雑感
DiaryINDEXpastwill


2002年01月31日(木) ピアソラと玉露と徒然草

にせものの春の宵に、ピアソラを聴きながら、玉露を飲んで、「徒然草」
を読んでいるところです。

ギドン・クレ−メルのバイオリンが、もの哀しく部屋を包んでいます。
バイオリンとピアノのデュエットは洗練された音色で少しは救われた気分
になるのですが、ピアソラの音楽を、もしブエノスアイレスの場末の
酒場で、手風琴ひとつの演奏を聴いたとしたら、心の温度はマイナス
5度くらいにまで急降下するかもしれません。

用心のために、玉露で心身暖めつつ、「徒然草」をぱらぱらとめくって
います。作者は吉田兼好。日記界のスーパースターといったところで
しょうか。インターネットで日記名を検索していますと、徒然草、
つれづれなるままに・・というタイトルの多いこと。13世紀から14
世紀に生きた人ですが、21世紀の世の中で、脚光を浴びるとはついぞ
思わなかったでしょうね。

徒然草の文体は、音にすると格調があって好きですが、兼好のものの
見方は多面的で、厭世的に聞こえます。ある人がこう言った、
こんなことがあったと、ネタが豊富なのは、あの時代にしてすごいなと
思います。「お耳」と呼ばれるような、三面記事になりそうな情報を
もってくるレポーターを雇っていたのかもしれませんね。

今宵、琴線に響いた文章は 75段 (引用しても著作権に引っかからない
とほっとしますね(笑)

「つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるるかたなく、ただ
 ひとりあるのみこそよけれ・・・」

(何もしないでのほほんとするのを、いやがるのはどうしてなんでしょう。
 まぎれもなく、一人きりでいるのはいいことだと思うのですが・・)

ということで、今宵は徒然ぶっているところです。
いつもは、落っことしても壊れないような木綿豆腐のようなごつごつ
した文体ですが、気分転換に、絹こし豆腐になったつもりで書いています。



2002年01月30日(水) 名前を呼んでくれる人

岩手県で牧師をされている田崎さんの日記に、自分のことを
名前で呼んでくれる人は何人いるか、そうして、名前で呼んで
くれる人が多いほど幸せではないかとあった。名前を呼ばれると
いうのはそれだけ間柄が親しい証明だそう。

年齢を重ねるうちに、だんだんと自分のことを名前で呼んでくれる
人が減っていき、今後増えるということがないような気がする。
私のことを名前で呼んでくれる人たちは、1万2000キロぐらい
離れたところにいて、めったに会うことがない。

でも、よく考えれば私だけが該当するのでもなさそう。家族や
パートナーがいる人たちでも、役職でも呼び合っている家庭も
あるだろう。子供がいれば、夫婦間でもお父さん、お母さん
と呼ぶのが一般的ではないかしら。

インターネットを始めてから、本名ではないけれど、ハンドル名で
親しく呼んでくれる人たちが少しづつ増えていくのは、本当に嬉しく思っている。


2002年01月29日(火) 走りたくて

去年の今時分は、病院の15階の窓からウィーンの森の小高い丘を
眺めていた。翌日のオペのために、胃腸を空っぽにすべく下剤と絶食で
一日をじっと過ごしていた。

術後10日間の入院のために持ちこんだ本は、雑誌ランナーズ3冊と
ペーパーバック1冊、CDもたくさん持ってきたが、聴いたのはビートルズ
のナンバーとバッハだけだった。ランナーズは何回も暗記できるくらい
読んだ。

術後2週間は安静にしてたが、仕事に復帰すると同時に、ウォーキングを
開始。最初はよろよろと老人のようにしか歩けなかったが、週末ごとに
プラタージョギングロード8.6キロを歩いた。今から思えば、よくも
そんなことができたと思うし、今なら絶対にしないだろう。あのときは
とにかく早く回復したかった。そろそろマラソンにエントリーしようと
計画していたのに、手術で予定が大幅に狂ってしまいあせっていたのか
もしれない。走りたくて気ばかりせいていたのだろう。

幸い、5月のウィーンの10マイルは参加できて、記録も前年と変わらず
だったので、ほっとした。
今でも、心肺は相変わらず弱く、速く走れないけれど、ハーフなら制限
時間内で完走できる自信はついたと思っている。

3月にハーフ、5月にウィーン、9月にバッハウかベルリン、10月に
ザルツブルクとマラソンだけ考えていたら、私にもまだ予定というものが
あるのだなとほっとした。


2002年01月26日(土) シュテファン

パリに行くと、ルーブルやオルセーはパスしても、マルモッタン美術館
をはずすことはない。
パッシー近くの閑静な住宅街を抜けて、ブローニュの森の入り口に
なるあたりに、邸宅風の建物がひっそりと佇んでいる。
美術史家マルモッタン氏のコレクション。中でも、モネの作品群は
ひときわ光彩をはなっている。地階にある、まあるい部屋の壁一面に
睡蓮が咲き乱れ、ソファに座って眺めていると、その部屋だけ時間から
切り離されたような感覚を受ける。

モネの作品を眺めていたら、シュテファンのことを思い出した。
シュテファンは当時、50代半ばだったろうか。銀縁メガネに、ごま塩
頭で、ジーンズのベルト通しに、重たげなケータイを引っ掛けて、
"Hallo! Wie geht`s?"「よっ、調子はどうだい?」と派手な動作で
入ってくるのだった。

女性ばかりの絵画教室はなんとなくもの静かだったが、快活なシュテファン
が現れると笑いが渦巻いたものだ。たしか、モネの風景画を模写していた。
私が、細かなタッチのところをさして、「ここむずかしいね。」と言うと、彼は「なあに、細かいところは先生にやらせたらいいさ。」と涼しい顔を
していた。後にスヘラが加わり、教室は二人の漫才のようなかけあいで
賑やかだった。

