ぶつぶつ日記
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大阪の知事である太田房江氏は女性なので、 大相撲大阪場所の表彰のために、土俵に上がれない。 いわゆる女人禁制だから。 実際、いまさら女人禁制もないだろうと思うが、 女人禁制を全廃ってのも、 なんだか味気ない気がするのは、私だけだろうか?
もちろん、男女差別はあってはならないこと。 ほとんどのことにおいて、男性も女性もなんら差はなく、 ある程度同等に渡り合えることは事実。 男だから、女だから・・・なんてのは、 いい訳と悪口くらいにしかつかえない世の中になるのは、 結構なことだ。
でも、私がもし家でお産をすることになり、助産婦さんを頼むとしたら、 それはおばちゃんが良いなあ。 どっしりとした安心感のある、女性が良い。 そして、女子修道院に男性が入ることを禁止していることを、 問題にする人がいるだろうか?
すみわけ、というのを時々考える。 お互いの立場を尊重するとか。 例えば、大阪知事のケースの場合、 相撲協会が特例として太田氏が土俵に上がるのを認める ↓ 太田氏は伝統に敬意をはらい、代理人を立てる・・・ みたいな事かなあ。
お寺が女人禁制なのは、さもはからんや。 それで収入(?)なり、檀家なりが減ることまで覚悟して、 その伝統を守ろうとするなら、 それはそのお寺のやり方じゃないだろうか。 もちろん、伝統文化は全ての人のものではあるが、 同じ基準で世界の全てを計ろうとするのは、 あまりにも無理がないかな。 偏屈な頑固じじいみたいな風習が一部で残っているのは、 そんなにいやなことじゃない。
私の周りでも、韓国ドラマの「冬のソナタ」が流行っていて、 大泣きした人もいれば、話は面白かったけどどこで泣くの? という人にわかれている。 それで、最近どんなものみて泣いたか、という話になり・・・。 ドラマは見ないし、映画もそんなに観ていないので、 あれで泣きました!というのが思い浮かばないのだが、 私が結構はまってしまって、そして泣いてしまうのは、 いわゆる「24時」もの(勝手に命名)。 あれです、警察とか病院とかに密着取材する番組。 アレの、病院ものを見ると、だめだなあー。 完全に泣いてしまう。
今週は、久米宏が小児癌の特集をやっていて、 途中から見入ってしまい、とても重い気持ちになった。 母親が一緒に見ていなかったら、ティッシュの箱を抱えて 号泣していたかもしれない。 病気の子供がかわいそうとか、そういう甘い気持ちではなくて・・・。 どうして?という疑問が頭を離れない。 それは、現在闘病している本人たちにとっても、 大きな疑問であるのだけれど・・・。 「どうして?私ばっかり???」 答えは、誰にもわからない。
1歳で内臓の癌、それを克服したと思ったら、 薬の副作用で、小学校入学するころに心筋梗塞を発病、 そして、心臓のせいで小学校4年生で脳梗塞になってしまった少女の疑問。 「どうして?私ばっかり???」 どうして、今入院しているのか、 そして、これからもそれは続いてしまうこと。 悲しい現実を、先生も親も説明しようと思えば、説明できる。 でも、どうしてそのように苦しまなくてはいけないのが、「彼女」なのか。 それは、誰にも説明できない。
私は、全く宗教的な人間ではないが、 神を否定するほど理論的でもない。 重い病を抱えて生きる子供たち。 戦争の渦中に生まれてきて、そして傷ついてしまう子供たち。 そのほか、「いっそ、死ねたら楽だろうに・・・。」 と思えるたくさんの人たち。 でも、彼らは生きる。 死は穏やかにも、一思いにもやってこない。 苦痛が勝る生活の中で、彼らは生きていかなくてはならない。 「何か」のために。
彼らはもしかしたら、私たちのために、 生かされているのかもしれない。 私たちの、汚さや醜さ、思い上がりの犠牲のために。 人々の罪を背負って十字架にかかった救世主のように、 見えない何かと、しらないうちに闘っているのかもしれない。 だから私たちは、彼女の顔に神々しさを見るのかもしれない。
