凪の日々



■引きこもり専業主婦の子育て愚痴日記■

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2007年01月30日(火) 皮膚科その後

アユムの湿疹。
なんとか治ってきつつあります。
やっぱり乾燥肌からくる湿疹だったそうです。
乾燥から皮膚が硬くなり、皮膚のなんだかが断裂して湿疹のようにポツポツが出てくるそうで。
そっかーできものじゃなかったんだー
その証拠に肌の上部分から出てくるとかで。
一番乾燥するのが足のすね部分で、乾燥しがちな肌の外側にどんどん広がっていくとか。
確かに、内側にはまったくないものね。
ふくらはぎくらいはあるけど。
紫外線と赤外線の違いは、強さの違いで、症状が酷い時は皮膚の奥まで光が届く紫外線を使うそうです。
最初のあやしい病院はたいした事ないからとりあえず痒みを痒み止めと飲み薬で止めて、様子を見ていこうと思っていたわけなのかな。
こちらの病院は調べてただの乾燥肌だから、保湿剤を塗って肌を保護して様子を見ようと判断されたわけで。

子供にあまり薬は飲ませたくないから、私的にはこちらの病院が正解だった感じ。
保湿剤も、市販のでもいいけれど、乳幼児医療費の対象のアユムは薬代がただなので、病院へもらいにいく方が断然お徳。

そうなのよね。肌が弱いから、お風呂上りにはいつもオイルを塗ってあげてたんだけど、面倒なので、ここ数ヶ月やってなかったのよねそういえば。
肌に良いって聞いて、D●Cのオリーブオイルを子供達にはお風呂上りに塗ってあげてたんだけど、子供に使うには高くて(←おい)
切らしたのと、もう大きくなったしいいかなーなんて勝手に思って、ずっとさぼってたんだった。
原因は私の怠慢。はいはい。すみませんでした。

ってかね、正直、私も子供時代、こういう湿疹あったから、体質が遺伝しちゃったかーと諦めていたのだ。
当然、病院になんか連れて行ってもらった事なかったので、親も知らないままだっただろうと思うけれど。
私も肌弱いんだったわそういえば。


でも皮膚科の保湿剤はやっぱり市販のそれより断然伸びが良いし、しっとり感が違う。
アユム用にもらってきてアイにも塗ろうかな。
このところアユムの耳の下あたりにもポツポツが出て来ている。
これも乾燥からくるものか次回は診てもらって、顔用の保湿剤を出してもらおうかな。

病院選びって難しいなぁというか、やっぱり病院は自分が納得できる所でなきゃなぁとしみじみ思ったのでした。


2007年01月29日(月) 機会

ママ達とランチのついでに入園式用のスーツを下見。
「私、スーツをもう買ったの」とNちゃん。
こんなスーツで、こんな襟だから、中に着るブラウスはどんなのがいいとか、コサージュはこんなのがいいとか、あーだこーだと皆で盛り上がる。

「これはやっぱりカジュアルすぎるかなぁ?」と鮮やかな色彩のプリントのフレアースカートをあてるKちゃん。
「コサージュじゃなくて、チェーンとかのぶらさがり系のブローチもいいよね」
「バックもこれよりこっちかなぁ?」
皆さん活き活きキラキラ。
女性っておしゃれが生きがいというか、やっぱりパワーになるんだなぁとぼんやり思いながらあわせるが、正直、ついていけていない自分を感じている。
だってフリルのブラウスだの、華やかな色彩のコサージュだの、私は昔から自分が身につけるのは苦手なのだもの。
入園式も適当にアイの入学式の時のグレイのスーツに黒のコサージュでいいか、なんて思ってたし。
おしゃれに本当に無関心になってしまっているんだなぁ私って。
でもインに白のブラウスは欲しいなって思ってはいるのよ。
でもこのアルフィーの高見沢さんみたいなフリルは駄目。

