雑感
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2001年12月31日(月) マイナス3度の舞踏会

午前中はリングで、毎年恒例の大晦日ランで3千人くらいの
ランナーたちが走り納めをする。オペラ座から、議事堂、市庁舎、大学
をまわって、各省庁の建物を常に左手に見ながら今年の最後を走ってきた。

ゴール後、ケルントナー通りへ出てみると、プンシュやシャンペンを売る
屋台が商売を始めていた。人出が多そう。これから夕方、深夜に向かって
人が爆竹とシャンパンの大瓶を片手に旧市街へ繰り出していく。

クリスマスの静寂とは裏腹に大晦日はできるだけ大人数で楽しく新年
を迎えることをよしとしているので、カウントダウンが始まると
賑やかである。このときは、見知らぬ人に抱きつかれ、いきなりキス
されたり、シャンパンが頭上に降ってきて、何とも手荒い新年の儀式
がある。
1区のあちこちでは、ワルツが鳴り響き、寒空の中、ステップを
踏みながら新年を迎える人が多い。ドレスやタキシードの代わりに
オーバーとマフラーで身体を包みカップルが踊る。シュトラウスのワルツ
が間断なく流れ、寒さしのぎにアルコールを飲んで踊り明かす。

1815年以来、「会議は踊る」と揶揄された国だけに、ワルツのメロディ
が流れてくると人は自然とステップを踏む。このときばかりは、不況も
失業不安も何もかも忘れ、音楽と一体となって踊る。
大晦日のウィーンは踊っていた。


2001年12月30日(日) 死して残るもの

昨日、指揮者朝比奈隆が老衰のためなくなった。氏の自伝
「楽は堂に満ちて」を読むと、正規の音楽教育を受けず、バイオリンと
指揮法を習い始めたのが大学生の時というから、遅咲きの音楽家で
あった。1936年指揮者としてデビュー以来、生涯現役で亡くなった
日もコンサートの予定が入っていた。氏の「1回でも多く振る」という
ことばが心に残っている。

交響曲を聞き始めた頃は、ベートーベンやブラームスにうっとりして
いたけれど、ウィーンに住んでから、地味なブルックナーの音楽が
次第に好きになった。朝比奈隆とクルト・ザンデルリング指揮の
9番と3番に何故か惹かれる。ブルックナーもウィーン宮廷のオルガン
奏者になったのが40過ぎで、彼の交響曲が認められたのが晩年に
なってからという遅咲きの人だった。彼の交響曲は最初聴くとたまらなく
退屈に感じるけれど、だんだんと色彩をおびて醸成し、しっとりと心に
おりてくるような音楽だと思う。彼の生涯そのままをあらわしたように。

「ほぼ日」のガンジーさんが先日他界した。娘さんの報告によると荼毘に
臥された遺灰を見て、生前に習ったNOVAの英会話の知識も、パソコンの
知識も全部なくなって、がっくりしたとあったが、ガンジーさんの残した
文章はずっと残り、たくさんの人が折に触れ読んでいくのは間違いない。

人の一生というものは完結して終わるより、何かやり遺して生を終える
人が大半ではないだろうか。朝比奈隆もたぶん2,3年先のコンサート
の予定が詰まっていて、1回でも多く振って音楽への真髄に近づこうと
していたのだろう。
朝比奈隆の録音も、ブルックナーの作品も、ガンジーさんの心意気が
詰まった文章もすべて形となって残っている。

こういう人たちの生涯を見ていると、余生ということばなんて存在しない
ように思う。人の生き方に余った生命なんて入りこむ余地がないほどに
集中した時間を少しでも多く体験できればと思った。



2001年12月29日(土) 気持ちがずれる

長い間、一緒にいてお互いよくわかりあっているというのは錯覚のように
思うことがある。

風邪をひいて頭が働かないとき聴きたい音楽が、相手がベートーベンの
ピアノ協奏曲だったりすると、あらまあどうしてなどと思うことがある。
聴いていて、堅苦しい。一流レストランでフォークとナイフの
順番を考えながら食事しているときのように。
しんどいときは、ショパンやモーツァルトの小品の方が耳に優しいと
思うけど、人それぞれ感じ方があるのだろう。

一人生活に慣れて、日頃好き勝手なことをしていると、自分が世界標準
になってしまうようで、たまに誰かと生活のリズムを合わせるとなると
ぎくしゃくしてしまう。相手にしてほしいこと、してほしくないことを
きっちり伝えていかないと、互いの気持ちがずれていって、しまいには
よく知っている人がまったくの異星人に見えてくるから、不思議。

夫婦でも、親子でも家族間には共通の認識というものが形成されていく
けれど、時にずれることがあるので、たまにはわかりきったことでも
確認していった方が、後々のクレパスのようなずれに戸惑うことが
少なくなると思う。

ピアノ協奏曲5番が、威勢のいい音を噴出している。私はヘッドフォンで
バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を聴く。家族とはなかなかむずかしい
もの。


2001年12月27日(木) 寄付について

新聞記事にカソリックの国際援助活動組織カリタスが悲鳴をあげて
いると載っていた。
例えば、アフガニスタンへの援助で、一部の人からトラック一杯の
ハムや卵が寄せられるという。イスラム教徒は豚肉を食べないので
寄付されても処理に困るらしい。卵も輸送できない。寄付を送る土地の
事情を知らない人、自分の家の倉庫を空にしたい人が、現地に送れない
ものを寄付してくるので、余分な仕事が増えて困っているそうだ。

日本のユニクロも在庫処理を兼ねてフリースをアフガンに送る計画がある
と記事が載っていた。フリースは寒い土地では重宝するかもしれないが、
女性は着ないかもしれない。ブルカをかぶっている女性は、必ずしも強制
されているわけではない。イスラム教徒の女性の中には、自分で選んで
着ている人も多い。
お金であれば、現地のスタッフが土地の文化を考慮して必要なものを
買うことができる。
だから、アフガニスタンや他の援助を必要としている地域にはものでは
なくて現金の寄付の方が軽くて、輸送費もかからない。ものを送る
と、輸送費もたいへんだが、一方的に送られてきた物資を公平に配布する
のは手間のかかる仕事だと思うので,現地の人が必要とするものを送る
なり送金するほうが効率がいい。

銀行や郵便局に行くと、窓口には寄付をお願いする振り込み用紙が多種類
並んでいる。紛争や災害が起こるたび、その種類は増え、減ることがない
のは悲しい。


2001年12月25日(火) Frohe Festtage!

