皇帝の日記
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2003年03月29日(土) |
これにてペルー篇終了 |
そうそう、ペルー最終日を残しておりました。 メモを見てみましょう。
「最終日はパスポート」
と書いてあります。 ああ、一体何があったの・・・私、わからない・・・。 記憶を呼び覚ましながら、小松菜とハムの炒め物を作って食べようとかまえている時に、母のお友達からお電話。 家族共々お付き合いいただいている方なので、我が家の掃除の相談や、換気扇について話し、台所に帰った時にはハムは有りませんでした。 現場には茶色い猫の毛が点点と・・・。 そんなわけで、小松菜オンリーの炒め物を食べながらツラツラ思い出してみました。
この日は市内観光をした。 市内をぐるぐる回り、珍しい建築物や、主だった広場や公園をバスで見に行く。 ガイドはしっかりした感じのお姉さん。
一人旅のガテマラ人のおばさんがツアーに参加していて、お昼を一緒に食べましょうと提案したので、一緒に食べに行った。 おばさんの会社はシャンプーのパンテーンや、オムツのパンパースなんかを扱っているんだそうな。 私も今、パンテーンを使っているといったら、嬉しそうにしていた。 アメリカ人は嫌いだといっていた。 南アメリカ人は、十中八九アメリカが嫌いなので、驚くには値しない。
ちょっとバスで遠出して、パチャカマ神殿という遺跡を見に行った。 海の横に建てられていて、海側は中々いい景色だが、すぐそこに油田があるので汚染が酷いとガイドの説明。 お約束の生贄台等も見学。
暑かったのだが、日にあたると嫌なのでまたしても長袖のパーカーを被っていたら、お姉さんに不信がられたので「皮膚が弱くて太陽に当たれない」と言っておいた。 「日焼けしたくない」というと、ここの人は褐色の肌なので、角が立つかな、と思ったり。
飛行機は夜遅く出るので、ツアー終了後時間が余ったが、全員疲れ果て切っていたので、ホテルのロビーに座り込んで休息に専念した。
初めて海外に出た時から、ずっと感じていたのは、私は建物や遺跡が好きなのではなく、人が好きで、人を見に行っているということ。 だからマチュピチュで、綺麗な建物を綺麗と思うだけだったのに対して、帰りの山道を下るバスを追いかけてきて、何度も追いついて手を振ってお金を貰っていた少年には心底感心したし、 綺麗なクスコの夜景を山頂から眺めた時よりも、段々電車が市外に降りてきて、明かりの中で人が実際に生活しているのを覗いた時のほうが安心したりする。
今回の旅行は楽しかったけれど、もしスペイン語が話せて、そこいら辺の人が何を言っているのかが理解できていたら、もっと何倍も楽しめたと思う。
語学は勉強の為に勉強しているのではなくて、人と関係を持つためにする。 新学期は朝鮮語基礎の授業も取った。 もっと色んな人と話してみたいな、と、なかなか留学記の締めくくりにはいい感じで終われて、悦に入っている。
ペルーは父母と一緒で、楽しかったです。 今度また、家族で旅行できたら良いです。 猫も連れていけたら良いなあ。
帰国後すっかり引きこもりになってしまい、何もする気が起こらない〜とだれていましたが、いい加減エンジンかけないとバッテリーが上がってしまうので、リハビリしてる。
昨日は宰相に来てもらって、パソコンをいじったりした。 あいかわらず、わからんチンの私に根気強くフォトショップの使い方とか教えてくれた。 スキャナーとか、初めて触りましたよ。 ドキドキ。 一番忙しい時にありがとう。
今日は自分が銀座まで出て行って大学のお友達に会いに行った。 つつがなく卒業されて、院に行くんだそうな。 いろいろ話をしたし、東京まで出て行って街をさまようという運動機能上のリハビリもした。
社会復帰まで後一歩。
更に、勇者から嬉しいメールも届き、ちょっと幸せ気分回復。 棟梁は最もへこんでるときにメールくれたし、なんかもー落ち込んではいられないですな。
新学期からは若者にまじって頑張らねばならんしね。
2003年03月26日(水) |
パルカスパルカスルルルルル〜 |
パルカスという所には、特に何もない。 砂漠のオアシス都市で、海に面している。 それで、ホテルの脇から朝一番に船が出て、バレスタス島という所にアクセスできる。 そこに何があるかといえば、フンボルトペンギンと、アザラシ、謎の地上絵(とてもうそ臭い)が有る。
アザラシは文字通り山のようにいて、その鳴き声がすごい。 動物奇想天外とかでは、その愛らしさを強調せんが為に、おそらくサウンドは消してあるんじゃなかろうか。 鳴き声を真似ると、昼寝中のアザラシ達が起き上がってガンを飛ばしてくる。 自然保護動物をからかうのは適当なところで止めておこう。