ある日、彼が2週間出張で来れないと言い置いて、さらに2週間が
経過した。
私たちが変だねえと噂していた日。シュテファンの娘と息子が
赤い目をしてやって来た。シュテファンは2週間前にドイツで心臓発作で
他界したということであった。
その日私たちは、一言も口をきかずに一心に絵筆を動かした。もう少し
したら彼のドアのノックの音、ハロー!という声が聞こえるんじゃないか
と思った。
モネの雪の風景画を見るたびに、所々塗られないままに子供たちに
返却された未完成の絵を思い出す。

そんなことを振りかえりながら、立ちあがって、そろそろと美術館を出た。
午後3時の陽射しは、だんだんとその強さを失いつつある。焼栗の温みが
恋しい、人が恋しくなる晩秋の日。


2002年01月25日(金) 春の予行演習

ここ2,3日ぬくぬくとした空気がどこからか流れてくる。
この時期で、気温が8〜10度が続いているのはめずらしい。
花屋の店先から、レモンイエローのフリージアや、ピンクの
チューリップの香りがじかに飛び込んでくる。スペインかポルトガル、
北アフリカで栽培されているのかな。

スーパーの果物売り場には、先週からモロッコ産のいちごが発色のいい
赤を惜しげもなく見せてくれる。まだ1月というのに、春本番に向けて
予行演習をしているかのよう。
街路樹は、まだ用心深く若緑の芽を見せてはくれない。あと1ヶ月は
辛抱強く、内部調整をしているのかも。

きのう、春のマラソンシーズンを前に、ウィーンシティマラソンや
ドナウのハーフマラソンの案内状が舞い込んだ。日本は冬がシーズンイン
になるけれど、この国は4月がシーズンになる。5月のマラソンを走る
ランナーはそろそろスタジオから抜け出して、ロードで脚をならす季節
になる。

友達から相次いで大会結果や予定がメールで送られてくる。休みすぎて
かえってくたびれた身体をそろそろ起こす時期が来ているみたい。
窓の外上空を見上げて「空や、空や♪」と春と勘違いした青空をしばし
眺めていた。


2002年01月24日(木) 飲物とサービスについて

日本で、お昼どきB級レストランに入って、ビールやジュースの飲物を
注文する人を見るのはめずらしい。黙っていても、緑茶か水が出てくる。
欧州では、飲物は必ず注文しなければならないと暗黙の了解が成立して
いるみたい。席についたとたん、ウェイターが、すかさず”Zum Trinken?"
「お飲物は?」と聞いてくる。いらないとか、水道の水頂戴なんていうと
ちぇっ!と舌打ちが聞こえてきそうだ。

家庭でも、場末のレストランでも、食器の種類というのはそれほどない。
大きくわけて、大皿か中皿、スープ皿にサラダ用の皿くらい。これで
肉も魚も、グーラッシュも全部まかなっている。

一方、飲むための器は種類が多い。ビヤホールはもちろん、場末の居酒屋
でも、ビール用のジョッキや背の高い円錐型のグラス、赤ワイン用の
大きめのグラス、白ワイン用、ミネラルウォーター用、ジュース用、
シャンパン用とそれぞれ決められたグラスで運ばれる。

家庭でも、グラスの種類は多い。子どもがうっかりと、コーヒーカップで
ジュースなど飲もうものなら、注意される。大雑把な我家でさえ、普段
使いのグラスは4種類をいつのまにか使いわけている。
最初のうちは、使い分けが細かくて面倒だったが、そのうち和食器に
例えればいいのだなと納得した。
汁椀に白いごはんをよそったり、ごはん茶碗に汁物を入れるとやっぱり変だ。
無精と言われてもしかたない。

カフェで二人の男が1時間の間に、つまみは全くなしでソフトドリンクを
10杯くらい次々と注文するのを見てびっくりしたことがあった。
少し上のレストランで食事すれば、請求書の半分は飲物代というのが普通
である。

欧州料理における飲物の地位は対等か、それ以上のところにあると思う。
飲物が主で、料理が従のような印象さえある。食前酒に始まって、赤か白
のワイン、あるいはビール、最後はリキュール、コーヒーと飲物が
器と種類をとっかえひっかえで登場する。

和食屋で料理を注文し、番茶の金額を請求すれば、日本ではお茶でお金を
取るなと文句がくるだろう。
お茶の葉自体は、それほど安くはないのに、こういう気持ちはどうして
起こるのか、不思議。昔から水と安全は只と思う伝統が継続しているから
かな。
あるいは、お茶や水やおしぼりなどは、サービスという概念の中に
埋もれて、サービスでお金は取らないという意識があるのかも。
欧州では、サービスということばの裏には見返りというものがちゃんと
くっついている。


2002年01月23日(水) 友立ち去りて

いつもと違う時間に外に出て、2年前から疎遠になっていた彼女と
道でばったり出くわした。10分の1秒の間、会釈だけで、通りすぎ
ようかどうしようか、迷った瞬間「元気?」って声をかけた。
彼女も「うん、元気」と返事があったが、そこから、「今どうして
いるの?」と口から出かかった瞬間、「じゃあ、急いでいるので・・」
と言われてしまった。「じゃあ、またね。」と言い返したが、連絡先も
知らないのだから、この次の「また」は永遠にやってこないだろう。
次回、見かけても、お互いが引いてしまうだろうなという気がする。

10年も友達付合いして、こんな終わり方になるのは非は私の方にある
のだろう。困っているとき手を貸すことができなかったから。
この街で最初で最後の友達と呼べるような人だった。

この「さよなら、また会おうね」という言葉を今までに何回言って
きたことか。または2度とやってこないのを自分は知っている。それでも
1%くらい可能性があるかなといちるの望みをかけて言ってるのだろうか。