キリスト教では、昨日はクリスマスイブで今日がクリスマス。
昨日は、午後からどこもお店が閉まり、劇場もレストランもほとんど
閉店で静かな夕方だった。

オーストリアでは今日と明日が祝日になる。といってもほとんどの人は
クリスマスから年始にかけて休暇を取っているので、この時期は里帰り
する人が多い。大きな家族の中でお祝いをするのだろう。車いっぱいに
プレゼントの箱を抱えて帰省する。しばらくは、昼と夜重い食事が続く
らしく、フィットネススタジオは年始の2週目から急に新入りの人が
増えるそうだ。

95年のクリスマスはキプロス島で過ごした。ギリシャ領とトルコ領に
分かれ、最近まで紛争が続いていた土地。レモンとオレンジがたわわに
実り、道端に落ちていた。暖かいところだった。ギリシャ側の保養地に
いたのだが、25日は村でもお祝いをしていなかったのに気がつき、
ああ、ここはギリシャ正教の国だと再認識した。ギリシャ正教だと
2週間ほど降誕祭が遅れるのだった。

オーストリアで10回以上のクリスマスを過ごしたが、信者でもない
一外国人にとっては、この時期はつまらない。邦人の多くは里帰り
するか、外国で休暇を過ごす。思えばキプロス島で過ごした一週間が今ま
でで一番楽しいクリスマス休暇だった。

この時期思いもかけずプレゼントやカードを貰った。こういう瞬間は
自分のことを気にかけてくれる人がいるのだなと嬉しく思う。



2001年12月23日(日) 比べっこなし

MOREという若い女性向けのファッション誌をめくっていた。
分厚い紙面の内容は、ファッション、美容、恋愛と若い人の関心の
高い話題が盛りこまれて、買わなきゃ、持たなきゃ流行に後れるよと
読者の購買意欲を誘っている。

同世代の若い女性が、似たような職場で、収入も平均的で少しだけ隣の
人より上をめざそうとする気持ちはわかる。
単一民族で消費が奨励される社会では、理想のライフスタイルという
ものさしを人工的に作って、モノを買って所有することで理想=幸せに
到達できるように仕向けている。パブル時代の頃は、クリスマスには恋人
と一流レストランでディナー、プレゼント、高級ホテルでお泊まりと、
ワンパターンな過ごし方を提供し、一つでも欠けていると幸せでない
ような印象を与えた。プレゼントの相場は何万円の、どこそこの
ペンダントなどと、真剣に話題になったことがあった。

多民族の価値観がばらばら、収入もライフスタイルも平均値がとれない
社会に身を置くと、比べっこということができなくなる。髪の毛も瞳も
肌の色も違うので、今年流行のと言われても、ぴんとこない。
おまけに、質素な生活をしている人が多いので、隣の人がシャネルや
プラダを身につけようが、自分には関係がないと思うのか、その分、旅行
や趣味にお金をかけている。

多民族の社会に暮らしていて、ほっとするのは自分が他人と幸せ比べを
しなくてすむことかなと思う。未婚でも既婚でも関係なし、子どもの
有無も、持ち家があるかないか、暮らしぶりを比較される心配がない。
単一民族社会での、理想の女性、妻、母、ファミリーというものさしから
解放されているのは長所かなと思っている。


2001年12月22日(土) 悪しき伝統

ウィーンフィルの年17回ほど行われる定演はプラチナチケットと
呼ばれる。1月1日のニューイヤーコンサートはキングオブプラチナ
といったところだろうか。手に入れにくいのは、ほとんどのチケットが
販売されないから。
大昔からのの古参会員のためのクローズドコンサートなので、一般的には
チケットは入手しにくい。でも、定演は、キャンセル席を頼めば、たいて
いの場合手に入る。値段も、高くても6〜8千円ほど。指揮者は一流どころ
が呼ばれるので、日本のクラッシックコンサートよりも格段に安い。

ニューイヤーコンサートも、お金さえ払えば日本の旅行会社経由で入手は
可能。コンサートを見ていて気がつくひとも多いが、聴衆の日本人の含有
率が異常に高い。会員が旅行会社に転売しているのだろう。
今度のコンサートは小澤が指揮するので、日本人の聴衆の割合はもっと
増えると思う。
このチケットを手に入れるのに、1枚10万〜20万円近くかかると
言われている。たかだかワルツのコンサートに20万円は使いすぎだろう。
ワルツは樂友協会の黄金の間で聴くよりも、外でステップを踏みながら
聴くほうが合っている。
チケットが高騰するのは、買い手がつくからだけど、システム自体に
問題があると思う。コンサートに行かない会員は、チケットを
返還するべきで、旅行会社に転売して小遣いをかせぐようではいけない
と思う。ご先祖さまの遺産をいつまであてにするのはよくない。

プラチナチケットといえば、バイロイトで行われるワーグナーの音楽祭
はもっとむずかしい。ワーグナー一族とコネがないなら、ワーグナー協会
か何かの会員になって、7,8年待つ必要がある。
チケットには個人名が書かれてあり、入場のさい、身分証明を提示する
とか。転売できないようにしている。
バイロイト音楽祭は、歴史的に辛酸をなめたが、システムはとりあえ
ず公平にしていると思う。

オーストリアは共和国になって80有余年になるのに、クラッシク音楽を
めぐる社会は相変わらず閉鎖的空気に包まれている。
いつまでも首をかしげるような伝統に留まっている時代は終わりにしては
どうかなと思っていると、階下のレストランから4分の3拍子が流れてきた。


