Leaflets of the Rikyu Rat
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2006年07月17日(月) 一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。

 彼と付き合っていて何よりも良かったと思うこと。
 それは僕が家族を大切にしなければならない、しなければならないではなくて大切にしたい、と思えるようになったことだ。
 奇しくも、彼はそんな僕の心の変化には気が付かなかったようだ。少し残念だけど。
 もちろん、僕の心中におけるそのような些末な変化では彼の理想とは程遠かったのだろうとは思う。
 しかし僕が何よりも良かったと思えたそのことと、彼の僕に対する見限りの原因が同じであるだなんて、何て皮肉なのだろう。

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 僕は小さい頃から父親が大嫌いだった。
 そしてそのような父親に愛情を注ぐ母親が嫌いだった。
 気性の荒い父親。すぐに殴る父親。酔っ払う父親。発言が矛盾してばかりな父親。

 「ここは俺の家だ。嫌なら出て行けばいい。」
   
 何も知らない世間知らずな子供だった僕がどこへ行けたと言うのだろう?出て行けなかった僕は甘えていたのだろうか?

 全てが俺様な父親が僕は昔から大嫌いで、小さい頃の目標は口で父親を負かすことであった。
 高校生になりようやく僕が父の矛盾をつけるようになったら、父親は上記の発言を繰り返した。嫌なら出て行け。それでも口答えをすれば手が飛んでくるのだった。
 
 僕は悩みがあっても決して親には話せなかった。
 何故ならば、母親への言葉は父親への言葉であることを意味したからだ。
 母は必ず父へ告げる。
 それは必然であり、僕はこの事実ほど「必」と言う字が似合うものを知らない。
 そこに防波堤は一ミリメートルたりとも存在しなかった。
 己の子供のことは全てを父親に曝け出す。それは母親の信念のようでもあった。
 僕は何があっても父親にだけは悩みを告白したくは無かった。それが僕の誇りだった。すがりつける、唯一の、ちっぽけな誇り。

 「大学は勉強するところだ。嫌なら働け。」

 勉強は勿論する。けど、それより大切なものがあるのでは無いか。
 受験生の僕は父と激論した。
 将来のために、大学には行きたい。 
 しかしその時僕はそれ以上に人間に対する興味が溢れていた。むしろそれしか無かったと言っても過言ではない。
 いろんな人間と会話し、いろんな人間のことを知りたかった。
 勉強よりも何よりも、出来る限りひとと触れていたかった。
 まともに考えれば今は勉強すべきとき。
 そんなことは分かりきっている。
 けど僕は今、まさに今、したいことがあるのだ。どうしてもしたいことがあるのだ。何を失っても良いから、したいことが、あったのだ。
 それはそのときの僕に決定的に欠けていたものだった。そのことに僕は気付いてしまったのだ。
 そのようなこと、父親には言えなかった。

 「大切なもの」と言う言葉で暈す僕を、父親は正論を掲げ僕を威圧した。
 「うちの高校は全員が大学を受験するのだ。うちの高校はそのための高校なのだ」
 最早そのような屁理屈しか言えなくなった僕を、

 「それならお前が最初の例を作れ」

 父は一刀両断するのだった。
 
 それから僕は両親を欺き続けた。文句を垂れつつも両親の言うことは大抵守った。親に手を上げたことも一度も無い。良い子であろうとした。良い子であるように見えるための努力をした。そして良い子であるために自身を欺き両親を欺いた。良い子であること、それは耐えることと同義だった。

 そして結局僕は耐え切れず、自分に正直に生きることを選んだ。

 高校三年になってから僕はほとんど勉強しなかった。成績は下がり続ける一方だった。両親は初め激昂し、そして呆れ、父親は僕の顔を見れば機嫌が悪くなり、母親は予備校のパンフレットを漁った。せめてもの救いは当時の担任がそんな僕のことを理解してくれたことであった。
 大学には受かっていた。センター試験の点数がだいぶ良かったのだ。それでも、合格者一覧に掲載された己の受験番号をネットで調べたときには驚いた覚えがある。本当に勉強しなかったのだ。父親には「それ去年の番号だぜ」と揶揄され一瞬殺意を覚えた。しかし間違いなく今年の合格者番号だった。
 受験なんてこんなもんなのかと思った。(おそらく真面目に僕の大学を受験したひとから見れば、僕は最低な人間だろう。)(しかしその後“ツケ”が回って来たのか、当然僕自身の行いのせいなのだが、今の僕は無職街道マッシグラである。その話は今は置いておく。)

 一人暮らしを始めてから変わったのは僕よりもむしろ父親だった。

 大阪へ移って三年目の僕の誕生日。風呂から上がれば留守電が入っていた。祝いの言葉だった。耳を疑った。まさかこのようなことが起こりうるのだろうか。起こって良いことだったのだろうか。しかもそれだけでは無かった。
 暫くして、保険証の更新があるからカードを送れと母親から連絡があった。(このような事実は僕が両親に扶養されているのだと自覚させる。)
 カードを送って数日後、更新された新しいカードが送り返された。カードは白の厚紙に貼り付けられていた。その裏には現金が五万。無造作に書き殴られた「うまいもんでも食え」と言うメッセージ、そして父親の署名があるのだった。

 結局僕は「うまいもん」など何一つ食わず、気付けばその金は生活費として日々の支出の中で消えて行った。
 僕には父親が急に手の平を返したように思えて不思議でならなかった。不思議に思うと言うよりも、むしろ戸惑った。急に返された手の平によって、僕自身が抱いていた父親に対する感情を無かったことになどされるのだろうか。無かったことになどしてしまって良いものなのだろうか。
 消えて行った金とは対照的に、僕の中ではもやもやとした想いが募るばかりだった。
 
 他にも様々な遣り取りがあった。
 そのような出来事を時折思い出したように彼に話をすれば、彼はいつもこう言うのだった。

 「父ちゃんは啓介のことが好きなんやって。絶対そうやって」

 彼はさも、「子供のことを愛さない親などいないのだ」とでも言うかのごとく僕にまくし立てた。
 子供を捨てる親はいる。
 僕は悩んだ。

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 彼と二年半付き合って、僕が最も影響を受けたのは彼の家族観だ。
 それは初め忌むべきものとして僕の目に映っていた。
 けれど今は違う。そしてそのことに関しては、僕は誰よりも彼に感謝している。
 
 そんな彼と別れることになったのは本当に残念だけど、そのことに関してどうこう言う気はもうしない。

 別々の方向へ進むことにはなったけれど、僕はこれからもしっかりと歩いて行く。歩いて行かなければならない。


 (題名は新約聖書ヨハネ伝第十二章二十四節より引用)


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