ここ2ヶ月、業務上以外で日本語をしゃべったことがない。営業日本語
はちゃんと頭にインプットされているけれど、いざ個人に立ち返って
相手に通じるような日本語が話せるかどうか不安になる。友達という存在が
欠落しているために、自分のことばで、意図することをちゃんと語れない
ような気がする。
物語の世界にあこがれるのは、こんな事情も影響しているのかしら。

彼女や今までに出会った人たちとは、自分は逆方向の電車に乗っていた
のだなと思う。一瞬、すれ違いはするけれど、2度と交差することは
ない。こんなことを考えながら、決して振りかえらない彼女の後ろ姿を
見送った。


2002年01月22日(火) それを言っちゃあおしまい

チェコで操業を始めた原発をめぐり、チェコとオーストリア関係が
相当揺れてきている。昨年来、2国間の大きな問題で、道路閉鎖やデモは
日常茶飯事だったけど、先週のチェコのゼーマン首相の発言で一気に
賑やかになってきた。

このテメリン原発は、オーストリア国境からわずか、60キロしか離れて
なくて、臨界事故でも起これば、オーストリアも相当な被害を被るので
国民も政府も大きな関心を寄せてきた。
欧州の原発の建築マニュアルには、きっと基本ルールがあって、できる
限り首都から離れたところや国境ぎりぎりに建設すべしと載っているの
ではと思うほど、ルールに忠実に建設されている。

先週、チェコの首相は、オーストリア連立政権の右派の前党首ハイダー氏
のことを、ナチシンパの大衆煽動家と名指したばかりか、さらに
オーストリアはナチの被害者ではなく、同盟国であったと言いきって
しまったので、事態がややこしくなってきた。

オーストリア国民の半分くらいは、ハイダー氏のことを、口には出さない
けれど、そう思っているが、オーストリアがナチの同盟国であったと
聞いて、冷静ではいられない。
オーストリアもまだ完全に第二次大戦の総括を終えてはいないので、
触れられると、とても痛いところである。

自分の子供のことを、「ばか息子ですが・・」とへりくだって言う人は
いるかもしれないけど、日頃よく思っていない隣人から、「あんたの
息子はばかだね。」なんて言われたら、「そんなこと言われる筋合い
はない!」って思うのが人情である。さらに、「あんたとこの先代は、
ひどかった!」と、言われたらかえって仲の悪い家族でも団結して、
外からの攻撃に立ち向かおうとするものだ。ゼーマン首相、大失言
だと思う。古傷をつついて、ろくなことはない。

右派の自由党は、こういう攻撃を、上手く利用して、国民のコンセンサス
をまとめるのはお家芸。問題をは、国民投票の実施にまで、さらに、
チェコのEU加入を阻止するところまで行きつつある。

歴史的、経済的な観点から見て、オーストリア人はチェコ人のことを
対等のパートナーだとは思っていない。かつてのハプスブルク帝国領で、
経済的にも劣ってきた国に、真っ向から悪口を言われては黙っては
いられないのだろう。陸続きの国境について考えさせられた出来事
だった。


2002年01月21日(月) 春のかおり

さして歓迎したくもない通知を取りに、郵便局から帰る道すがら、
花屋の前を通った。今日は快晴で、気温も10度くらい。

フリージアやチューリップの赤や、黄色、ピンクが目に飛び込んでくる。
同時にやわらかな香りが鼻腔をおおった。ぼんやりと歩いていたせいか、
香りの方が先に飛び込んできたみたい。
鮮やかな球根の緑が、すくっと1本天を向いて、突き上げるように
立っている。どんどん伸びて、色鮮やかな花になるのも、あと少し。
チューリップを飾ったのは、いつが最後だったか思い出そうとしてみた。

あと、何回かは寒くなるかもしれないが、春は確実にやってきている気配
がある。楽しくても、そうでなくても、誰にも春は訪れる。

遠い遠い昔、大阪城公園で梅林にいたときのこと、梅の蕾がふっくらと
していた風景や、桜が風に乗っていくのを見た。薄ピンクの思い出を
心に描きながら、歩みを進めていく。いつしか、手にした裁判所の通知も
重さを失っていった。


2002年01月19日(土) 逆説的なことば

例えば、北ドイツのテレビドラマ。
二人の人間の会話内容が険悪になり最後にどちらかが、"Guten Tag"
「グーテンターク!」というきつく発すれば、これは、こんにちは!
などと言う意味には絶対にならない。
さっさと帰ってちょうだい!くらいのニュアンスに近い。
決り文句の美辞麗句なら、"Schoenen Tag noch!"「まだまだ、よい一日を
お過ごしくださいね」と言う。

日本語も美辞麗句の宝庫だと思う。「是非、遊びに来て下さいね。」と
言われて、真に受けて訪問などしたら、びっくりされるだろう。
外国暮らしが長くなってくるにつれ、「ほんとに、ほんとに来てね!」って
2回くらい念を押されないとほんとに訪ねていいかどうか判断がつかなく
なった。

「急いでいるので・・」「疲れているので・・」という表現も、何かに
対して拒絶しているのだから、提案か、お願いをした側は、おとなしく
引き下がるしかない。こういう言葉の信号をうっかり見過ごすと、はっき
りとした拒絶を聞くことになり、痛い思いをする。

日本語の「ありがとう」の言葉も、状況によっては拒絶を表わす言葉かな
と思ったことがあった。
たとえばデートで、これから進展があるのかどうかはっきりしないとき、
相手から「今日はありがとう。とても楽しかった。」の後が続かなければ、
これは脈なしと見てもいいかも。現代人は忙しいのだから、次に会う
約束をしなければ、その時点であきらめた方がいい。
その恋は、閉店のシャッターを一方的に閉じられたと思ってさしつかえ
ないと思う。これは、自分の経験で、ありがとうと逆説的に言ったことも、
言われたこともあった。

