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■ 誰がために
Mr.childrenが「タガタメ」という曲を出してました。 これにインスパイアされたのか、誰(た)がためにという映画も公開されました。 つーか、たまたま購入した「ぴあ」で遭遇してしまったので>しかも、今週で公開終了@渋谷って行ってみました。
なるほど。 確かに、上手いなとは思うのですが。 思うんだけど。
おぎそんですから(苦笑)。
なーんか、勿体無いなぁと思うんです。 あるモチーフが何度も繰り返されることがあるんですが(それは、webで書かれているモノだけではない)それが上手いものとそうでないものが混在してて。 上手くいってないものは当然の如く、くどいというか、わざとらしさを感じてしまうのです。 まずそれが気になってしょうがないのです。 作為的なというものとそうでないものの差ってほんのわずかなのになぁ。
テーマ設定も上手です。はい。
そういえば、かなり感想がばらつくなという印象もあります。 ついうっかりYahoo!で検索してしまい、不安になったのですが、直感を信じて。 で、本編を見てから公式サイトの感想を見たわけですが。
すごくない? この差って。 まぁ前者はあまりにもミーハーだと思うし生きることとか☆ミステリーだね、なんて書けるその心意気−つーかその無神経さ−に頭がクラクラする、後者は後者でなんだかなぁ、と。 中間層の感想は無いのかっ!
まぁ、公式サイトの中で「フリー編集&ライター31歳 女性」のみはなんとかOKな感想だと個人的には思うのですよ。 とゆーか、他がなんか持ち上げすぎたり>まぁ、なんとかOKな感想だって最後は微妙なんだけど的外れだったり>おぎそんにとってですけど。
レビューも微妙。 こうあるんです。
・・・・・(前略)観る者に解釈を委ねるラスト・シーンも素晴らしい。(後略)・・・・
ホントに? 観る人(本だったら読み手)に解釈をゆだねるってかなり危険な行為だと最近思うのです。 全く見当はずれな解釈がこんなにも世の中にはびこっているのにそんな火中の栗を拾うようなマネをするなんて!
すべてをきれいに−ジクソーパズルのように−収まる作品である必要は無いと思うのですが、それでもやっぱりはみ出しちゃいけない「枠」はあると思うのです。 どこまでも、”自由に”とすると思ってもみなかった活用をされ、その斬新さに目を奪われ本質を忘れてしまう気がするのです。
今でも好きな山本文緒>こっそり仕事再開してますねも読者に解決を委ねるっていう手法をとりますが、実は最近イマイチなのもちらほら>いや、おぎそんにとってですよ?。 具体例はあげないけれど>あげてもいいけれども、だんだん彼女も問題提起をするだけではなく詰まりもあるだろうしそこからどうするのか−actionという意味で−を考え、それを自分でも解決していく(作中なりで)ことが必要なんじゃないかなぁとぼんやり思ったりします。
そういう作業をすることでまた彼女のステップ(ステージ)が上がるのでは、と思うのです。
でね。 この映画も同じ印象なんです。 問題提起はした、で?って感じ。 もちろん、問題提起をしたことはすごくいいことなんです。 でも、その先を観たい。製作者たちの考えをぜひとも>非難があっても見せて欲しい。 世の中は「出るくいは打たれる」だし、ちょっとでもみんなの感情とそぐわないことを主張すると袋叩きにする傾向が最近あるけど>イラクの件とかそうじゃない?それを恐れないで欲しい。 いろんな意見を引き出すための−それは望んでいるものは少数で凹むかもしれないけれども−叩き台として必要なんだと思う。 その、泥を被るっていう心意気こそに惹かれるんだと、思う。
だから、すごくこの作品(「誰(た)がために」)はおぎそんの中では中途半端な存在になってしまったように思う。
・・・残念です。
おぎそんは、敢えて火中の栗を拾ってネタにしそうなパオロ・マッツァリーノさんを応援しています!
2005年11月19日(土)
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