「これにこれはどう?」とMちゃんがKちゃんにアドバイスを求める。
「この襟ならこっちのブラウスよね。色はこっちが明るくていいかな」
Kちゃんが的確に答える。
彼女はブライダル関係の仕事をしている。
華やかな席でのコーディネートは手馴れたものだ。
KちゃんもNちゃんも、年齢も職歴もまったく接点の無い、子供つながりでないと絶対知り合い一緒に行動する事もなかったであろうタイプの人達。
一緒にいると小さくても新鮮な発見の連続で楽しい。

私は、というと、結局「女の子を持つ幼稚園ママの先輩」として経験談を話し、参考にしてもらったり、アイつながりでの幼稚園の情報だのなんだのを彼女達に流すのが役目といった感じだろうか。
自分の中に相手に提供する知恵だの経験だのが子供関係のものしかないのが情けない所。

こういう人達と知り合いになれたという事は、自分も自分磨きをする時期に入ってきたんだって事を思い知る機会をもらったんだろう、となんとなく思う。

私の中には、私が築いてきた私自身の知恵と経験がない。
からっぽすぎる。
からっぽでないと、子育てできなかったのもあるけれど。
からっぽにしないと、あれもしたいのに、これもしたいのに、やれない、できない、と、苛立つばかりだったから。

今年から、少しずつ、からっぽの自分に、何かを入れていかなきゃと思う。
多分、そういう時期なんだ。
何かを積み重ねていかなきゃ。
この人達のように、自信を持って語れる何かを自分の中に。

頑張ろう。

とりあえず、入園式、スーツを新調しようかな…ってちょっと違うか。


2007年01月24日(水)

当て逃げされてしまった。
厳密に言うと、「当て逃げを許してしまった」か。

細かく記憶を振り返るとますます怒りがこみ上げてくるので割愛。
わき道から出てきた車が私の後部バンパーに傷をつけたのだ。

まぁいい。人間で考えると道を歩いていてちょっと肩が触れた程度の感じだ。
バンパーもかすり傷で多分コンパウンドで磨けば分からなくなるんじゃないかな、といった感じだし。

ただ、問題は、わき道から出てきてぶつけてきたにもかかわらず、相手は運転席から降りもしないし、あやまりもしなかった事だ。
傷を確かめるべく車から降りた私も、なんでだか思わず「だいじょうぶですかぁ?」なんて声をかけてしまって。
違うだろ。ここは「どこ見てんですか?」と怒るべきだろうが。ぶつけられたんだし。
相手は黒のサングラスをかけた緩やかなウェーブヘアの有閑マダム風の女性。
車もホロ付きのオープンカーらしくしゃれた外車。
しかしこちらが傷を確認してる間も相手は運転席に鎮座したまま、信号が変わるのを待つだけって感じ。

アイの習い事の時間がせまっていたのと、昼寝中のアユムを一人置いて来たため、こちらも急いで帰りたかったってのもある。
傷もたいした事ないし、修理に出すほどでもないし、もういいか、と思ったのも事実。
何より、近所の交差点だったので、これ以上ここでこうしていると、近所の噂にもなるし、信号も変わっちゃうし、

信号が変わったので車に戻って発進させた。
そう思いながらも、前方のコンビニの駐車場にでも停めて話をしなきゃいけないかな、とも思っていた。
でも相手は私と反対方向に走り去っていった。

結局、一言も相手の声も聞かなかった。

バカだ。私って。
あそこは怒らなきゃいけなかったのに。
傷はたいした事なくても、謝罪の言葉くらい言うべきだろう。
どう考えても100-0で相手が悪いんだから。
車の傷って外からじゃ分からないんだから、たいしたこと無いと思っていても、調べてもらったら中が大変な事になってたりするのに。

あの場合は、近くのコンビニの駐車場にでもお互い移動して、とりあえず連絡先くらいは聞いておくべきだった。
こちらは強気にでなきゃいけなかったんだ。

なのに、強気に出れない私。
昨年もぶつけられたけど、こちらが被害者であるにもかかわらず、とても気分は憂鬱だったのだ。
無かった事にしたい、と思ってしまった弱気な自分。
逃げたのは私だ。
情けない。

