ぶつぶつ日記
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知っている人のHPの掲示板に、心無い書き込みが続いている。 メールも送られているみたい。 こういうのを見ると、正直本当にネットって怖いな、と思う。
嫌なら見なければいい問題なのに、 どうしてこういう風に中傷したりしてくるのかな? それって、やっぱり知っている人なんだろうか? 知らないからこそ、攻撃できるんだろうか? 私にはわからない。
私自身、ほとんど知らない人が私と私のHPのことを中傷するようなメールを 別の私のHPを見たこともないような人に!送っている、 という話しを人づてに聞いたことがある。 たまたま、その送られた相手が、私のネット知人の友だちだったから、 私の耳にも入ってきた。 その時私が思ったのは、 その人は自分のHPでは自分の生活を、楽しい!すばらしい!って宣伝しているけど、 きっとそれは表面上のことだけで、 何か問題を抱えている人なんだろうなあ、と言うこと。 本当に生活がすばらしく、楽しい人は、 見ず知らずの人間を中傷するようなメールを 書く気持ちなんてならないだろうし、そんな時間もないだろう。
そしてネットの匿名性が、そういった心の闇に付け込んで、 誰かを攻撃する手段に悪用させるのかもしれない。 まだまだ、ネットセキュリティーは課題が多いなあ。
2002年02月27日(水) |
励ましたい人に、励まされる |
友だちが、ちょっと状況どん底です。 励ましたいと思うのですが、 なんと言っていいかわかりません。 私は相談に乗ったり、優しい言葉をかけたりするのが、 とても苦手。 その人がとても苦しんでいたとしても、 その人に非があると思えば、 はっきりそう言ってしまったりするし、 親身になって愚痴を聞くのも、 あまり向いていないみたいです。
今日も、なんて言ったら良いかわからなかった。 優しい言葉をかけたかったけど、 優しい言葉は出てこない。 私に言えるのは、状況から見た事実だけで、 その事実からこれからどうしたら良いか、 自分で決めていくしかないんだよ、 という突き放した答えだけ。
それでも。 彼女は言ってくれました。 「colacacoの言うことは他の人とちょっと違う。」 「2つのことに対して、公平。」 「それはとても貴重。」 だと。
こういうの、なんだろうなあ、と思う。 いつもいつも、結局励ましているのは私ではなく、 励ましたいと思う人から、 私が励まされる。 そしてそれがうれしくて、同時に彼女の気持ちを思うと辛かった。
2002年02月26日(火) |
テロ資金調達係??? |
意外と簡単に、メイ・マスリーさんのアカウントがわかったものの、 そうは簡単ではない、中東への送金。 あちらの方と結婚している友人に聞いたところ、 特に911以後海外送金全般が難しくなり、 ちょっとでも怪しいと資金凍結されているとのこと。 家族送金でも、送り手の家や会社に電話がかかってきて身元確認、 受け取り手も同様に厳しい身元確認をされるらしい。 個人で、親類縁者でもない今回のような送金は、 かなり根掘り葉掘り聞かれることは間違いないようだ。 また、マスリーさんの基金に関係なくても、 アカウントのある銀行にテロ関係の入金があったりした場合、 やはりその銀行への送金自体がストップすることもあるらしい。
昨日も、某銀行に問い合わせの連絡をしたら、 かなりねっとり色々職質された。 んで、結局、返事は遅れるかどうか、ルートがあるかも よくわかりません。 おいおい、相手の銀行は地方の弱小銀行じゃないのよね。 多分、ヨーロッパ辺りにもきちんと支店を出している、 アラブでも大手の銀行なのに。
やっぱり、テロの手先と疑われている? せっかくの善意が、こういうつまらない国際情勢に左右されてしまう、 それが現実なんだなあ。 テロ防止のため、仕方ないとは言え・・・。
助けたい人がいるなら、 力になりたい人がいるなら、 自分がしっかりしないとだめ。 その人に引きずられて、自分も途方にくれてはだめなんだ。 唇をかみ締め、まっすぐ前を見よう。 途方にくれている人が、 いつか光を見つけられるように。 急な階段を上れるように。 何も出来なくても、 ここにいるよ、とメッセージを送りつづけたい。
この頃、週末になると体調が悪くなる。 そのため、用事や約束をキャンセルすることが多いので、 なんだかいろんなことがはかどらない。 もともと、人よりもたくさん寝ないと参ってしまう方なのだが、 今週はそれに拍車がかかっていて、 とにかく眠くて起きていられない。 風邪が流行っているし、引きたくはないので、 これ幸いとばかりに、子供みたいに早い時間に寝てしまう。 残業もあり、家に帰ってご飯を食べて、お風呂に入ってすぐ寝る生活。
