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2001年02月12日(月) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「起死回生、大逆転?!」 |
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最後の最後まで諦めてはいけない。しかし、それを実践するのは言葉以上に難しいことだと思う。それでも、しっかり花を咲かせた選手はいる。
2002年夏、背番号「2」をつけたのは渡辺選手だった。当時のチームには、1年生のときからベンチ入りし、秋から正捕手として活躍していた下級生がいた。物怖じしない性格、元気の良さ、下級生ながらクリーンナップの一角を占めていた。対する渡辺選手は、彼がベンチ入りしていた昨夏もスタンドでの応援に回っている。私にとっては、試合に出ていないところか、練習試合でも1度見たか見ていないか程度の選手だった。
春になってから、練習試合では代打で起用されるようになった。対外試合初のホームランを打ったとも聞いた。でも、ポジションがポジションだけに厳しいなあと思ったのが、正直な心境だった。
春季大会ではよもやの1次戦敗退。チームはどん底。そんな中、6月の練習試合で正捕手がケガ。夏が危ぶまれた。それでなくても不安なのに、守備の要がいなくなる。どこまで不安材料を増やせば気が済むんだろう。巡り合わせを憎んだ。
そんな中、メキメキ調子を上げたのは渡辺選手だった。失礼ながら、意外だなと思った。この年のチームはキャッチャーが多く、他に試合経験を積んでいる捕手はいた。ところが、良く打ち、よく走り、懸命に守り…。これが2年半表に出ていなかった選手だろうかを目をむいた。
夏の大会の緒戦が終わったとき、彼をよく知る人に話を聞くことが出来た。やはり下級生との力の差が自身で分かっていたようだが、その下級生がケガをし、キャッチャーがいないという事態に陥ったときに、「自分がやらなければ」と思ったのだという。自覚というのはすごい力を持つと思った。でも、やっぱり試合に出れないときも腐らずやるべきことをやっていないと、土壇場で力など発揮できない。
この年は、逆転につぐ逆転で、京都大会を勝ち進んだ。でも、一番最初の逆転劇は、彼が勝ち取った背番号『2』に始まっていたように思えてならない。
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2001年02月11日(日) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「夏から夏へ…」 |
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2000年7月26日ー。私にとって9回目の“東山の夏”が終わった。それぞれが思いを残して、高校野球の舞台から身を引く。
今日の相手校、去年の夏も、今春の練習試合でも勝っていた。それだけに、借りを鮮やかに返されたのはとても悔しい。そして何より、もうこのチームの試合を見れないのが残念でたまらない。春以降は練習試合もたくさん見せてもらったけど、もっともっと見ておけば…という思いに駆られてしまった。
結成当初は何も魅力も感じられなかったチームだったけど、冬を越えてたら変わっていた。飛び抜けて上手いわけではないけれど、一生懸命やるチームになっていたように思う。それが粘りを生み、負けたもどこかで相手を手こずらせ、“ただでは負けない”チームになっていた。また、大差からの逆転サヨナラ勝ちのゲームがこれほど多いチームも珍しい。夏直前には、指摘されていた“元気”も出てきた。
ヒットを打った選手が、守備につくとき、応援団はその選手の名前を連呼。そして、選手は頭を下げて応じていたシーンがすごく印象に残っている。オエラ方がどう言うかは知らないでも、私はそこにチームの一体感みたいなものを感じた。9回表は、去年のこともあってか“ミラクル”コールが起った。若管選手が1点差に迫るホームランを打ったのは、この直後だった。新チームもこの一体感と元気の良さを受け継いで欲しいと思う。
7/30。敗戦から4日後。山科グランドに足を運んだ。真っ白な練習着をきた下級生たちが、グランドで汗を流していた。これでやっと気持ちに踏ん切りがついた。
さあ、10回目の“東山の夏”へ向けてスタートを切ろう。
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2001年02月10日(土) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム「若管くんの打球」 |
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打球は一直線にレフトスタンドへ向かった。一応固唾を飲んで見守ってはみたが、フェンスを越えることはわかりきっていた。
案の定、審判の手がぐるぐる回った。4−5。これで1点差だ。 バッターの名前は、若管裕樹という。背番号「5」をつけてはいたが、実質的には代打の切り札。小柄ながら、下半身がどっしりした、一目で「わ、当たったら、飛びそう」という印象を抱かしてしまう選手だ。ずっとレギュラーだったが、春を過ぎたあたりから出番が減っていた。その悔しさを晴らすかのような思い切ったバッティングだった。
