道院長の書きたい放題

2004年03月24日(水) ◆(2)違いを考える

■「違いが分かる男」というコーヒーのCMがありました…。

少林寺拳法を格闘技と理解/表現するのは、間違いです。言い換えれば正しくありません。違いが分からないのです。

昨今の格闘技を眺めてみれば一目瞭然。いわゆる格闘技の技は相手を倒すものです。ここでいう倒すとは攻撃という意味ではなく、文字通り相手を倒すことで、打撃系ではノックアウトを意味します。

対して少林寺拳法は、相手を倒さない格闘の技なのです。このワザの中に含まれる配慮は、他の打撃系格闘技には見当たりません。ですから、少林寺拳法は試合が苦手です。相手を傷付けまい、殺すまい=倒さない、として日頃の修練で培って来た精神状態を、相手を傷付ける、殺す=倒す、とする心に、なかなか切り変えられないからです。

■格闘技は定められたルールに則りさえすれば、極端に言えば、相手が死のうが、障害が残ろうが関係が無く、対戦者には責任がありませんので、思い切り人格変換ができます。この状態が激しく出るのが、肉体をより直接打撃する種目です。

試合内容が原始に近く成ればなるほど、むしろ、そうならなければ勝てなくなります。これは恐ろしいことで、さらに負けるということは自分が傷付くことなので、恐怖にかられ、よけい相手を傷付けます=勝ちます。

まあ…、この世界を求めている人達もいる訳で、社会人やら学生やらの世界に帰れば正常人に戻られる?のが条件で、ひとつの選択肢です。ただし求めている人達の多くは、観客であることに留意しなければなりません…。

■我が少林寺拳法はいかなる時といえども、人の心を無くす状態は作りません。ですから、某県で起こった拳士同士のケンカ殺人事件は、大変にショックです(加害者の拳歴と考え方を良く調査すべきです…)。

人のことを思わなければ、人の心を無くせば、(ケンカに)強くなることは難しいことでないと考えます。

したがって、教育に寄与しようとする現代武道は厳しいルールを制定し、ワザを制限し、安全を確保し、競技者の心が正しく育つような体系化=知性化を図っています(…それとて競技偏重という問題が生じますが、今は触れません)。格闘技の原始化はその対極にあります。

私達拳士はこれらの違いをよく認識=分からなければなりません。


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あつみ [MAIL]