ペンギンはあまりいなかった。 いても、動物園にいるペンギンよりも小さいので、岩の陰に隠れてよく見えない。
ホテルに帰って、リマ行きのバスに再び乗り込む。 またしても四時間。 と、後少しでリマ、というところで、交通渋滞に巻き込まれる。 砂漠のど真ん中で渋滞。 果敢なるペルーっ子は、道路わきの砂漠を乗り越えようとして、次々に砂にはまって動けなくなってゆく。 すると、砂漠の中だというのに、どこからともなく砂漠の民がわいて出てきて、車に駆け寄りトウモロコシやせんべいを売りつけ始めた。 どこから来た・・・。 さらに、動けなくなった車の救出お手伝いを買って出て、チップをもらうという商売まで始めた。 だから、どこから来たんだあんたたち・・・。
三十分くらいで渋滞を抜け、もちっと走ってリマに。 お夕飯はリマで一番美味しいと評判の日本料理屋に行く。 行きに使ったタクシーはホテルから取った、外国人向けの高級タクシーで、寒いほどにクーラーを効かせてくれ、英語も話す。 レストランでは「インカ巻」という不思議な創作寿司を食べ、タクシーを拾って帰る。 治安が不安なので、余計なことはしないで、最短でホテルに生還することだけを考えて行動していた。 帰りのタクシーは、信号は無視するは、交差点で一時停止しないは、じゃあどうやって走っているのかといえば、クラクションを曲がり角に差し掛かるたびに鳴らして、速度を落とさないのだ。 見通しの悪い山道で、クラクションを鳴らせ、って、あれみたいに。 コワ〜と思いながらもホテルに着くと、運ちゃんは拍手をねだる。 曲芸だったのか・・・。
さて、明日はいよいよリマ市内・市外観光ののち、深夜飛行機でヒューストンに帰ります。
電話番号。 なんか、民家に大量にFAXを勝手に送りつけている業者とうちの電話番号が似ているらしく、抗議の電話がかかってくる。 二件ほどかかってきたが、両名とも相当怒りまくっていて、何を言っているのか良く分からなかった。 話を繋ぎ合わせると、そういう理由が浮かび上がってくるのです。 ってか、関西弁を使って講義してきた方、明らかに自分ちじゃなくて、友達にすごんでくれと頼まれて代わりにかけてるっぽいんですが。 そして、自分が迷惑電話している方だと気付くと、なんだか謝ってんだかないんだか、曖昧な返事をして電話を切る。 ちと、礼儀をわきまえんかい。
さて、ナスカ。 ナスカへ行くにはまずリマからバスで3、4時間のところに有る小さなオアシス都市を経由して、そこからミニバンみたいのに乗り継いで山を越え谷を越え。 リマからズーッと砂漠で、オアシスを過ぎたらこれまた不毛の大地が続く。
ここらの人々は、元々地面に何か書くのが好きなようで、行く途中の道路わきにも、大きな字や絵が一杯書かれていた。 DNAがそうさせるのだろうか。
インカ帝国がかなり有力な一派だったと聞いて、何がこんな山奥の住みにくいところに拠点構えてて有力よ〜、と思っていたが、よくよくペルーの地図を見てみれば、海沿いはほとんど砂漠。 斜面とはいえ、木も有れば作物も取れるアンデスに土地を確保していたというのは、やはり相当な武力があったのでしょう。
さて、今回のガイドはかなり英語が達者で、知識も有る。 色々質問をして、突っ込んだことを尋ねてもちゃんと返してくれる。
このナスカ・ツアーで同席になった日本人学生軍団四名は英語が苦手なようで、ガイドを無視して会話に打ち興じているのだが、女の子の一人は「マジ?」と「うんうん」しか口にしていなかった。 この人と話しているくらいなら、話のすれ違う中国人の元クラスメートの方が百倍くらいましだと思った。 あと、ずっと口が半開きだと思った。 思っただけ。
地上絵は、地面の砂をチョチョッと掻き分けただけの、簡単な線で構成されている。 よくもまあ砂漠の砂にかき消されないもんだな、と思うが、強風がいつも溝を綺麗にしてくれるので、今まで埋もれなかったんだということ。 でも、ちょっと足でゴシゴシやれば消えちゃいます。 文化遺産の保存という点で、大きな問題を抱えているのは確か。 絵の上にジープの跡がガンガンついていて、痛ましい。
さて、ナスカに着いたら飛ぶ。 上空からしか見えないんだから、飛ぶしかない。 ちっこい四人乗りセスナに乗って飛ぶことに。 高所恐怖症の母に、これはまた大きな難題。 本人は「怖くないもん。高いところに行くと体が震えるだけだもん」と、その恐怖を説明しております。 はいはい、怖くないんですね。 上空に上がると、窓から絵が見れるように、飛行機は大きく旋回して、しかも上下に揺れる。 右の席からも左の席からも見えるように、一度右に傾いて通過した後、今度は左に傾いてお披露目。 母うつろな眼差しで、天井から垂れている紐を握り締めている。 絵よりも母が気になります。
