ゆうの赤裸々日記
ひすいちゃんによる姉妹日記
思いつくことをそのままに

2001年10月30日(火) 講義と授業


講義:書物や学説の意味を説き教えること。また、大学の授業
授業:学校などで学問・技術などを教え授けること。

…今、大学の授業の活性化が叫ばれている(らしい)。
その一環なのか、2週間ほど前から、2人の教授が、講義時間中に学生を当てるようになった。
…意味がない、はっきり言って。
しかも、その二人の教授の似ている点は、どちらも、(特にM)高圧的態度、偏見満載で話す。
Mは、女性に対して、それこそ、半世紀前のような偏見を持ち、事あるごとに女性を敵視する。
Uは、何だか知らないが、説教くさい。
当然、講義時間は、二人とも、その説教だかなんだか知らないが、無駄話でつぶれ、どんどん遅くなる。やめてくれ。

と思っていたら、今日、別のN教授が、学生からの意見を取り入れ、授業で話す速度を、少し遅目にしようと心がけていた。
ありがたい。と少し思った。


さて、(といきなり話題を変えるのもアレだが)そもそも、大学において、講義を活性化するというのは、どう言うことだろう?と考えてみる。
自分も含めて、講義時間、ざっと学生を見渡せば、大体の生徒が、寝てる、自習、遊んでいる。ウチの大学は、学部がら出席が厳しいので、みな講義には「出席」しているが、「参加」はしていない。
ひたすら、教授が喋りつづけ、学生は、板書がたまるとノートを取る、教科書に線を引く、その程度だ。
アメリカのように、少人数制のディスカッション形式でもなく、(因みに、講義は150人くらい一度で行われる)小学校、中学校、高校、塾とほぼ同じ、「受身」講義なのだ。
その形式にあって、どうして活性化できるのか、と思う。

…少し時間を戻してみると、小学校の時、特に4年生くらいまでは、授業中、「手を上げて」と言われれば、少なからずとも、手があがった記憶がある。
それが、5年生にもなると、その傾向は少なくなり、中学に入ると、逆に「授業中は静かにしろ」と言われる。
ここで、生徒が、授業に参加しなくなるきっかけが生まれる。
そして、教師は、授業では、自分が決めたように生徒を当てていき、その流れに逆らう生徒には、(出来れば問題はないのだが)結構なことをしてくれていた。
あてられてから、答える、と言うことを6年(中学、高校)と続けてこさせられ、更に、塾でも、知識を埋め込まれる、と言う作業を繰り返してきた18、19の学生が、大学に来て、「さぁ、答えろ」と言われて、素直に答えるのだろうか?
12年前の、あの子供っぽいところはもう無いのだから、「分かる人、手を上げて」と言われても、「何であんなあほみたいな事」と思うのが、大部分かもしれない。また、手を上げる=良く出来るという、またこれも、わけのわからん公式に乗せられ、やっかみの対象にもなる、というので、手を上げるのが、何となく、いやだと思う。

そして、そもそも、大学と、塾(授業と言う意味で、年代が一番近いので)とでは、セールスポイントが根本的に違う。
塾はもともと、「学習すべき内容」をどこまで理解させるか、と言う事を重点においているので、塾においての商品は、まさに「授業」そのものなのだ。
だから、塾の講師は、いかに生徒に理解させるか、いかに少ない時間で、効率よく情報を提供できるか、日々努力している(のを俺は、間近でみている)。
対して、大学では、そもそも授業は売り物ではなく、あくまで教授、学生の「研究」が売り物ではないか、と思っている。
教授はあくまで、自分の研究のみに没頭していて、学生への講義も、自分のわかる範囲の事を、マニアックに話すだけなのだ。

つまり、「授業」の主体は「教えられる方」に重きがあって、「講義」の主体は、「教える方」に重きがあるのではないか。と思う。


毒を吐くと、「大体、マニアックな人間が、教職を受けてきた人間を同じように、他人を教育できるなんて、思うな。そんなこと出来るなら、教育大学なんて必要ねーし、あほな教師も生まれねーよ。教師が阿保やる時代に、教授が教育なんて、出来ねーよ」。

因みに、ウチのばぁちゃんの一言。
「大学教授が教育なんて、出来ないね」。
ウチのばぁちゃん、小学校しか行ってない(はず)。
そのばぁちゃんに言われた、(当時)早稲田、慶応の教授達…
あれから半世紀。
何か変わったのだろうか。


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このテーマ、しばらく引きずります。(爆)
偏見満載ですみません。


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ゆう [てがみ] にんめ。

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