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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2001年01月20日(土)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「花道」


 2002年夏、スタンドに印象的な光景があった。

 試合終了後、通路で父兄さんたちが花道を作っていた。奥で応援していた吹奏楽部の生徒や応援に回っている部員たちは、出口の位置の関係で必然的にその花道をぐることになる。父兄さんはその一人一人に声をかけていく。

「おつかれさま」
「今日はありがとう」
「次も頼むね」

 私もどさくさに紛れて花道を通ってしまったが、そのあと立ち去りづらくて、何故か花道に加わってしまった。時間経つにつれ、花道はどんどん長くなる。そして、それは最後の一人になるまで続けられた。応援団は一人残らず、花道をくぐった。

 昼下がりで日差しがきつかった3回戦も、すっかり日が暮れてしまいナイターになった4回戦でも、壮絶な試合に疲労困憊した準々決勝でも、それは変らず行われた。準決勝以降は人が多く、私はネット裏で観戦していたので、その光景を目にはしていないが、きっと同じことが繰り返されていたのだと思う。



2001年01月19日(金)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「集合写真」


 グランドでデジカメを持ってうろうろしていることを気にかけてくださっていたのか、ある父兄さんが、「うち、写真撮ってるし、いいのがあったら分けてあげるわ」と声をかけてくださった。夏の大会前だったので、会えない可能性を考え、住所と名前の書いた簡単な名刺を渡しました。

 数日後、写真が郵送されてきてびっくり!3,4枚の写真が同封されていました。写真は、練習試合や激励会でのものでした。いずれもいいカメラでないと撮れないようなアングルで、感激しました。“画像をHPで使わせてください”という申し出は、残念ながら却下されてしまいましたが、その理由がまたいい。

 “当日、○○君が欠席していたことがわかりました。全員が写っていないので、インターネットには載せないでくださいね”

 その一文を受け、人数を数えてみると、確かに1人足りないんです。
 
 この精神ってすごくいいなと思いました。たった1人欠けてもチームじゃない。1人1人を思うこの方の人柄を良さを感じたと同時に、この夏はいい雰囲気で望めるかもしれないというかすかな予感がしました。

 追伸、その後、何枚か写真を頂戴していますが、「私の写したのは載せたらあかんで(笑)」と釘をさされてしまいました(^^;)…。



2001年01月18日(木)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「握手」


 応援史上初めて、遠征たるものに足を運んでみた。夏の甲子園が終わったばかりの8月下旬。ずっと行ってみたいと思ってはいたが、なんかやりすぎかなあと思って、なかなか踏ん切りがつかかなった。

 この年は、のっけから「見に行きづらいなあ」と思って、応援熱はそれほど高くなかった。当時はもう就職するつもりだったので、「これで最初で最後や。父兄さんに気付かれないように、目立たないところにいればいいや。そうや、私は東山の試合ではなく、相手校のグランドを訪問するに過ぎないんだ」。一生懸命自分に言って聞かせて、早朝の電車に乗った。

 ところが、私のことなんてご存じないと思っていた父兄さんたちが、「こんにちわ、遠くまでご苦労さん」と声をかけてくださったのだ。地元では声をかけてもらえることなんてほとんどなかったのに…。びっくりした。

 遠征は、人と人との距離を近づける不思議なイベントだと思った。父兄さんの車に乗せてもらって、お昼をご一緒させてもらった。お話もたくさん出来たかのように思う。「これで最後」と思ってきた遠征なのに、ますますハマることになろうとは…。

 帰り、車で来られていた父兄さんに近くの駅まで送っていただいた。降りしなに手を差し出された。「今日はありがとね」。私は、体のわりに大きく広いその手をぎゅっと握った。




2001年01月17日(水)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「選手は知っているの?」


 夏の暑い日、スコアをつけながら試合を見ているときに、取材を受けたことがある。某新聞社の記者で、かなり若そうなお兄さんだった。そのとき訊かれたことで、ちょっとひっかかったことがあった。「選手は知っているのですか?」。