でっかい方がいいのかな。 組織の規模とか、その性格とか、そういうものは気にせず、 自分がやりたいと思う野望は大きい方がいいのかな。 自分ひとりだったら、それでも良いかもしれない。 なにせ、考えるのは自分、やるのも自分だし。 でも、会社の中ではどうなんだろうか。 そんなことを考えて、ぐるぐる回っている最近。 これが考え方の違いなのでしょう。
2004年02月23日(月) |
すごいなと思うところ |
むちゃくちゃ嫌いな相手でも、 うーむ、さすが!と思うことが時々ある。 でも、やっぱりその相手のことは嫌いなんだけれど(笑)、 伊達に○○じゃないなー、この人・・・、そういう感じで。 いい人なんだけどね〜むにゃむにゃ・・・という人よりも、 こういう嫌いな人の方を観察していた方が、 もしかしたら得るものがあるかもしれない。 なんてことを、ふと思ったのだった。 でも、やっぱり嫌いなんだけど!<しつこい。
2004年02月22日(日) |
自由に育てる、子供を守る |
最近、若いお母さんで、 子供とかなりの距離を開けても気にしない人が すごく多いような気がする。 子供の好きなようにのびのび育てる・・・ということが言われて久しいが、 のびのび育てるのと、危険を回避するためにしっかり捕まえておくのは、 全然次元の違う話じゃないかと思うのだが・・・。
土曜日、バイト帰りに駐輪場に向かっていると一組の母子。 4歳くらいのお兄ちゃんとお母さんははるか前方、50メートル先くらい。 私の前には、まだ足元のおぼつかない、2歳弱と思われる弟ちゃんが、 よちよち歩いていた。 これだけでも、「おいおい、危ないっつの。」と目くじらを立てた私だが、 そのうち、この弟ちゃんが排水溝の汚いみずたまりに注意を引かれ、 座り込んでその水に手を伸ばした。 私だったら、この時点でぶっ飛んできますけどね。 だって、汚いでしょう? でも、お母さんは遠くで待っているだけ。 そして、弟ちゃんは、見事にこけた、みずたまりの中に(−−;)。 ありゃりゃ〜、ここで素通りできるわけがない私。 だって、幼児フェチだもん。 転んだまま泣いている弟ちゃんに駆け寄って抱き起こすと、 お兄ちゃんが走ってきた。 でも、お母さんは全然走ってこない。 おにいちゃんにバトンタッチして、また駐輪場に向かう私と のんきにすれ違ったまだ年若いお母さんは、 か細い声で「すみません〜」と言ったから、 まだマシな方なのかも知れないけど・・・。 それにしても、二重、三重の危険が、この話にはあったと思う。 弟ちゃんの衛生面、そして交通事故の危険性。 駆け寄ってくるおにいちゃんの交通事故の危険性。 何があっても、そんなに距離が開いていたら、 子供を守れないよ、お母さん、と私は思った。 車に轢かれそうになっても、通り魔に襲われそうになっても、 誘拐犯に目の前でさらわれそうになっても。
自由に育てる前に、子供を守らなくっちゃ。 世の中は、そんなにのんきで平和じゃないんだから。
自分の現在の学歴等についてですが・・・。 それなりにコンプレックスを持っていて、 それで、どうせ自分なんて、なー、 と思ってしまうことがあります。 誰かと比べても仕方ない。 だって、自分がそうやって生きてきたんだから。 でも、やっぱり、現在は同じようなことをしていて、 実力だってそんなに違わない(と勝手に思っている) 相手にチャンスが来たりするのを見ると、 ため息が出たりするのです。
それでも。 やっぱり拾う神もあって。 今日はちょっと、涙が出そうになるくらいうれしかった。 まだ、実際にそれができるかどうかわかりません。 でも、気にかけて、声をかけてくれる人がいるというのは、 なんてうれしいことでしょうか。 このことが実現しなかったとしても、 今日の喜びや感謝の気持ちを忘れないように、 したいと思うのでした。
2004年02月18日(水) |
自己反省、したのでそれを有効利用しよう |
新しいPCを買ってしまった話しはもうご存知でしょうか(^^;)。 あー、もー、別に切羽詰って必要なものじゃないのに、ね〜。 何に使うの?というのもないのに、ね〜。
