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■ ほっと一息の中で考えたこと
ようやく,休日。発表が続いたので,ほっと一息。 子どもの自転車の高さを直したり,メガネ店へ行ったり。 思ったことをメモしておこうと思う。
この夏参加した会では,これまでのように記録をパソコンでとることをしなかった。打つことで記録としては残るが,活用されることはまずない。何より,記憶に残らず,考えながら聞くことができない。それでは何のために行くのか,わからない。そうしてみると,レジュメや資料に線を引いたり,メモしていく方がはるかにに有効だ。斎藤孝氏の4色ボールペンの手法を,自分も取り入れようと思う。
清風中高の宇津野先生が, 『「先生は何でも知っているものだ」というスタンスから, 「先生にもわからないことがあるから,一緒に数学しよう」 というスタンスになったとき,人間としての宇津野で,生徒と接することができ,肩の荷が下りた気がした。』 と話されていた。この感覚,とてもよくわかる。 岡本先生の「生徒が数学する数学」のスタンスと同じだと思った。
テクノロジーの利用によって,数学教育の目指すものが問われていることになる。計算ができるように指導するが,計算ができる生徒を育てることが目的ではないことも,見えてくる。
テクノロジーを使うことで,連続的で多様な見方かできる。そこには発見や不思議さがあるから,多様な問いが生まれる。その問いは,作り物ではなく,本物の問いだと思う。さらに,テクノロジーを使えば,それを解決することも可能になる。 社会科では,「資料活用能力」が観点の一つになっている。テクノロジーをどう活用するのかという能力も,これからの時代では要求されるように思う。
「授業の中で,思わず生徒が数学的に活動し出した事例を記録していくといい。でも,論文を書くために授業をやっているわけではないから,なかなか難しいんだよね。」 金沢高専の佐伯先生からの言葉。
そうこうしているうちに,夕食前に電話。 おかもと塾の飲み会だったことをすっかり忘れていた。 静岡県が東大の市川氏の授業論「教えて考える授業」をそのまま鵜呑みにした提言『静岡の子どもに「確かな学力」を』をまとめ,その冊子を教員全員にしたことを問題にされていた。 行政が果たしてどこまで本気で,授業のあり方に迫ってくるのか。一教員としては,目の前の子どもたちが答えを出してくれるわけで,その中で答えを出していこうと思う。
2004年08月12日(木)
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