 知るわけないやん、話したことのないのに。心の中の言葉と裏腹に、「さあ、知らないんじゃないですか?私、関係者とちゃいますし、話したこともないですから」と控えめな言葉を口にした。記者のがっかりした表情を見逃さなかった。記者は「明日の朝刊に載せるかもしれませんので」と言って名刺をくれたが、載ることはないと思った。

 話したことない、実はスパッとそうは言い切れない。選手とは話したことはある。追っかけ初期の怖いモノ知らずのころや、今では父兄さんと間違って何か訊いてきた新入生に対する受け答え程度のものだが。

 1992年は特別だったと思う。私たちより年上の選手がいたからというのもある。話しかけやすい選手が多かったし、年下ということで、相手も気楽に受け答えしてくれた。甲子園に出たからと言って鼻にかけるような態度ではなかったのも、好感を持った一因。

 当時は、練習や練習試合の帰り、部員とはちあったことも何度かあった。私はまだ男性恐怖症みたいなのが残っていたので、ともきちと彼らが話すのを横で聞いているだけだったけど、それはそれで面白かった。ある選手の彼女が私たちの同級生だったので、どんな学校なのかを訊かれた。クラスについている名前が他校とはちょっと、いやかなり違うので、彼はそれにウケていたようだった。

 そのうち、私も話せるようになった。でも、内容はほとんど覚えていない。憧れの高校球児と話すという願ってもいないチャンスにうかれきっていて、それどころではなかったのかもしれない。

 1993年以降、選手との距離がどんどん遠くなっていくのを肌で感じている。でも、「だから、何?」という感じ。私はあくまで東山の野球を見たいだけで、高校生と話したいとは思わない。じっと目を凝らして見ていると、グランドの選手は口以上にものを言っているように思う。むしろ、私はその言葉に興味を覚える。でも、そういう考えは世間一般では理解されないんだろうな。記者のがっかりした表情を見て思った。



2001年01月16日(火)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「銀色の輝き」


 銀メダルをこの目で見たことがある。

1997年、京都大会の決勝戦終了後、父兄さんに駅まで送ってもらったのですが、そのとき、選手がもらった銀メダルを見せたもらったのです。

 メダルは思ったより、小さい長方形でした。ちっちゃいなあ。ただそう思っただけでした。もっと感激や感動するかと思ったのだけれど。

 「さわっていいよ」と言われた記憶があるようなないような…。でも、とてもじゃなけど、そんなことできなかったです。

 ああ、このメダルの色が違うだけで、
 憧れの大舞台の立てるんだなあ。

 たいしたことないように思いたかった。たかが色違いやんって。きっと積み重ねてきた汗や涙の量に大差はないよ。



2001年01月15日(月)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「おつかれさまでした」


 1997年の東山は、京都で一番長い夏を敗戦という形で終えた。

 いろんな思いはあっただろうけど、球場から出てきた選手の顔は晴れ晴れしていた。人目かまわず彼女と2ショット写真を撮る選手もいた。普段ならいい感じがしないのだが、このときはほほえましくすら思えた。

 エースピッチャーは顔立ちの整った女性ウケするタイプだ。そのため、お母さんの間でも人気者で、何人かのお母さんは一緒に写真を撮っていた。

 すでに選手と話すことはなかったが、このときは不思議と何か一言言いたいと思った。それはともきちも同じだった。

 私たちは、ちょっと離れた場所にいたのだが、偶然彼が一人で側を歩いていた。若干距離があるので、大きな声を出さないと聞こえない。こういうときの行動力はともきちの専売特許。「あのー、おつかれさまでした。…楽しかったです」

 すると、彼はこちらを向いて軽く脱帽し、会釈した。困ったような笑顔だった。後で、「試合で負けたのに“楽しかった”なんて言ってしもた。恥ずかしー(>_<)」と彼女は赤面していたが、でもそれが私たちの偽らざる気持ちだった。

 あと一歩で逃した甲子園。でも、それよりもうこのチーム、この父兄さんたちと試合を見れないのが悲しい。泣いて、笑って、怒って…本当に楽しかった。夢のような10数日間だった。

