大切な人の命を奪ってしまうような取り返しのつかないことになるくらいなら、まだその痛みをオレが受け止める方がいい。そんな意味でオレは「人をはねるくらいならおまえが死ね」と言ったのだ。
級友を殺した佐世保の高1少女の父親は自ら命を絶った。その気持ちがオレは父親として痛いほどよくわかる。そんな娘をこの世に送り出してしまったことの悔いをどうやって表現すればいいのだろうか。そしてオレがその父親の立場なら同じことをしただろうと思うのだ。
子どもを悪い人間にしようとして育てる親などいない。しかし結果として子は親の思ってもみない方向に進んでいく。親がまっとうな親であればいいのかというと、逆にそんな親に反発したりする。かといってクズのような親にはもっとクズの子が育つ。子育てというのはかくも難しいものなのだ。世間には子どもができないことを残念がる親が多いが、子どもがあるために不幸になってしまう家庭もまた無数に存在する。
もっとも親が覚醒剤や危険ドラッグを常用してるようなクズであったり、生活保護の不正受給をしているクソだったらどうあってもまともな子どもなど育つわけがないのだが。そうでないまっとうな親であっても、子どもがまともに育つかどうかはわからないのである。普通の親で子どもをちゃんとした人間に育てようという努力をしない親はいない。
クルマを運転していて一番怖いのは、自分の運転を過信した時だ。そして調子に乗って乱暴な運転を「うまい運転」と誤解している状況だ。世の若年ドライバーによる悲惨な交通事故はたいていそうした状況下で発生している。無免許で飲酒運転してクルマを暴走させた16歳がいたが、そんなものは論外である。まず「無免許運転」を許している親がいることがオレには想像つかないのである。そんな親も「どうしても息子が言うことをきかなくて」と言い訳するのだろうか。
子育てというのは大変なのである。親を親とも思わないような子に育ってしまったのも結局は我が身の不徳のいたすところなんだが。
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2015年03月03日(火) |
映画『ツォツィ』〜拳銃を捨てて、赤子を抱く |
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沢木耕太郎さんの映画エッセイ「銀の街から」を読んでいると、そこに紹介されている映画がとても観たくなる。そういうわけで、TSUTAYAで『ツォツィ』という映画のDVDを借りてきた。旧作だから3泊4日で100円である。
映画の舞台は南アフリカ、ヨハネスブルグである。世界一危険な街と言われるその街で、仲間からツォツィ(不良)と呼ばれるその若者は強盗や自動車盗を繰り返していた。しかし、ある日彼が奪った車の中には生後数ヶ月の赤ん坊がいた。彼はその赤ん坊を育てようとして悪戦苦闘する。スラムには土管で暮らす親に捨てられた子どもたちがいる。夫に逃げられた貧しい母子がいる。貧困と暴力の日常の中で、彼はいつのまにかある感情に目覚めていく。
自分が生きていくだけでも精一杯なのに、なぜ「赤ん坊」という厄介ごとを抱え込まないといけないのか。やがて彼は「乳児誘拐犯」として警察に追われることとなる。彼に残された選択肢は何か。彼はその赤ん坊をどうするのか。
まともな仕事もなく、教育も受けていないスラムの若者にとって、富にアクセスする方法というのは「犯罪」という手段で豊かな者たちから「奪う」しかないのである。奪った高級車は、わずかなゼニと引き換えに買い取り業者のものとなる。彼らの行為を「悪」として断罪することはたやすい。しかし、そのような社会をどうすれば変えられるのか。どうすればそのような犯罪はなくなるのか。犯罪者を射殺するだけでは何も解決しない。一方に圧倒的な貧困が存在し、一方に暴力的な豊かさがある。それがヨハネスブルグの現実である。
海外で日本人が誘拐されたり犯罪に巻き込まれたりする事件が起きると、「そんな危険な場所に行くからだ」という自己責任論が必ず出る。日本という圧倒的に治安のいい国に暮らしていれば、わざわざ危険な国を旅したり取材に出かけることは実に愚かな行為とされてしまうのだ。そうした「危険な国」「治安の悪い国」というのは、自分たちとは別の世界であって、そうした世界のことを知る必要もなく、そうした世界にアクセスする必要もないと多くの人は考える。
しかし、そこは同じこの地球上にまぎれもなく存在している世界なのである。人々が生きるために犯罪に手を染め、生命が虫けらのように軽く扱われている状況が今この瞬間も続いているのだ。