もっと怒れる人間にならなきゃ。
もっと、強い人間に。
落ち込み。


2007年01月23日(火) 箒

正式名称は知らないけれど、ハンディタイプのほうきを愛用している。
手箒とでもいうのかな。
サザエさんが畳をはいてそうな箒の、柄の短いタイプ。(どんなだ)

掃除機をかける時、片手にこれを持って小さな段差とか、すみっことか、掃除機がとどかない隙間とか、そういう所のホコリを掃きだして、掃除機で吸う感じ。
壁の、壁紙と床の間の木の1�僂曚匹涼丙垢箸�、窓ガラスのガラス枠とか、サッシの溝とか、これでがーーーっと掃きだすのは気持ちいい。
箒でもあり、はたきでもあり、といった感じでとても使い勝手が良い。


これは偶然立ち寄ったデパートの催事場で買った。
刑務所の受刑者達が作った作品の即売会だった。

罪を犯して刑務所にいる人が、せっせと作ったもの、と思うと、正直、あまり良い気持ちはしない。
これを見るたび、この人の人生を思わずにはいられない。
どんな罪で刑務所に入る事になったんだろう。
どんな気持ちで、罪を犯したんだろう。
どういう気持ちで作ったんだろう。
罪を悔い改めて、外での生活を夢見て、その日の為に一生懸命作ったものなんだろうとは思う。
もう出所して、しっかり生きているんだろうか。
再犯率が高いと聞くが、社会に受け入れてもらえず、再び罪を犯して同じ事を繰り返してはいないだろうか。
しっかり生きているんだろうか。

頑張って生きて欲しい。
頑張って、頑張って、己の弱い心に勝って欲しい。

そんな事を思いつつ、せっせと掃除に使わせてもらっている。
なので、正直、掃除すると気疲れする(苦笑
でも、これも私の弱い心だと思うので、何も感じなくなるまで、せっせと愛用したいと思う。

なんか違う気もするけど。


2007年01月22日(月) お誕生会

集合住宅内の幼稚園OBのお誕生会へ、アイとアユムと一緒にお邪魔させてもらった。

この幼稚園OBとは結局アイは残念ながら親密にはなれず、登校するメンバーの片隅に加えてもらっていただけの関係になっていたんだけれど、さすがにアイもつまらなくて仕方なかったようで。
毎朝皆の輪の後ろから一人うなだれとぼとぼとついていく姿に、もうこの幼稚園OBとの関係も潮時かな。
無理に続ける意味もなさそうだし、と一緒に登校するのをやめて半年。
まったく繋がりもなくなったわけだし、もうお誕生会も声をかけてもらうこともなかろうと、肩の荷が下りた開放感とちょっとだけの寂しさを感じていたんだけれど。

意外や、子供達の仲は関係ないのか、子供のお誕生会には変わらず声をかけていただいている。
子供も一緒に顔を合わせれば、それなりに遊ぶわけで、アイもお誕生会は物凄く楽しみにしてて、数日前からプレゼントを選びに店をはしごしたり、カードをせっせと書いたりとそれは楽しそう。
ついでに、アユムもしっかり数にくわえてくださるおかげで「お誕生会たのしいー!!」と姉妹で浮かれ楽しみにしている状態。

ま、これはこれで、声をかけていただける間はこちらも同じように声をかけて、お誕生会を楽しんでもらおうか…と思った次第。

子供達はWiiで大騒ぎの大盛り上がり。
親達は親達で勝手にケーキをつつきつつ近況だの情報交換だので盛り上がる。
そう。奥様方の情報網は素晴らしいので、とても参考になるのだ。
今回は来年中学入学の子の準備と来期の小学校だの自治会だのの役員決めの話だのがメインだったような。
子供会の役員、なり手がいないのでどうも来期は私にまわってきそうな情報もいただいた。
え。来期は無理。だってアユムの入園と、夫が一応四月からの正社員の口を見つけてきたので生活リズムが大きく変わるため、今年はどうなるか予想がつかないのだもの。
夫の仕事が土日も無いようだったらアユムを連れての役員行事参加は大変だし。
収入が大幅に減るのに、幼稚園入園で出費は確実に増えるので、そのへんの様子を見て、私もそれなりに何かしなきゃと思っているし。
そんな我が家の転換期に、任意で入会の子供会の役員なんてボランティア、やってる余裕が無い。