素敵なことばなのに、時には刺のように、ずきずきと痛むことがある。
こういうときは、ちょっぴり心が弱っているのだろう。暖かいココアや
音楽や詩で、治療しないといけない・・・



2002年01月18日(金) 糸電話の片っぽ

今の若い人には想像できないかもしれないが、私が小さいとき、
電話というものがめずらしい時代だった。会社やお店にはあったが、
一般家庭ではめずらしいもの、重たげな、黒光りする電話がうちにも
あればなあといつも弟に話しかけたものだった。

父だったか母だったか、糸電話をこしらえてくれた。紙コップにきりで
穴をあけて、タコ糸を通した簡単なおもちゃ。それでも耳をコップに
あてると、弟の声がびんびん響いてくるのは不思議だった。

家庭に電話機があるのが当たり前になり、今では、一人一台ケータイを
もつのがしごく当たり前になった。私がケータイを持ったのは、一昨年。
もっぱらパートナーとの連絡用で、誰も番号を知らない。
こちらの人は道行きながら、大声で誰かと話をしている。でも私のケータイ
に着信が入るのはとてもめずらしい。

以前、友達がケータイにメールがどんどん入って困ると言った。でも
まんざらでもなさそうな顔。私の手にはできない、魔法の宝箱をもって
るようで、羨ましいなと思った。着信がひっきりなしに入るのは、誰か
かれかが、いつも気にかけてくれる証拠だと思う。

私にはもともと、ケータイも固定電話も必要なかったとしっかり認識した
のは最近のことである。
一緒に食事や映画に行くような友人はいないし、会社と家とスタジオの
往復のみで、パートナーがここにいなければ、糸電話の片っぽで、一人
遊びしているようなものである。
よしんば持っていても、どの番号を押せばいいのか。私は誰かと話し
たがっているが、どこへも発信できない。

地下鉄のカールスプラッツ駅の公衆電話に、昨日も今日も同じ時間に、
おじいさんがくたびれたコートに身を包み、ごま塩のような口ひげの
下から、泣きそうな声で何かしゃべっている。あのおじいさんは、
ひょっとしたら、誰にもつながらない送話器に向かって一方的に話し
かけていたのかもしれない。

自分の老後を見ているような気がしたので、あわててその場を立ち去った。


2002年01月17日(木) 原田大助詩集より

  心が痛くなるから
  見ないようにする
  心にけがをするから
  会わないようにする

  近づくと心がけがをする
  それなのに
  どうしてまだ
  そばにいるのやろ
          「原田大助詩画集」

最近、めっきり心がダウンしています。どこかで元気を調達して
こなければなりません。

My heart circles round and round in an orbit.
I try to seek a way out.
But, I know there is no way out from here in a darkness.
I try to extract true meaning from the context.
But .... no success

Mein Herz hat grosse Schmerzen
Ich weiss immer noch nicht, woher diese Schmerzen kommen
Ich stehe zwischen beiden Welten, zwar realistischen und
unrealistischen..
Unrealistische Welt ueberschattet realistisches Mich...


2002年01月15日(火) ハイリゲンシュタットの小道

ベートーベンが遺書を書いた家、ベートーベンハウスはハイリゲン
シュタットに、ウィーン19区の閑静なお屋敷街にある。

今にも小雪がちらつきそうな中、スロバキア大使館へ用事で出かけた。
賑やかな、グリンツィングのホイリゲを抜けた、森近く。
バス停までの行き帰り、ベートーベンハウスのすぐ傍をとおる。
名所旧跡の印の、オーストリア国旗がひらひらと門にかかって
揺れている。

しばらく時間があったので、ベートーベンの小道まで歩いてみた。
小川に沿って、細長い道がえんえんと続いている。きりりと引き締まる
ような寒さの中、散歩する人影は見えない。

目を閉じると、交響曲「田園」のメロディが聞こえてきそうだ。
200年の歳月を邂逅してみると、あたりは葡萄畑に小川が流れ、視界を
さえぎるものは何もなかったに違いない。聞こえない耳で、毎日作曲して
疲れたあと、同じ道を散歩していたはず。

どんよりした冬空の日曜日、外に出たくない日。ワンパターンな生活を
送っているとはたして自分の生きる意味なんてあるのかなと考え込んで
しまう。そんな気分のとき、ベートーベンの交響曲はずいぶんと力に
なってくれる。調子のいいときは、敬遠するくせに。

幸い、自分は目が見えて、音が聞こえ、風や雨の匂い、寒いと感じる
感覚がある。
さあ、仕事に戻ろうと、踵を返すと、灰色の空から粉雪が
ひらりと落ちてきた。


2002年01月14日(月) 反射神経

自分では反射神経は鋭いと思っていたけれど、そうでもなさそう。
ユーロ硬貨は、1,2,5セントと10,20,50セントは大きさは
違うけれど、色が同じなので、支払いのさい戸惑ってしまうみたい。
私は形状ではなくて、色でまず対象を認識するタイプなのだろう。

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に主人公が
左右のポケットに、硬貨を入れて、暇があれば同時に計算する場面が
あった。これができれば、たぶん外国語の同時認識ができると思う。
耳で外国語を聞いて少し遅れて、母国語に変換することだってできるはず。
幸か不幸か、こんな芸当は私にはできない。
こういうことができる人はすごいけれど、頭の疲れ方がひどくなるかも
しれない。

他の欧州言語も似たようなものだと思うけれど、ドイツ語を話すのは
障害物競争をするのに似ている。英語では助動詞の次は動詞を置くが、
ドイツ語は枠を作るので、動詞は文の最後に持ってくる。過去の出来事を
話すときは、現在完了形を使うので、助動詞はhabenか seinを選び取り、
瞬時に変化させなければならない。