もちろん、まぐれなんかじゃない。練習試合でもチャンスには必ず1本打っていた。私もその勝負強さにはいつも惚れ惚れしていたし、それより何より、あの打球の力強さが好きだった。ボールがあたかも自分の意志で飛んでいるかのようにまっすぐな軌道を描く。ああ、打球って一種の芸術なんだなとしみじみ思ったりした。
結局、試合は負けた。「みんながつないでくれる」(翌日の京都新聞に載った本人のコメントより)と信じていた彼は、最後の瞬間をどういう思いで迎えたのだろう。ここで姿を消すには、あまりにももったいない選手だと思った。
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2001年02月09日(金) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「岡島投手の実績」 |
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父兄さんとお話させていただく機会に恵まれたとき、選手が東山に入ったきっかけや理由みたいなものを訊くようにしている。そこで、こんな話を聞いた。
その選手が小学生のとき、東山高校は選抜大会に出場した。注目は現在巨人で活躍している岡島投手で、大会ナンバーワン左腕という声が挙がっていた。
大会終了後、彼は偶然街角で岡島投手を見かけた。駆け寄って、握手を求めた。岡島投手は快く応じてくれ、彼の丸坊主頭を見て、「野球やってんのか?がんばりや」と声をかけてくれたのだという。
それから、4年後、彼は東山高校野球部の門を叩いた。このときの出来事が全てではないと思うが、少なくとも、きっかけにはなっているのではないかと推測する。
意外にも思えた岡島投手のもう一つの功績。数字に表せない“夢”とか“憧れ”とか…。
彼は、ピッチャーで独特の雰囲気を持つ選手だったが、最後の夏は故障が尾を引いて、マウンドに立つことができなかった。
これから、彼の中で高校野球に対する思いがどう変化するかわからない。でも、いつの日か、結婚し家庭を持ったときに、子供と笑ってキャッチボールが出来る。そんな未来であって欲しい。
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2001年02月08日(木) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「私と東山をつなぎとめてくれたある選手のこと」 |
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本当言うと、私の中で東山の追っかけは99年夏で終わっていた。あれほど熱くなれる夏は、もうこの先何年応援してもないように思えた。それだけ私の中で強烈な日々だった。もう燃え尽きたと思った。
新チーム結成後の秋季大会は、太陽が丘で一度だけ見た。でも、スコアはおろか、対戦相手ですら記憶にない有様。春の大会も何故見に行ったのかよくわからない。ヒマだったのが、単なる習性なのか…。
ところが、そんな怠惰な私に強烈な印象を残す選手と出会うことになる。その選手は当時、4番ファーストを守っていた。99年夏を応援団として、盛り上げていた選手だ。
「いいな」という基準が、技量を意識したものであるとすれば、お世辞でもそうは言えない(ごめんなさい)。しかし、がっちりした体から元気の良さが溢れていて、見ていて楽しくなった。後輩にも積極的に声をかけていて、“お兄ちゃん”という感じ。この日、見ていた試合は負けたけど、「練習試合を見に行かねば」と思うことが出来た。
試合がつまらなくても、とりあえず、彼を見ていればそれでよかった。そうして、私の追っかけ生活は延命している。
もし、あの試合、東山が一塁側でなければ、彼を目の当たりにすることはなかっただろう。そうすると、今こうして追っかけを続けているとは、考えづらい。
これは、偶然か必然か。答えが出るのは、まだ先の話。
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2001年02月06日(火) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「雨の遊園地」 |
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1994年の夏は、あまりにも唐突に終わりを告げた。私たちは戸惑いを隠せずに、ただ球場入り口のスロープに体重を預け、人の流れを眺めていた。
そんな私たちに、「見覚えがある」程度の印象しか残っていなかった父兄さんが声をかけてくださった。このチームの試合は秋に一度見たか見てないか程度だったが、その父兄さんは顔を覚えてくださっていたらしく、「わざわざ来てくれたのに、負けてしまってごめんねえ」とすまなそうな表情をなさった。
息子さんは、この夏ようやくベンチ入り出来た選手。試合には出ていない。どういう経緯で、そういう話になったのかは記憶していないが、その父兄さんはこう話してくださった。
子供の頃から、“野球、野球”でしょ。 土日はいつも少年野球の練習。 そうやねえ、どっか行くとしたら、雨の日くらいかな。 雨降ったら、練習が休みになるから。 遊園地とかも雨の日に行ったんよ。 人もほとんどいなくて、乗り物にもあまり乗れなかったけどね。
雨の日の遊園地なんて、私の人生には無縁だった。遊園地は晴れた日に行くもの。雨が降ったら中止。大人しく家でお人形さん遊びとかしてたっけ?
上で野球をする選手も、そうでない選手も、しばらくは野球から離れることになる。晴れた遊園地には誰と行くのかな?