役員の話が来たら、申し訳ないけれど辞退して、子供会は退会しよう。
今年は生活の様子を見ながら、幼稚園のバザー役員あたりを引き受けようかと思っているし。


次回はアイのお誕生会をうちで開くわけだ。
また二月後半から大掃除だな。(苦笑)
年度末の大掃除は子供達のいらないおもちゃだの作品だの整理するのにも丁度良くて、これはこれでいい機会なんだろうなぁといつも思う。

問題は、アユムがいつ「私のお誕生会は?」と言い出すか、だ。
アユムのお誕生会に小学生呼ぶのもなぁ。
しかしこの集合住宅にアユムの年代の幼稚園児の友達は数名いるけど、そうするとお互い呼んで呼ばれて、になって、面倒って話もあるだろうし。
実際、アイの時、声をかけたら「悪いけど子供がうちもやりたいって言い出すと面倒だから」と遠慮された事もあるし。

ま、どうなるか、春になったらだな。
とりあえず、節分まではのんびりして、雛人形を出したあたりからぼちぼち片付けを始めるか。
うちはWiiは無いから子供達には人生ゲームでもしてもらおうかな。

回を重ねるごとに、気楽に準備できている自分が嬉しい。
初めてのお誕生会開催の時は緊張で前後寝込んだ気がする。
人付き合いがひとつ楽になってきているのは、ちゃんと頑張った事が無駄になっていないって感じで、嬉しい。
頑張ろう。


2007年01月16日(火) 正月

年末里帰りをするたび、近所のおじさんおばさんがおじいさんおばあさんになっていっているのに驚いたり、甥っ子姪っ子達が昨年よりまたひとつ出来る事が増えていて微笑ましかったり、自分の記憶の中から少しずつ変わっていっている風景とか、日々ぼんやりというか、バタバタとその日をやり過ごして生きているだけの自分だけれど、世の中はこうして確実に時間が流れていっているんだなぁとしみじみ感じる事が多かった。

私の母と夫の母は同じ年齢だけれど、勤めていたせいか、母の方がいつも元気そうだった。
義母も「おかあさんはお仕事されているから元気で羨ましい」といつも言っていたし、皆、そう思っていたと思う。
義父は心臓疾患があるし、年齢的にも、正直、一番先に弱るのは義父かもな…と失礼ながら思っていた。
実際、里帰りのたび、義父は少しずつ小さくなっていっているように感じたし、大好きな酒の量も当然ながら減っていっているし。

しかし今回の里帰りで一番弱っているように見えたのは、私の母だったと思う。
身体的な印象もだけれど、話していて「あれ?」と思うような小さなズレを感じる事が多くなった気がする。
縁起でもないけれど、というか、予感がはずれればいいけれど、母は性質の悪い、怒り癖のある痴呆性の老人になりそうな印象を受けた。

このいきなりの老いはなんだろう、と考えると、母の弟の妻である叔母の死が大きかったのかもしれない。
母とこの義妹は生涯仲が悪かった。
可愛い弟にしがみついた疫病神といった感じに思っていたと思う。
それでも弟の為、世間一般の付き合いはきちんとこなし、なんとか歩み寄ってやっていた、という気分なんだろう。
その叔母があっさり癌で他界。
母は何十年も叔母を影でけなし罵りながら、表面ではそつなく付き合いして、それなりにバランスを保って過ごしてきたわけで。
そのバランスがあっさり崩れ。
母があんなに嫌った最低女であったはずの叔母の葬儀はたくさんの花輪に弔電に香典に、涙を流して別れを惜しむ友達にご近所さんにと、それはたくさんの人々の涙に送られていった。