というわけで、買ってしまったんだから使い道考えないと・・・。 なので、今HPでお休みしている、 日本語教師のコーナーをがんばって開店させることにします。 内容は、 ・日本語の先生向けに、見栄えのいいテストを作る方法とかを紹介。 ・学習者向けに、簡単なネット教材もどき(あくまで、もどき)を作る。 どのくらいできるかわからないけど、 やってみます。 月1で更新できればなー。 春休みに、ちょっと組み立てます。
言っておかないと、企画倒れになってしまいそうなので、 一応、宣言(^^;)。
大変残念な話しだが、遠方から襲撃されてしまう場合、 アラビア語が出来ようがなんだろうがほとんど関係ないのね・・・などと、 外交官が亡くなった時には思ったものだ。 これが、誘拐されて・・・というなら、少し話は違ったかも、と。
日本人もだけれど、アラブ人もみんな、 自分たちの言葉であるアラビア語は難しい言葉、 と考えていて(そしてそう考えるのが好き)、 なので、外国人がその言葉を話すと、親近感が一気に倍増する。 それが、フスハー(正則アラビア語)ではなく、 アーンミーヤ(その土地土地の方言)だった日には、 「オフティー、ワ、ビンティー(私の姉妹、私の娘)」と わらわらと大騒ぎである。
逆を考えてみれば。 言葉も出来ない武器を持った人がいるというのは、 イラクの人にとってもやはり、恐ろしいし不快であろう。 そして、駐留兵にとっても、親しみよりも恐怖が勝って当たり前だろう。 自衛隊の人たちも言葉がわからず、 にこにこと笑顔を向けているだけのようであるが、 その笑顔も、いつまでいい笑顔と思ってもらえるのか。 残念ながら、もしかしたらすでに、 「へらへら笑ってばかりいる、薄気味悪いやつら」 と思っている人がいるかもしれない。
駐留兵にアラビア語を話せなんて、そんな無理難題は言わない。 ただ、本当に心を結ぶ支援がしたかったら、 現地の人たちと話しができるように、 通訳なりをたくさん雇って、日常的に話さないと。 それが、日本語→英語→アラビア語、でもいいと思う。
言葉が全てじゃない。 言葉を超えた心の交流も確かにある。 しかし、むやみにそればかりを期待するのは、 時間の無駄だし、危険も多い。 言葉を使って、心を勝ち取ることも必要なのだ。
自分のことを100%肯定したい気持ちもあるが、 まさか、そこまでえらくないでしょう>自分。 と、激しく突っ込みを入れる自分もいる。 世の中持ちつもたれつで、誰が一番偉いとか、 こういう仕事だからえらいとか、 そういうことはないんじゃないかなあ。 特に、1つの組織に所属している場合、 お互いが組織の両輪。 その立場なりの考え方や、仕事の仕方はあって、 隣の芝生が青く見えたり、 隣の仕事が手ぬるく見えたりするけれど、 でも、100%相手の仕事を理解しているってこともないでしょう。
うーんと、何が言いたいかというと、 大変なのはきっと自分ばかりじゃないし、 ただしいのも自分ばかりじゃない。 ちょっとづつでいいから、 そういう風に思えないかなあ。 蚊帳の外からのギャラリーは、 そんなことを思ったのだった。
短い時間の間に、ばたばたといろんなことを考えた。 その中で、1つはっきりしたのは、 私は、誰かのツテやこねをあてにはできない。 何かをしたかったら、自分自身である程度は切り開いていかなければならない、 そういうこと。 それには、今までの色んなことがあるだろう。 経歴とか職歴とか、そういうこと。 全て自分でやってきた、とか、 これからも誰にも助けてもらわない、もらえない、って言うことではない。 十分にいろんな人から助けてもらっているし、 気にかけてももらっている。 これからも、たくさんの人に助けてもらうだろうし、 世話にもなるだろう。 でも、それを漫然と待っているだけでは、 多分、私の人生は何一つ回っていかない。
自分自身で、回転軸を回して行くこと。
ちょっとぱーっとした気分になりたいと思い、 パイレーツ・オブ・カリビアンを借りてきたのですが、 これがなんと、私のPCでは再生できないでやんの(−−;)。 今までこういう事なかったんだけどなー。 なので、重そうだったけど観たかったのでやはり借りてきた、 「裸足の1500マイル」という映画を先にみた。