 あの華やかな舞台は、苦しい練習を乗り越えてきた選手たちのためにある。なんだか便乗したみたいで申し訳ないなあと思いつつ、でも、応援は止められないなと改めて思う。



2001年01月14日(日)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「宝物」


 1995年の夏のこと。
 京都大会準々決勝でチームが勝利を収めたのを見届け、ともきちと2人で球場を後にしようとすると、後方から誰かの呼び止められたような気がして振り返った。そこには試合が終わったあと、歓談している父兄さんがいらっしゃった。

 父兄さんが私たちを手招きしている。「何やろ?」と思って駆け寄ると、「これ、あげるわ。来年も再来年も応援にきてね」。

 その父兄さんはご自分のカバンからおもむろに差し出した帽子を私たちにくれた。藤色地にツバの端に白色の筆記体で「Higashiyama」と書かれている。当時、お母さん達がおそろいでかぶっておられたサンバーンだった。びっくりした。

 私たち2人はただ驚くだけで、お礼の言葉も上手く口にできなかったように思う。おそろいの帽子、なんだか仲間にしてもらえたような、私たちの存在を認めてくださっているように思えて嬉しかった。

 残念ながら、このサンバーン、負けクセがついてしまい、今では試合でかぶることはない。でも、これは私の宝物! 生まれて初めて、そんな感情を持ったように思う。 

 幾度もバージョンアップを繰り返し、今の父兄さんたちがかぶっておられるものとは違うので、もう手に入らない。



2001年01月13日(土)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「ともきちのウイニングボール?!」


 滋賀県内にあるともきち邸の部屋には、東山で使われている公式ボールがあります。表面には、「東山高校」と印刷されています。いや、盗んだものでもなんでもないんですよ。もらったんです、一応。

 93年春、山科グランドで練習か何かを見ていたとき、顔を知っている程度のOBがひょっこりやってきて、「これ、やるわ」と言って正面にいたともきちの手の平にボールを置いていった。そのおっちゃんは、お礼を言う間もなくどっかに行ってしまった。私たちは呆然としてそのボールを眺めていた。ともきちは、戸惑うばかりで、「どうする?このボール誰がもらう?じゃんけんでもしよっか?どうせなら一人1個づつくれたらよかったのに…」と私たちの様子をうかがっていた。

 しかし、OBのおっちゃんは私たちではなく、ともきちにくれたのだ。私は、「自分がもろとき」と言った。一緒にいた残り2人の女の子(回顧録「後輩」参照)も同意してくれた。私はすでにこのころから、ともきちの東山に対する思い入れと行動力に敬意を抱いていたもかもしれない。ともきちは、「わかった、じゃあ、試合のたびに持ってくるわ」と言って、嬉しそうにボールを握りしめていた。

 それにしても、あのとき何故おっちゃんは、ともきちにボールをくれたのだろう。当時はたくさん女の子が詰めかけていた。一人一人にそんなことをしていたらキリがないはず。そんななか、私たちを選んだ根拠は何だろう。そういえば、その前に「硬式ボール、触ってみたいなあ」という話をしたようなしてなかったような…。

 後日、ともきちに言って、ボールを触らせてもらった。初めての硬式ボールの感触は、堅くて小さかった。心に残った選手にサインを書いてもらおうという企画を企てたこともあり、印字の裏側にはある選手にサインをしてもらった。そのボール、長年握りしめているせいか、だいぶ黒光りしているが今でも重宝されている。



2001年01月12日(金)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「後輩」


 ある日、父兄さんにこう言われたことがある。「昔は強かったから、応援していても楽しかったんちゃう?それに比べて今は弱いし、ごめんねえ」。私は首を振った。当時は、いいことと同じくらい、いやそれ以上にイヤなこともあったのだ。自分の力ではどうすることもできないやるせなさとともにあった時代だと言っていい。