ストレスがたまると、とにかく外出したくなる人も多いようだが、 私の場合はどうも、家にこもりたくなるらしい。 明日も約束があるが、体調不良を口実にキャンセルしてしまおうか、 いやいや、こう言う時こそ出かけないと、 ぐだぐだしている金曜日の夕暮れである。
パレスチナのイスラム的指導者であるヤーシーン師が、 パレスチナ女性による自爆テロに関して、 イスラム法的に合法ではない=してはいけない、 というフォトワを出した。 フォトワとは、まあイスラム的お墨付きみたいなもので、 合法とされるものもあるし、 今回のように違法とされる場合もある。 難しいのは、このフォトワを出す人物が それぞれの国などにいることで、 こっちは違法といい、こっちは合法と言う、 と言うことが無きにしも非ず、と言うことだろう。
今回の女性による自爆テロに関してヤーシーン師が出したフォトワについて、 エジプトや色んな国のイスラム指導者が 「政治的だ」って非難している。 こういうの聞くと、とてもがっかりする。 女性団体も「イスラエルのテロで死んでいるのは 男性ばかりではない、差別だ」 と言っているけれど、 あんたたち、こういう問題以前にもっと 騒がなくっちゃいけない差別問題が あるでしょー!と思い、ため息が出た。
エジプトのイスラム指導者なんてそれこそ、 年がら年中、政治的なファトアを出しているくせに、 こう言う時ばっかり、いい顔すると言うか。
実際、ヤーシーン師のフォトワは政治的だと思うが、 彼だけでなく少しでもパレスチナ問題に興味のある者にしたら、 例えここでOKのフォトワをが出なくても、 1人出てしまったからには、 これから女性の自爆テロが続くことは 絶対にわかっていることだ。 また、本当はアラブ人の多くが、 パレスチナ問題なんて目の上のたんこぶ、 と思っていることも、 少し中東問題をかじったものにはわかっていること。 パレスチナの平和よりも、自国の利益を優先しつづけている国ばかりなのも。
しかしそれは、仕方ないことだと思う。 誰も自分の生活で手一杯なのだから。 それを責めることは出来ないけれど、 当事者が搾り出して決めたフォトワを、 蚊帳の外から何やかんや言うのが、 それがイスラムの正義なのか?と言いたくなってしまうのだ。
香水なんて・・・と長いこと思っていたのだが、 今では、香水を付け忘れたことに気がつくと、 なんだか下着をひとつ、身に付け忘れたような 所在無さげな気分になる。 職場の人が、私のつけている香りがいいから、 名前を教えて、と聞かれた時も、 恋人を横取りされたような感じで、 あまり教えたくなかった。 ものすごく香りにこだわっているわけではないのだけれど、 ないとなんだか寂しい。
香水(というかオードトワレだが)をつけ始めたのは、 多分25歳くらいにことだ。 最初は柑橘系のフレッシュな香りのものをつけていた。 何年もそればかりつけていたけれど、 ヨルダンの空港で出会ったフランス製の香水の どことなくイスラムを思わせるような青いボトルに惹かれて、 それを買った時から今まで、 浮気をしないでその香りを身にまとっている。
私の勝手なイメージだが、 香水は自分自身とは反対の性質のものを選ぶといいような気がする。 「可愛らしい」女性だったら、柑橘系のちょっとボーイッシュな爽やかな香り。 派手さはないけれど、どことなく甘い女っぽさを感じさせる人だったら、 スパイシーな甘くない香り。 クールなスーツには絶対に濃厚なミルとか、ゴージャスな香りが似合うと思う。 私のように、どちらかというと「女性らしさ」とか「色っぽさ」に 縁のないような人間には、古典的なフローラルな香りがいいように思う。
ある時友人が、職場で下を向いて仕事をしていた時、 ふっと私が使っている香水と同じ匂いをかいだ。 その時その人は「あ、カイロの香りがする。」と思ったそうだ。 それはたまたま職場に来た人が私と同じ香水を使っていただけだったのだが、 一瞬、その人はカイロの記憶=私、を思い出した、と言う。
フランスの鼻(ネ)という香りのスペシャリストの称号を持つ人たちの トレーニング風景を見たことがあるが、 彼らは何百もある香りを覚えるために、 一つ一つ、その香りと自分の記憶を結び付けていく。 「この香りは、あの夏の日の午後、〜していた時にかいだ香りに似ている。」 闇雲に香りを記憶しようとしても、人はその香りを記憶できない。 でも、思い出が結びついた時、 一瞬の香りが記憶のふたを大きく開け放つ。
私の香水の香りをかいで、 カイロの記憶=私、を思い出す人がいる限り、 私は自分の香水をかえることはないだろう。 同じ香りが、私にはその人の記憶につながるのだから。
2002年02月19日(火) |
