Leaflets of the Rikyu Rat
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2006年09月13日(水) |
私の目は被害者の目 私の手は加害者の手 |
我が家の犬が死んだと言う連絡が母親から届いた。 午前十一時半、こんこんと眠り続けていた最中に鳴り響く受話器は僕を不機嫌にした、そんな時間まで惰眠していた自分を責めることも無く。 犬が死んだと言う報せは僕を眠りから完全に覚ました。 僕は「死」と言う言葉の威力をそれによってやっと思い知る。
正直に言って悲しみはそれ程湧かない。 在るのは喪失感だけ。
我が家の犬は僕が小学五年生の頃にやってきた。 父親がある日突然貰い受けたのだった。 「かわいかった」「誰も貰い手がいなかったら最終的には殺される」 ありがちな理由だった。 小さい頃どれ程自分が犬を飼いたいを言ってもダメだと言っていた癖に。 と僕は深く根に持ち続けた過去を追憶し反芻する、 しかし目の前に佇む犬の愛くるしさに相好を崩すのだった。
僕はペットを飼うべきではない人間である。 何故ならば僕は彼らを投げ出したくなるからだ。 一時の愛情を注ぎ満足し飽きてしまうからだ。 僕は人間以上に彼らに対して興味を抱き続けることが出来ず、 面倒を見続けてやることも出来ず、 また彼らも人間と違いひとり(いっぴき)で生きて行くことが出来ない。 放って置いたら死んでしまう、僕はそうして幾許かの小動物や昆虫を殺してしまったことがあったのだった。
そんな僕にとって、その我が家の犬は僕にとって最後のペットと決めた犬であった。 最後なのだから出来る限り面倒を見ようと決めた犬だった。 結局覚悟した割に大した責任を果たすことも無く僕は自身の信念の弱さに呆れることにもなった。 親に散歩に連れて行けと言われ嫌々と外へ出る僕、そんな僕を見て尻尾を振る犬、この犬は何も悪いことなんてしていないのだった。
ひとを悲しませるのは思い出だ。 他者との時間の共有だ。 契機となる出来事が起こり、ひとは過去を振り返らざるを得なくなる。 僕は嫌々行動してばかりであったけれど、けれどそんな僕の行動でも喜んでくれた犬が愛おしかったし哀れにも見えた。 もっと丹念に世話して上げられるひとのところへ引き取られていればずっとずっと幸せになれたのに、と思った。 そもそも犬に幸せだなんて概念が理解できるのかも良く分からない、 そんなことを思う暇があるのなら何故もっと世話をしなかったのだろう、けれど嬉しそうに尻尾を振る姿は今も目に焼き付いている。
今日、田舎にある祖父の遺した小さな山に埋葬しに行くとのことだった。 実家に帰ったら祖父の墓参りと共に我が家の犬の墓にも行こうと思う。
(題名は鬼頭莫宏「なるたる」より引用)
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