絵に関しては、皆様もご存知の通り。
シンメトリーの鳥の羽が不思議といえば不思議ですが、宇宙人が書かなきゃならない規模ではないです。やはり。 測量技術があれば、ヒモ一本で正確に大きな絵を描くことが出来ますし。 根気の問題ですね。 ただ、何を考えて描いてたのかなーと考えると、楽しいです。 あと、ちょっとヘタクソな人が描いた絵と、上手な人が描いた絵に差があって面白い。 これ、書いた後確認できないもんね。 下手な人も上手い人も、同じ給料(扱い)かしら、とか。
その日は遅いのでリマに帰ることは出来ない。 パルカスという新興リゾートに泊まる。 では明日はパルカスに。
電化製品の説明書とかって、読めない人は徹底的に読めない。 地図の読めない人もいる。
私は科目登録書が読めない。 なんてこといっても、とりあえず自分でやらなきゃ仕方ない。 免許の書き換えも迫っているし。
二年生までに自分が履修していた科目の数々が、ジャンルも難易度も、あげく学部さえもバラバラで、一体私は何者になろうとしているのだろう・・・と自分で疑問に思う程の節操の無さ。 と、とりあえず、今年は趣味で取っていた心理学系や医学系は全面カットにしようと決意。 そんで、一応専門の歴史を重点的に・・・と思っていたら、語学関係の科目の誘惑に勝てそうに無い。 留学中、日本語に関する質問をされても上手く答えることが出来なかったのがどうやらトラウマになっているらしく、日本語文法の授業すら取ろうとしている。 駄目駄目。 脱線しちゃ駄目。
落ち着いて、実践考古学とかで土器を作るんだ。 うわー楽しそう。とか思うが、評価基準が「作品の出来」とか書いてある。 図画工作の授業か、それは。
それにしても、二十一世紀に突入したというのに、今までの生涯で一度も週休二日になったことが無いな・・・。
頭の中がてんてこ舞いなのでナスカはまた明日。
2003年03月22日(土) |
余裕で影響を受けてます |
さて、長いこと社秘だったのでなかなかお伝えいたしませんでしたが、皇帝家はこの四月を持もちまして、全員日本へ撤収と言うことに決まっておったのです。
皇帝が上海に行った時に、上海で仕事をしていた伯父が、突如帰国決定したように、皇帝家族も予定の残り二年を残して、早々に帰還。 皇帝が遊びにいくと、予定より早く日本に帰れると言うジンクスが親戚の中で出来上がりつつある。 さあさあ、単身赴任の皆さん。 私をご招待すれば、さっさと帰ることが出来ますよ。
ところが、戦争中は飛行機に乗るなと言うお達しが出て、彼らは帰れなくなった。 私が帰国したら、両親はカンクーンに遊びに行く予定だったが、それもお釈迦。 それは私抜きで楽しもうとした罰。
自分の部屋を片付けようとしている。 両親が帰る前にリビングも片付けなければならないらしい。 科目登録も済んでいない。 時差ぼけもまだまだ回復途中。 八方ふさがりな私。
明日はナスカを報告します。
セプテンバー・イレブンの直後、民放でイマージンを歌っちゃいけないとか、放送するなとか、そういう手段で戦争を盛り上げた政府なのです。
自由というスローガンに目隠しされていることに気付いて欲しいです。 報道制限されていないと思い込んでいるからこそ、電波に乗っているもの全てを簡単に肯定して、疑うこともしなくなります。
テキサスは保守、好戦的な州です。 外国人留学生が反戦を口にすることは、学校から控えるようにとの通達を受けていました。 殺害されたり、危害を加えられる恐れが有るからです。
吹けば飛ぶような自由をお手本にしてきたわけですが、反戦を唱えることの出来ない、恐ろしいその結果は、他のどの国よりも日本が一番分かっているはず。 日本にしか出来ない、すべきことがあるはずなのに、その自覚が全くないのは口惜しいものがあります。
今は、米国の家族や、アラブ系の同級生、世界中の子供達が痛い思いや苦しい体験をせずにすむことを祈ります。
アメリカ人全員がこの戦争を肯定しているわけでは無いことが、救いになるといいと思います。
マチュピチュからクスコに帰った翌朝にはリマへ急行。 こんなに強行軍でも、結構ラクチンなのは、たぶんチケットの手配とか自分でしてないせいだと思う。 中国旅行でいつも大変なのは、自分でチケットの手配とか日程とか考えてるところ。 まあ、それが楽しみのひとつでもあるわけで・・・。 あんまり楽していると色々忘れそうなので、実は今回始めて旅行中にメモを取っているのです。 よる年波には勝てぬのう・・・ごほごほ。 だからこんなにしょっちゅう間をあけながら報告しているわけです。