2001年12月21日(金) 舞踏会

新聞記事に来年の2月7日のオペラ座舞踏会のことが出ていた。
この舞踏会、オーストリアの舞踏会の最高峰に位置するもの
で、ロジェと呼ばれる桟敷席を予約するだけで2,3百万円もする。
(もちろん飲食代は含まれない。)

大統領から閣僚、各国大使、大金持ちが参加する物々しいイベント
に、毎年、国内大手のゼネコンのオーナー、ルーグナー氏が元ワイフ
から現ワイフ、一族郎党を引き連れて参加する。毎年、最高の桟敷席
を得ようと、主催者のホテルザッハ‐のマダムと前哨戦を繰り広げる。
ルーグナー氏は、さらに毎年、昔活躍したハリウッド女優をレンタルし
て、自己の資金力を誇示している。

一代で土建業から身を起こし、今の財産を築き上げたルーグナー氏
は、お金だけではがまんできないと見えて、過去に大統領選挙にも
立候補したし、今欲しいものは名誉だと思われる。メディアに自分の
姿が映り、テレビカメラが自分を捉えた瞬間は、何とも言えない
幸福を感じるのだろう。
オーストリアの上流社会は、ルーグナー氏を冷ややかな目で見ている。
生まれた時から、銀の匙を加えて、何の努力をせずに上の方に居座っ
ている人たちのスノッブさも気に入らないけれど、ルーグナー氏の
やり方も、カッコ悪い。たかだか一晩の夜会のために、何千万円もの
大金を使わなくてもいいじゃないかと思う。名誉を上げるためには、
貧しい人たちに、ぽんと寄付でもすればいいのに。

記事には、来年の女優が誰になるかはまだ決まっていないとあった。
お金も名誉も持っていない私には、理解しがたい世界だなと新聞を
そっと折りたたんだ。


2001年12月20日(木) クリスマス休暇

会社に、「〜さんと話したいのですが・・」という電話があり、「〜さんは
あいにく今日から2週間のクリスマス休暇に入りましたので、次の出社は
1月7日になります。」と返事をしても、ほとんどの人は引き下がってくれる。

Weihnachtsferien(クリスマス休暇)という言葉が、黄門さまの印籠の
ごとく威光を見せる瞬間。オーストリア人は、自分の休暇を大事にする
ので、他人が休暇を取って、業務が遅れることにも寛容だと思う。
個人プレーで仕事をすることが多く、同僚の仕事にはなるべく口をはさま
ないようにしているので、あの件と言われても、はっきり言ってよく
わからない。
最近は端末で仕事をするので、どこにデータがあるかわからないことも
理由の一つになった。

一昨日、クリーニングに洗濯物を出したとき、金曜日までに引き取りに
来てねと言われた。クリーニング屋も2週間の休暇に入るから、こちらも
忘れないようにしなくては。ここでは、小売業の人も平気で夏と
クリスマス休暇を取る。日本だったら、2週間も留守にするなんて、
家賃を考えただけで無理だろう。

クリスマス前というのは、街中に急に人の数が増え、スーパーのレジは
長蛇の列、車は渋滞して動かない、みんな急に忙しくなるようだ。
「クリスマスストレス」という言葉もあるくらい、せわしなく歩き
回り、クリスマスまでに何としても片付けなくちゃという人が多い。
あと1日で、一般の会社は休暇に入る。
24時間動く世界の中で、みんながいっせいに休むのも悪くない。
少々不便だけど、この国ではそうなのだからしかたない。


2001年12月19日(水) 傘をささない人たち

冬に雨が降ると、早く冷え込んで雪にならないかしらと思う。
雪なら、コートや帽子に積もるのが嬉しくてうきうきする。
普段、雨が降っても傘をささないクチで、ぴちぴちぱしゃぱしゃくらい
なら、帽子をかぶって早足で行く。降り終わったあとの、傘の処遇に
困るからだろう。折り畳みなら濡れているのを気にしながら、かばんに
入れなければならないし、柄の長い傘は片手を占領されてしまうから。

チェルノブィリの放射能漏れの事故の年、南ドイツの学生街に住んで
いた。めずらしく雨が降った日、通りでは誰も雨の中を歩いていなか
った。学生が傘をさすのはめずらしく、放射能の雨が降ったとき、彼ら
はあちこちで小さく固まって、雨宿りをしていたのだった。

欧州に長く住んで、この社会には傘をさすクラスとささないクラスが
存在するということが、だんだんと輪郭を帯びるようにわかってきた。
19世紀あたりの、淑女の小物として活躍した日傘は、雨傘になっても
真中から上の方のクラスの持ち物かなあと思う。洗練されたデザインの
傘がほしければ、高級ブティックでしか手に入らない。街中では、雨が
降ったとき、化粧品店のようなところが、その場しのぎに売る傘の
デザインや品質はださいに尽きる。

イタリアに1960年代に暮らした須賀敦子の回想録に「雨の中を走る
男たち」という文章がある。雨降りに、傘を持って夫を迎えに行った
時、夫は素知らぬ顔で雨の中を走っていった。当時、社会の下
の方に含まれる男性は、傘をささないのだと知ったと言う。
日本では上流社会の中で生活した著者が、異国で夫の属する下の方
にいやおうなく放り込まれてしまったことをどんな風に感じていたのだ
ろう。著者は、一言も触れないけれど、傘という小物を通して見た階級
社会の片鱗に苦しんだかもしれない。

30数年たった今でも、雨降りのとき周囲をみると、背広姿の男たちは
傘をさしているが、そうでない男たち、ブルーカラーや学生は傘を
さしていない者が多い。

降り続いた雪が雨にかわりつつある。私はいつものように傘をささずに
外へ飛び出した。



2001年12月18日(火) ハンカチの市民権

日頃お世話になった人にちょっとした贈り物、ハンカチを買おう
と思うが、ハンカチを売っている店を探すのはむずかしい。
ちょっとドレスアップしたときに、ハンドバックに、燕尾服の
胸元にさすチーフなら、ブティックにある。
手をふいたり、口元をぬぐったり、はなをかんだりするときの実用性
のハンカチは見つからない。

