連載 「小鳥物語」

2013年10月22日(火) 第四章 事件 2203年 東京冬 (2)

第四章 事件 2203年 東京冬 (2)

 
 純一は父と病院に向かった。母花枝の事故については何も解からないまま、重態という言葉が二人の胸に重く圧し掛かっていた。

何時も夜の十時過ぎの東京の街は混雑していた。特に週末の為、夜遊びに出た若者達で何処も溢れていた。

渋滞で先に進めず、じりじりとした時間の流れの中で、父の剛がぽつりぽつりと考えながら口を開いた。

「純一、さっきは夢中で小鳥を探し回っていただろう。何処をどう歩いたか自分でも解からなくなっただろうと思うが」

「かあさんも丁度さっきの純一のように、小鳥を探してあちこち行くうちにいつもは絶対行かない階段なんかに行ったのじゃないかな」

「純一達が家を出た後で、何かあったのさ。それで、小鳥が家の外へ出てしまったんだ。かあさんはそれに気がついて必死で小鳥を追いかけたんだよ」

「そして、あの階段を我を忘れて駆け上がったり、駆け下りたりしたのじゃないかな。そうでもなければあんな階段なんかを使って上へ行くなんて事、普通は絶対する筈がないんだからね」

「あれはちょっとした建物の正面の飾り階段で、エスカレーターもエレベーターも中にある訳だからね。あの慎重な人があんな足元の悪い外階段なんか絶対に使わない筈だ。そう思うだろう純一」

純一は父の推理になるほどと思った。

「そうだよね、おとうさん。それに文化ホールに今日何か用があるなんて筈が無いよ。今ホールでやっているのは北極の特集か何かの筈だから、僕達の為にご馳走の支度をして待っているおかあさんがそんなの見に行く筈がないよ」

「おとうさんの言う通りさ。きっと僕みたいに夢中でラピスを探し回ったんだよ。ラピスったらどうして逃げたりしたんだろう」

病室に入って行くと頭に包帯を巻かれた痛々しい姿の花枝がベットに寝ていた。幸い検査では頭の中に異常は無く打撲程度で済んだのはよほど転び方が上手だったのだろうとの事だった。

強運で助かった訳だが、何分未だに意識が全く戻らないので慎重に見守る必要があった。手足の捻挫や骨折もあるだろうと考えられた。純一と父の剛は花枝のベットの側に腰掛けて一晩中見守り続けた。

 翌朝、花枝は無事意識を回復した。予想していた通り、左の手首を捻挫していた上に、腰も酷く打っていた。更に肋骨の一本にひびが入っていた。

額には非常に大きなこぶができ、恐ろしく腫れ上がっていた。花枝が負った傷は体の怪我だけではなかった。ラピスというかけがえのない命を見付けたのにもかかわらず、無事に連れ戻してやれなかったショックで打ちのめされていた。

花枝は、朝食後、再び母に付き添う為に病室に来た純一に、何か言おうと、まだ動かせない身体を必死で起こそうとして、傍らに座っていた剛に止められた。

「かあさん、だめだめ、動かないでくれよ」

「純ちゃん。ラピスをあの文化ホール前の広場で見たのよ。私がね。私がとんでもないうかつな事をして、大事なラピスを迷子にさせてしまったのよ。もたもたしている間に、玄関からラピスが迷い出てしまったのよ」

「かあさん、身体に障るじゃないか。純一の小鳥の事など後でいいんだよ。今はまだ安静にしててよ」

剛が花枝の身体を気遣って言った。

「いいえ大丈夫。ラピスを探して欲しいの。純ちゃんにとってはそれは本当に特別な小鳥なのよ。私にとってもラピスはとても大事なの。だから、ちゃんと言わせて欲しい」

花枝がしっかりした口調で話そうとするので剛はほっとした。取り乱して体力が消耗する様なら、長い話は止めさせなければならないと思ったが、何があったのか早く知りたいというのも事実だった。純一も同意見だった。

「じゃあおかあさん、昨日何があったのか、極簡単に話してくれよ。落ち着いてね」

剛が立ち上がって花枝の傍らに近づき、そっと手を取って優しく撫でた。

「ええそうするわ。なるべく落ち着いて話すわね。純ちゃん、近くに来て聞いてね」

純一は枕元まで椅子を寄せて腰掛け、身を乗り出して母の顔を覗き込み微笑んで見せたのだが、腫れてすっかり母の顔が変わってしまっていたので、微笑んだ顔がこわばってしまった。
花枝はゆっくりした口調で話し始めた。