ともかく、国内線の飛行場というのは、国際線のそれに比べると、やや見劣りがするというか、その分、その国の性格が見えてくる。 トイレ。 そう、トイレこそは、もっとも各国が無防備に文化をさらす場所! さて、ペルーのトイレには紙がなく・・・。 日本の駅のトイレもそうだけど、一体紙のないトイレって・・・。 しかも、水圧がゆるい!! 流れるものも流れぬようなゆるさ。 うーんと考え込む皇帝。 しかし、海外のいけていないトイレと格闘して数年。 プロのインターナショナル・トイレ・ユーザーの目が光る。 まず、もちろんホテルから一巻づつに分けて失敬してきたトイレット・ペーパーをポケットに忍ばせている。 これは基礎の基礎。 更に、水圧が何ゆえゆるいのか考えつつ、タンクの蓋をよっこらせと開けてみる。 はあ、底の栓がゆるいから、水がたまらなくなっているようです。 栓を抑えている軸を掴んで、ちょっと底に押し付けてみましょう。 ビンゴ! 水がたまりだしたところで、もう一回流してみると、見事洗浄完了。 世界トイレ検定とか有ったら、かなり上級者なのに。
ともかくリマへ。 首都のリマだけが、他の都市を置いて白々しく発展を遂げている。 発展しているといっても、せいぜい中国の中小都市程度。 車の量はかなり多目。
黄金博物館へ行った。 手配していたガイドの若いお姉さんの英語が、中々に下手糞だったのと、お姉さんの知識がうすっぺらかったのが印象に残りました。 たぶん、休暇中の学生のアルバイトだったのでしょう。 そう思うと、責める気はいたしません。 あと、文物にあまり詳しい説明が無かった。 判明していないから、仕方ないものの。
市内のイタリア料理屋さんで美味しいパスタを食べつつ、やっぱり貧しい国ほど、上と下の格差が大きいなーと思ったりした。 あと、底辺が際限なく大きく。
なかなかペルーに蹴りがつかないところでまたしても現実に戻っていただきましょう。
今日は二年ぶりに大学に行ったのです。 切符を買う時ですら、一瞬手を止めて首を傾げてしまうほどに、全く記憶が無い自分の大学生活。 こんなんで復帰できるのでしょうか。 はてはて(他人事)。
皇帝の自宅から学校まで、電車と歩きで二時間。 我が大学は自由自己責任。 進取の精神でなんでも無理矢理通そうとするのが売り。 ともかく、手続きに不備があろうと、期日までにわずかでも遅れようと、誰も注意してくれない上に、自動的に中退、退学処分になってしまう。 後で、あ、あの時はちょっと間違えちゃって、とか言っても、誰も助けてくれない。 うちの大学名背負って、中退するというのがトレンディーだった時代すらある。
しかしながら不況の先見えぬ今日、うかうか中退している場合ではない。 何としても復学して、四年生で卒業させて見せなければ! って、一応三年生として復学するから、問題なければちょっ老けた四年生として卒業できるんですが・・・。
ともかく、間違いの無いように手続きを済ませなければ、と緊張の面持ちで通知に出ている335教室とやらにいざ赴かん!!
・・・て、迷子に。 えええええ?こ、校舎内で迷子!? 今の自分、突っ込むにはちょっとおいしい!とかそんな場合ではなく、冷静に情けない。 相当時間さまよった挙句、事務所の門をおずおずと叩き、「すいませーん。科目登録の書類ってどこで配布してますかー?」と間抜けに問う、どう見ても新入生ではない学生一名。 なんとか書類を手に入れると、なんと、WEBで科目登録制に変わったとのこと。
・・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ書類取らせるためだけに呼ぶなよ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・郵送しろよ・・・・。
東京さ、行ってけえるだけで、二千円近くかかるだよ! おらが村、横浜の山奥でねえか!! と、怒りの田舎者は黙殺される運命にあるので沈黙。
さあて、悪名高き科目登録書類。 さっぱり意味不明な単語の羅列と、無い方がましな複雑な表の数々。 様々な罠に、果たして皇帝は打ち勝つことができるのか!? そもそも自分の属するカテゴリーが、未だ発見できずにいるのですが・・・。 「病気でもなく二年間も休学していたあなたへ」って項目はないのかしら。 ・・・無いですね。 ・・・ちょっと、もうしばらくこの書類の山と戦ってみます。
中国語上級のクラスが一個も無くて、英語のが四十個も有るってどうよ? しかも英語クラスの半数の紹介文が英文とは! くはああぁぁ!!