そもそもハンカチを必要としないところだから、売っていないの
もうなづける。どこの公衆トイレにもペーパータオルや温風器が
あって、ハンカチで手を乾かす必要はない。口元をぬぐうのは食事時
だから、サルビエッテという紙製や布のナプキンがあれば事足りる。

はなをかむときは、テンポやフェ‐という商標のティッシュを使う。
ティッシュといっても、クリネックスのような薄いものではなく、
ハンカチのように大きく、3枚重ねなので、はなをかんだら皮膚が
真っ赤になるくらいしっかりしている。

きれいな図柄のハンカチがないと淑女は困るだろうと思いきや
さにあらず・・ハンカチで口元を押さえるレディもいないし、
夏に汗をかくことが少ないから、使い出がない。

こんな風だから、たまに日本に帰るとハンカチを持たずに外出し
多いに困ることがある。公衆トイレで手を洗ったあと、ハンカチが
ないことに気づく。しかたないので、某サラ金の宣伝の入ったティッシュ
を使ったが、くずれるように小さくなって、うまく拭けない。
食堂で食事をすれば、丈夫なナプキンがないことに気がつく。ハンカチ
を忘れた身としては、おしぼりか、ティッシュで拭くしかない。

昨今、エコロジーとかリサイクルとか言われるが、トイレや食事時に
使う紙のことは例外のようだ。とりあえずないと困るものには、目を
つぶるのだろう。ただし、包装ということに関しては紙でできるだけ
包まないことを徹底していると思う。日本の贈り物のように過剰包装
することはありえない。クリスマスのような大イベントのときは、
一枚数百円もするような化粧紙で包むが、これもプレゼントのうち。
ハンカチはオーストリアでは市民権をしばらく得られそうもない。


2001年12月16日(日) B級グルメ

フライドポテトは、ドイツ語圏ではポン・フリ(pommes frites)、
(何故かフランス語が採用されている)イギリスではチップスと呼ば
れている。
オーストリア、ドイツあたりのB級レストランでは、ポン・フリは
ソーセージの付け合せとして登場するが、小山のように盛られるので、
主食に近い。ケチャップをつけて食べる子どもが多い。
屋台のソーセージを食べると、黒パン一切れかゼンメルパン1個が
お供のようについてくる。からしをくっつけて食べると、これでお腹は
ほぼ満腹。
冬になると、焼栗の隣で、カルトッフェル・プーファーという
丸い、ハッシュドポテトが売られている。塩とにんにくをふりかけて
食べるとそれなりのお味。

イギリスでフィッシュアンドチップスがドイツ語圏のソーセージと
ポン・フリに相当する。どちらも、屋台や間口の狭い店で売られている
ので立って食べるのが当たり前。以前、フィッシュアンドチップスを
注文したことがあった。フィッシュの一人前を見て、これはチップスま
で入れる胃袋の隙間がないとすぐに悟り、フィッシュだけを頼んで、
おもいきりビネガーをふりかけてもらった。この手の店では、2,3枚の
紙にくるんで渡されるので、紙の間から油がしたたり落ちるのを見て、
これはビネガーで酸味を調達しないと、食べきれないと瞬時に思った。
熱々をふうふうして食べてるうちに、油が紙全体にしみこんでいく。
揚げ魚のおいしさは、イギリスにかなうところはないなあと思う。
ウィーンでは白身の魚で、あつあつを売っているところはない。

パリで、場末の店で、キャッシュロレーヌを食べたことがあった。
パイ生地に、グラタンを詰めて焼いたもの。もう1個食べたいなと
思うほど、まろやかな食感があった。

かようなB級グルメのスナックは立って食べるところが肝心なようだ。
小腹が空いて、何かないかと探しまわって、ようやく口にする。
つかの間の至福が喉越しに、とくとくと胃の腑に到着する心地よさ
を味わうことができる。

私の旅の醍醐味ってB級、庶民の味を体験することにつきる。



2001年12月15日(土) 2002年のロンドンマラソンに思うこと

来年のロンドンマラソンの抽選にはずれてしまった。
落選の通知が分厚い雑誌とともに送られてきて変だなと思った。
中をめくっていくと、慈善団体の広告がほとんどだった。

Run for us! If you can pledge to raise GBP1,250 at least for
xxxxx,we may be able to offer you a guaranteed entry into the
London Marathon.
(最低1250ポンド(22万円)xx団体のためにご寄付いただける
のでしたら、ロンドンマラソンに参加できるよういたします。)

がん患者のため、小児がんの子らのため、目の不自由な人たちのため
に、寄付して走ってくれるなら、まだ参加方法はいくらでもあると明記
されている。
一つ二つの慈善団体なら、納得もできようが、団体の数は200は
下らない。広告には、50人分の枠があるとのこと。寄付金も明記して
ないところが多いが、1250ポンドや1000ポンドといくつかの
団体は明記している。
読んでいて、何だかなあとため息をついた。これって寄付の名前を借りた
立派な商取引だと思う。マラソンの枠は全体で3万人くらい。これだけの
団体が50人分の割り当てをもらえば、通常のルートで参加したいランナー
の枠は極めて小さくなる。観光業の観点からも、何千人かしらないが、
たぶん枠があると思う。日本でもマラソンツアーは盛んに宣伝されている。
こんなしくみだと私が抽選洩れしたのも当然。

寄付の金額は、貧乏ランナーの私がのけぞってしまうくらい高い。
どこの誰が、そんなに大金を払って走りたいと思うだろうか。(なかに
はいるかもしれないけど・・)

イギリスは慈善事業が盛んだと聞いているが、このやり方はちょっと考えて
もらわないと困る。一般申し込みだと参加できない確率が高い。大相撲の
舛席の不透明な割り当てと変わらない。ウィーン国立オペラ座のチケットの
販売方法とも変わらない。ダフ屋と変わらないねと言うと、クレームがくる
かな。

ロンドンマラソン主催者と慈善事業との関わりがよくわからないで
言ってはいけないと思うが、マラソンはあくまでもランナーのためで
あり、慈善事業の寄付金集めの手段が先行するべきでないとこれだけ
は譲れない。
来年はウィーンシティマラソンにエントリーをずらすことになるだろう。
5000円あったら参加できる。