 1993年春、チームは甲子園に出場した。残念ながら結果は出せなかったが、それでも人気は衰えることなく、試合にもグランドにもいつも大勢の女の子たちが詰めかけていた。

 この人気が嬉しい反面、げんなりともしていた。“一緒に応援したい!”と思えるようないい女の子がほとんでいなかったからだ。男の子から見たいい女の子と、女の子から見たそれは明らかに違う。選手の気を引くために派手な格好をした子、選手のカバンについているキーホルダーをちぎる取るような輩と一緒にはされたくないと思った。でも、世間では私たちもそんな子たちも同じ“甲子園ギャル”となる。あーあ、イヤやな。

 そんな中、唯一“いい子だな”と思ったのが、大阪の女子高に通う2人組の女の子。1つ年下。敬語がきちんと使えるし、ところかまわずキャーキャー言ったり、選手にこびを売ることもなかった。その上、とびっきりかわいい&美人ときている(実際、選手の声をかけれらた子もいた)。彼女らを加え、4人で行動するようになっていた。私にはそれが嬉しかった。彼女らは、追っかけ歴的には後輩となるのだが、ホンマの後輩だったら最高やのになあと思った。

 それにくらべ、我が母校の本物の後輩の情けないこと!

 夏の大会、試合に負けたあとに選手を追いかけて、キャキャ言っている。それも目立つ制服姿で。ああ、やめてよ、同じ学校通ってるなんて恥ずかしいわ。

 ホンマの方の後輩の女の子は、学校を出てすぐ就職してしまったため、試合で見かけることはなくなった。でも、ともきちの家にはしばらくは年賀状が来、東山の動向を気にする文面があったのだという。



2001年01月10日(水)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「姉ちゃん、また来てな」


 夏の大会の楽しみの一つは、なんと言っても試合後に飲むLサイズのジュース。

 私たちは、試合中は飲み物を口にしなかった。思いっきりのどをカラカラにしておいてから、球場内の売店に駆け込んで、ジュースを頼む。たいていコーラを飲んでいたのだが、その1杯のおいしいこと!酒を常飲する今日この頃、飲酒以前の自分をあまり考えられずにいるが、そのときにはそのときの楽しみがあったようだ。

 カラカラの喉を刺激する炭酸、その場でなりふりかまわず一気飲み。無心になれた。試合を見る目的の一つは、この快感にあると言っても過言ではなかった。

 ある日試合終了後、いつも通り一気飲みを敢行していると、トレーナーを着た応援団の部員と目があった。すると、彼は「姉ちゃん、また来てな。」と言った。周りは混み合っていたが、目線で私に言っているのがわかった。

 顔を覚えててくれてるんだ…。私はうれしさと恥ずかしさで放心状態になっていた。うまく返事出来ずにいると、彼はもう視界から消えてしまっていた。




2001年01月09日(火)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「応援スタンドに乱入」


 高校野球部や特定選手を応援していると、チームの勝利やその選手の活躍以外の願い事が出てくる。たとえば、サインだったり、ツーショット写真だったり、電話番号の交換だったり、メールのやりとりだったり…。じゃあ、私もそうだったかというと実はそうではなかった。私のただ一つの願いは、水をかけてもらうことだった。

 “水をかける”。1992年の東山高校応援団は、試合で勝ったあとはえらい大騒ぎで、思いあまって、水をかけあうことがあった。その日の試合もすごくエキサイティングで、私もともきちもすっかり興奮しきっていた。気付いたら制服姿のまま、応援団の群れに乱入。わけわからないままにわいわい騒いでいた。選手の中には、私たちにハイタッチをして応じてくれる人もいた。

 そんななか、水を掛け合う選手たちがいたのだ。私は興奮状態の中にありながら、「うわ、いいなあ」とその光景に憧れた。すると、選手だか若いOBだかが、横で騒いでいるともきちに水をかけた。ともきちは、びっくりしてたけど、嬉しそう。かけた相手は、ちょっとやりすぎたかなあと申し訳なさそうにしていたけど、当のともきちは一向に気にする素振りはなかった。