母の中の価値観があれで多少崩れたのだろうと思う。
自分が死んだ時、はたしてこれだけ花輪が届くだろうか。
泣いてくれる人がいるんだろか。
あれこれ考えたのかもしれない。

思えば義母が急に老け込んだように思えた年は、お兄さんが亡くなられた年だったような気がする。
兄弟姉妹が亡くなると、親戚や親の時より死を痛烈に身近に感じるのかもしれない。

義母がそれでも元気になったのは、やはり配偶者である義父の存在なんじゃないだろうか。
お兄さんの記憶を多少なりとも共有する部分があり、共に歳を取り、互いの体の変調や心を気遣い。
義父より先に死ぬわけはいかない、介抱は自分がしてやらなければいけないのだし。
それが自分の存在意義のように、生きる張り合いのように思えるのかも。

連れ合いを早くに亡くした母にはその話し相手がいない。
今までの人生を一緒に振り返り、老いていく感情を共に語り合う相手がいない。
それは多分、張り合いの無い事なんじゃないんだろうか。

「70までは皆結構生きる。80までの10年でバタバタ死んでいくんだ」と義父は老いていく事について笑いながら語った。


一日一日、確実に老いていき、死に近づいていく体を、繋ぎとめるのは心なのかもしれない。

母が己の心を繋ぎとめる何かを今年は見つけることができるといいのだけれど。


2007年01月15日(月)

昨年末のバタバタ、一番は水疱瘡騒動かな。

アユムの幼稚園ママ仲間で「ランチ、忘年会兼ねてやらない?」「それなら子供も一緒にクリスマス会にしちゃう?」「ケーキ皆で作ろうか」「うちに集まってもらっていいよ」などなど、話の流れで、もちよりのクリスマス会をやる事になったわけで。

うひゃー料理苦手なのに何を作って持って行けって。
あれこれ悩んだけどまぁそれはここでは割愛。
そのうちブログの方にでも書くとして。

半日ほど子供達は室内でわいわい遊び、大人達はあーだこーだと動き回り、「それじゃ良いクリスマスを♪」などと行って解散した翌々日午前中。

「今、病院に行ったらうちのこ水疱瘡と言われました。うつってたらごめんなさい!」とメールが。
幼稚園で流行っていると聞いてはいたけど、ついにきたか〜。

水疱瘡が一番感染力が強いのは発疹が出る二日前程からカサブタになるまでの間。
うーむ。ぎりぎりうつってる可能性ありか。
別にいつかは貰うものだからうつっててもかえって歓迎って感じではあるんだけど、潜伏期間は二週間だから、年明け早々、病院がどこも休みの間に発症するかもしれないわけだなぁ。うむむ。
ってことは、年末年始の帰省はどうしよう。
帰省先で痒がられてもどうしようもないし。
こっちだと救急センターが近くにあるからどうにかしてもらえるかもしれないけれど。
かといって、帰省しないっていうのも。
従兄弟達に会うのを物凄く楽しみにしているアイが可哀相すぎるし。
いっそ夫とアイだけ里帰りしてもらうか。
でもそうすると夫は公共交通機関しか使えないので、かなり道中アイは辛いだろう。
うーん。

あれこれ悩みつつ、とりあえず、里帰り。
夫の生家では一番下の子がまだ水疱瘡をしていないので、出来れば移してもらいたいと言われ、結局潜伏期間二週間をちょっとすぎるあたりまで滞在させてもらい帰宅。
しかし今日現在、まったく症状無し。
結局誰にも移らなかったのでした。
あぁあれこれ想定して悩んで疲れた。

もし移ってたらうちにもうつして、と言われていたママさんに「ごめん、うつってなかった」と報告。
どこも水疱瘡はさっさと済ませたいので移してもらいたいものらしい。
予防接種も料金が高いし(病院によって違うけれど、うちの近くの病院では一万超えるのだ)接種しても出る子は出るし(もちろん、軽く済むそうだけど)
だったら移ってからすぐ病院に行って薬を出してもらった方が、早めだと軽くすむらしいし、そっちが断然楽かと。