2001年12月14日(金) ユーロ統一通貨がやって来る

明日15日に国内郵便局60箇所でユーロ通貨のスターターキットが
販売される。およそ、200シリング相当のユーロ通貨が入っている
という。銀行は17日午前8時からの販売。

欧州の統一通貨構想から10年くらい経つのだろうか。オーストリアは
95年にEUに加盟してからの保守的な国情も変わらざるを
えなかった。まず夏時間の終わりが9月末から10月末の日曜になり、
土曜日のお店の取引が夕方17時にまで延長された。(以前は13時まで)
国境は事実上フリーパスになり、域内の人とモノとの往来が自由になった。
EUの政策は欧州議会や首脳会議で検討され、各国は独立性を維持しなが
らも大きな連邦性の意識をもつにいたった。そして仕上げともいうべき
単一通貨の時代があと数時間で始まる。

自国で紙幣を印刷する権利を放棄したというのは考えるとものすごく
勇気のいることだと思う。統一通貨になるということは、同じものさし
で、貧富の差がはっきり出てくる。今後はどこで買い物をすれば安いか
高いか、サービスの質が勢ぞろいするから、競争力のない企業が地域は
淘汰されていくだろう。人件費もしかり。同質で安価な労働力を求めて
企業誘致合戦も激しくなる。
旅行者にとって、よい点は、両替せずに買い物ができること。水が流れ
るごとく安いところへ移動できる。

ウィーン美術史館に、ブリューゲルの「バベルの塔」が展示されている。
人々が、一丸となって、天にも届きそうな塔を建設している作品。
神話では、人間の思いあがりを神様が怒って、人々がお互い意思の
疎通ができないようにしたとされている。

今回の通貨統合で、言葉はお互いに不自由しているけれど、通貨と人と
モノの自由往来で、欧州は再び、パッチワークのように政治、経済、
文化の面でさえ、まとまろうとしている。
このパッチワークは隙間がたくさんあるがごとく、切り取っても一つ
の作品になる。きちきちに繋いでおくと、ほころびやすいので、
すーすーして風通しのよいほうが長持ちする。
ただ、EUにいる外国人労働者(私も含めて)自由に移動できるわけでは
ない。移動には旅券がいるし、移住には労働許可がいる。
EUのメンバーカードである、オーストリア国籍を取得するかどうか、
今後生きていく上で、視野に入れなければならないだろう。

参照 ユーロと経済通貨同盟 
http://jpn.cec.eu.int/japanese/general-info/5-5-0.htm


2001年12月13日(木) 独り立ち指数

フィットネスクラブで30分トレッドミルで走ったり、バイクを漕ぐの
が日課になりつつあるけれど、やっていて何となく無為に感じてしまう。
どちらも、回転して完璧で体力がある限りは永久機関だけれど、仕事してる
のにどこにも到達できない。社会の役に立っているわけでなし・・
今日はバイクを漕ぎながら、自分はどれくらい独り立ち指数が高いかな
と考えてみた、あほらしいけど・・

一人で生活できる・・・いちおう
一人で遊べる  ・・・・完璧♪
2つ以上の趣味がある・・・あるある
夜、一人で外食できる・・・当然♪
経済的基盤がある・・・・・なんとか
力持ち・・・・・・・・・・発展途上中
健康・・・・・・・・・・・鉄パイプで殴られてもだいじょうぶ♪
一人旅ができる・・・・・・当然♪リゾートで一人で過ごしたことがあった。
一人でパソコンの設定ができる・・これは学ばないと。最重点項目
一週間日本語も話さず、日本食も食べなくてもやっていける・・たぶん

予定の15分が過ぎたので、終わりにするが、コンピュータ診断で、
けっこうハイスコアを叩き出せそう。
診断結果「もっと経済的基盤を強固にし、パソコンの知識を増やしましょう。
きっと明るい未来が待っています。・・・」と講評をもらえるかも♪


2001年12月11日(火) チュス!とアウフヴィーダーゼーエンの間で

フィットネスクラブの受け付けで、アウフヴィーダーゼーエン!(Auf
Wiedersehen! さようなら)と言ったら、チャオ!と返事が返ってきた。
この前は、チュス!と言われた。スポーツクラブでは、親称で呼びかけら
ることが多いので、挨拶もチュス!フィアテ!チャオ!になる。

オーストリアは保守的なので、世間的には敬称で会話が進んで行く。
挨拶もアウフヴィーダーゼーエン!が一般的になる。客に向かって
親称で話しかけるのは、若者向けの店だろう。

ドイツに所用で電話をかけることがあって、用件が終わり、アウフ
ヴィーダーへーレン!と言ったら、チュス!と返事があり、へえと思った
ことがあった。
ハノーバーの靴屋で買い物をしたときも、帰り際、チュス!と呼ばれ
耳がぴくんと反応した。
チュス!はオーストリア人の耳にはかなり、ざっくばらんに聞こえると
思う。ドイツのシュレーダー首相は、オーストリアのシュッセル首相や
クレスチル大統領に会ったら、チュス!って挨拶するのかなと想像
するとおもしろい。
ザルツブルクはオーストリア領だけど、ドイツ国鉄の国境駅にも
あたる。そこでは、オーストリア的なアウフヴィーダーゼーエン!が
通用していたと思う。

ウィーンから北海のキールまで車で走ったことがあった。
車で移動すると、空気として伝わって感じるというのだろうか、
ドイツ的なものととオーストリア的なものの境というのは、
ニュルンベルクあたりじゃないかなあという気がする。バイエルンは
かつての王国だったし、王政の歴史から伝わる保守性がハプスブルク
帝国に近しいものがある。
保守的な国では、貴族や現在の王室、過去の有名人を丁重に扱うけれど、
これをそのまま北ドイツあたりでやると、市民は「けっ!」って反応を
示すなとキール出身の知り合いを見て思った。