偽物と本物〜大好きな女4〜 |
どこでその人の名前を知ったのかは、実はよく覚えていない。 でも、本屋に行くたびに、ちらちらと横目で本を眺めていた。 すごく、読みたい。 でも題名を見ているだけで、ブレーキがかかる。 「まだまだ、私には早いぞ。」 そう言う気がしていた。 ようやく、読んでみよう!と思ったのは最近。 30歳をいくつか越えて、本物とか、品格とか、そう言うことの大切さを 理解したいと思うようになってからのことだ。 本の中から声が聞こえる気がする。 「背筋を伸ばして、しっかりものを見なさい。」
白州正子 1910年〜1998年 随筆家
この人はなんなのだろう? 本を読んでもよくわからない。一流の目利きであることは確か。 一流の書き手であることも確か。 でも、肩書きは? 1つの肩書きはつけられない。 華族の名家に生まれ、ティーンエイジャーをアメリカ留学で過ごし、 結婚後は一流の文士や収集家と交流を深め、自分自身も彼らと同じようになった。 いや、彼女は師事したどの人物よりも、今日私たちに知られていて、 私たちにいろいろなことを教えてくれる。 お能がまるでロックのように前衛的であること。 骨董収集の魅力と怖さ、だまされることもまた楽しいこと。 本物の『民芸』と民芸品の隔たり。 そして、古きよきブルジョワの生活の豊かだったこと。 森鴎外の読み方。 西行について。
今もたくさんの「奥様」が色んな事業をして本を書いているけれど、 この人には、そういった人たちの多くがが醸し出している 「奥様の」という雰囲気がほとんど感じられない。 夫君である白州次郎氏が言っていたように 「ばあさんはえらいよ。書く時は必ずその場所に行ってみる。 想像で書くようなその辺のやつらとは違う。」 自分が見たもの、さわったのも、聞いたもの、 そして、「良いと思った」ものを書く。 多分それ以外のものは書けなかったのではないだろうか。 無骨な、と言って良いような真剣さ。
とにかくたくさんの良いものを見ること。 人でもものでも、映画でも、なんでも、 見て見て見て、ようやく本物がわかるようになるのだろう。 でも、いくら本物でも、好きになれなかったらしょうがない。 嫌いな本物を箱にしまって持っているくらいだったら、 大好きな偽ものを大事にして使いたい。 彼女の収集が魅力的なのは、 「愛着」ということを私たちに教えてくれるからだと、 いたずらな表情の写真を見ていて思う。
偽ものでも、「本物」があると言うこと。 本物でも、偽物以下があること。 「本物」のブランド品を持っているのに、 全然「本物」に見えないたくさんの日本人女性を見たら、 彼女は何と言うだろうか? きっと、鼻で笑って引っ掛けることもないに違いない。 「本物を持ったところで、自分が『本物』にはなれやしないのよ。」と。
最近、私の使っているPCが調子が悪い。 朝仕事に来て立ち上げようとすると、 ビープ音がして立ち上がらない。 色々格闘すると、何とか立ち上がるのだけれど、 一度ハードディスクをばらして見ないといけないらしい。 今朝、その覚悟を決めてドライバーを借りに行ったら、 職場にはろくなのがなく、あけることが出来なかった。
そこで午後、のんきに散歩と決め込んで、 ドライバーを買いに行ってきたのだが、 246をいつもと反対に15分ほど歩いただけなのに、 そこには渋谷に向かう道とは全然違う、 私の知らない街が広がっていた。
どんな街でも、全く知らない街を歩く時は少しドキドキするものだ。 氷川神社のそばには、目黒川が音を立てて流れていた。 コンクリートで固められた川だけれど、 水が流れている音というのは、なんとも言えずに良いものである。 春には桜が咲いて、それなりにきれいだろう。
街自体は、高速道路の高架下に広がる、ちょっとごみごみした町で、 下町のにおいを感じさせた。 私が行ったのは、町の金物屋さん。 近くには老舗っぽいケーキ屋さんがあり、 ランドセルをしょった小学生が追いかけっこをしていた。 晩御飯の買い物をする主婦も多い。
神社にお参りするなんて、何年ぶりだろう? 階段には太ったトラ猫が座っていて、 人が通っても全然驚かない。 霙がちらつく境内には、誰もいなかった。 鐘を鳴らし、手を打ってしばしお参り。 何を願ったわけではない。 ただ急な階段を上がってきて、苦しい息が落ち着くまで、 静かに手を合わせていた。 一瞬、面影が胸をよぎったけれど…。
大きく深呼吸して周りを見ると、 境内の紅白の梅がもう咲いていた。 知らないところで、春の準備が進んでいるのだ。
ゆっくりと、買ったドライバーのビニールの袋を元気に振って、 来た道とは反対に戻る。 そうすると、行きには気がつかなかったけれど、 職場のすぐ側に古めかしい建物をある。 「東京ナザレア教団」という名前にふさわしい、クラッシックな建物で、 そこだけ時代がタイムスリップしているみたいだった。
