道院長の書きたい放題

2004年03月03日(水) ◇シュミレーション/巌流島・武蔵勝つ

■この日の(巌流)小島は柔らかい春の日差しに包まれていた。打ち寄せる波音もただただ静かで、これから繰り広げられる死闘を前の陽気とはとても思えない。大試合を見学に来られた家中の誰もがそう感じた。太陽はほぼ真上、対戦者に公平な位置にあり、砂浜は平坦にならされていた。

細川の家紋を染め抜いた陣幕を背に、藩主が一段高くなった床机に着座した。頭上には大きな日傘がかざされ、両横に重臣達が居並んだ。陣幕は左右にも張られ、小次郎に教えを受けた家臣達も少なからず座していた。正面向かいは海。試合場は、「この字」形の人垣に囲まれた長方形であった。しかし、現在の競技場よりはずっと広い。

武蔵と小次郎は左右の向かい合った幕の外に控えさせられていた。さすがに大藩が後見した試合で、万事、手配りに抜かりはない。両者は床机に腰掛け、海を見ながら開始の時刻を待っていた。水の入った手桶が傍にあり、柄杓で掬って口を湿すなどもする。控えてから小半刻が過ぎていた。従者となった弟子達は極力自然に振る舞い、身体のみを動かそうと心掛ける。

「武蔵…ワシに詭道は通じぬぞ」

数度目の柄杓を使いながら小次郎は思う。すすぎ終わったそれを、弟子が恭しく受け取った。

「我が長刀と二刀流と闘ってこその、今日の勝負であろう…」

――小次郎が一番警戒したことは、彼よりも長い剣を使う可能性であった。だから武蔵の常用する剣がそうではないと知った時点で、迷いはなかった。付け焼刃で操れるほど、長刀の操作は生易しいものではない。二刀への対策を充分に練った。

一刀に対しては勝ちが見えていた。それは武蔵も同様だったのだろう。彼が使者を介して木刀を使用するかも知れないと返答して来た時、「姑息な奴?ワシを恐れている?」とさえ思った。木刀では如何せん真剣と切り結べない。論外であった。

■「刻限でござる」と世話役の者が合図を告げた。陣幕が張られた海側から試合場に入った。周囲の視線はまず藩剣術指南役の相手である武蔵に注がれ、続いて小次郎に移った。

この時、両者は初めて相手の姿を見た。しかしまだ距離がある。藩主に一礼するために歩み寄る。小次郎の目線は武蔵の顔、全身、そして手にする木刀へと移った。

「木剣か…」

気の緩みを振り払うように、左手に持った愛刀を強く握り締めた。それは怒りの感情も伴っていた。

武蔵は真っ直ぐに前を見、といって相手を睨むような目ではなく、どこか遠くを見ているような目付きだった。二人は三間ほどの間合いを保って止まった。両者の気迫がすでにぶつかり、これ以上の距離を詰めることを拒んだのである。

「もはや、生もなく死もなし」

武蔵は全身に檄を飛ばした。藩主に一礼すると、試合の立ち合い人が「只今から佐々木小次郎と宮本武蔵の試合を行う。双方、正々堂々の勝負を為されよ」と試合の開始を告げた。

■小次郎はさらに間合いを取って長剣を抜き、左手に持った鞘を後方に勢い良く放り投げた。黒子のように、弟子が素早く拾った。そして遠間の構えから、長刀を大きく斜め上、天空に威嚇してかざした。これは闘い前の小次郎の儀式のようなもので、自らを鼓舞し、同時に小柄な身体と長剣の対比により、刀身をより長く相手に印象付ける効果もあった。

対して武蔵は、これも一歩引きながら素早く水平に構えた。一貫して相手に木刀の長さを悟らせない策を計っていた。しかし周囲の者には長さが丸見えであったので、得物の異様さに驚ろかされた。小次郎の弟子にしてみれば、「先生、武蔵の木剣は四尺を越えていますぞ」と声を掛けたかったろう…。

互いに左半身の構え。間合いを三間に戻した時、小次郎の構えは下段になっていた。さらに間合いを詰めるほどに、彼の姿勢はだんだんと低くなって行く。ついに二間の間合いを切ろうとした。

「ム…低い…」

武蔵がその間合いを嫌った。予想外の低さであった。そして低さに合わせるように木刀をせり上げた。すると小次郎も、得物の予想外の長さに躊躇した。普段ならこのまま一気に攻勢を取って勝負に行くのだが、相手の大きな体躯と合わせると、うかとは飛び込めなくなった。

「ム…相打ち…」

木刀に対する絶対有利な思いと怒りの感情は、すでに失われていた。ニ間の間合で膠着状態になった。周囲の者はこの息詰まるような状態に耐えられない気がした。無声の対決が重く圧し掛かっていた。共に真剣を帯び、戦国の世を過ごして来た者達。目の前で繰り広げられる生死を賭けた睨み合いに、ある者は口をぎゅっと結び、別の者は拳を固く握り締めて見守った。ただ、小次郎の弟子達は成り行きに不安を感じていた。「先生は…今だかつて、このような長い試合をされたことはない」…。

■小次郎が低くなった姿勢を僅かに戻す動作をした。本当に微量な動きだったのだが、その時、上空で鳶が鳴いた。なにかの均衡が崩れた。

待っていたのかもしれない。武蔵が動いた。飛び込むでもなく、一気呵成でもなく、しかし滑るように間合いを詰めて行った、と見ている者には映った。小次郎も本能的に応戦した。長刀が武蔵の左足外側の膝あたりを下から切り上げた。ところがその左足は寸前に停止し、続いて右足が後から左足を越えて勢い良く回り込んだ。同時に、左手一本が右旋回しながら小次郎の右側頭部を襲った。

小次郎の長剣が初めて空を切り、視界に上方から迫り来る木刀の切っ先がはっきりと見えた。刹那…、「ゴン!」という鈍い音が頭の中に響いた。

「片手…とは…!」

かすれ行く意識と共に、ゆっくり回転しながら仰向けに倒れた。右手には虚しく空を切った愛刀が握られていた。武蔵はすでに左構えに残心していた。呼吸が打って変わって荒い。充分過ぎる手ごたえであった。助かりはしまい…。

「それまで」という立ち合い人の声が試合場に響いた。小次郎の弟子達が「先生!」と叫びながら駆け寄り、門人であろう家臣達はうなだれていた。「手当てを!」という悲痛な叫び声。武蔵は木刀を納めながら、その方に一礼し、さらに藩主に深々と頭を下げた。

■――帰りの舟中、闘いの熱を冷ますような穏やかな風が海上にそよいでいた。武蔵はずっと無言である。試合に勝利した喜びは微塵もなく、心が晴れなかった。

「もし小次郎がワシのことを左利きと知っていたら、果たして勝てたであろうか…」

彼の長剣は、片手打ちした左手と離した右手の間を紙一重ですり抜けて行った。白刃のアゴをかすめる感触が今でも甦る。打たれた時の小次郎の驚いたような顔が哀れに思い出される。武芸者の宿命とはいえ、人を欺くことに虚しさを感じていた…。

果てしない闘いの日々が、まだまだ武蔵を待っていた――。


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あつみ [MAIL]