昨日は書き込みの途中で酔っ払いすぎて寝てしまった。 いかんね。 人として。
ともかくマチュピチュへ。 肺が痛くて、あまり酸素が摂取できない状態で、薄幸の母のお守りまでしなければならない。 甘えてなどいられない。 エルニーニョのせいで雨は容赦なく親子の上に降り注ぐ。
さて、電車の窓から見てみれば、この付近の山は大体が耕作地として使われている模様。 トウモロコシとか、イモ、菜の花。 でもジャガイモには土質が向いていないと、何度も人から聞いた。 じゃあ無理に作るな。 家畜も大量に見た。 人も。 人は、一日に二、三回しか通過しない電車を見物に来ているのだ。 こっちからも見えているのだという自覚がないのか、結構無防備な感じで見ている。 それを観察するのも楽しい。 昔読んだ文学作品で猿山の猿が、実は人間を観察しているというのを思い出したりした。 子供が水風船に水を入れて、列車に投げつける遊びに熱中している。 危険なので窓は閉めていた方が良いでしょう。
女性車掌が「マチュピチュ〜」と言うのだが、発音が「ピカチュ〜」で愛らしかった。
そして、終点マチュピチュ駅。 山麓には、普通に人々が暮らしている。 幼稚園とか医療施設が設けられていて、小規模観光都市の様相。 一同バスに乗り込み山頂へ。 そこであらかじめ頼んでおいたガイドと合流。 日本人ツアー客と鉢合わせたのだが、うちのガイドは米国から頼んだので、むろん英語ガイド。 いるべき群を間違えたアヒルの子のように、日本語の聞こえる方に心引かれながら、スペイン語訛りの英語に耳を傾ける。 マチュピチュっぷりについては、日本のテレビなどで詳しく説明されているから、今さら書くまでもないと思う。 景観も合わせて、すごく美しい建物。 一見の価値は有り。 確かによくもまあこんなものを作ったよなーとは思うけれども、宇宙人が作らねばならぬほどに困難な作業には思われませんでした。 人間が頑張っても、年内には作れそう。 万里の長城のほうが、よっぽど規模的にも宇宙人臭いかと。
ここへ来て、唐突に天候が回復。 まあ、山の天気は変わりやすいですから。 母が暑がって腕まくりをするその横で、かえって上着を着込み、フードを被り、ポッケに手を入れる私。 汗だく。 そう、私は知っている。 雲南での体験が私を、このような行動に走らせたのだ。 ええ、賢明な皆様は、もうお分かりですよね。
山の陽射しは人肉直火焼きに匹敵すると言うことを!
うかつに焼けば、火傷に近い状態になってしまうのです。 母は腕に火傷を負い、一見注意していたように見えた父も、耳の裏を焼かれて法一さんに。
夕方帰りの列車に乗り込む頃には、母の顔色もやや回復。
突如、車内にナマハゲのような鬼に扮した男が登場。 一通り踊りきると、飴をくれた。 必然性が飲み込めないまま、何故か事態はアルパカ・セーターのファッション・ショーに移行。 何故・・・。
クスコにつく頃には真っ暗な中で、谷の間に詰め込まれたような夜景が見事でした。 そして、うっかり気を抜いて後ろの席のドイツ人が窓を開けた瞬間、子供に水かけられた。
・・・・おのれ・・・・・。
ペルー記が止まったままなので、ここいらで戻らねばと思いつつ。 眠さ絶好調。 寝るな、今寝たら一週間時差ぼけに苦しむのだぞ! っていいながらビールを飲んでしまって眠さに拍車が・・・。 マジ本気つらいー。と、口調までコギャルになるほど。 コギャルという年でもないな。
さて、皇帝一行はマチュピチュへ。 マチュピチュはスペイン人に追い詰められたというインカ人が、ジャングルの奥へ奥へと逃げた、その時の都市だという説と、あとなんだか色々な説がある、謎の遺跡。 と、ここでクスコのホテルにへばっていた母が、「こ、このままでは何をしにクスコまで来たかわからぬ〜」と地を這うように参戦。 顔面蒼白の母を抱えてマチュピチュへ向かう電車に乗り込む、血液酸性の私。 朝の五時。
さて、クスコからみれば、やや低めの土地にマチュピチュはある。 何度かスイッチ・バックを繰り返して山を越え、やはりスイッチ・バックで谷へ降りてから、遺跡のある山の麓に電車をつけて、そっから山のてっぺんの遺跡までバスでグニャグニャ登る。 蒼白の母、私の隣でキタロウ袋常備。 私の将来が仄見えたのは気のせいか・・・。 父は元気そう。 まあ、世界中を回っているジャパニーズ・ビジネスマンだから、どこ行っても平気なのでしょう。
帰ってきました。 時差ぼけです。 ぼけも今年三度目ともならば、慣れえたもの。 いえ、時差ぼけになることに慣れたのであって、その経験を生かせるようになったとか、症状が改善されたとか、そういったことでは全くなく。 どんなに眠くても平気。 てか寝る。 我慢などしない。 それが学生の特権。