たまには、道を逆行してみるのも楽しいなあと、 ゆるゆると職場に戻る。 多分、春はもうすぐ。
教えるのって楽しいなあ、と思った本日。 色々なことがあって、今は学校では教える仕事はしていない。 100%していないわけではないけど、 日本語を教える仕事は、今は出来ていない。 それは今の段階では仕方ないことなのだと、 自分でも思ってはいるものの、 本来は教える仕事がしたいから、焦っているのも確か。 段々、雑務にまぎれてしまって教えられないんじゃないかって、 怖さもあるし・・・。 準備をしなくてもいい生活が、楽に思えて、 それが当たり前になってもいやだし。
久しぶりに教える機会があって、 あ、やっぱり私はこのことが好きだな、 とあらためて思った。 その気持ちを大事にしよう。
貧乏性と言うか、何と言うか・・・。 忙しく働くのは嫌いではない。 んが。 大丈夫なのか>自分。 と今後のスケジュールを頭に浮かべながら 思ったりしている。 趣味の方でのデザフェス参加。 それ以前に注文品を5つ以上抱え、 今度から知人のプライベートレッスンを頼まれていて、 仕事の量も増えるわけだし・・・。
まあ、過労死するまでぶっ飛ばすのもまあいいか、 などと辺に開き直っていたりするんだけど。 途中でぶち切れて、出奔するかもしれません(^^;)。
2002年02月14日(木) |
ネットとの付き合い方 |
初めてPCを使い出したのはエジプトにいる時だったが、 その時はインターネットもこんなに簡単ではなくて、 何とかメールをやり取りするくらいだった。 アメリカの主婦がネットサーフィンにはまり、 子供の世話をしなくなったとかで、幼児虐待で有罪判決を受けたニュースを聞いたことがある。 その時は、「PCに何でそんなに夢中になる?」と思ったものだが、 日本に帰ってきてからまず、自分もチャットにはまって ものすごい電話代になってしまった。 その後、自分のHPを開いてからは掲示板めぐりが主になっているが、 それでも仕事に疲れるとちょっとネットショップめぐりをしてしまったりして、 散財している(もともと通販好きでもあるので)。
ネットは確かに楽しい。 今まで知らなかった世界を見せてくれたり、 今まで知り合う機会がなかったような人たちとも、 海を越え山を越え、点在する人たちとも知り合うことができる。 今開催しているチャリティーのように、 PCがなくてはできなかったことも、自分の意志さえあればできるようになった。 私たちの手段は、確実に増えている。
が、しかし。 それでもやはり、コンピュータというか、ネットの怖さはあると思う。 私がチャットに夢中になっていた時、私は日本語教師になるために午後、 学校に通っていたので夜更かしが出来た。 もしあれが、仕事をしている時だったとしたら、 私は絶対に体を壊していたと思う。 そしてもし、私が自分の時間を全て自由に使えるような身分だったら。 もしかしたら年がら年中、ネットのことばかり考えて、 本来やるべき仕事を放棄してしまうかもしれない。 それから、とても怖いのが、ネットの中での人間関係が、 実生活の人間関係を凌駕することではないかと思う。 ネットの中でのみの関係は、強いようでとても独り善がりな部分があるような気がする。 メールでも掲示板でも、結局は「自分の都合のいい時間」を優先していて、 相手のペースやスケジュールに合わせるわけではない。 それがある意味とても心地よく感じるのは、当たり前だと思う。 私にはネットで知り合った知人がたくさんいて、 会ったことはなくても、とてもいい関係が作れていると思うが、 それでもやはり、会ってみて初めて「友人」と言えるようになるんじゃないだろうか。
私はかなりのネット中毒だ。 でも幸いにも、というか、会社づとめをしていて、 そうそうネットばかりやっているわけにはいかない。 アクセサリーも作りたいし、アラビア語も勉強したいし、他にやりたいこともある。 普通の生活、それがあってこそのネット生活。 自分とネットのつながり、付き合い方は正しいかな? などと思う今日この頃である。
2002年02月13日(水) |
働きつづけるということは |
この頃ではすでに、「わたしゃ結婚しないんだよ。」などと言っている私。 ってことは、一生働きつづけなくてはいけないわけだ (結婚しても働きつづける人もいるけど、とりあえず1人ってことで)。 30過ぎてようやく、 働くってことはこれ、日々理不尽との戦いのわけなのね、 などと思い始めている。 だからといって、その理不尽を達観できるほど、 冷めてもいないし、人生捨ててもいないんだけど。 父親の会社の愚痴がわかるようになってきたのは収穫なのだろうか?
