2013年10月24日(木) |
第三章 山間の町 2202年 春 (1) |
第三章 山間の町 2202年 春 (1)
桜の開花が待たれる四月になっても、山間の町はまだ春浅く、遅咲きのしだれ梅や紅梅がやっと咲き始めたところだ。
白梅は木によっては早く、二月頃からちらほらと咲き始めるが、この山間の町が梅の香りにすっぽり包まれるようになるのは三月も末の頃だ。
その白梅にちょっと遅れて咲くのが、ぽってりと重量感のある花をつける八重咲きの梅だ。
この町の殆どの家の庭には梅の木があるが、その中でも八重咲きの枝垂れ梅は花の一つ一つがポンポン咲きの小菊のように大輪で、薄桃色の花傘の様に枝を放射状に広げた様は思わず息を飲む程の素晴らしさだ。
細かい花を枝一杯につけて燃え立つような紅梅も必ず一本か二本は白梅と並んで彩りを添えている。
その庭の外側には自生に近い野生的な白梅が随所にある。 自然の中に溶け込む様にあるがままにまかせ、枝の刈り込みなど一切しない扱い方が伝統になっているのだ。
そして、山と川とが複雑に入り組んで、くねくねと曲がりくねった細道や石垣、崖や丘などが梅の木の風情をより一層引き立てていた。
白梅は細い梢の隅々にまで花を付け、長い年月を風雪に耐えてきた樹木だけが持つ生命力を静かに湛えて、緑に茂る杉と赤茶に紅葉した檜の山々を背景に、白無垢のうちかけの裾をひいて佇む花嫁の様に咲いていた。
川は蛇行しながら西から東へ流れ、数千年の歳月をかけて深い谷を刻み渓谷を形作っていた。
町をぐるりと取り囲んでいる山々の連なりを見ると器の底のように閉鎖された感があるが、西の山々を深く深く分け入れば、やがては大菩薩峠を経て甲府へと出ることができた。
道は遥かに彼方に続いていたが、川の流れは北と南とに分かれ、その源流はその重なり合う山々の奥に消えていた。
町の東に狭い川の流れ口(谷)が唯一あり、道路も線路も川と一緒に束になってその谷沿いを東へ出て行っていた。
その道は昔は名のある古道で、今も街道として遥か東京の中心部まで続いている。 また、この町を始発駅とする旧式の鉄道が東京郊外まで走っている。
嶺岸茜(あかね)は渓谷のすぐ側の梅林の奥に住んでいた。今日は十時過ぎまでゆっくり寝ていたのだが、窓のカーテン越しに差し込む強い日差しが眩しくて、やっと起き出したところだった。
頬に纏わりついた後れ毛を指に絡めて後へ掻き揚げ、背中まで掛かる長い髪を無造作に一つに束ね、絹の造花を花束にした飾りが付いた金のバレッタでとめた。
カーテンを引き開けると、やっとほころび始めた枝垂れ梅の枝の間からさし込む日の光が目にしみた。
澄んだ大気いっぱいに光が飛び散って、辺りの空間が輝いて見えた。庭木の向こうに乳白色の梅林が見通せる。
戸棚からコーヒー豆の袋を取り出すと、テーブルの上にコーヒーミルを置き、豆を一握り入れてハンドルを回し、ごりごりと挽き始めた。
茜はゆったりと時が流れて行く休日の朝のコーヒーはこれが一番だと思っていた。挽きたての豆をフィルターを置いたドリッパーに移し入れ、耐熱ガラスのポットの上にのせた。
傍らの電気ポットの熱いお湯を注ぐと俄にコーヒーの甘い香りが部屋中に漂い始めた。茜は入れたてのコーヒーを大ぶりのカップに注ぎ、お気に入りの窓辺のソファーに腰掛けてゆっくりと飲み始めた。
ほっとリラックスした気分で庭を眺めていた茜の視界に何か見慣れない物がちらりと動いた。
「野鳥かしら」
梅林の奥にほんの一瞬見えて、おやっと思ったが、野鳥の種類は多く、めったに見られない珍しい鳥も姿を見せるのだ。
窓の側まで寄って梅林の木々越しに視線を走らせていると、重なり合った枝の間に、再び何かがひらりと飛んで、直ぐ姿を消すのが見えた。
「やっぱり小鳥、でも……」
茜はその小鳥が余りに鮮やかな色だったので驚いた。最初に見えた小鳥は白っぽかったのだが、今見えた小鳥は鮮やかなトルコ石のような水色だったのだ。
彼女は急いでコートを羽織り庭に面したガラス戸を開けて庭へ走り出て、足早に庭を抜け満開の梅の梢を見上げた。
