A Thousand Blessings
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2005年02月02日(水) |
aiko 。 中島美嘉 。 |
パソコンショップの店員の説明をひとくさり聞いた後、 「あんた、感じ悪いね」と言うと、一瞬怪訝な表情を浮かべて 「え?なんでしょうか?」とボケをかました。 「専門用語で語るなよ。最初から俺は初心者だって言ってるだろ? それにあんた早口すぎるよ。自分の知識を標準にして 語るなよ。お客に劣等感を持たせるような接客するのはやめろ。」
パソコンの知識が豊富な奴って、みんなこういう傾向があるのかな? 時代の最先端をいくことへの奇妙でちんけな誇りみたいなものが あるのかも。頭の回転は速くても、基本的にバカなんだろうね。 という風に、決め付けるのはいけないが(笑) 実際、パソコンショップの店員は過去の経験から言っても 一様に不親切で冷たい。 高学歴だかオタクだか知らないが、屁みたいなもんだ。
僕の仕事にはみなさんがあまり聞きなれない専門用語が多いのだが、 接客の際、専門用語を使うのは御法度だと先輩から教えられてきた。 専門用語を一般に通じるわかりやすい言葉に変換する能力こそが 実は一番大切なのではないかと考える。
訳のわからない難解な日本語を駆使して芸術を語るのが、 実は最も頭を使わない手抜き作業だったりするわけで。 そういう文章を書く人間とさきのパソコンショップの店員は 同種であると断言しておこう。ま、しなくてもいいが(笑)
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初めに奇異なコード進行ありき。 かつての小室哲哉がそうであったように、閃きの転調ではなく 転調のための転調が生み出す気味の悪い足かせ。 メロディは和声の中から飛び出すどころか、和声にがんじがらめにされ というよりがんじがらめにされる事にしかメロディの存在理由はない のでは?と思えるほどその芯は細く脆弱している。 コード進行に植民地労働させられるメロディー。 それはもはやメロディと呼べるものではなくて。そう、ただの音符の連なり。 aikoの新曲は想像したとおりだった。 彼女は何年間も上記のような試みを続けている。 ブライアン・ウィルソンやバート・バカラックの転調に見られる メロディ至上主義とは全くの別物であるのに世間はaikoの転調を 賞賛する。 それを個性とまで呼ぶ神経を僕は疑ってしまうのだが、どうだろうか? 新曲“三国駅”の最初の数小節を聴いて耳のスイッチを切った。 いきなりの転調を僕の脳が拒否してしまう。 彼女に欠如しているのはメロディの大らかさ。 それはつまり大きさでもある。 一筆書きのように流れていく太いメロディラインを彼女は持っていない。 持つことが、出来ない。 たとえば、ミスチルの“口笛”。 「さあ 手を繋いで〜」から「〜僕は生き返る」までの流れ。 あの感覚をaikoは表現できない。別にaikoにミスチル風のメロディを書くべきと言っているのではない。 桜井のああいうナチュラルなメロディラインから学ぶべきものが多いのではないか?と言っているのだ。 そこにさりげない転調が入ることで音楽は さらに豊かになると思う。
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でもって、中島美嘉の新曲“桜色舞うころ”。 これは、中島の声「のみ」によって名曲になりえた作品。 恐ろしく平凡な楽曲とこれまた恐ろしく平凡な編曲。 アレンジャーの武部聡はずーーっと昔から知っているが、 あいもかわらずの中庸路線で、安定感という呼び名で評価することを 僕はためらう。だって、ポップスの可能性をしっているから。 そういう意味で、2曲目に収録されたアコースティックヴァージョンの 無意味さは、武部の「分かっていなさ度」を表していると言えよう。
この曲をこの編曲で別のシンガーが歌えば、 輝くものは何もない。 中島美嘉に歌ってもらったことを作者は感謝すべきだろうな。 僕は、古内東子の編曲で聴いてみたい。 すっごく、聴いてみたい。
響 一朗
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