しかしアユム、これで二回、水疱瘡もらいそこねた。
一回は水疱瘡の薬塗りまくり状態の子と半日遊んだのに全然うつらなかったし。
「その時のその子の体力にもよるよね」と言われ納得。
幼稚園で水疱瘡を貰った子は三月生まれの小さな子。
きっとまだ体力が無いから貰いやすいんだろうなぁ。
それにくらべてうちのアユムは……(遠い目)
体力ありあまってるだろうお前…って感じだし。

いや、ま、元気で有り難いです。ハイ。
お騒がせしてすみませんでした。

そんな感じの、お騒がせ年末年始だったのでした。


2007年01月12日(金) あやしさ比べ

あやしい皮膚科兼用の外科医院をやめて違う皮膚科医院へ。
待合室は無人。う。
でも看護婦さんは感じが良いおばさん。
診察室で見てもらうと「あぁ〜沢山出てるね固くなってるし痒いの〜?」などと声をかけてくれる。
あ、そっか。あのあやしい病院は「○さん今日はどうしました?」の病院の常套句からまずなかったんだ。
だから違和感だったんだな。
一通りみたあと、顕微鏡で視るらしく皮膚の表面を擦ると「じゃあ隣で薬を塗りますから」と処置室へ。
そうそう、この一言で気持ち的に違うのよね。
光を当てられ薬を塗られる。
薬を塗りながらも子2に話しかけてくれる看護婦さん。
処置が終ると再度診察室へ
「乾燥からくるものでしょう。元々乾燥肌だし、アトピーかアレルギーも体質的に少しあるのかも。三歳過ぎてるから食べ物は大体クリアしてるだろうから食べ物からじゃないでしょう。普段通りの生活で良いです。この時期多いんです」等、説明してくれる。
これよ。これが普通の診察でしょう。
患者に全く説明してくれない医者ってやっぱり変よ。

受付で清算時に薬を出される。
ま、塗り薬だけだしね。
小さい医院だと普通だよね。

しかし。

出してもらった塗り薬がこれって。
普通の容器にマジックでAって書かれただけの「保湿剤です」って説明だけの薬って。
あやしい医院の薬は普通のかゆみどめだったから名前もわかったけど。
(ちなみに「ベストフラン軟膏」という薬)
まぁただの保湿剤だから別に名前は良いのかもしれないけど。
「保湿剤って事はベビーオイルとかでも良いわけでしょうか」と聞いたら「とりあえずここまで酷くなってますからこちらの保湿剤を使ってみて治ったら市販のを使ってください」との事。
うーむ。

ちなみに処置室で当てられた光。
あやしい医院は赤外線で、今日の医院は紫外線でした。
どちらの医院があやしいんだろう?


2007年01月11日(木)

新年早々と言うか。新学期早々片頭痛でダウン。
新学期一日目から通学路の交通安全の旗(?)当番だったのに。
だからこその頭痛なのか?だとしたらいい加減にしろ自分って感じ。
朝から這うようにして朝食の用意をし、トイレでひと吐きしてから通学路へ。
寒風吹きすさぶ中、交差点に立ってひたすら信号のたびに旗で学童を渡して行く。
信号無視して渡ろうとするガキ一名をしかりつけた他はなんとか無事30分やりすごし、へろへろになって帰宅してそのまま本格的にダウン。
四日、飲まず食わずで寝込みました。
まじ、飲まず食わずなので、トイレには一日一回行ったかどうかという状態。
脱水症状よりこの頭痛をなんとかしてくれって感じでのたうちまわり。