頑張って復帰します〜。 語尾が「〜」ってなってるうちはまだぼけぼけ〜。
2003年03月14日(金) |
よっぱらってますぞー |
テキサス最終、皇帝留学生活最終日なので、酔っ払ってる。 「なので」なぞと理由にならぬ理由がなんとも。
ともかく、ペルーはまた休止して、ちゃんとまとめを。 酔っ払ってるんですけど。 らりらり〜。
私は中国が好きです。 でも、日記を読むとちっともそんな気が皆様に伝わっていないと思われます。 ぐちまみれだし。 私も、日記を書いている当初はちっとも上海が好きだとは思いませんでした。 それでも今は、上海の生活も、上海の友達ももちろん大好きで、懐かしいのです。
私はテキサスの生活が多分好きなんだと思います。 でも、今はそう思わないし、日記からもそれは窺い知れません。 英語の勉強が楽しかっただのと、もちろん伝わっているはずもなく。
それでも、何ヶ月かたつうちに、きっと、ヒューストン・テキサスの生活が懐かしくなって、好きだったことに気付くと思うのです。 (英語はどうだかわからぬが)
得がたい友達が、日本も含め、各地にいるという幸福は、説明しにくいのです。 各時間、各地域。 その時々に、時間を自分で割いた、相手も割いたという貴重です。 ネット上での出会いも、もちろんのこと。
帰国後のこのサイトをどうするのか、まだ全く決めていないのです。 でも、どんな形にしろ、今までの日記を残して行く方向性は変わりありません。 とりあえず、ぺルー篇にけりをつけ、その後、ちゃんと写真の整理をします。 それに一ヶ月程度かかると見つつ。
デスマスですが、大言を吐いているわけではないのです。 酔っ払っていますが、正気をなくしているわけではないです。 部屋の床が、まだ見えない事に(軽〜く)あせているのでもないです。
日記はまだひょろひょろ続きますが、この2年間、訪問しつづけてくださった皆様、2年間の扶養延長を承知してくれた両親に感謝しております。 サイト運営を代わりに監督してくれた宰相には、なんと言って良いかわかりませぬ。
明後日の今頃には帰りついて、寿司など涼しい顔で食べているはずです。 ペルー篇の合間ですが、これをもちまして、留学記の締めとさせていただきます。 そして、母に一言。
ライチにマヨネーズは合ってないですよ。
ペルーで何かに刺されまくって、身体中痒い。 赤いブツブツも出てきた。 増えてる気がする。 もしや寄生してる?
さて、話は何日か前に戻り、オリャンタイタンボへ。 オリャンタイタンボというのは遺跡のある地名の一つ。 何故か山の斜面に斜めに暮らしたインカ人の家と、無理に作られてるっぽい小刻みな段々畑、これまた絶対利用したくない急な斜面に突如作られた穀物倉がある。 風通しの良いところに食料を保存したんじゃないかというご説明。 後世来る観光客の肺や心臓の事も考えて作っていただきたい。 三百段の階段は、心臓破り。 母を連れてこなくて本当に良かった。 と、足の上がらなくなった父と休憩を取りながら思ったさ。
今現在の住民は、遺跡の下の谷に陣取って、農業と観光で暮らしている。 犬もやはり一杯。
実際の遺跡は標高3000に満たないのだが、行く途中が4000m近い。 遠くに見えるアンデスの山々には氷河が仄見えてたり。
聖なる山々に囲まれた聖なる谷の風景が売りの一つなので、時々バスが停車して、写真タイムを取ってくれるのだが、そのたびに、外に出ると呼吸困難で半死半生になる(バスの階段を降りるという運動で)。 死、という字が脳裏にひらめきました。
痛む心筋を押さえつつ、聖なる谷の間にあるピサックの市場を巡回。 市場では観光客目当ての土産物屋が多数軒を並べている他に、軽食(茹でたトウモロコシとか、雑穀を炊いたのとか)を出す屋台や、山羊をおろしている肉屋とかある。 流石に屋台モノには手をつけず。 中国の山羊首はまだ生き生きピチピチとしてたんですけどね。 ここのはちょっと・・・・ハエがご相伴にあずかっていたので・・・。
途中、子供達から野生のミントを買って、母にお土産に。 高山病に効くとかなんとか。
ここの気候、絶対漢方薬とかハーブを育てるのに適していると思う。 そいで、日本に高値で出荷すれば良いのに。 もしくはシイタケを栽培したらどうか。 日雇い日給6ドルの経済を立て直すにはどうしたら良いか、素人だてらに考えてみた。 子供達がせめて、義務教育を無料で受けられる程度には成長していただきたい。 スクール・バスやら教科書やら、なんだかんだいって子供一人に月に30ドルかかってしまうらしく、一般人にとって教育はまだまだ高級品。 ガイドの話によると、ユーカリをオーストラリアからもらってきて植えたら、すくすく育って宜しかったと言っている。 じゃあ、ついでにコアラももらってきて、新たな観光資源にしてはどうか。
