※大学教授過去話※ ガルデンの麻ジャケットの懐に、ひとつの鍵が入ってある。 一度も使った事の無い、真新しい鍵。 彼の住居のマスターキーである。 これ一つで、家の門から玄関のドア、車庫、物置、地下書庫に至るまで全ての主要な錠を開く事が出来るとても大事な鍵。 『受け取る事は出来ません』 不意に、大変申し訳なさそうにでかい図体を縮めながら、それでもはっきりと告げてきた男の言葉が耳に甦った。 「結局、お前の予想通りだったという事か」 ガルデンは目を細めて小さく笑う。 布越しに触れる金属片からは、あの日と変わらない重みが伝わってくる気がした。 今から少し昔……ガルデンの家が完成した日。 一切を任せた建築デザイン事務所の応接間にて、ガルデンは件の鍵を受け取った。 「他の玄関専用や車庫専用の子鍵もだけど、特にこのマスターキーは無くさない様にして」 これ一つで家の全部を丸裸に出来るんだから、と、家のデザインから何から全てを手がけた女性から重々言い含められて、手渡された鍵。 複雑なジグザグに滑らかな曲線と不規則な凸凹が噛み合ったつくりの、目にも掌にも新鮮なそれの数は、ふたつ。 「ほら」 事務所を出てすぐ前に停めてあった車に乗り込んだガルデンは、ふたつの内一つを、運転席で契約書の類を纏めていた男に差し出した。 「は……?」 紙束から顔を上げ、紅い目を瞬く男。 「判らんか、シュテル。私の新しい家のマスターキーだ」 「は……いえ、それは」 理解しておりますが、と返事をしながら、鼈甲ぶちの眼鏡を外す。 いつに無く歯切れが悪い彼……シュテルの態度に、ガルデンは鍵を差し出した姿勢のまま、少し不審そうに眉を寄せた。 シュテルはガルデンの目付け役である。 ……その実は、仕事にかまけて寝食住の生命維持活動(略して生活)を疎かにしがちなガルデンの世話係だが。 ガルデンが「実家」に居た頃はそれこそ影の様に付き従い、其処を出てマンションで一人暮らしを始めてからも、何かと彼を助ける為に頻繁に出入りしていた。 生きていくからにはやらなければならない面倒な掃除炊事洗濯、街で暮らすからには踏まねばならない煩雑な諸々の手続き、時には日々の糧を得る為の仕事のちょっとした助手までこなす万能執事。 主であるガルデンの言葉には逆らった事の無い、忠実な僕(しもべ)。 それがシュテルという男――――― ―――――だったのだが。 「……出来ません」 しばしの後、シュテルは呟いた。 「何?」と益々眉を寄せるガルデンに「申し訳御座いません」と身を縮め、頭を低くしながらも繰り返す。 「受け取る事は出来ません」 そして大きな手で、鍵を差し出す主の華奢な手をそっと押し返す。 「―――――どういう意味だ?」 困った様な声。 シュテルもまた(主にしか判らぬ様な)困り果てた様な表情を浮かべ、緩く首を振った。 「その鍵は、わたしの鍵ではありません」 だから受け取る事は出来ません、と言って項垂れる。 項垂れたいのは私の方だ。 ガルデンは思った。 何故急にこんな事を言い出すのか判らない。 実家を出て以来、何処かに転居する度に、世話係であるシュテルにも其処の鍵を渡してきた。 渡されたものをシュテルは必ず受け取ったし、しょっちゅう使ってもいた。 お互いにそれが当然の事だと思っていたのだ、今までは。 「―――――今までは」 ガルデンの考えを継ぐ様に、シュテルは口を開いた。 「今までは、ガルデン様のお住まいはわたしが在っても構わない場所でした。 わたしは頂いた鍵を、何の躊躇いも無く使う事が出来ました。 けれどこれからは違います。……違う、と、思ったのです」 口が上手い方ではない男は、それ故に一つ一つ自分の言いたい事を整理し、考えながら訥々と言葉を繋ぐ。 「ガルデン様は、何故今までのマンションを出、こんな立派な家を建てられたのですか」 契約書に目を落とした僕からの不意の質問に、主はふっと思考を巡らせた。 前のマンションに不満があった訳ではない―――――清潔で広くて安全で便利で、寧ろ満足していた。 ただ、このままでは増え続ける蔵書が収まりきらなくなりそうだったとか、緑が多い土地に惹かれたとか、職場での地位が助教授から正式な教授になったのを機にそろそろ一所に住居を構えようと思ったとか、たまたま手元にまとまった額の金があったとか、友人の友人に素晴らしい建築デザイナーが居たとか――――― ……何故かどれも言い訳じみた理由に思え、ガルデンは額を押さえた。 