もう本当に死のうと思いましたね。
こんないつ体調崩すかわからん体で働けるかっての。
今年は自分の時間ができるわるるるるるーパートでもいいから細々と社会復帰したいなっなんてなに甘っちょろい事言ってんのあたしって感じ。
もういいや、死のう。このまま手首ぶっちぎって死のう。残された人たちは不便だろうけど、それは彼らの人生で、あたしの人生じゃないから関係ないや。頑張って生きていってくれ。
あ、それともくも膜下出血?ついにきた?でもあれって物凄い痛みっていうじゃない?物凄い痛みじゃなくて、物凄い苦しみなんだよなこの頭痛。ってことは、くも膜下じゃないって事か。残念。希望はくも膜下出血で倒れてそのまま気を失って死んじゃうのが理想なんだけど。
などとあれこれうなされつつ考え、途中仕事を自宅作業に切り替え子供達の世話をしていた夫に「明日になったらもう一回病院に行って」と言われ、あぁそうだよなぁ。今まで付き合っていた男性ならここで「今から病院に行こう」って連れて行ってくれるのに、それが出来ない頼れない男と結婚しちゃったんだよなぁ私って、と己のバカさ加減に落ち込み、病院に行っても「片頭痛は病気じゃないですから」「若い証拠ですし」「痛みは本人にしか分からないんですよ」とかしか言われなくて、結局違う薬をくれるだけだろうし。
違う薬を飲むなら、緊張性頭痛の薬が山ほどあるからあれを飲んでから病院に行こうか。正直、もう病院に行くのもしんどいので動きたくないし

そう思って違う薬を飲んだら肩が少しずつ軽くなっていって、あんなにのた打ち回って苦しんでいた頭痛が半日ほどで薄れていったのでした。

なんだい。なんかいつもの片頭痛と違う感じっぽいけどなぁとちょっと思いはしてたけど、緊張性頭痛の方だったのか。だったら薬飲めば飲むほど苦しくなるはずよね。真逆だもの。おまけに頭おもいっきり冷やしてたし。

精神安定剤も調合してある薬なので、悪夢みたいなのにうなされ続けていたのもすっかり薄れて楽になりました。
次回から片頭痛時にも精神安定剤処方してもらおう。

おかげで正月太りで妊娠中に体験した体重になっていたのが、なんとか普通の
体重(でも出産前より相変わらず三キロ増のまま)に戻りました。

新年早々これかよ。
でも自転車の練習は順調で、近場のスーパーまでは買い物にいけるようになりました。
それでも偶然ママ友に会うと「暁〜!こけそうで怖いよ〜!」と冷やかされるんだけど。
春までに蛇行運転から脱出して、園生活が始まったら園行事なんかは自転車で行くように頑張る。
いいや。小さなことからこつこつとだ。
今年もこんな感じかもしれないけれど、なんとかやりすごしていこう。


2007年01月04日(木) アヤシイ病院

子2の両足に湿疹のようなものが出て、かゆがるので近所の皮膚科兼用?の外科に行ってみた。
行ってみて初めて入院設備のある個人病院と知った。
この時点でちと不安が。
だいたい看板に外科内科皮膚科って表記してある病院ってのでかなり不安はあったんだけど、とにかく近いので便利かなぁと行ってみたんだが。

入ると待ち患者さんが誰もいない。
また不安が。
呼ばれて診察室に入るとお爺さんの医者。
またまた不安が。
「いつから」
「どれくらいかゆがるの」
ルーぺで足を見つつ簡単な質問の後、「じゃ、隣に行って」
隣に?と思いつつ行くと、ベッドに横になってなんの説明もなくいきなり赤い光をあてられる。
「あの、これはなんの効果があるんでしょう?」と看護師のおばさんに聞くと、「なんの光か聞いてますけど」と隣の部屋のお爺さん先生に聞きに行く。
おいおい。
「赤外線です」
「いや、だから効果を」
「待って下さい」
また隣に聞きに行く。
「炎症とカユミを抑えるそうです」
はぁ。そうなんだ。