 いいなあ、私も水かぶりたい。そう思った。でも、「私もかけてください」なんて恥ずかしくてよう言わんし、それにそういうことは自分の意志に関係なくされなければ意味がないように思えた。水をかぶるという選手と同じことをすることで、応援団の一員になりたかったのかもしれない。

 後に、他のファンの女の子から「何、あの子ら」みたいな陰口を叩かれていることを人づてで聞いた。不思議なことに、全然気にならなかった。熱い日に熱いスタンドにいると、暑さを忘れるものなんだという不思議な体験は何にも代え難い。




2001年01月08日(月)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「あのう、もう10年経ちましたけど…」


 高校生だったある日、山科グランドで練習試合を見ていた。当時は、まだかわいい女子高生(?)だったので、選手をもっと近くで見たいと、フェンスにへばりついていた。

 すると、相手校の関係者らしいおっちゃんに、「お前らがそんなところで見るなんて、10年早いわ」と言われた。頭に来た。なんで、あんたにそんなこと言われなあかんねん。東山の父兄さんに言われるんなら諦めつくけど、自分、関係ないやん。負けてんのが気にいらへんのとちゃうん。

 でも、ここは神聖なるグランド。ここで声を荒げたら私たちの負け。泣く泣く引き上げ観戦場所を移したのだが、今でも思い出すたびに腹が立つ。

 そういえば、もうあれから10年やねんなあ。あのときのおっちゃんに会ったら訊きたい。

 「あのー、もうあそこで見てもいいですよね?」




2001年01月07日(日)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「不覚の一言」


 残念ながら近畿大会で敗れてしまった東山だが、私の中で、東山に対する興味はあの試合で倍増した。今まではともきちにつきあわされてというニアンスでグランドに足を運んでいた私だが、それからは同じ誘われるにしても、気持ちは積極的になった。

そして、その度に立ち寄っていたのが『るるぶ』。グランドに行く前に、ここで夕食や昼食、お茶をする。当時、ここの常連さんの一人に某父兄さんがいた。私たちがコーヒーを飲んでいると、マスターが紹介してくれた。「この人、○○(選手名)のお父さんやで」。カウンター席、2つほどあけて腰掛けておられた故横山やすし氏の面影が少しあるその父兄さんは、ちらっとこちらを見て会釈した。

 初めて会う“選手の父兄さん”という存在。私もともきちも、「何か話さないと」とあわてて、持ち得ていたちっぽけな東山に対する知識を一生懸命探り当てた。近畿大会の話になった。現状では厳しいというころは、私たちもわかっていた。ちょっと重苦しい雰囲気になった。なんとか話を続けなければ。私の苦肉の策は…。

「どっかが不祥事でも起こしてくれたら、出れるんですかね」

 !!!
 言葉を発し終わる前に、“やばい”と思った。ずっと穏やかだった父兄さんの表情が一変したのだ。

 「そんなこと言ったらあかん」。父兄さんは、厳しい表情をなさった。父親に叱られているような感覚だった。私は何も言えず、ただ体を小さくして、「すみません…」と言った。

 父兄さんもあっさりした方で、頷いて見せると、それからは何事もなく話が進んでいった。それにしても、“知らない”とはなんと恐ろしいこと…。




2001年01月06日(土)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「がんばれ、がんばれ、tohzan!」


 初めて見た東山の試合は、近畿大会の神戸弘陵戦だ。11月頭、まだ改装前の皇子山球場で行われた。日常世界から抜け出したようなまぶしさが印象的な点灯試合。黒袴を着て踊っていた相手校応援団に印象が未だに色褪せない。

 試合に内容、今となっては覚えていない。ただすごいいい試合で手に汗を握っていたっけ?