梅林を風が吹き抜けて、梅の香が辺りを包んだが、茜の不安そうな鋭い眼差しは花どころではないといった様子だ。
また鮮やかな青い翼の美しい小鳥が梅林の枝から枝へ飛び移り花影に消えた。
「あっ。やっぱり高水さんの小鳥」 「大変。」
茜の表情に緊張が走った。
「どうしよう……」
小鳥が姿を消した方にそっと足を忍ばせて近づいて見ると、黄色や黄緑や水色などの鮮やかな色のセキセイインコが数羽枝から枝へ飛び回っていた。
「ああ、何てことなの、こんなに沢山。」
その情景に思わず仰け反った茜は暫らくその場に立ち尽くした。小鳥を見詰めながら首を横に振って声を詰まらせた。目の前の情景を受け入れ難いというように、暫し両手で顔を被った。
だが、茜は重大な事を思い出し、はっと息を飲んで身を翻した。梅林を突っ切り畑の脇の細道を走り抜け、山寄りのつづら折に続く急な上り坂を何度も躓きながら登って行った。
身のこなしの軽い茜でもさすがに息が切れて足が重くなり、登り切って高台に上がった時には足元が大きくふらついた。更に雑木林の中にだらだらと細い坂が続いていた。
林を抜けるとちょっと開けた場所に出た。 けやきの大木が二本立っている際の道を進むと、やがて大きな屋敷が藪の様に生い茂った庭木の奥にちらりと見えた。
一面に苔むした背の高い御影石の門柱が、置き去りにされ忘れられた物の様に藪のなかに立っていた。
細い石畳の小道が緩いエス字を描く様に続いていたが、深い茂みがその両側から迫って進入者を拒み続けていた。
見事な庭園だったのだろうが今は荒れ果てて藪に埋もれていた。ツルバラを這わせたらしい大きな金属製のアーチが黒く錆付いて倒れ、つる草の虜になっていた。
その屋敷は渓谷を望む高台に建つ古い洋館で、ずっと昔には手入れの行き届いた広い庭園が建物の周囲を取り囲み、池に睡蓮や菖蒲が咲いていたそうだが、今はその池も埋もれていた。 この屋敷の主高水奈津子は長い人生を独身で通し、既に九十代半ばを越えていた。彼女の小鳥はセキセイインコばかり十羽程だが、古いガラス張りの大きな温室に飼っていた。
以前は色々な種類のセントポーリアや大輪咲きのベコニアや色とりどりのカトレアなどが溢れる様に咲き誇っていたが、今は見る影も無い。
その代わりに枝打ちした雑木の小枝を適当に数本立て、それに適当な小枝で横木を渡して、小鳥達の止まり木にしていた。
餌台にしている傾きかけたテーブルの傍らに椅子を一つ置き、ゆっくり腰掛けて小鳥の世話を楽しめるようにしていた。壁際には小鳥のねぐら用に木箱を幾つか積んでいた。
温室は南側の庭に面した居間とサンルームを挟んで繋がっていた。サンルームは南側へ半円形に迫り出し、天井には色鮮やかなステンドグラスが一面にはめ込まれていた。
まるで咲き乱れるツルバラのアーチの中に居るような贅沢な部屋だった。自然光の明るい日溜りに籐の椅子と丸いテーブルが置かれていた。
そのサンルームの奥の広間には食事用のテーブルと、大ぶりの総革張りのソファーのセットと、古ぼけたグランドピアノが、丸いコーヒーテーブルを中心に囲む様に置かれていた。
ディナーテーブルを置いていた隣の食堂を模様変えして、ベッドを置き寝室に使っていた。 階段を上り下りするのが大変なので、大分前から二階の方を使わずに一階だけで生活していた。
玄関の側の北側の部屋は昔は泊り掛けの来客用にしていたが、今は毎日通って来るヘルパーの控え室にしていた。
屋敷の西の角に父親の書斎があった。壁一面に書棚が並び本がぎっしり入ったまま何十年もそのままになっていた。
二階の一室には母親が絵を描いていたアトリエがあり、イーゼルの上に描きかけのバラの花の絵が乗ったままになっていた。
絵筆は絵の具がついたままパレットの上に乗っていた。油絵の具のチューブも机の上に出したままになっていた。
バラの枝らしい枯れた小枝がサイドテーブルの上のクリスタルガラスの花瓶にからからに干からびて折れ曲がって入っていた。
その部屋だけは時が止まったまま何十年もの間変わらずにあった。ただ朽ち果てた小枝だけが時の流れを確かに刻んでいた。