ちなみに、こんにちはというのは標準ドイツ語ではグーテンターク!
南ドイツとオーストリアではグリュースゴット!と言う。これを電話で
言ったら、北ドイツからかけてきた人はくすりと笑った。


2001年12月10日(月) 近すぎて当惑する距離

空いてる電車などに乗りこむ人を観察していると、ある程度間隔を置いて
1メートルから1.5メートルくらい空けて座っていくのは大阪でも
ウィーンでも似たようなものである。きっと、心理学上では研究されて
いるのだと思うが、本能的に相手のパンチが飛んでこないぎりぎりの
距離を置いているのだろう。

観光客はさておき、ウィーンに住んでいる邦人同士でも、ある程度の
距離は置いていると思う。あからさまに声をかけて「日本人ですか?」
で会話を始めるのは珍しい。同国人は何となくわかるから。
ウィーンに住んでいる邦人はおよそ1000人から1500人くらいだと
大使館の発表した数に出ていた。(在留届けを出してない人も多数いるため)

今月から通い出したクラブでも、何人か邦人がいたが、挨拶しそびれて
しまった。「ハロー!」と言えばいいのか「こんにちは!」にしようか
迷ってるうちに向こうがあさっての方向を向いてしまったのだからしかた
ない。邦人のコミュニティが小さいため、一度話をしてしまうと、自己紹介
して、居住地域や職業などきれいに話してしまわないといけないかなと
いう気になる。事実を言わなければいずれわかることだし、それだけ
居住している社会が小さいのだ。
自己紹介をすると、社会のどの層に含まれるか、生活程度や、行き付けの
店、交友関係がガラス張りになってしまう。誰それとつきあいがあると
わかると、いい意味でも悪い意味でも噂の種を提供することになる。

邦人社会のコミュニティにどっぷりつかって幸せな人もいるが、私は
ちょっと困る。顔と名前が一致して、通りであったら挨拶しないといけ
ないし、つきあいづらい。以前、友達に食事に招待されて出かけたら
コミュニティの主のような奥さまがいらして、名前も知らないひとの
噂話を延々とされて閉口したことがあった。

外国に住んでいる邦人同士は、仲良くなればお互いの生活を見せても安心
できるくらいにオープンになれるが、一方で、仲違いが起きれば、噂話が
光と同じくらいの速度で広まることもある。そういうことも念頭にいれて、
とりあえず、距離を置いて互いを観察するというのが、邦人の生活の智恵
ではないだろうかと思うこのごろ。


2001年12月09日(日) 秩序と混沌

大学生の頃、京都のドイツ文化センターで、あるドイツ人の都市開発に
ついての講演を聴いたことがあった。
その中で、講演者は「日本の町並みの混沌が羨ましい。家の向きなど好き
勝手に作れますね」と言ったことがずっと頭に残っていた。

その後、ウィーンに移り住んでこの意味するところが痛いほどよく
わかった。
アパートを借りて部屋の間取りを変えるのにさえ、建築警察の許可がない
と何もできない。何度も図面を引きなおして日参し、ようやく許可がおり
るまでには1ヶ月くらいかかった。内部でさえ、そうだから、外側から
見える部分はもっと厳しい。外壁の色から窓わくの種類まで細かに申告
しなくてならないし、建物の入り口をどこにつけるかというのはさらに
厳しいはずだ。通りの番地にかかわってくるのだから。

ドイツもオーストリアも第二次世界大戦で空爆を受け、ウィーンの町も
相当破壊された。日本も壊滅状態だったが、昔ながらの建物とは決別して
国が一丸となって新しい入れ物を建設した。一方、ドイツ、オーストリア
は昔あった建物を復元することに力を入れた。戦後10数年へて、国立
オペラ座を復元したときはウィーン市民は喜んだという。
旅行していて、ヨーロッパの町並みが揃っているのは、そういう努力を
してきたし、頑として新しいものをいれないようにしているからである。
(ただ、ウィーンだけは、どんな奇抜な建物が建てられても、町の中に
しっくりと溶けこんでいるのはおもしろい。)

以前、倉敷を訪ねたことがあった。
美観地区は昔ながらの町並みで、大原美術館前の橋から見える風景は
素晴らしい。
近くのアイビースクエアーも赤レンガの建物が美観地区の黒い瓦と白壁と
調和している。建築の規制が厳しいたまもので、関西有数の観光地区と
なったのだろう。

ウィーンに観光客が訪れるのは、町並みが古く、100年くらい前に
タイムスリップできるからだと思う。鹿鳴館時代の衣装をきて歩いても
ぴたっとくる。大河ドラマの撮影現場みたいだ。
美観という秩序を守ることで、観光が発展し、お金が転がり込む。
混沌を選ぶことで、人の生活する自由が謳歌できる。はたして21世紀は
どちらに軍配が上がるのだろうか。


2001年12月08日(土) オーバーラーでランチ

金曜日の昼から休暇をもらって、オーバーラーでランチを食べた。
美術史館の横、マリアヒルファー通りとリングが交差するあたりに
クアーコンディトライ(温泉地のケーキ屋)がある。ウィーン市内に
3軒の支店があるが、ここはリング内のコールマルクト店と違って
お年寄りが多いのでひっそりとしている。

この店のケーキ類は絶品。甘味控えめ、デザインも洗練されている
ので、メランジェと一緒にケーキを食べる午後はゆったりとした時間
を味わうことができる。
今日は、ランチメニューで、フリタッテンズッペ(クレープの細切り入り
コンソメ)と鮭のグリル、ほうれん草とワイルドライス添えを注文した。
金曜日の定食はどこも魚料理を出している。ケーキもさることながら
ここの料理も塩控えめで上品な味だった。ピンク色の鮭と緑のほうれん草、
ワイルドライスの所々に茶色が点在しているのでプレートは賑やかである。
ウエイトレスも気持ちよく給仕して、皿をさげるときには「いかが
でしたか?」といちいち聞いてくる。
何となく大事にされてるなと思い、気分がいい。普段はカフェテリアや
ファーストフードでセルフで済ませているので、こういうところで食べると
料理だけでなくカフェの調度品や給仕にいたるまで胃を満足させているかの
ように感じる。
デザートに、一切れのキャラメルシロップのケーキが出た。メランジェを
注文して大満足。たったひとりの午餐を楽しんだ。値段は普段の食事の
3倍くらいしたが、たまにはいい。
店内は静かで、そのまま本を読んで過ごすのも悪くない。おいしいコーヒー
とケーキと心地よい椅子でその日はうまく過ごせた。