今日の私は機嫌が悪い。
2002年02月12日(火) |
何かをすれば、何かが変る |
その町の名前は何度となく聞いていた。 それも、全く別々のところで。 だから、私の頭の中で、その2つの町が同一の町であるということが、 今まで全然、結びつかなかった。
一年前、ハワイ沖でアメリカ海軍の潜水艦に衝突され、 沈んでしまったえひめ丸の町。 そして、ネットで知り合った銀粘土の先輩であり、真珠のエキスパート、 私たち若葉マークのインストラクターの良きアドバイザーTさんの町。
「宇和島」。
あれから一年経って、結局1人の高校生の遺体が見つからないまま、 えひめ丸も海底に沈められた。 あの時、アメリカ側の心無い対応にたくさんの日本人が激怒した。 私はアメリカにも腹が立ったが、 正直、国の対応を腰抜け、と思った(今も思っている)。 肝心な時に、日本の政府は何もしてくれない。 また日本のマスコミも、アメリカの心無い報道をただ日本側に伝えるだけで、 それを変えようとしたとは思えない。
そんな中で。 地元宇和島ですぐさま行動を始めた人たちがいた。 T氏は日記にこう書いている。 「CNNでもABCでもニューヨークタイムズですら 水産高の実習船の事を[Fishing Vessel](漁船)として表現していたのです。 高校生が乗る実習船をただの漁船として表現されていた事で アメリカでのニュースサイトの中のBBSに 信じられない書き込みが目立ち始めました、 「真珠湾の入り口で日本の漁船が操業している事がおかしい」とか 挙句の果ては「海の底を洗い浚い取ってしまう日本の漁船に天罰が下ったのだ」等です。」
外務省も報道も何もしてくれなかった。 だったら、自分たちで何かをするしかない。 彼らの起こした行動は、アメリカでの報道の姿勢を少しでも変えることに成功する。
私たちはいつも、「自分たちは何も出来ない、何も変えられない。」と 何かをする前にあきらめてしまう。 でも、目に見えた変化はすぐには見えないかもしれないけど、 何かをすれば、きっと何かが変る。 その時は無駄に思えたり、ばかばかしかったり思えることもあるだろうけど、 でも、何かしなければきっと、何も変わらないのだ。 待っているだけでは、何も変わらない。
「えひめ丸」 アミ・エ・シン・パール http://shinjuya.com/ リンクのページのタイトルの下にある小さな葉っぱのアイコンが 上記の記事の入り口です。
2002年02月10日(日) |
よろしくお願いします。 |
チャリティーが始まります。 今回も色々な人から、色々なものが寄せられました。 本当にありがたいです。
買ってね。買ってね(笑)。 よろしくお願いします。
2002年02月09日(土) |
オリンピックとかに味噌チャーハン |
今日は家に1人。 夜ご飯は何にしようかな〜と、 冷蔵庫をごそごそ。 妙に家事好きの母親に甘やかされて育てられたので、 カイロに行くまで家事という家事をちゃんとしたことがなかったのだが、 家事好きの母親の姿を横目で見ていたおかげか、 最初から割とてきぱきと家事がこなせたのはありがたかった。 初めてなべでご飯を炊いた時から、一度も失敗したことはなかったし、 大家さんには「いつもきれいな部屋ね〜、前よりもきれいになったわ。」と 言われたこともあった。 カイロで一人暮らし(+他人との共同生活)をして気がついたことだが、 私は料理の本を見て料理を作るのは面倒くさいと思ってしまうのだけれど、 冷蔵庫の中にあるありあわせのもので料理を作るのは、 かなり楽しいと思える方らしい。 てきとうー、と言うのがいいのだと思う。 それでおいしいものが出来たら、 料理の本通りに作って出来たがったものよりも 満足度が高い。
今日は寒いのでお使いにも行きたくないし、 ちゃぶ台には昨日の夜ご飯の残り物らしい(私はいなかった) 餃子が一人前くらいあった。 冷や飯もある。 こうなると思いつくのはチャーハンか。 具になりそうなものを探してみると、 かに味噌風ソース、カニ缶、 野菜室にはキャベツにたけのこ、長ネギ。 タマゴもちゃんとある。 これはなかなかうまそうなチャーハンが出来そう( ̄ー ̄)。
てきとうーに野菜を切って、てきとうーに味付けして、 出来上がったかに味噌チャーハンはかなりナイスな出来。 餃子をあっためて、インスタント味噌汁でもつければ、 立派な中華定食、所要時間15分ナリ。
ソルトレイクの開会式で持ち込まれたWTCのボロボロの星条旗と、 満足そうなブッシュを見ながら食す。 「いいけどさ〜、オリンピックを私物化していないか、ブツブツ・・・。」 と思いながら、香港から来たおいしい中国茶と、 エジプトから来たゴライエバというクッキーを食後に食べて大満足。
ふと。 こうしてたらふく「家にある」食料で満腹になり、 暖かい部屋でぬくぬくとオリンピックを見ている自分は、 世界でも恵まれた「特権階級」であると気がつく。 オリンピックの華やかな世界の届かないところで、 今日もたくさんの子供が凍えていることを、 忘れちゃいけないんだ、と思う。
2002年02月08日(金) |
恋愛における価値観ー大好きな人3ー |
正直言って、この人のことを個人的に好きか、 というとはなはだ心もとない。 もし、会社の上司にこの人がいたら、 ちょっとやっかいだろうな、という気もするし、 さばさばしているもの同士、意外と大丈夫な気もする。 こちらが、きちんとなすべきことをするならば、 という大前提が必要ではあるだろうが。