文章を頭の中でこしらえてから、話すのでは間に合わないので、この
助動詞の選び方をしょっちゅう間違える。
さらに、分離動詞というものがあって、文体によっては分離させて、
枠構造を作るか、間にzu(英語のto)を入れる必要がある。

さらに、豊富な前置詞を定冠詞や不定冠詞とくっつけて、形容詞を
てんこもりにして変化させながら、話すので、たいていどっかで
つっかかる。
これは、なかなかむつかしい。ドイツ語を母国語としている人はどうやって
文章を作っているのか不思議でしかたない。アルペン競技の実況
中継では、瞬時に枠のある文章になっているのはいつ聞いても見事だと
思う。

人間には肉体的な反射神経だけでなく、脳にも反射神経が必要なのだと
あらためて感じた。


2002年01月13日(日) 成人式と兵役

荒れる式典のニュースを聞くたびに国や自治体主催の成人式はもう
やめたらよいのにと思う。新成人の晴れ着を扱う関連業界は困るけど
法律で20歳になれば、いやでも成人とみなされるのだから、警官隊の
監視をつけてまでやる必要はないだろう。

先日、友人の息子さんが日本語に訳してほしいと1枚のペーパーを
持ってきた。彼はいま17歳。まもなく、国の義務として兵役か市民の
ための奉仕を選ばなければならない。内容は Gedenkdienstについて。
これは、オーストリアがナチスの片棒をかついだ苦い記録、ホロコースト
について、オーストリアの国と国民の責任を世界に知らしめるために設立
され、世界中のホロコースト記念館で、史実のまとめをし、啓蒙していく
活動で、兵役にとって代わる奉仕活動と書かれてあった。上手く訳せない
けど、「追悼奉仕」とあててみた。

オーストリアは18歳から、8ヶ月の兵役か、12ヶ月の市民サービス
(福祉施設で勤務、主に患者の世話など)、それと追悼奉仕(外国の
ホロコースト記念施設で勤務)を選択しなければならない。追悼奉仕の
方はたぶん若干名募集のよう。この国の若者たちは、成人式のように
みんなで集まって、祝うこともないけれど、上にあげた国民の義務を
果たしたとき、自分は成人になったと感じるのだろうか。

ソウルにいる若い友達は、ようやく大学入試に合格した。1学期か2学期
通えば、彼も入隊が待っている。
友人の息子さんも、ソウルの若者も、入隊なんてまっぴらだと思っている。
軍隊のない日本の若者と何ら変わるところはない。
日本は幸いにして兵役がないので、若い人達は学業を中断することなく
好きなことに打ち込める。

成人式があっても、大人になりきれない若者、兵役につくのが嫌だけど
どうにもできない現実に直面している若い人、世界はさまざまだなと
考えさせられた日だった。


2002年01月12日(土) 10冊の本を選ぶということ

高村薫の「神の火」に、老スパイと主人公が絶対にかなうはずのない
夢に少しでも現実感を与えようとして、廃業したら欧州のオペラ、
美術館通いをしようと、本当にローマ行きの航空券を手にする場面が
あった。さらに旅行に持っていくための本を10冊選ぶように冗談を言う。
10冊選ぶというのは、決して戻ることのない旅を想定し、残り時間も
10冊を丹念に読むだけしか残されていないことを意味する。

今の自分なら何を選ぶかなと思ったが、何度も読み返して退屈しない本
を選ぶのが良策だろうか。
ヘッセを1冊(メルヘンかペーターカーメンチントか)、ケン・フォレット
の「大聖堂」、源氏物語、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド
ワンダーランド」、「ねじまき鳥クロニクル」、あとワーグナーの
「ニーベルンゲンの指輪」のテキスト、クラシック事典、ドイツ語の辞書
と古語辞典と国語辞典、英英辞典くらいだろうか。ジョイスの「ユリシーズ」
もいいかも。

結局は読むのに四苦八苦するものが時間つぶしに最適か。
クラシック事典やオペラのテキストは、何とかメロディを思い
出せると思って選んだけれど。

元気でいられる寿命があと30年くらいとして、何冊くらいの本が
よめるのだろうか。
普通に勤めていれば、年に100冊の本を読むのはかなりきついだろう。
家事をしながら、インターネットをし、仕事をしていれば、年に50冊
ぐらい、総計で1500冊がやっとといったところかしら。

私の場合は、新しい本に出会う確率が少ないので、これからも同じ本を
繰り返し読み返すことになる。長年のつきあいに堪えうる本を選ぶのは
人に出会うのと同じくらいむずかしい。




2002年01月11日(金) 文化・教養講座

1月は成人講座の学期が終わる季節である。
3週間ほどおいて、2学期目が始まるので、この時期ウィーン各区の
VHSから分厚い講座案内が届く。

地区のVHSで4年前から絵画コースを取っているので、水曜日ははずせ
ない。水彩画やデッサンを集中して習いたければ、別の地区の専門コース
や芸術専門のVHSに通うこともできる。

VHSは、関西でいえば、朝日カルチャーセンターののりであろうか。
ただし、VHSは国や自治体の傘下にある組織なので、受講料は極めて
安価。1学期30時間で、1回あたり1000円くらい。楽器の個人
レッスンも30分単位で1500円くらいと、相性のいい先生に出会えた
らこれほど得なものはない。

VHSではありとあらゆることが学べる。フィットネス、ダンスから、料理、
芸術、パソコン、心理学、占いから、外国語。外国語も、世界50カ国
語が破格値で勉強できるところがすごい。どこで話されているのかよく
わからない言葉の講座もある。普段、時間のない人は、週末集中コースで
学ぶこともできる。

人口における大学卒(修士以上)の割合が低いので、成人講座のような
簡単に自己啓発をできるシステムを作っているのだろうか。次の
休暇のために、ギリシャ語やスペイン語を学ぶ人もいるし、試験もない
ので、興味あることを好きなだけ学べるのは嬉しい。