母が急死した時、奈津子は仕事でずっとヨーロッパに行っていた。重要な仕事を放り出して帰国し母を弔ったが、彼女に与えられた日数はたった一週間だった。
最愛の母を亡くした悲しみが少しも癒やされないまま日本を離れて行かなければならなかった。 独り残された父は突然の妻の死を受け入れる事ができなかった。アトリエをそのままにして、まるで不在の妻の帰宅を待っているかのようにして数年を過ごした。
やがて心臓発作で倒れ、長い間病院のベットで孤独に暮らし、静かにその人生を終えた。父の葬儀の後、奈津子は屋敷を閉めてそのままヨーロッパに旅立ち一人転々と渡り歩いていた。
奈津子が急に日本が懐かしくなり、仕事を辞めてこの家に戻って来たのは、四十代の半ばを過ぎてからだった。
家の主が不在の間に荒れてしまった庭を直し、再び池に水を引いて睡蓮や菖蒲を植え、花壇に花を植えて、長い年月を費やして広い敷地全体を見事な花園にした。
やがて年月が流れ、奈津子の体に老いが重く圧し掛かり、庭仕事は殆どできなくなった。それから更に二十数年が過ぎた。
奈津子は日頃から自分が死んだら小鳥達を野に放してやって欲しいと人に頼んでいた。 また、己の最後の時を悟ったら小鳥達を自ら野に放すつもりだと、事あるごとに言っていた。
その彼女の小鳥達があの様に沢山梅林に放されているという事は正にその時が来たのを告げていた。
茜は急いでここまで走って来たのだが、門の前でぴたりと足が止まってしまった。事の重大さが今更ながら茜には怖いのだ。
「ああ、どうしよう。誰かと一緒に来れば良かったな。大変な事だっていうのに。」
そう言いながら茜は暫く庭の奥の家を見ていたが、
「やっぱりだめだわ。一人じゃこれ以上進めないわ。」
と弱々しく呟くと、幽霊の様な門柱の前を通り過ぎて、垣根の外まで庭木の枝が溢れ出ている脇道を走り出した。
茜は奈津子の家の垣根沿いに続く道を走りながら、臆病風に吹かれて呼び鈴も押せず、声も掛けずに逃げる様に通り過ぎ、こんな道を当ても無く何処かへ走っている自分が情けなかった。
うねうねと曲がりながら続いた道はやがて突き当たって右に折れていた。茜が勢い良く角を曲がった途端、出会い頭に向こうから来た人とぶつかってしまった。
はっとして前を見ると、それは茜の友人の沢井園子だった。
「茜さん、あなたもあの小鳥見たのね。」
「ええ、そう。だけど、確かめたくても私、勇気が出なくて、どうしましょう。門の所から先に行けないの。足がすくんでしまうの」
茜の取り乱した様子に園子は不安な顔をした。
「茜さんはこれだから困るわね。さあ行きましょう。もしかしたらまだ助かるかもしれないのよ。怯んでいちゃだめよ。」
園子は茜の手を握って勇気付けると先に立って走り出した。茜も後を追って走った。
門の前で一瞬足が止まったが、二人は互いに顔を見合わせ頷き合うと足早に庭の中に踏み込んで行った。
玄関には鍵が掛けられていて、呼び鈴にも応じる気配は無かった。南側の庭の方に回って行くと、温室の先のサンルームの扉が開け放されたままになっていた。
二人は躊躇わず、御免くださいと、呼び掛けながらそのサンルームの中へ入って行った。すると籐のひじ掛椅子に、昼寝でもしているかの様に、安らかに永遠の眠りについた高水奈津子が座っていた。
しばらく茜と園子は声も無く彼女を見詰めて佇んでいた。すると部屋の奥の方から黄緑色のセキセイインコが飛んで来て、奈津子の丸まった背に止まった。
「あっ、小鳥が…。」
茜が不意をつかれて、驚きの声をあげた。
「小鳥があんまり無邪気で…。可哀相。」
そこまで言った園子は堪え切れず両手で顔をおおって声を詰まらせた。
「誰かに知らせなきゃ。救急車を、早く早く園子さん。まだ助かるかも知れない。」 茜が一際大きな声で言った。
奈津子の背に止まっていた小鳥が驚いて、怖そうに首をすくめた。
( 続く )
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