私の彼女に対するイメージは、「雄雄しい人。」であろうか。 男性に混じって、政治論などを堂々と討論できる。 むしろ、ほとんどの男性は彼女にかなわないだろう。 男性的な政治的視点を持っている、珍しい人だと思うが、 その視点が十分に生かされている現在のローマ人シリーズよりも、 彼女の女性的生命力が溢れている、 初中期の作品が私のお気に入りだ。
塩野七生 1937年7月、東京生まれ、イタリア在住。 作家
同じイタリアで生活していたにもかかわらず、 この人のイタリアと、須賀さんのイタリアは、 全く別な国に思える時がある。 それは須賀さんが最初はローマに居を構えたものの、 ミラノというイタリアでもどちらかというと 「日本人の考えるイタリア」とは気質を異にする土地で、 ドイツ人的な北方の気質を色濃く受け継いでいた ミラノの人たちとの関わりが大きかったからかもしれないし、 単に、気質の違いなのかは私にはわからない。
塩野七生という人が好きなのか、 そこまでの見極めが出来ないのが、 彼女のエッセイの特徴のような気もする。 決して、自分の私生活というか心の中まで踏み込ませないような、 透明な壁。 自分自身のことを語っているのに、 他人の目を持っているような、そんな感じ。
私は彼女の初中期の、史実や実在の人物をモデルにしながら、 豊富な裏付けと類まれなる想像力で生み出された小説が、 とても好きなのだが、 それは、この人とは価値観が多分とても似ている、と思える一点があるからだ。 いつもいつも、読み終わるたびに、 「こういう風に、誰かを愛したい、誰かに愛されたい。」と思わされる。
特に私が好きなのは、「レパントの海戦」のバルバリーゴとフローラの恋。 そして「黄金のローマ」「銀色のフィレンツェ」「緋色のベネツィア」3部作の 娼婦オリンピアとマルコの関係。 この3部作にはもう1つ、切なさにどうしょうもなくなるくらいの、 悲劇に突っ走るマルコの友人の恋愛も描かれている。
彼らは多くを求めない。 そして自分の気持ちを密やかに、強く、持ちつづける。 見返りも求めず、 相手のために自らを犠牲にすることもある。 それは、「自分」が望んだこと。 悲劇的な結末を迎えても、誰をうらむわけもない。
彼女は言う。 「誰かから心から愛されたことのある女は、 その後一生、孤独を感じることはない。」 そっと、悲しみを自分の心に宿しつづけていたとしても。
バラエティー番組などとばかにしていると、 以外とそう言う番組で泣かされることが多々ある。 調度、仕事から帰ってご飯を食べ始める時間にやっている番組の中で、 ある一日をアットランダムに選び出し、 その日に輝いていた人にトロフィーを渡す、というコーナーがある。 毎回毎回、色々な人が紹介されてとても面白いのだが、 昨日紹介されていた人は、はっきり言って あのコーナーだけにとどめておくのには、 もったいないような人たちだった。
40年前、縁あって結婚した日本人男性とイタリア人女性。 彼らはカーデザインの会社で世界的に成功を収る。 それだけでももちろんすごいのだが、 本当にすごいのはここから。 四男一女の自分たちの子供たちの他に、 国籍も性別も問わず、何人もの子供たちを養子にし、 実子共々しっかり育て上げたのだ。
韓国人、インド人、イタリア国内から、そして多分東欧から・・・。 養子をもらうこと、それはまず第一に子供たちに迷惑がかかる。 彼らは、自分たちが会う前に、子供たちに次に家族になる 未知の子供に会いに行かせる。 そうして相談する。 もちろん、そんな両親に育てられた子供たちが、 新しい家族の登場に反対するわけもない。
短いコーナーでは紹介されなかったが、 もちろん子供たち同士の揉め事も会っただろう。 でも、今では「本当の」家族だ。 血のつながり有無は、大して問題ではなく・・・。 「家族は愛情の結びつきだと思う。 それがだんだん大きくなって、やがて世界につながっていけばいいと思う。」
この機会に全ての子供たちから寄せられた両親へのメッセージ。 「愛しています、今までありがとう。」 シンプルなメッセージが、よけいに胸を打った。
結婚する時に二人が作りたいと思った家族、La famiglia aperta 「開かれた家族。」 子育てを終えた今の二人は、 大きな農園を買い取り、アグリツーリズものできる施設を作った。 ここにやってくるのはやはり、 障害のある子ども、家庭環境に恵まれない子供、 薬物やアルコール中毒の問題を抱える人、 社会的に弱者の人々。 彼らの「開かれた家族」は、今も確実に広がっている。 いつか、世界中を結ぶことを夢見て。
2002年02月06日(水) |
粋でいなせな女ー大好きな女2− |
粋でいなせな、小またの切れ上がった女性、 と言ったら誰を思い浮かべるだろうか。 絽の着物の似合う、背筋のしゃんと伸びた江戸の女をイメージする言葉だが、 私が最もこの形容を謙譲したいと思う女性、 それはマレーネ・ディートリッヒだ。
マレーネ・ディートリッヒ 1901年ドイツ、ベルリン生まれ 1992年パリにて死去 女優
初めてディートリッヒの映画を見たのはいつの頃だろうか。 それは多分、ファッション系の専門学校に入学し、 「ハリウッドの商業映画なんて、いけてない(今風に言うと)。」 とななめに構え、 単館ロードショーのヨーロッパ映画や、 リバイバル映画を観に行っていた頃だったと思う。 最初に見た映画は、ビリー・ワイルダー監督の「情婦」。 ここでのその粋な悪女ぶりに、 今までいいとこアメリカの女優くらいしか知らなかった私は、 どっか〜んとノックアウトされてしまった。 日本人の言う「大人の女」と言うのが、 彼女の前ではほんの小娘、 本当の大人の女ってのは、こういう人のことなのかあ、と ワクワクしたことを覚えている。