2002年01月10日(木) 道具を磨く

油絵コースが再び始まった。絵仲間のクラウディアの筆箱をみると
ぴかぴかの筆がずらりと並んでいた。見ているとほれぼれする。
油絵の筆は、使ったあときれいに洗っても、完全に汚れを取り去る
のはむずかしい。私の筆は、もうあちこち汚れて見苦しくなった。
大事な道具なのだから、もうちょっと気合を入れて手入れしないと
あかんなと反省。道具を粗雑に扱うから、出来あがった絵もタッチが
荒いのかしらと、ちらっと思った。

筆は、号数ごとに持っているけれど、安いものばかり買ったので
肝心のときに、役に立ってくれない。少し無理をして買った筆は、
キャンバスにあたったときの感触がやわらかく、微妙な混ざり具合を
上手く塗れるようになっている。その昔、料理教室の先生が食器は
高価なものを普段使いするように言った。高価なものは、手が緊張して
めったなことでは、壊さないからだそうだ。

今、使える筆は6号と12号の丸筆のみ。4号、8号、10号が
欲しくて昼休みに2軒の画材屋をのぞいたが、意中のメーカーの
品が見つからなかった。週末に1区のペンキ屋をのぞいてこよう。

少しだけ早起きして、筆を磨く。自分の人生を豊かにしてくれる道具、
ジョギングシューズ、フィットネスウェア、画材、画材用の布など
きれいに手入れをすると、朝から気分がよくなるのは不思議。


2002年01月09日(水) 人間のすること

カードで購入したオペラチケットが決済できないとチケット販売
代行会社から連絡があった。
予約直後にチケットは引き取り済なのにおかしいなと
思いながらも注文主に連絡を取って、現金決済を了承してもらった。
代金を払いに行って、念の為にもうパソコンのデータを見せてもら
ったら、座席番号が違っていた。
そういえば、当時電話口の担当者はコンピューターがダウンしているか
らもう1度トライしますと言ってたっけ。エンターキーを2度押しした
か、2回目に別の座席で確定ボタンを押したのかもしれない。

以前、ネットからオペラチケットを申し込んだとき、エンターキー
を押したとたんシステムがダウンして、予約の確定の有無に奔走した
ことがあった。幸い、同じ市内に住んでいるから、確認には出向けば
いいけれど、外国からの申し込みならどうなるのだろう。言葉の
問題も大きいし、時差もあるから、双方大変なことになる。

オペラのチケットはカードで買って開演前にピックアップできる
けれど、これは危険だと思う。その昔、申し込んだ日に引き取りに
人をやったら全然違うチケットを貰ってきたことがあったし、
毎年のように遊びにくる友人は、一昨年買ったチケットの代金が
いまだに請求が来ないらしい。

コンピュータのやることは間違いないかもしれないが、入力するの
は人間だから、やはり間違いはある。カードの使用明細やきれいに
印刷された請求書もチェックするに限るなと思った。


2002年01月08日(火) 中東欧におけるドイツ語の地位

日経にワールドカップで必要なボランティア通訳、特にクロアチア語、
トルコ語の人材が皆無に等しくて困っているという記事があった。
大学や大使館経由で、つてをあたってもらっているという。
こういう場合は、双方でドイツ語の有能な通訳者を探せば問題は解決
する。
日本人でドイツ語ができる人は何万人といるだろうし、クロアチア人、
トルコ人でドイツ語のできる人材にはことかかないから。

中欧におけるドイツ語の地位は英語と肩を並べているといっても
言いすぎではないだろう。英語は世界標準語であるけれど、大陸で母国語
としている国はない。でもドイツ語は、ドイツ、スイスの半分、
オーストリアと3カ国で通じる。

さらにドイツ、オーストリア、スイスには旧ユーゴスラビアやトルコ
からの出稼ぎで住みついてしまった人が数百万人はいるので、ドイツ語
は第二母国語といってもさしつかえないくらい。クロアチア出身の人間
であれば、ドイツ語かイタリア語はまず流暢に話す。

ドイツ語が中欧で重要な位置を占めているのは、第一に、歴史的に
オーストリアのハプスブルク帝国領が広大であったことと、ナチスの侵攻
も理由にあげていいと思う。第二に経済的な理由で、20世紀後半に
ドイツは経済大国になり、多くの移民を受け入れたため。
第三に、ドイツ人は世界一旅行の好きな人たちであるから、欧州において
は彼らの行くところ、すべてドイツ語でこと足りるように観光システムが
できあがっている。スペインやギリシャの島はドイツの植民地といって
もいいくらいドイツ語がとびかっている。
ドイツ語というのは、経済格差のある国の出身者にとって、どうして
もマスターしないといけない言葉になってしまった。

日本では、英語や他国語を学ぶのは文化教養のためという人が多い
ように見うけられるので、もう少し経済的な理由のために勉強したほうが
身につくのではと思う。そうすれば、英語一辺倒でなしに、需要があり、
供給の少ない外国語にも注目する人が増えるのではないかしら。


2002年01月07日(月) きっかけ

物事を始めるきっかけというのは偶然なのか必然なのだろうか。

ドイツ語を始めたのは、テレビのNHKドイツ語講座で小塩節先生のバス
バリトンのような声にひきつけられて、デア、デス、デム、デンを
復唱した高校生のときだった。英語というものに嫌気がさしていたのも
一因か。挫折しそうで、すんでのところで踏ん張り大学はドイツ語のある
ところを選んだ。小塩先生には一昨年、ウィーンで講演会があったときに
聞きにいった。先生の顔を見たとたん、なつかしくてにっこりしたら、
会ったことは一度もないのに、満面の笑みを返してくださった。