インカと宇宙とスペイン艦隊に思いを馳せつつ、コアラと記念写真。 斬新な組み合せ。
オーストラリア政府が許さないと思うけど。
ペルー報告を一日お休みして、帰国までの流れを。 14日のフライトで成田直行便。 ただ、早くも飛行機会社から連絡があり、出発時間変更とのこと。 オン・タイムで飛行機に乗れた確率はかなり低い。 なんか悪いことしましたか?私は。
パソコンなくされた会社で飛ぶ。 ちなみに、パソは発見不可能なので、飛行機会社の保険で2000ドル支払われるらしい。 データとかは? ねえ? 棟梁からお慰めのお言葉を頂きました。 いつも有難う。 あなたがそっと優しい言葉をいつもかけてくれるので、人生もまだまだ捨てた物ではないと思えるのです。
さて、荷物。 まだちっともまとまってない。 大量にゴミを捨てていると言うのに、ちっとも床が見えてこないのはどうしたことか。 はい。 つまり、片付けすらすんでいないのです。 荷物をパックするまでには相当の時間と労働力が必要と思われ、気が遠くなったりしている。
パラボラ・アンテナの事をサテライト・ディッシュという。 皿。 科学で電波なのに皿。 その話をアメリカ人にしたら、イディオムで「電波をダウンロードする」というセンテンスと「皿を洗う」というセンテンスをかけたらしい、親父ギャグを言われた。 なんだかよく理解できなかった。 それなのに笑う自分。
敗北感と闘う毎日。
そんなわけでクスコ。 標高が大変高く、海辺で暮らしている我々にはやはり耐えがたいものが。
母は、父がはるばるNYから運んできた風邪との合わせ技であっさりダウン。 まあ、元々大山にも登れなかったお方(正確には、ロープ・ウエイの乗り場まですら行きつけなかった)。 誰も彼女が元気はつらつと動き回るとは思っていなかったので、このアクシデントは予想通りと申せましょう。
皇帝は血液を酸性にしながらもこの辺で風邪完治。 しかし、私の心拍数、測ってみたらなんと100を余裕でブッチぎるテンポで軽快に打ってたのです。 心筋が筋肉痛になって死ぬかと思った。 激しい運動は避け、すり足で移動。
母をホテルに残して、父と皇帝はバスで市街地内の観光を一日目にすませる。 アジア風な市場に、西洋の建物。 スペインの教会とインカの旗が混在しているのが、この街の特色。
学校が休暇中だったせいか、子供達が沢山乞食のアルバイト(?)をしていた。 しつこく寄ってくるが、中国の物売りの27倍あきらめが良いので、あしらいは楽。 心が痛まないわけはないのですが。 財布も痛いのです。 インカの人は写真を撮られると魂が抜けると思っているので、普通は中々撮影させてくれないが、それを利用して、お金をもらって写真に撮らせる人々が結構いる。 アースの歩き方の写真なんかは、大体その手法で撮られているのではないでしょうか。
ペルーの人々は犬が好きらしく、リマもクスコも犬まみれ。 首輪や縄をつける習慣は無いのか、その中が犬溜まりに。 でも、狂暴な犬は一匹もいなかった。 どちらかと言うと、子供が尻尾をひぱっても寝ているような、そんな穏やかな犬ばかり。 逆に、猫は全然いない。 そして、牛とか山羊とか羊とかアルパカが人口に勝っている。
なんとなく車の流れに違和感を覚えて、よくよく観察してみたら、車の停め方が変。 変と言うか、なんというか、道の脇に駐車するのではなく、何故か道の真中に車を・・・。 真中と言うのは語弊があろうか。 反対車線との間、つまり、中央分離帯付近に横並びに停めてあるのだ。
何故・・・。
次回、母をホテルに残したまま、今旅最高峰のオリャンタイタンボへ。 4000m近いです。 心拍数は上がったきりのうえ、血液は酸性。 手足が痺れてホテルのチェックイン・ドキュメントがまともに書けない状態で更に高みへと登ろうとする、その心は一体。
・・・なんとかは高いところに登りたがるのです。
なかなか波乱万丈な旅の幕開けで、結構下の書きこみは気に入っている。
さて、多くの皆様が疑問に思っているらしいことを、まずはご説明。 ペルーは南米大陸の西海岸真中らへんに位置する一応民主主義の国。 首都はリマ。 公用語はスペイン語。 住んでる人々は、大抵スペイン人と原住民が混ぜこぜになったメスチーソの方々。 選挙のルールを守らなかったために、日系元大統領のフジモリ氏が追放されたのが記憶に新しい。 ついでに皇帝の大学の探検部の人が軍に山賊まがいに殺されたことも記憶に新しいので怖い。 通貨はソル。 今現在1ドル=3.4ソーレス(ソルの複数形)。 大抵の所、夜店ですらドルが通用するが、おつりは大体ソーレスで返って来るので、計算が面倒くさいから空港とかで両替しておいた方が良い。 街中に闇の両替師が潜んでいるが、なんか怪しいので利用しなかった。 中国だったらガンガン両替するけど(違法)。 やっぱり言葉がわからないと闇雲に色々不安。 日本からの直行便は無し(燃料が続かないから)。 ヒューストンから8時間フライト。