 ピンチも幾度となくあった。そのたび応援団が声援を送る。「がんばれ、がんばれ、岡島」団長のかけ声のあと、残りの団員がリピートする。これが、ピッチャー→キャッチャー…の順で進み、ライトの選手の名前が呼ばれたあとは、「がんばれ、がんばれ、とうざん」で締めくくられた。

 私の中で、この応援が強烈に印象に残った。応援は、攻撃中にするものだとばかり思っていた。だから、守備のときの送られた声援は衝撃的だったのだ。そして「あ、これこそ“応援”なんかもな」と思った。

 延長13回、負けた。「負けたら、カバン、投げつけんねん」と言っていたともきちは、石畳の上に10円玉で厚さを縮めた学生カバンをたたきつけた。
 
 負けたのは悔しかった。でも、それ以上に感動した。あの日があったから、今の私がいる。あれから10年以上経つが、あのカクテル光線とナインの姿が忘れられない。




2001年01月05日(金)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「るるぶ」


 東山高校山科グランドのすぐ側に『るるぶ』という喫茶店がある。

 私とともきちが、初めて山科グランドに足を運び、息を殺して練習風景を見ていたとき、背後で知らない人の声がした。

 「誰のファンなんや?」
 びっくりして、心臓が飛び出そうになった。ビクッと静電気が走ったようなときの仕草で声のする方を振り返った。見たことないお兄さんとおじさんの間くらいの男性が立っていた。近所の人かな。にしても、そんなんグランドの中にいる選手に聞こえてたらどうすんねんさー。恥ずかしいわあ。

 それが、『るるぶ』のマスターとの出会い。当時同校を指導されていた長谷部監督がお客さんとしてよく店に来られておられたのだという。仕事の合間に、グランドに足を運んで練習を見に来るのだとおっしゃっていた。

 それから、ともきちと二人で『るるぶ』に足を運ぶようになった。まだ父兄さんとお話出来なかった私たちは、このマスターにいろいろ教えてもらっていた。

 甲子園に出ていたことは、カウンターの端に立て掛けてあるコーヒーチケットに監督さんを始め、父兄さんやマスコミ関係者の名前を見受けた。また、試合後の審判の方が汗を拭きながらアイスコーヒーを飲んでおられたこともあったっけ?

 応援を通して多くの人と出会ったが、つきあいの継続性でこのマスターを越える人はいない。成人式のときは、ともきちと共に振り袖のまま、店の足を運んだ。学校を出てからは、行くたびに「まだ見にきてんのか。はよ、結婚でもしぃや」と言われるのだけれど(苦笑)。

 1年ほど前、「自分、えらい肥えたなあ」と言われたのがショックで、それ以来姿を見せていない。きっちり痩せたら、あのドアを開けてみようと思う。そのときまで、覚えててくれてるかな?

 ちなみに、2人のお気に入りはフルーツサンド♪




2001年01月04日(木)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「夜のグランド、白い息」


 数日後、私は案の定、山科グランドにいた。

 当時、私もともきちもまだ予備校に行ってなかったので、放課後部活が終わるとフリーだった。季節は確実に冬に向かっているころで、日はとっぷり暮れ、空は星の光が映える深紺色だった。時間帯にしてはそんなに遅くなかったと思うのだが、すごい夜遅くに行ったような印象はぬぐいきれない。

 最寄駅である京阪電車「御陵」駅で降りると、すっかり寝静まったような静かな小路をひたすら南下した。行けども行けども辿り着けず、道を照らす電灯もなんだか心細い。もう帰ろうや。何度そう言おうと思ったかわからない。

 ようやく到着したグランドは、すごく静かだった。もう練習は終わりにさしかかっていて、不自然なほどまぶしいライトの下で、選手たちは規則正しく並んで走っていた。グランドの門は開いていた。その気になれば入れたかもしれない。あまりの静けさが私たちにそれを許さなかった。

 私たちは、隣の家のガレージのブロック塀から顔を出し、息を殺してその光景を見守っていた。

「ひ〜がしやまっ、ファイトッ!」

 記憶する限り、彼らはそんなかけ声をともに走っていたように思う。白い息がやけに私に中で鮮やかだった。ふー。私の口からも白い息は出たが、彼らのそれは別物のように思えた。