「情婦」でも、その他の映画でも、 彼女のイメージは奔放で退廃的な悪女が多い。 しかし、彼女が単なるセクシーな悪女を演じているだけだったら、 こんなに伝説にはならず、遠からず消えていく運命だったと思う。 そして、私も大してあこがれることもなかったように思う。 スクリーンで見る彼女は、確かに奔放で大胆、 男を破滅させるファムファタル、であるのだが、 しかしそれと同時に、心底惚れた相手には、 尽くして尽くして、自己犠牲を全く厭わないという、 2面性を持っている。 また、どんなに惚れた新しい相手が出来ても、 弱っている夫や恋人を、残酷に切り捨てられない母親のような一面も。
実際のディートリッヒも、スクリーンと同じような奔放な女性であったようだ。 結婚して子供がいたにもかかわらず、様々な男性と浮名を流している。 しかし映画そのままに、このドイツ時代に結婚した夫と離婚することはなく、 少々風変わりではあるが、家庭自体は円満だったと言われている。
わがままで気まぐれだったようだが、 その反面、時間に追いまくられながら彼女のドレスを作っている、 デザイナーのところの職人を自宅に招き、 手ずからスパゲッティ-を振舞うような気さくな一面もあり、 彼女を愛する人たちも多かった。
第2次世界大戦中には、祖国ドイツの敵に回り、 連合軍への慰安部隊に所属し、兵士たちに混じって野営もした。 彼女が歌った「リリー・マルレーン」は、 それを聞いたドイツ兵の士気を落としたと言われており、 もともとドイツにディートリッヒを抱きこみたかった ヒットラーから懸賞金をかけられていた時期もあった。 例えそれが祖国であったとしても。 正しくないのであれば、自ら望んで敵に回る。 それで、今後ドイツに帰れなくなったとしても・・・・。 (実際戦後、彼女はかなり長い間ドイツには帰れなかった)
晩年はパリに住み、主にリサイタルなどで活躍していたが、 70歳過ぎても往年の曲線美は健在で、 年をとることも全て、大らかに受け止めてどっかり生きている所に、 ドイツ人らしさを感じてみたり、 それでも「私は女よ。」と、 いくつになっても女を捨てていないところもあり、 バイタリティー溢れる意地悪婆さん、みたいな老後もいいなと思う。
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「モロッコ」のラストで、金持ちの婚約者を振り切り、 ハイヒールを脱ぎ捨て、愛する男の跡を 砂漠へと追っていく彼女の姿は、 虚構のものだけではない気がする。 その道がどんなに過酷でもつらくても、 自分が望む道を正しいと信じて歩いていく。 例え愛する男とはぐれ、砂漠で死ぬことになっても 後悔はしないだろう。 そう思わせる瞳の強さが、とても好きだ。
お勧め映画 ・情婦 ・監房X27(漢字忘れました。っていうような題名だったと思う) ・モロッコ ・天使(エルンスト・ルビッチ監督作品)
2002年02月05日(火) |
ちょっとハムレットの心境 |
(多分)真のネット好きだし、 PC自体もとっても好き(って割には大したスキルはないけど)。 それに近々、職場がADSLを導入する前に、 自宅で設定とかをやってみたい。 んが、問題が。
万年金欠病の私は、 今の個人専用電話をひく時、加入権を買わなかった。 そこで、ライトISDNという回線の契約をした。 これは最初に加入権を買う必要がない代わりに、 月々の基本料がちょっとお高く、 9年以内の使用だったら、「正規の」加入権を買うよりも、 エコノミーってもの。 一応、希望的には9年以内には一人暮らしなり、 海外脱出なりしたいという野望もあり、 それを実現する理由付けとしても、 まあいいかな〜とこれにした。 こんなに早く、ISDN以上の速度のものが来るとは、 専門じゃないからわからなかったんだもんね。
この回線からADSLにするとなると、 金の問題うんぬんよりも、 電話番号が変わる、というのがめんどくさい。 でも、やっぱブロードバンドでしょー、 と新し物好きの悪魔な私が耳元でささやく。 う〜ん、ADSLニスルベキカ、シナイベキカ。 ハムレットな私。
私は自分のことを、善人面したやつだな〜と思うことがある。 きっと、私のことを、そう思っている人もいるだろうな〜とも思う。 理由の一つはこの日記であり、 今度第2回を行うチャリティーなんだけど。 「っけ、善人面しやがって、大したことも出来ないくせに。」 と思ってこのHPなりを見ている人もいそうだ。
自分でも、大したことはできないことはわかっている。 でもだからといって何もしない、何も言わないんじゃ、 だめなんじゃないかと思い、 色々主張もするし、行動も起こす。 今のところ、それで誰かに迷惑をかけてはいないだろうし (チャリティーに参加していただいている人には、かけているか)、 まあ、いいんじゃないか、この善人面も、と 自己弁護が甘くなる。
しかし、どうしても私の理解の範疇を超えるのが、 善人ぶって、それを理由に他人を攻撃する人たちのことだ。 つい最近では雪印事件。 確かにあの一連の騒ぎは消費者の信用を愚弄したが、 だからといって、「一営業マン」にけりを入れたり、 営業の車に石を投げつけたり、 雪印の看板に悪口を書いたり、 それに一体何の意味があるんだろう? まっとうな一般人にしてみれば、 後ろ指差される雪印社員の姿は、 明日はわが身?かもしれず、 とても罵声を浴びせようとは思わないはずじゃないだろうか?