学生時代に、タロット占いで運勢を見てもらって、将来のパートナーは
ドイツ語と関係のある人になるだろうと言われたが、これはほぼ的中した。
だって、ドイツに留学したら、どうしても出会いはドイツ語を仲介せざる
を得ないのだから。

ウィーンに来たのは、たぶん偶然だろう。1986年に旅行で訪れたとき
この街の東欧っぽい匂いに圧倒され、二度と来たいとは思わなかった。
その後知り合ったパートナーが受かった大学が唯一ウィーン経済大学だっ
たのでまたウィーンと縁ができてしまった。
二度目にウィーンに来たのは、偶然ではないけれど、理想的な職場で欠員
を補充していたのには運命的なものを感じる。まともな働き先がなければ
今日まで長居することもなかったと思う。

きっかけというものは、自分の机の上や、テレビ、道端にごろごろと
落ちているものなのだろう。それを拾うかどうかは偶然という運命的な
ものが混ざっているのかもしれない。もし、高校生のときにイタリア講座
を見て、おもしろいイタリア人の兄ちゃんのボンジョルノ!なんて
聞いていたら、今ごろはイタリアに住んでオペラ三昧の生活をしていた
かもしれない。
でも物事は偶然だけが、作用しているわけではないだろう。
きっかけが醸成して何かに成って必然と感じられるためには、人間の心の
深いところで、方向性を示したものがあるのだろと思う昨今である。


2002年01月06日(日) 鏡について

加藤秀俊の「暮らしの思想」に鏡についての記述があった。
日本では古代から鏡は神聖なものとされていたこと。近代まで家庭に
おいても鏡はみだりに見てはならないものと畏れていたことをあげて
いる。そういえば、三面鏡など、必要なとき以外は閉じてあるのが普通
だし、ミスタードーナッツの景品の手鏡もカバーが付いていたし、
埃よけと思っていた鏡の覆いは、畏れの表れだったのだと納得した。

西洋の鏡は、神聖もあるのだろうけど、主として自分を見つめること、
ナルシズムを表わしていると著者は書いている。「鏡よ鏡、世界で一番
美しいのはだあれ?」と鏡に訊ねるメルヘンの女王様もいた。
レンブラントのおびただしい自画像も鏡を見ずにはできない作品であり、
ナルシズムを具現しているのだろう。

どこの家も宮殿も鏡は大きく室内に居座っている。ありのままに写る自分
を見つめ受け入れることに通じるのだろうか。日本人にすれば、自分を見
つめながら鏡の間で会食なんて、食べ物が喉を通らないと思うけれど。

昔の呉服屋では、いろとりどりの反物を座敷一面に広げ、顧客が肩に
あててお店の主人や奉公人が目利きしていく場面が小説の舞台になる。
顧客は自分の姿を大鏡に写して見るのではなくて、まず第三者が似合うか
どうか意見する。昔の日本人の美意識というのは、自分が鏡で見て似合う
かどうかよりも、第三者から見て自分がどのように写っているかを大切に
していたのだろう。

現代人の私は鏡など畏れる気持ちはないので、どんどん等身大の自分を
写して少しでも納得のいく体型を保とうという気持ちだけは強くもつこと
にしている。


2002年01月05日(土) 戦国武将と現代職業人の生き方

山岡壮八の「織田信長」読了。
日本人の会社経営者はたぶん織田信長や豊臣秀吉、徳川家康を筆頭
とする戦国武将のファンだと思う。会社社長の御用達雑誌と呼ばれる
「プレジデント」の新聞広告には年に何度か戦国大名の特集を組むと
部数が伸びるときいたことがある。

会社のトップは型破りな武将たちのキャラクターもさることながら、
家来が家族ともども一丸となって仕える武将に一生を託し、寝食を忘れる
ほどに主人のために仕事をしたところに惹かれ、人材活用の参考になると
思っているからかもしれない。

戦国大名の生き方というのは、過程の中で見ていけばこれほど波乱万丈
に富んだ生き方はないくらいおもしろいけれど、結果を見れば、偉大な
武将もやっぱり人間だなと思わせる。信長は、側近の明智光秀に討たれて
自害したが、最後の詰めの甘さから起こったことだから、経営者の究極の
手本とはならないだろう。秀吉も天下統一はするも、最後は幼い後継ぎの
行く末を心配しながら病死という結末。家康は唯一の成功者であるけれど、
一個人としては、天下を取った後は退屈な人生だったように思う。

昨日、新聞で失業率が5.5%まで跳ね上ったとあった。国を代表する
企業が数千人、一万人単位で人員整理をする報道は最近は聞いても驚か
ない。早期退職推奨に応じる人が増えていると聞く。自分の今後の生き方
を社外に求める人が増えているからだろう。社員はやりがいのある、責任
を伴う仕事に熱中することで他の生き方や家族との生活を犠牲にしてきた
けれど、会社はやりがいのある仕事も安定した給料も定年まで保障でき
なくなった。
戦国的職業観から離れて、一個人としての生き方働き方を考えることは
楽ではないけれど大切なことだと思う。
いてもいなくても、さして困らない仕事をずっとしているので、日本と
この国での職業観などを比較する時間が多い昨今である。


2002年01月04日(金) 1901年の風景

映画館に1901年当時のマリアヒルファー通りの写真が飾って
あった。この映画館のあたりから、リングへ向かって撮った風景写真。
白黒だけど、いまはお化粧直しされたシュティフト教会や数年前まで
あったヘルツマンスキー百貨店の名前が見える。

男はステッキに黒い山高帽、女性はひだのたっぷりある黒っぽいロング
スカートに提灯そでの白いブラウスに日傘、つばの広い帽子姿。
路面電車も旧式の一両編成が走っている。石畳の舗装。今は跡形もなく
消えてしまったが、1986年春、初めてウィーンに来たときの雰囲気、
建物の感じはそのまま残っている。