2001年01月03日(水)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「始まりは京阪電車」


 高校のとき、京阪電車の京津線で通学していた。滋賀県と京都市内をつなぐ電車で、2両編成の車内は通勤通学客で混み合っていた。路面を走る電車で、渋滞のときが大受難。

 そんなある日、一緒に通学していたともきちが言った。「かっこいい人、見つけてん。ガシの野球部の人」こいつ、いつのまに…。ちょっと羨望を含んだ目で彼女を見ていると、気付いたら、東山の学園祭に行くことになっていた。野球部の情報を仕入れるらしい。

 男子校の学園祭、実は興味よりめんどくさいなあと思ったのが正直なところだった。ただ、小学校のときに好きだった男の子が中学から東山に行き、風の頼りで高校にも上がっていると聞いていたので、「あ、もしかして会えるかも」と漠然と思った。(結局、会えました。と言っても見ただけだけどね)

 男子校の学園祭は自分の学校のそれよりはるかに楽しそうだった。いろんな企画が盛りだくさんでまさに“祭”という感じだった。

 でも、肝心な目標はそれではない。校内をうろつき野球部員を探してた。すると、出来過ぎたドラマのように、向こうから歩いてくる野球部員を発見。野球カバンを肩にかけ、頭はもちろん丸坊主。

 こんな至近距離で高校球児を見たのは初めて。軽く興奮してしまった。ともきちは、それどころではない。練習場所やお目当ての子のことなど必死で聞き込んでいた。私はすごく背の高いその部員をずっと見上げていた。首痛いなあと思ってた。

 実は、この日、野球部は試合だった。京都大会の準決勝か決勝か。選抜行きをかけた近畿大会に向けて闘っている最中だった。

 練習は、学校内ではなく、市内にある山科グランドという場所でやっているという。あ、あと2,3日で連れていかれるな。帰り道、すっかり陽気になっているともきちの顔を見てそう思った。



2001年01月02日(火)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「追っかけ姉ちゃん」


“姉ちゃん”という言葉の響きが好きだ。 

2人姉妹の末っ子である私は家族内において、自分の名前以外で自分を表す代名詞を持っていない。

ある日、OBの父兄さん同志が集まって飲み会をするとのことで、偶然、私とともきちも誘ってくださった。この時期は、まだともきちが前面に出ての追っかけ活動だったので、私のことを覚えてくださっていない方も何人かいたが、それでも、「ああ、元気やってんの」と声をかけてくださる方もいて、嬉しかった。

ところが、顔は知っていても名前は知らない関係。ビールを注ぎに来てくださった陽気なお父さんから出てきた言葉は。

「お、追っかけ姉ちゃん、ま、一杯飲みぃや」

いい響きだ。一遍に気に入ってしまった。

というわけで、このコンテンツでは、“あるこ”ではなく“追っかけ姉ちゃん”でいかせてもらおうと思う。




2001年01月01日(月)
はじめまして、あるこです。


 はじめまして。京都で野球ファンをやっています“あるこ”と申します。これから、このスペースを使って、野球日記たるものを書いてみようと思います。ルールもうろおぼえ、ボールの握り方の知らない…そんな野球ド素人の私ですが、それでも野球日記を書く権利はあるはず(笑)です。他の野球日記とはちょっと違ったアジを出していければ、至福ですが、さてどうなりますことやら。拙い文章が続きますが、暖かく見守っていただければ嬉しく思います。

☆この日記の主な登場人物及び団体☆

○あるこ→この日記の作者。京都在住。社会的未熟児。
○ともきち→あるこの親友。かつ東山追っかけ仲間(?)。滋賀県在住のOLちゃん。
○相方→あるこの相方。兵庫県在住。あること違い真っ当な会社員。
○応援校→東山高校と同義語。命の源?!

※日記の正式な開始日は、2001年3月31日からです。2001年1月2日から3月30日のスペースを使って、削除されたコンテンツに置いていたコラムを転記しています。ですので、日付と内容には一切関係ありません。よろしくご了承ください。

1月のスペースは応援回顧録を、2月のスペースには東山高校硬式野球部関連コラムを転記しています。