2001年12月07日(金) 小さな幸せを感じるとき

フィットネスクラブで運動してサウナに入り、外に出て寒気が身体
にぶつかったとき。

お腹の肉がぺったんこになったとき。

ワンサイズ下のズボンがすっぽりはいったとき。

マシーンの負荷を30キロから50キロに上げたとき。

見知らぬ子どもがにこっと笑いかけてくれたとき。

花屋の前でポインセチアを眺めたとき。

クリスマスカードを選んでいるとき。

クリスマスカードをポストに投函したとき。

プレゼントを包んだとき。

友達からメールをもらったとき。

大切なひとたちが元気なことを知ったとき。

私って、きっと幸せ者だと思うぞ。


2001年12月06日(木) イギリスはおいしい

友達がイギリスのクリスマスプディングを見せて、おいしいか
どうか私に尋ねた。

以前、里帰りのおみやげにロンドンで同じプディングを買って帰ったが
とても食べられたしろものではないとクレームが来た。プディングの中身
は小麦粉と乾燥ナッツや香辛料を牛のスエットで固めたもの。
見かけは真っ黒で、一年くらい寝かせたものがおいしいという評判だそう。
中身を聞いたら、食べられるけど少し食べて十分という感じもしないわけ
ではない。

リンボウ(林望)先生の「イギリスはおいしい」を読んでいる。
どうやらアンチテーゼとしてのタイトルのようだ。クリスマスプディング
とクリスマス料理の甘味攻撃に遭ったエピソードがおもしろおかしく
書かれている。
甘味に対しては、トルコやギリシャの喜びという砂糖菓子で鍛えられて
いるので少々のことでは私はへこたれない自信がある。

イギリスはおいしいかどうか。
数年前2年連続で大学のサマーコースに参加して、大学寮に寝泊まりし
学生食堂で3度の食事を食べたことがあった。朝はイングリッシュ
ブレックファーストで昼も夜もちゃんとした料理だった。ことさら
不味いと思わなかったが、量の多さに辟易した。

また、イギリス北部を旅行したとき、ハーフボードのペンションに
泊まったことがあったが、このときの料理もまずまずで、イギリスは
不味いという先入観を打ち消すには十分だった。たぶん、長い欧州
暮らしで私の味覚が破壊しかかっていたのかもしれない。

幸か不幸か、イギリスの家庭料理を食べる機会に恵まれなかったので
実際はどうなのか判断を下すのはむずかしい。ただ、新鮮な素材の
料理を食べるとなると、イギリス料理は向いていないかなというに
やぶさかでない・・・と玉虫色の意見。でもサンドイッチはおいしかった。


2001年12月05日(水) えこひいき

えこひいきの社会に住んでいる。
この国の人は、営業にしろ、売り場にしろ、個人であれ、無愛想な
人が多い。お客を神様などと絶対に思っていないから、日本からきた
人なら、店員の態度にびっくりするかもしれない。

どうしたら、気持ちよくこういう人たちと接することができるかと
いうと、その人とお友達になるほかはない。マスの中で対峙していては
しかるべきサービスをよこさない相手なのだから、お店ならばあしげく
通って、世間話をすることで顔を覚えてもらうしかない。
週に一度か二度、トルコの食料品屋でオリーブを買っている。いつの
まにか、そばを通るだけでハロー!って声をかけられて、寒いねなどと
言い合って、おまけまでしてくれるようになった。昼食によく通う健康
食品売り場のお姉さんも、私の顔を見たとたん、いつもの全粒粉のピザを
オーブンに入れるようになった。郵便局員も配達の人も来るたびに
飲物を提供し世間話をしていく。だんだんとお友達になっていくと、
不思議なことに彼ら(彼女ら)は人なつこい表情を見せてくれる。
おまけに、ちょっと何かお願い事をしても、二つ返事でオッケーして
くれる。

この社会は役所から民間にいたるまで、どれだけたくさんの人脈が
あるかで、快適に暮らせるかがずいぶん違ってくる。集団の中の代表
として接していると、個人の顔を見せないので、無愛想なことこの上ない。
銀行の窓口でもしかり、後ろに客が待っていようと、気に入った客なら
長々と世間話をする人たちなのだ。

日本人のきめ細かなサービスの基準からすれば、けしからん!と言われ
そうだが、しかたないと思って、せっせと行き付けの店を決めて担当者と
お友達になろうと努力している昨今である。


2001年12月04日(火) マジャールの地へ

初めてハンガリーの地を訪れたのは1988年春。まだオーストリアの
国境沿いに鉄のカーテン、鉄条網がぐるぐる巻きにされていた頃だった。

ウィーン南駅からブダペスト行きの列車のコンパートメントでドイツから
来たという女子学生が縦笛を練習していた。初めて訪ねる東欧ということ
もあって、心細かったが彼女の隣に座って、笛の調べを聴いていると
何となく落ちついた。
彼女は恋人がマジャール人でこれから彼を訪ねていくところだと言った。
なんと30回以上もハンガリーへ入国していて、パスポートには入国
スタンプを押す隙間がなかった。3時間の列車の旅の間、国境警察は
理不尽だから気をつけるようにとアドバイスをもらった。

当時、私の恋人は東欧には入国できなかったので、しかたなく一人で
行くことに決めた。「僕は行けないんだ。」と淋しそうな横顔がちらつい
ている。査証を取って、ホテルの予約確認書ももって万全の
用意で出発したブダペストは、暗い感じがして町を歩いているときでも
どきどきしたものだ。初めてウィーンに着たときも街角のあちこちに
東欧の匂いがしたがブダペストはもっときつい東欧の匂いが町のいたる
ところに染み込んでいたように記憶している。