何故私は、此処にこんな家を構えようと思ったのだろう? 「判らない―――――が、」 それでも、此処に家を建てよう、と思った事は確かで、揺ぎ無い事実だった。 言ってしまえば、 「建てたかったから、建てたのだ。 私の、『家』を」 シュテルはその答えに、ごくごく小さく笑う。 自分もまた確かな答えを見つけた、という、何処か安堵した様な笑い。 「思うに、その時が来たのでしょう。 ガルデン様が、ガルデン様の『家』を得る時期を」 「…………」 「今までは」 と、話は質問の前に還る。 「ガルデン様がいらした所は、ガルデン様の『家』ではありませんでした。 お館様のものであったり、マンション管理者から借りたものであったり…… 故にわたしも、不躾に遠慮も無く其処に立ち入る事が出来ました。 けれど、この家は違います。 この家は他の誰でもない、あなた様御自身のもの」 膝に散らばっていた契約書を再び纏め、鞄にしまって。 「その『家』の全てを開くマスターキーを受け取るのは、わたしなどでは無い筈です」 シュテルは、今度は真っ直ぐ主を見詰めた。 「いずれ、本当にその鍵を渡したい者を、ガルデン様は見出されるでしょう。 それまでは大切に保管なさっていて下さい」 ……それに、 ……『その時』になって「鍵を返せ」と命じられるのは、辛いので。 「―――――シュテル」 ガルデンは、何をどう言うべきか迷い、考えて、結局口を噤んでただ頷いた。 握り締めていた手を開くと、其処には結局貰い手の見つからなかった真新しい鍵。 柔らかで澄んだ光沢を放つそれをそっとジャケットの内に仕舞うと、シュテルは目を細めて頭を垂れた。 「折角の御好意を無にした上に、差し出た事を言い、申し訳御座いませんでした」 言葉は殊勝だが、含む響きは満足気である。 ガルデンは片眉を上げ、助手席に座り直しながら呟いた。 「この鍵は渡さんが、暫くはお前に暇を出す気は無いぞ。 何せ、引越しは未だ全く進んでおらんのだ」 「あなた様に召喚して頂けるなら、わたしはいつでも、どうやってでもその御傍に参ります」 そう、これからは、従者が命無しに主のテリトリーを侵す事の無い様に。 そして主が己のテリトリーを易々と開く事の無い様に。 「家だけでなく、小言と制約までついてきた。……重い鍵だ」 ガルデンは苦笑し、早速下僕に命を出した。 「荷物の搬出搬入、必要なものの吟味と購入、諸々の手続き…… それらには是非ともお前が必要だ」 判るな?と問えば、彼はすぐさまシートベルトを締め、外の夕日より赤い目をサングラスで隠しながら、 「無論です、ガルデン様。 全てこのシュテルにお任せを」 口端を微かに吊り上げて笑い、諾と深く頷いたのだった。 「……何をぼんやりしてるの?」 背後からの柔らかな声に、意識を現在に引き戻す。 「ああ……」 少し考え事をしていた、と答えながら、ガルデンは体をそちらに向ける。 いつもの駅の噴水前、彼女は走って来たのを隠す為かいつもより澄まし顔で、アメジスト色の瞳をこちらに向けている。 ……どんなに澄まして見せたって、その瞳の輝きと頬の桃色を隠せはしないのに。 思わず口元を緩めるガルデンに、彼女は「何よ」と膨れて見せた。 「いや、……其処の喫茶店でも入って少し休んだ方が良いかと思ってな」 「……もう」 渡したいものがあるからって急に呼び出して。 その癖そうやって焦らすなんて、ほんと意地悪で陰険よね、と非難の言葉が飛んでくる。 そんなつもりではなかったと弁解してももう遅い。彼女は学校指定の重い鞄をガルデンに放り、「ケーキのフルコースなら機嫌直しても良いわよ」と、先に立って行ってしまう。 「……仰せの侭に」 鞄を受け取ったガルデンは、騎士さながらに呟いて笑い――――― 今はまだ真新しい「渡すもの」を取り出しながら、どんどん小さくなる若草色のお下げ髪を追い掛けていった。 ――――― 文中の「素晴らしい建築デザイナーの女性」はキリオさんです。 たった一人であんな船を作る事が出来るスーパー匠。 ビフォーアフターも目じゃない。
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