1930年代のオーストラリア。 アボリジニの母子(特に混血児)は、 原始的な生活からアボリジニを「救うため」の 白人化政策のもとに、引き離されてしまう。 矯正可能な子供たちは、施設に入れられ白人により近づくための教育を受ける。 この、今になって考えるとはなはだ野蛮な政策は、 なんと、1970年まで続いていたそうである。 そして、多くのアボリジニがこの政策により 今でも自己のアイデンティティークライシスを抱え、 それだけではなく、映画の中で暗示されているように、 使用人や労働者として独り立ちさせられたアボリジニたちは、 結局、白人になどなれず、 今で言うセクハラに遭遇し、虐げられた生活を強いられることも多かった。 オーストラリアでは、この政策により家族と引き話された世代のことを 「盗まれた世代」と言う。
映画は、妹といとこと収容施設を逃げ出し、 1500キロ9週間かけて生まれ故郷に逃げ帰った、アボリジニの少女の話 (ちなみに1500キロって、2400キロです。なんと、稚内から那覇まで!!!)。 皮肉なことに、彼女たちがこの気が遠くなるような道のりを、 無事に母の元に戻れたのは、 人々の善意と言うよりは(実際、彼女たちは都市部の白人とは違う、 厳しい自然の中で暮らす農婦や、はぐれ者の白人に何度か助けられる) 原始的なはずのアボリジニの生活習慣やサバイバル術だと言うことに、 観ている私たちはすぐに気がつく。 そして、真実はやはり、作られた話よりも衝撃的であるということ。 この映画の最後に、主人公のモリーはいったん母の下に戻る。 そして、砂漠の奥地に隠れ住み、結婚し娘も生まれる。 しかし、その娘とともにまた「捕らえられ」、 同じ施設に入れられ、そして再度、 下の娘を抱えて、生まれ故郷に同じ道を辿って戻ったそうだ。 けれど、映画の途中で施設に連れ戻されてしまう いとこのグレイシーは二度と故郷に帰る事はなく、 娘もまた施設に連れ戻され、モリーと二度と会うことはなかったと言う。 80歳を越えたモリーは今も、妹のデージーと友に、 生まれ故郷のジガロングに暮らしている(2000年)。
善意や思い込みで行われる様々なこと。 70年前のオーストラリアの政策を、 野蛮と言い切り、断罪だけしていれば、 私たちは良いのだろうか。 今も、どこかで。 善意と言うなのもとに、野蛮な行為が行われていないか。 正しいのは自分たちの文化習慣だけとか、 文明的ではないから、それは哀れであるとか、 そんなことは、全くないのだ。 少なくとも、他者から強制されるべきことではない。 今も、世界のどこかにモリーがいて、 悲しい、そして強い瞳で、 私たちの欺瞞を見つめている。
もやもやしていたものが、 意外なところから噴火し、 結果、現在は大変静かな状態です。 そう、冷め切った、と言いましょうか。 こうなると、もう結構動じません。 何せ溶岩固まってますから。
最近、名作の内容を訳した(?)本が売れているという。 内容をとりあえず把握できればいいということなのかも知れないけど、 本好きから見ると、なんだそれ?って言う気になる。 もちろん、それらの本を読んで、 これを読んでみたいなーと思う人もいるだろう。 でも、そういう人は少ないんじゃないかなあ。
私は、実は夏目漱石が苦手である。 どうも、あの文体に乗っていけないのだ。 森鴎外は難しかったけど、 でも、読むのが苦痛になることはなかった。 三島も好き。 そして、泉鏡花も大好き。 ハリポタは興味がないけど、 指輪物語は読んでみたいな。 ボルヘスの本はいつも気になって、 エッセイでも公演集でも小説でも、 ハードカバーで高いけど、やっぱり買ってしまう。 ちなみに、澁澤龍彦の本は、文庫も全部、 買えるだけのハードカバー、 それなのに、全集も買ってしまった(笑)。 軽い本も結構好きで、 最近では、ジェイン・アン・クランツという人の ロマンチックサスペンスがお気に入り。 でも、同年代の日本人女性の小説やエッセイには、 あんまり食指が動かないのは、なんでだろうな?