100年前も16年前と遜色なく、同じように買い物客で賑わっていた
のだなと写真の瞬間へ邂逅していくような感じがする。
でも写真の人々は今は誰一人生存していない。2,3歳のかわいらしい
幼女もこの世の人ではない。
この感じは、天井の高いカフェに座って新聞を読みながら、ちらりと
外、王宮を見たときもあった。過去と未来のメビウスの環の上を今と
いう時間がすべっているようだ。この環の上では、自分の中のどうにも
しかたない空洞のようなものは雲散霧消していく。

肝心の映画よりも、壁一面に飾られた1901年のウィーンの風景に
釘付けになった。


2002年01月03日(木) 心地よき宴

十数年来お世話になっている家族から夕食の招待があったので
喜んで出かけた。少し離れたところに住んでいるが、毎年一度は集うよう
に心がけている。
クラプフェンバウアー夫婦は3年ほど前から年金生活に入り、90歳に
なるおばあちゃんと3人暮らし。かなりの資産家なのに、生活ぶりは
質素で、でもけちというわけではなく、自然体での暮らすさまは見習う
べき点が多い。

夕餉も、サラダ2種とヴィーナー・シュニッツェルとデザートと普段の
食卓と変わりないが、話題が豊富で十分肴にして楽しめた。この家族と
話を始めると、長丁場になる。旅先でのこと、音楽のこと、日本の芸術
のこと、政治・経済と多岐にわたって本当に楽しい。常識的なウィーン人
の意見を忌憚なく披露してくれる。この家族の居間に座っていると、普段
の気を張っている生活から離れ、一種の温みのようなものをじかに感じる
ので、長居をしてしまうのだろう。

おばあちゃんは、年々弱っているように見うけられるので、またこの次
ねと念を押しても、次回会えるかどうかわからないなと思い、きつく
握手してきた。

帰り道、美しいお月さまを眺める。18夜か19夜くらいか。上側から
欠け始めていたが、射す光は強くて、零下の冬空をきりりとひきしめる。
空には満天の星。シェリーとワインとシャンパンを飲みすぎた頭には
心地よい冷たさだった。


2002年01月02日(水) 値ごろ感のずれ

1日からいっせいにユーロ通貨(独語ではオイロと発音)が流通して
今日は2日。商店やビジネスがいっせいに始まる日だった。
ユーロ通貨をもって、近所のマーケットに買い物に出かけた。
年末に買ったユーロ硬貨がたくさんあるので、実地に使ってみようと
思ったからだった。
店内はシリング表示が大きくて、虫眼鏡でみないとわからないような
細かい字でユーロ表示がある。3,4点買いこんで、硬貨で支払おうと
準備していった。買い物客が少なかったので、一つづつ硬貨を確認した
けれど、ややこしい。8種類の硬貨は多すぎる。2セントや20セント
などはなくても十分やっていけるのに、面倒なことこのうえない。

シリングで大体これくらいだろうとカートに入れているうちに自然に
勘定はできるけれど、ユーロ表示だとぴんとこない。商品が安いのか
高いのか、値ごろ感が調整できていない。
主婦にとって、この値ごろ感というのは買い物するときにどうしても
必要なもので、ぴんとこないと高い買い物をしてしまうことになる。
値ごろ感を鍛えるには、日々商品と値段を比較していくしかない。

国内でのユーロ表示の値ごろ感が鍛えられたら、今度は欧州域内の
比較が待っている。域内で同じ商品が、それぞれ違う値段で売られて
いるので(付加価値税率が違うため)、勉強のしがいがある。
書籍はドイツのアマゾンコム経由で買ったほうが断然得。送料は無料で
付加価値税がぐんと安いから。

オーストリアは通貨同盟に加入していない東欧諸国に囲まれているけ
れど、ユーロ通貨はこれらの国でそのまま、店の方で受け取ってくれる
だろう。統一通貨によって、今後数年内に国を含めて、産業界の大きな
再編が起こるはず。人件費の高い国は敬遠され、物価の安い国や
良質の製品を生産できる国が勝っていくのだろう。
数年後、自分がどこの国で生活しているか、どんな風に働いているか
は全く読めない時代になりそうである。


2002年01月01日(火) 新年風物詩

ウィーンの新年は雪とともに始まった。
午前11時には、楽友協会黄金の間でニューイヤーコンサート。
もちろんテレビで見る。建物からわずか500メートルしか離れていな
いのに、入れない・・(笑)
ヨハン・シュトラウスのワルツのメロディが流れるとまた新年がやって
きたなと思う。美しき青きドナウのメロディはずいぶんゆっくりだなと
小澤の指揮を見て思った。

お昼はゼクトを飲みながら、テレビでジャンプ観戦。お正月恒例のジャンプ
週間で4ヶ所のジャンプ場で試合がある。ドイツ・オーストリアでは
アルペンスキーにつぐ人気種目。日本選手も多数出場しているので見落と
せない。

新年とともにユーロ貨幣の流通が始まった。
午後、銀行の引出し機から50ユーロ、10ユーロ5枚を引出した。
シュテファンス寺院までつらつらと散歩する。きのうの賑やかさをまだ
引きずっているかのようで、観光客が多い。マクドナルドでココアを
飲む。2.7ユーロだったのでシリングで払うというと、すぐさま
自動的にシリング換算してくれた。37・15シリング。えーと、5
グロッシェンはもともと流通していないので、38シリング払う。
お釣りに少し係りの人が手間取って、6セントくれた。今度はこっちが
頭の中で暗算するが、頼りない。まあ、合っているのだろう。
しばらくの間はシリングとユーロで計算がややこしくなりそうだ。

2002年はどんな年になるのだろうか。自分も少しは幸せになりたいし
世界にも戦争のないように願うばかり。


Aqu |MAIL

My追加