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2001年02月05日(月) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「あの微笑みを忘れないで」 |
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3年生が最後の夏を終えたあと、真っ先に私たちに見せる表情について考えた。テレビで映る涙にくれる光景の印象が強く、高校野球の終わりはそういうものだと思いがちなのだが、実は、球場を一歩出た選手の涙はもうすでに乾き、明日へと向かっているように思う。
93年夏、太陽が丘球場で夏を終えた“彼”が見せたのは、笑顔だった。雨が上がった後にかかる虹のような、涙のあとの笑顔だった。強烈に印象に残っている。
彼は、控え選手として甲子園のベンチに入った。敗戦濃厚の終盤、代走として出場したが、夏はスタメン出場を果たしていた。きっと甲子園のスタメンを夢見て、大会に挑んだんだろうなと思った。
負けて笑ってるなんて不謹慎!だとは思わなかった。ただ今までいろんな人の笑顔を見てきたが、その中でも一番素敵な笑顔だなと思っただけ。個人的に彼のファンというわけでもなかった。
実は、彼とは出身中学が一緒で、同じクラスになったこともある。でも、話したことはない。
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2001年02月04日(日) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「健ちゃんコーチ?!」 |
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練習を何度か見に行くと、「へい、らっしゃいっ!」という気合いの入った声が聞こえてくるのに気付いた。「えらい元気のいい選手がいるんやなあ」と思っていたら、それはコーチの声だということがわかった。コーチの顔はわかるようになったものの、名前を知らなかった。
私たちは、ただ似ているというだけで、学校の体育の先生のニックネーム“健ちゃん”をそのまま拝借した。以来、コーチは「健ちゃんコーチ」となった。見れば、見るほどそっくりだった。
夏の大会が終わった次の日、『速報!甲子園への道』で、東山が紹介された。山科グランドでの新チームの練習風景をバックにレポーターが何か話していた。耳を澄ますと、聞き慣れた「へい、らっしゃいっ!」の声。
あ、健ちゃんコーチや♪ うれしくなった。
ちなみに。 健ちゃんコーチとは、その後野球部長を経て、97年秋から采配を振るっておられる山崎智史現監督の若き日の姿です。監督、ごめんなさい…。m(_ _)m。
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2001年02月03日(土) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「1993年夏に捧げる詩(ともきちver.)」 |
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『’93夏 〜大好きなみんなへ〜』
「暑い…」 「ホンマやわー。ほんと夏ってあつくるしい」
…そんなことばと一緒に、
暑い夏がめぐってきたね…。
今年は
みんなにも 私にも 最後の夏。
いよいよ、なんだね。
この時のために
練習してきた……じゃなくて、
この時が
一生懸命練習してきたみんなを
まってた。
ー昨夏、7月28日に忘れ物をしてしまったあの球場は
きっとそのまま。
今年は、いくつの感動を
プレゼントしてくれる??
宝物をくれた去年の夏。
笑って泣いて…
必死になってた。
一生懸命のホントの意味、
わかったような気がした。
今、
あのとき無造作においてた
ポカリスエットの影すら
いとおしくなる
「ありがとう」
何億回言っても言い足りないほどの
たっくさんの宝物
もらっちゃった…ね。
どうやって、おかえししたらいいのか
わからないまま、月日が流れて、
もう、1年もたった。
また今年もおっきな宝物、
くれそうな気がする……。
両手で抱えきれないくらいの…。
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2001年02月02日(金) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「1992年夏に捧げる詩(あるこver.)」 |
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『その瞬間 〜ある日、真夏の球場で〜』
その瞬間 力が抜けた
さっきまで緊張していた全身から
今日も勝つと思ってた
いつも苦戦していたけど
いつも勝っていた
みんなの信じられない程の活躍に
心を打たれまくって
心が痛かったくらい
今日も押せ押せムードだった
9回ツーアウト
“負けたくない” “負けないんだ”
そんな思いをいっぱいこめて
大声を出した
胸にこみあげてくる何かを抑えて
声を出さないと
負けてしまう気がした
その瞬間
そこだけ時間(とき)が止まった
まるでフィクションの世界の中に
いるような気がした
その瞬間 夏は終わってないと思ってた
思いこもうとしていた…
『Beyond description』
みんな普通の男の子なのに
グランドの中にいると
変わるんだね
一生懸命なみんなは
すっごくかっこよくて
すっごく素敵で
ちょっぴり うらやましかった…
「ありがとう」ですませていいのかな
みんなに会えたこと
それでいいのかな…
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2001年02月01日(木) ■ |
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東山高校硬式野球部関連コラム 「1992年夏に捧げる詩(ともきちver.)」 |
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『Please stop that time』
みんなの笑顔や
みんなのガッツポーズが
一体となった一塁側のベンチとスタンド。
飛び散る水や
無造作に置いてあるポカリスエットの
空き缶の影
もう二度と
あの時のまんまのことは
訪れることはない。
ー最高潮。
そんなコトバがぴったりの笑顔が
とびかっていた。
時と止めてほしかったあの瞬間
『ものすごいこと』
たくさんの人を泣かせた
あの年のあの夏のあの球場は
すごいよね。
応援しまくってのどがからからになって
もらったポカリをぐいっとのんだこと
忘れないよね。
ものすごいこと。
多くの人の心をゆれうごかして
必死にさせたこと
あの日の球場の9回の攻撃…
『通り過ぎた夏へ’92』
あの人達なしでは
夏は来ないと思っていた。
だからそのまま
夏は通り過ぎていった。
来る一歩手前で
そのまま、行ってしまった
二度とこないもの。
でももしかしたら
再び自分の手で
通り過ぎた夏を
つかむことができるかもしれない。
夢は後輩達に託してしまったけど。
(タイトル:あるこ、文:ともきち)
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