皆が面白いというからといって、 自分にはちっとも面白くない本もある。 でも、あんまり読んでいる人はいなくても、 自分には絶対はずせない本もある。 それは、一冊一冊、 自分が読んでいかなければ、わからないこと。 百聞は一読にしかず。 最後まで読んで、そして判断しよう。 人ではなく、自分の感性で。
2004年02月06日(金) |
ただいま、もやもや中 |
いや、もやもやしてないことの方が少ないんだけど@仕事。 日本語関係の仕事を辞めるつもりはないし、 大学卒業後どうしたいかも決めているので、 大体のロードマップは出来ているけど・・・。 細部でもやもやする。 こんなことをするために、ここで仕事をしてるわけじゃないよなー、とか。 こんな時間、もったいない、授業をしたい、とか。
本日も、もやってます。
自衛隊が派遣されるサマワでは、 日本人が来ることによって生み出される(であろう)雇用に、 ものすごい期待が集まっていると言う。 実際は、数十人程度しか雇用されないらしいが、 そんなことは、現地の人の耳には入っていない。
ふと気がつくと、日本人である私たちでも、 一体自衛隊がイラクで何をやるのか、 漠然としたことしか知らないのだ。 インフラの整備? 水道、学校、病院??????
はっきりしない、はっきり出来ないのだろうか? こんなんだもの、イラクの人が勘違いしても、 仕方ないよな。
行くのは、いっているのは、軍隊です。 軍隊は、やがて出て行くのが前提です。 そんなことから生み出される雇用は、 いくらたくさんあったとしても、 一過性のもので、回るサダカにはなっていかない。 つまり、産業としては育たないでしょう。
いい勘違い(=雇用が増える)が、 悪い勘違い(=日本もイラクを占領して自由にしたい)に、 変わらなければいいのですが。
カイロに住んでいた日本人は数多いが、 ナイルの渡しを使って、ザマレックまで行っていた日本人は、 そうそういないんじゃないかと思う(笑)。 大体、住んでいたエリアによるだろうし、 大型バスも敬遠するような日本人もそれなりにいるし、 それが、渡し舟ですけん。
その存在に最初に気がついたのは、 ザマレックに住んでいる駐在ファミリーにバイオリンを教えに行っていた Hねーさんだった。 そして、おっとりした性格の割りに、かなりチャレンジャーな彼女は、 早速それに乗ってザマレックまで行ってみた。 確か、当時でロッバ・ギネー(25ピアストル)だったかノッス・ギネー(50ピアストル)だったか・・・。 ムスタシファー・アグーザの前から、ザマレックまで、 混雑する道路で揉め事の多いタクシーに乗るよりも、 早くて快適だったので、 私たちも、ザマレックに日中行くときには、 それを利用するようになった。
手漕ぎの小さな船に人が集まると、 おじさんがえっちらおっちらと船を出す。 ザマレック側の船着場は、彼の自宅になっていた。 川の土手の木立の中に、電気も水道もない掘っ立て小屋があり、 私たち客は、船頭のおじちゃんの奥さんが料理を作っている前などを通り、 ザマレックの通りに出るのだった。 小屋のすぐそばは、カイロでも高級なエリア。 そして、東京で言ったら隅田川のようなナイルの水を汲んで、 全てに(料理にも!)使っているらしき生活に、 衛生的に寒々としたものを覚える反面、 この対比こそが、カイロの面白さなんだと感じた。
しかし、やがてアグーザ側の土手が整備され始め、 いつの間にか、私たちが愛用していた船着場はどこかに行ってしまった。 渡し舟に乗らなくなると、ザマレックのそのエリアに行くこともなくなった (メインからは少し外れたところだったので)。 船を漕いで人を運んで、細々と生活していた家族は、 どうなったのかなと思いながら、 日々は過ぎて行き、それを確かめる術は、今はもうない。 たくさんの彼らのような家族が、押し寄せる時代の流れとともに、 どこかに、ひっそりと消えていったのだろう。 ナイルの渡しは多分、今日も減り続けている。
お風呂上りについていたテレビでは、 熊本の女子高生が、駅から家のある対岸まで、 おじいちゃん船頭のこぐ渡し舟で帰っていっていた。 駅に着くと、女子高生は対岸のおじいちゃん船頭に向かって手を振る。 そうすると、おじいちゃん船頭が、えっちらおっちらと、 こちらに向かって船を漕いでくるのだ。 昔は、その列車の線の駅全てに渡し舟があったが、 今では、そこだけになってしまったと言う。 毎日渋谷に行くことよりも、 毎日渡し舟で家まで帰る事の方が、 なんだかかっこよくて、 きっと都会に出てきてからも自慢できるよ、と、 その女子高校生に言いたかった。
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