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■ 「ともだち」という関係性
家族(血縁)とか地縁とか、学校・仕事でかかわる人々。 ある種の必然性を持つ関係とは異なる関係をボクたちは「ともだち」とよんでいる。
たぶん、他に表現ができる言葉が見つからないからだろう。 それら全ての関係性ををひっくるめての「ともだち」は、定義としてはあまりにもてーげーさに塗れているけれども、双方ともに影響を与えてくれることは確かだと思う。
むしろ、いろんなことを変革させていくために必要だったのが「ともだち」という関係性だったんだと、今は思う。 自分だけでは何もできないけれども―まるで化学反応のように―「ともだち」が居ることで、さまざまな行動への一歩になっていたのだ、きっと。 それはまるで、生体触媒(酵素)のように反応のためのネックを少しでも和らげてくれたものだったのかもしれない。
それは、個人的なものにとどまりはしない。社会運動だって、大それたところから始まりはしない。「ともだち」という関係性の延長線上にその社会変革があったのだと、思う。
しかし。 なぜ、こんなに「ともだち」をボクたちは求めてるのだろう。
『お友だちと仲良くしましょう』 小学校時分からよく言われていたし、今でも言われていることなのだろう。
無邪気に「お友だち」になることができる人が居るのはわかる。でも、みんながみんな、そんなに「お友だち」ができるわけじゃないのだ。 大きくなっていく(それは、歳を取ることと並行していろんなことを考えるからだろう)につれて、「お友だち」を求めることのリスクもわかってしまうからだ。
それでも、「ともだち」を求めずには居られない。
一人で生きていくことはできるかもしれないし、一人で生きていくことは困難なのかもしれない。 なのに、どうして。
そう思いながらもボクは「ともだち」とのメールのやり取りや、話をすることを心待ちにしている。
疑わずにいられない関係性なんてあるんだろうか。
でも、今、とりあえずはこの関係性である「ともだち」にボクはきっと自分が思っている以上に寄りかかっているのだろうなぁとはぼんやりと思う。 まずはそれでいいのかもしれない。
2006年02月07日(火)
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