人は自分の生を選んで生まれてくることはできない。ヨハネスブルグのスラムに生まれてくることと、日本人として生まれてくることの間には絶望的な差が存在する。そこで安っぽいヒューマニズムを働かせて、「援助」という名の施しをその地で暮らす人々に与えることは何も変えない。アフリカにおける最大の産業とは、先進国からの援助を受け入れて分配することである。今のままの社会の仕組みが変わらない限り、この状況は未来永劫続くのである。
映画『ツォツィ』は、我々が営んでいる日常という平穏に対して突きつけられた反問の刃である。少なくとも我々にとって、事実を知るということは大切な義務ではないのか。何かをできるわけではない。変えられる方策を持つわけでもない。しかし、少なくとも同じこの世界で、必死に日々を生きている人々の存在を知ることは我々にとって必要なことではないのか。
南アフリカでは2010年にFIFAのワールドカップが開催された。しかしそれによって何かが変わったわけでもない。圧倒的な貧困と暴力は今も存在し続ける。
銀の街から
ツォツィ [DVD]
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2015年03月01日(日) |
「仰げば尊し」のない卒業式なんて・・・ |
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卒業式に必要なものは何か。卒業証書の授与とか校長先生のお話とか、答辞とか送辞とか、おきまりのさまざまな手順があるが、その中でもオレが大事だと思うのはやはり歌である。「仰げば尊し」が卒業式には不可欠だとオレは思うのだ。
実は今日、オレは次男の卒業式に出席した。いきなり「君が代」斉唱だったのでびっくりした。オレは大きな声で「君が代」を歌ったのだが、生徒もまわりの保護者もほとんど声が出ていなかった。せっかく歌うのだからもっと気合いを入れて歌えよ。それが国を愛するということじゃないか。
そして一連の儀式が済んで、生徒たちが別れの歌として歌ったのはなんか現代的なJ−POPの歌で、まあこれが今風の卒業式なんだと思ったが、卒業式の定番である「仰げば尊し」「蛍の光」が歌われなかったことにオレは愕然としたのである。なぜだ。どうしてあんな大事な歌がこの卒業式に抜けてるのか。それを歌わないでなんで卒業式の意味があるんだ。特にオレが許せないのは、この「仰げば尊し」がなかったことだ。
仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも はや幾年(いくとせ) 思えばいととし この年月 今こそ別れめ いざさらば
互いに睦みし 日ごろの恩 別るる後にも やよ 忘るな 身を立て 名をあげ やよ 励めよ 今こそ別れめ いざさらば
朝夕 馴れにし 学びの窓 蛍の灯火(ともしび) 積む白雪 忘るる 間ぞなき ゆく年月 今こそ別れめ いざさらば
ウィキペディアで「仰げば尊し」について調べてみると、どうやら歌詞が文語的で難解だから歌われなくなったとある。それなら意味をちゃんと教えればいいじゃないか。どうしてそこで簡単にあきらめてしまうんだ。そこで教えなかったことで、大切な日本の伝統が失われてしまうということがわからないのか。
卒業式で恩師に深く感謝して、そして友との別れを悲しむというごく普通のことを歌詞にしてるだけであり、二番の「身を立て、名を上げ」の部分が「立身出世」を意味するから時代にそぐわないという批判はただの言いがかりである。学校を出て働くようになれば誰もが自立して「身を立てる」のである。
せっかく公立学校の卒業式で「君が代」の斉唱を義務づけても、口パクだけで生徒も教師もしっかり歌っていない。それはおそらく「君が代」の歌詞が抽象的でかつ観念的であり、彼らがそれに心を動かされないからだと思うのだ。しかし「仰げば尊し」は違う。目の前の恩師や友を思い浮かべながら、「さあ今、別れよう」と決別を語る。その歌詞は涙無しには歌えないとオレは思うのだ。だからこそオレはこの歌は卒業式に必須の歌だと思うし、女子高生が涙を流しながらこの「仰げば尊し」を歌うことが、この上もなく美しい卒業式の瞬間だと思うのである。
もっとも今の高校生は恩師を敬う気持ちもないし、また敬うに値する恩師も存在しないという批判もある。オレのようなヤクザな教師が敬うに値しないのは事実なんだが、しかしそんな極端な例を出してもらっては困るのである。大多数の教師はオレと違ってまじめに教育のために邁進し、生徒を育てることに尽力していらっしゃるのである。そのことを忘れてはならないのである。
「仰げば尊し」はすぐれた歌である。この伝統が日本で失われつつあるのに、台湾の学校では日本統治時代に歌われるようになった歴史を引き継いで、今でも歌われてるという。もちろん歌詞は中国語なんだが、それでもオレはなんだか嬉しいのである。 ←1位を目指しています! m(_ _)m 投票博物館
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