1989年、突如鉄条網は撤去され、自由の息ぶきがハンガリーの地を
覆った。同じ年、彼がハンガリーの鉄条網の一部を額に入れて私の
ところにやって来た。彼の国とハンガリーの国交ができたという。
そのときほど世界が動いているなと思ったことはない。

今日もまたマジャールの地、ショプロンに来た。当時の感慨はないけれど
89年当時、東ドイツの人々が大量に国をすてショプロンを経由して
オーストリアを通り西ドイツへ行ったのだなあと思うと、この小さな町も
歴史の動くのを見たのだなと思った。ショプロンには、小雪がちらついて
いた。


2001年12月03日(月) こどもの外国語教育

友達の娘さんが、つい先だって現地の保育園からインターナショナル
幼稚園に転向した。現地の保育園は、ドイツ語だけど教育カリキュラム
がなく大人数でかまってもらえないからだと言う。
新しい幼稚園は、ドイツ語と英語の両方で遊びながらことばを覚えて
いくそうで、子供も気に入っているということだ。

英語圏でない国に暮らしていると子供の教育は大変みたい。学齢期の
子供は日本人学校かインターナショナルスクールないしアメリカンスクール
に通うのがほとんどで、現地の学校に通っている子供は親が永住を決意
している家庭が多い。前者の場合は、子供たちはいずれ日本に帰って
日本の教育を受ける場合がほとんどだけど、後者の永住組の子供たち
の教育と将来はなかなか厳しいなと思う。

現地校の教育を受けていると、しだいに日本語があやしくなるは
しかたないが、本人のアイデンティティはどうなるのだろうか。
日本語の話せない、読み書きのできない日本人という認識を払拭
するのは大変だろう。現地のことばが母国語になっても、民族的
に現地人になれないのだから、どちらの世界にも属さないことになる。

親は子供たちに現地のことばと日本語を徹底的に勉強させようとする
し、さらに英語も勉強させるとなると子供たちの負担は大きいなと
思う。でも、それぐらいやらないと、社会で生き残れないのも確か。

お父さんがフランスでお母さんが日本人の一人息子がいるが、彼は
ウィーンのフランスの学校でフランス語の教育を受け、学校では外国語
としてドイツ語と英語を習っている。お母さんとは日本語で話すが、
読み書きまでは手が回らないそうだ。
彼のことをひそかにスーパーマンと呼んで、ある日どうやったらそんなに
言葉ができるようになるのって尋ねると、「やるしかないんだよ。地道
に読んだり書いたりね。」と立派な答えが返ってきた。

外国に住む日本人の子供たちは大変だなと思うけど、何とか乗りきって
ねと応援せずにはいられない。


2001年12月02日(日) 発想の転換とニッチビジネス

大阪みやげのみたらし団子を食べた。
みたらし団子というのは、白い小さ目の米俵型のだんごが4,5個
串に刺してあり、その上にとろりとみたらしをかけてあるのが普通
だけど、このみたらしは、団子の中にみたらしのタレが入っている。
これだと、手を汚さないで一口で食べられるのが嬉しい。発想を転換
すれば、新製品ができる。

京都の有名なよーじやの油取り紙は皮脂がおもしろいほど取れるので
女性の間では超有名である。値段も高いけど、買うだけの価値がある。

大阪の地下鉄だったかJRの自動改札は切符を2枚同時に入れることが
できる。混んでいるときなど、混雑解消になるなと感心した。

生理用品で、とうとうパンパース型が登場した。あればいいなと
漠然と思っていたものが商品化されるのはすごい。

日本は不況だけど、モノ作りはまだまだ世界の先端を走っているので
はないだろうか。少しでも便利に、他社よりも売上を伸ばそうと、
しのぎを削っている。毛ほどの差には違いないけれど、積み重ねたとき
の能力はすごいと思う。競争社会の中で個人の生活が犠牲になりそうな
恐れもあるけれど、欧州ではとても太刀打ちできない。
欠陥商品を出さない、少しでも便利にと人々の願いと企業理念がある
うちは、まだ大丈夫だと思うこのごろ。


2001年12月01日(土) kafkaesqueーカフカの小説のように不条理な

グラーベンホテルはシュテファンス寺院からグラーベン方面へ
3つ目の通りを左手に折れたところ、ドロテーアガッセにある。
向かい側には、楽譜の老舗ドプリンガーの古ぼけた店がある。

グラーベンホテルはこじんまりとして、ウィーンに古い建物は
わんさとあるのに、ひときわ鬱蒼としている。建物の古さだけ
でなく、どこか歴史の澱(おり)のようなもので固められているかの
ようだ。村上春樹の「羊をめぐる冒険」にでてくる「いるかホテル」
を想像してみればいいかもしれない。

ホテルの入り口横には、小さなプレートにフランツ・カフカが
定宿にしたと書かれている。プラハで生まれ育ったカフカ
はしばしばウィーンに来ては、カフェツェントラルを訪ね、グラーベン
ホテルで寝泊まりしたのだった。カフカの肖像画を見るとすぐ気がつく
と思うが、この作家は身体中に鬱がはびっこっているような風貌をして
いる。「審判」「城」「変身」は、心身健全な人間が書けるような
物語ではない。物語には目に見えない、無慈悲な国家権力によって、
虫けらのように始末される主人公が登場する。不条理が背中に貼りついて
いるような感じ。

カフカエスクは「カフカの小説のように不条理な」という意味の英語。
先日の新聞記事で、ウクライナの婦人が、団体旅行でウィーンを
通過中に、貴重品とパスポートを盗まれた。団体は先に帰国し、婦人は
ウィーンの親戚に居候している間に、路上で警察の職務質問を受け、
身分証明ができないために留置場に入れられた。ウクライナの領事部は、
本人が留置場にいる限り何もできないといい、警察は身分証明ができない
と釈放できない云々。この婦人の現状を表現するのにカフカエスクという
ことばが使われていた。
どこにも到達できずにぐるぐる回るリーゼンラート(観覧車)のよう・・
まさに不条理そのもの。


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