10分程光を浴びた後、「じゃ、また痒くなったら光をあてに来て下さい」と看護師のおばさん。は?
出ると同時に受付に呼ばれ、「こちらが飲み薬、一日三回飲んで下さい。それと塗り薬です」
えっと、あの、薬の説明は?
それ以前に診断結果は?
「かゆみで飲み薬ってなんの薬なんでしょう?」
受付のおばさんは不思議そうな表情をして「ちょっとお待ち下さい」と後ろのついたての向こうのお爺さん医者に聞きに行く。
「かゆみ止めと炎症止めだそうです」
「塗り薬は」
「かゆみ止めと炎症止めだそうです」
全部それなのね。
当然なのかな。
「あの、結局なんだったんでしょう?」
「は?」
「あの、だから、食べ物とか体質というか、体の中から来るものか、服とかかぶれとか、体の外からのものなのか、それだけでも聞いておかないと薬飲んでも同じことを繰り返すかもしれないわけですよね?」
おばさんはこれまたなに言い出すんだろうこのオンナはみたいな不審そうな顔をして「かゆみと炎症を抑えながら原因を探していくわけで」とよく分からない説明。
結局原因は分からないから症状を抑える薬だけ出してダラダラと通院する事にしてくれって事か。
先の無い老人相手ならその治療法で良いんだろうけど、子供相手の治療法じゃないよね。
家に帰って薬を見ると、懐かしい包装。
うわぁ何年ぶりだろうこんな紙に包まれた薬。
そもそも処方箋を持って薬局に行かなくても病院の受付でそのままもらえるってのも久しぶりの体験。
そういえば薬の名前が明記されないというか、教えてもらってないってのも昭和ちっく。
薬の名前を知らずに飲むのって勇気が要るようになっている自分にちょっと驚く。

やっぱりと思ったのは領収書をこちらが言わないとくれなかった事。
渡してくれたのは金額欄に手書きの領収書。
言わないと絶対くれなかっただろうな受付のおばさん。
いやぁもう二度と行かないです。
あやしすぎ。
患者に一切説明しない医者ってやっぱり不安と不審感しか与えないよね。


2007年01月03日(水)

久しぶりの田舎は完全な間違い探し状態。
記憶の中のソレと目の前に広がるソレが微妙にずれている。
さて、違うのはどこでしょう。

「えっと、ここ、こんな店だったっけ」
「あ、コンビニが増えている」
「ここのカラオケボックスは健在」
「えっと…確かこの辺には何々があったはずだったけど」

前回も記憶を修正したはずなのに、「あ、そっか、ここはこの前来た時もあったっけ」とやはり修正出来ていない事に気づく。
自分がそこで密に過ごした時間で記憶は頑固に焼きついていて、その後上書き保存しようとしても、やっぱり別ファイルとして保存されていて、上書きされないままの古いデータが自然に呼び出され、そのデータが古い事に気づいてから新しいデータを検索する感じ。

子供の頃、迷子のおばあさんを見たことがある。
所在なげに、心細げに、ただふらふらと同じ場所を歩き回るおばあさん。
後から大人達が「あそこは●さんの里があった場所だからねぇ」と話していた。
子供心に、あんな年寄りになっても、自分が嫁いで子を産み育て、妻として親として過ごした家庭より、生まれて育ててもらった子供時代の数年間の記憶が残るのか、ととても不思議な気分だった。
おばあさんの生まれ育った家は、もうそこには無かった。
記憶の中の風景を頼りに歩いていっても、目の前に広がるソレは明らかに違うソレで。
途方に暮れていたおばあさんの姿。
子供達が近所の大人を呼びに行き、その後やってきたどこかの大人に肩を抱かれるようにしてとぼとぼと帰っていったおばあさんの後ろ姿が忘れられない。

私も、あの年になったら、記憶の中の風景を探して回るようになるんだろうか。
その時、どの年代の記憶が残っているんだろう。
それはおそらく、自分が一番幸せだった年代の記憶だろう。
私は、どの風景で、何を探して歩き回るだろう。

帰省先の風景を見ながら、ぼんやり思った年末年始。


暁


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