自分の不満を「正義感」と言う言葉にすりかえて、 他者を攻撃することのは、 病んでいる、と思う。
2002年02月03日(日) |
大好きな女(ひと)〜シリーズ1〜 |
須賀敦子さん 随筆家、イタリア文学翻訳家、他 昭和4年〜平成10年
ミラノ、という街に言いようもない甘美な響きを覚えるようになったのは、 自分があの街に何度か行ったからでは決してない。 ラベンナへ行く道すがら、通りすがって何日か滞在したミラノは、 私にとってはあまり印象に残らない、 大して好きになれない街だった。 それが今では、ミラノ、と聞くと、 切なさが胸いっぱいに広がる。 それは、「私」のミラノの記憶ではなく、 「須賀敦子」という人のミラノの思い出が、 あまりにも甘美で、懐かしく、そして優しいからだ。
英語が公用語だったという、まさに選ばれた空間で教育を受け、 船でヨーロッパへ留学したと言う、 日本の最後の綺羅の時代に育った女性ならではの、 不思議な浮世離れ感と、それでいて正しい道徳観を併せ持った、 古き良き香りのする彼女の文章に、 平等という名のもとに、私たちが失ってしまったものを感じる。 パリで、そしてイタリアで悩みながら勉強を続けていた、 彼女の青春時代がとてもまぶしい。
何か、心が沈んでいる時、悲しい時、元気がない時。 気がつくと、彼女の本を手に取り、 繰り返し、繰り返し、そのページをめくっている。 電車の中で、何度何気ないページに涙を流しそうになったことか。
透明な、悲しみ。
彼女の本の中には、悲しみがたくさんつまっている。 そしてそれ以上に、人の背中をそっとなでてくれるような、 そんな暖かさも。
彼女のページの底に流れている悲しみ。 多分それは、せっかく出会った(しかも運命的な)愛するだんな様を、 本当に短い結婚生活で亡くしてしまったことによる、 行き場のない消失感なのかもしれない。 そして暖かさは、悲しみの中から立ち上がり、 思い出を胸に、もう一度人生を立て直した人の、 自信と強さから来る大らかさに違いない。
初めて降り立った冬のミラノの街の冷たい空気を 胸いっぱいに吸い込み、 私も、悲しみや辛さに目をそむけないで生きていきたい、と思った。 きっとその度に、ページの中から須賀さんがそっと、 私の背中をなでてくれるだろう。
私は銀粘土ちゅーもので、シルバーアクセサリーを作っている。 一応、その素材は特別素材なもんで、 「指導インストラクター資格」なんてものがあり、 それを持っているので、人様にもお教えすることができることになっている。 教える教えないはおいておいて、 先日、勉強会と称したオフ会で、 私の唯一の特技、「シリンジ技」を皆様にご披露した。 皆様、このシリンジがかなり苦手らしい。 私はアラビア語をデザインしている関係で、 このシリンジなしには製作が出来ないほど、 多用している(バカの1つ覚え、とも言う)。 結構簡単・・・って自分では思うんだけど、 どうしてそんなに難しいんだろうか〜(・・?)。
シリンジを持って、やにわにシリンジ使いを始めようとした私の周りで、 持っただけなのに、どよめきが・・・。 何? 「そうやって持つんですか〜??????」 という声、声、声・・・。 皆さん、この注射器状のものを、 注射器もちにして使っていらっしゃったらしい。 それじゃあ、安定悪くて細かいことはできんわな(^^;)。 (ちなみに私は、ぐー握り)。
また、フクリンという石を固定する作業。 フクリンを石に沿わせて倒していかないとならないんだけど、 教科書では、とがった先で倒すことになっている。 あんた、そんなことしたら、フクリン自体もがたがたになるし、 下手すると石を傷つけちゃうじゃん。
しかし、そのどちらの方法も、しっかり教科書に載っている 「正しいスタイル」。 でも、それでやったんではどうもうまくいかない。 教科書を見たり、誰かに師事して何かを習うと、 どうしてもその先生なりの固定観念が こちらにもうつってしまうことがある。 独学でやっている人の作品が面白いのは、 そういう固定観念が少なく、 そして試行錯誤しつつ、自分で考えて作っているからだと思う。
なんでも、試行錯誤って大事だよなあ。 遊びも、仕事も、そして政治も。
アフガニスタンも試行錯誤中、小さな内紛勃発中。 日本もごたごた、外相取り替え騒ぎ。 ゴタゴタしてもいい、もめても良い。 それをいい結果にして欲しいと思うのだった。
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