飛行機がリマ空港に着くと、そこには階段が。 到着ターミナルとか無いですか・・・。 かつて雲南に中国国内線で行った時に、怪しげな地方空港に深夜降ろされ、ハシゴを使ったっきりだ。 パソコンは既に失われ、階段を降りる私の胸の内はいかばかりか。 そしてモンワリ熱い。
とりあえず夜に到着したので、その日はそのままホテルに直行。 夜の明かりに浮かび上がる看板などをつらつら観察してみるに、韓国系の電気会社の進出が目立つ。 全体的に、中国っぽかった。 発展途上国の都市はどこもこんな感じなのだろうか。 鉄筋が屋根から飛び出ていたり、TVのアンテナが思い思いの方向を向いていたり。 ついでに犬があちこちで放し飼いだったり。 空気が半端なく汚かったり。 人々の顔がややバタ臭いとか、細かいところはもちろん異なるが、漠然と雰囲気が似ている。
そして、特に挙げておきたい製品が、インカコーラ。 中国にも非常コーラだの北京コーラだの、国産コーラの売り出しに力を入れてはいたが、インカですよ。インカ。
二日目の朝、早速飛行機に乗りこみクスコへ。 クスコはリマから飛行機で約1時間。 アンデスの山々の間に埋るようにひし形気味にある小さな観光都市。 今は雨期なので、エルニーニョの影響もあって毎日雨。 エルニーニョ。 セニョリータ。
標高が3000メートル以上あるので、なんというか、富士山の頂上くらい。 かつて、富士山五合目程度の雲南で高山病気味になった皇帝、ここは抜かり無く高山病予防薬を摂取。 父母も摂取したのだが、薬が米国人向けだったためか、やたらに効きすぎて、リマ空港に着く頃には、全員手足が痺れて動かないという危機迫る状態。 薬の説明を読むと、どうやら血液が酸性になるらしい。 血液が酸性??
釈然としないまま飛行機出発。 って、ちょっと待て。 なんか滑走路が異常に短い。 と思っていると、なんとカーブを曲がりながら加速開始。 ウソーん。 と心の叫びは無視して、飛行機は無事クスコへ。
リマは蒸し暑かったが、クスコは高原なので涼しい。 寒いくらい。 住民の顔つきも、すっかり100%インカに。 原住民の皆様は背が小さい。 皇帝が紛れても違和感が全然無いので、ちょっと自分が普通の大きさになった錯覚を満喫。
では次回、波瀾万丈クスコ旅行記をお楽しみに。 まだ血液酸性ですし。
At the airport,the airplane company Continental ailines lost my computer. Anyway, at that reason I cant use the PC. Im in an inter-net cafe now. Lima is a wanderful city,seems like an asian city.
See you next week!!
P.S. If I can, Ill write this diary in Peru again.
去年大型トロピカル・ストーム、アリソンがヒューストンを襲撃したことを覚えておられるだろうか。 実は、全米の歴史上、最も被害額のでかい自然災害だったそうで、未だに復旧が完了していない。
去年私の文法の先生をしていた女性が、NYツイン・タワーのテロで(留学生数が激減したので)職を失い、今はアリソンの復旧ボランティアのコーディネーターとして働いている。 人生はわかりません。
その彼女と夕食を食べにいった。 何故かその時私の前置詞が妙な具合に混乱していて、なんだかTOを連発してしまった。 しかし、そこは元英語教師。 二十年間わけわからない生徒達を訓練し続けたことはある。 全部理解してくれた上に、私のレベルにすぐさま合わせて単語を修正して話してくれる。
こういうタレントのある人は海外に出たらすぐに良い英語教師になれるのに。 でも年がいってると中々外に出る勇気が出ないものね。 それまでの人生もあるし。
などとしんみりしながら、ではペルーに行ってきます。
部屋中に散らばった物どもを片付けなければならない。 毎度の事ながら、この撤収作業は疲れる。 帰った先の日本の家だって片付いていないというのに、この荷物達がこのまま私の部屋に送りこまれたとて、いかほどの収納ができようか。
フィリピンは複数形で日本は単数形ってどういうことだ。 日本だっていくつかの島から成り立っているのに。 本州以外は無視か。
関係の無いところで怒ってみる。
皇帝
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