Leaflets of the Rikyu Rat
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2006年01月16日(月) |
boundary personnel |
ひとは他者と時間を共有することによって知人から友人へ、そして親友であったりあるいは恋人となったりもする。 そこに時間の共有は不可欠であり、また基本的に共有された時間の長さに比例してお互いの絆は強くなる。 気付けば僕は彼と二年ほどの時間を共に過ごしており、従って僕と彼との関係も少しずつ変化していることは疑う余地が無いと思われる。(良い方向に変化していると思う。おそらく。)
外(他者)と内(身内)の境界線はどこに引かれているのだろうか。 彼はいつの間にか(僕の意識の中で引かれていた)線の内側へ入って来ていた。 そのことに気が付いたのはつい最近のことで、そして僕はとても驚いた。
僕は僕を冷徹な人間であると思っている。 自分だけが良ければいい、という訳では無いけれど、自己と他者との間に線を引き、その上にバリケードを築き、これ以上は入ってこないで下さい、と丁重にお断りしているのだ。 無理して入ってこようとする奴がいたら、僕のすべてをかけて抵抗する。 何故ならそこには僕にとって大事なもの、重要なもの、かけがえの無いものすべてが詰まっていて、そこだけは誰にも侵させるわけにはいかないからだ。 そのテリトリーだけは何人たりとも踏み入らせない。 その上で、節度あるお付き合いをお願いするのだ。 できる限り平和に、誰にも迷惑をかけない・かからないように、楽しく、穏便に。 だから、誰かが何か失敗をしても可哀想だなあ、と思うことはあっても本当に心の底から可哀想だとは思っていないのだと思う。 何故ならその誰かは僕の引いた線の外側にいるからだ。 僕は無意識にその線を引いていて、無意識にその領域を堅守し続ける。 そこでは友達だとか、親友だとか、恋人だとかいうのは中身の無い、ただ便宜的に定義された言葉に過ぎないのだ。
彼は医師で、毎週決まった曜日に手術をする。 その日は手術日の前日だった。彼はぽつりと「明日の手術嫌やなあ」と呟いた。 どうやら翌日の手術は難しいケースのもので、あまり自信が無いらしい。 自信が無いんだったら大きな病院で手術して貰ったらええんちゃうかと聞いてみたら、 それでもこれまでに患者さんとの間に築きあげてきた信頼関係によって患者さんは自分を信用してくれているし、出来る限りのことはしたいと答えた。 そんなら出来る限りがんばりや、と送り出したのだった。 結局、彼は手術に失敗した。後の処理に追われ、気落ちしていた。 勿論事前に難しい手術であること、成功率は低いことなどは患者に承諾の上のことであったのだけれども。 彼は臨床が非常に得意で、勤めている病院の中では手術が一番上手であることは自他ともに認めている事実のようで、なので、彼が失敗するということは誰にもできないということなのだ。と僕は慰めた。 失敗した他者を慰めるのは当然のことだ。けれど、心を籠めて慰める、という行為は難しいと思う。 心を籠めて何かをするのは本当に難しいことだと思う。 慰めながら、僕は僕が彼を(心から)慰めていることに気が付いて驚いた。バカみたいだけど、バカみたいに驚いていた。
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