Leaflets of the Rikyu Rat
DiaryINDEX|past|will
“立ち込めていた霧が急速に晴れてゆくのを感じ”はしたものの、 心の中にある蟠りが完全に除かれたわけでは無く、 そこに残った小さなかたまりのようなものは不定期に僕を襲い、苛々とさせる。
現在の己の気持ちを固めるために、過去に読んだ本を再読している。 必ずしも以前読んだ時に感じた情が喚起されるとは限らないが、 少なからず僕が欲している形を与えられるのでは無いかと思ったのである。
すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。 イェーツが書いている。 In dreams begin the responsibilities――まさにそのとおり。 逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。(村上春樹「海辺のカフカ」)
想像力の無い人間は己の犯した罪の深ささえ気付かない。 相手をどれだけ傷つけどれ程の仕打ちを下したのか、理解すらできないのだ。 (とりたてて僕が酷い仕打ちを受けたと言う話では無い。一般論としての話である。)
「差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、 それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。 だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。 ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。 T・S・エリオットの言う<うつろな人間だち>だ。 その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、 自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。 そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。 つまり早い話、さっきの二人組のような人間のことだよ」(同上)
彼(FTMTGとして作中に登場する“彼”)は「僕はそういうものを適当に笑い飛ばしてやりすごしてしまうことができない」と言う。 笑い飛ばすことができない彼は真っ向から相手を批判する。論理的に。 僕は“笑い飛ばしてやりすごしてしまう”ことができるほど大人でも無いし、 真っ向から相手を批判できるほどの弁論術も有しない。 だからうじうじと悩み、本を読み、共感し、納得し、日記を書き、己の気持ちを確かめるのだ。
せめて苦しまずに済むように。
|