 「純一達がお父さんを迎えに出かけた後、私はちょっと立ち眩みがしてね。暫くソファーに寝転んで休んでいたのだけど、ふと居眠りをしてしまったの」

「どういう訳かいつもそうなのだけど、無邪気なラピスを見ていると何だかとても心が安らいで疲れている時などは不思議な事に突然眠くなるのよ」

そのうちに、玄関のチャイムが鳴って目が覚めたの。慌てて玄関へ行ってドアを開けたら花屋が大きな花束を抱えて入ってきたの」

「伝票にサインをくださいと言われてね。急いでペンを取りにリビングに戻ったのだけれど、テーブルの上は料理が並んでいて、いつもあそこに置いてあるペン立てが見当たらなかったの」

「仕方なく奥の仕事部屋のデスクまでペンを取りに行ってもたもたして玄関に戻って来たの。その間玄関のドアは開け放したままだった」

やっとの事でサインをして見事な深紅のバラの花束を受け取ったのだけど、居眠りをしていて、突然起こされたから頭がぼうとしていて、ラピスが部屋に出ている事をすっかり忘れてしまっていたの。

その時ラピスは姿を消していたのだけれど気が付かなかったの。あの大きな花束に添えられていたメッセージカードを見て、とうさんに誰がこんな花束を届けてくれたのかと興味を持ってしまって、メッセージを読んで見たりしていたの。

時計を見るとそろそろ貴方達が到着する頃だった。エアポートはいつもそうだけど、今日もとても混雑しているだろうから帰りの時間は夕刻になるだろうと考えたの。

皆が帰って来た時にちょうどできたてになるように温かい料理をもう一品作ろうかと思ってね、キッチンへ行ったの。

そして調理台に出しっ放しにしてあったレタスを見た途端、私はやっと気が付いたの。ラピスを出していた事をやっと思い出したわけ。

ちょっと玄関が開いていた事が気になって、不安を感じたの。まさかと思ったの。でも最初はきっと部屋にいるはずだと思ったの。でも急に胸騒ぎがしてね」

 花枝は静かに目を閉じた。大粒の涙が目尻の深い皺をきらりと光って転がり落ちた。ラピスを出している事をやっと思い出したあの瞬間から花枝の深い苦悩と悲しみが始まったのだった。花枝は震える声で語り続けた。

時折、目を瞑り、涙を流し、溢れる想いを静かにやり過ごしながら語った。

 「おやラピちゃんは何処かな。ラピラピ、ラピちゃん出て来てちょうだい」

部屋の中を探して回った。籠にも戻っていない。呼べば勇んで肩に飛んでくる小鳥がいくら呼んでも姿を見せてくれなかった。花枝は外へ探しに出た。どうせ廊下の観葉樹の上にでも乗って木の葉にじゃれているに違いないと思った。

「ラピラピ、おいで、お家に帰って遊ぼうよ。ラピちゃん出て来てちょうだいな」

花枝は優しくラピスを呼びながらエレベーターホール辺りまで行ってみた。そんなに慌てていたつもりはなかったが、自分が意識していなかっただけで、実際にはかなり慌てていたに違いない。

籠も持たず、餌になるような物も何も持ってなかった。ただ夢中で呼びに出たのだった。マンションには一階から三十五階まで中央に吹き抜けの広いスペースがあった。

花枝はラピスを探してエレベーターホールの先のその吹き抜けの所まで来た。そこは人などの落下事故を防ぐ為二重の手すりが高めに付けられていたので、下を覗いて見る事はできなかった。

だが、小鳥が廊下を直進すればその吹き抜けの空間にあっという間に飛び出てしまうに違いないと思われた。彼女はそれに気付き狼狽した。

吹き抜けはオープンスペースだ。一階から三十五階のどの階にも飛び込む事ができるのだ。三十五階の上は更に高い吹き抜けの天井だが、どの様な造りになっているのかと見上げてみた。

天窓の様にも見えるし、照明の様にも見えるが、目が回るほど高い。眩しくて小さな小鳥が飛んでいるかどうか、目を凝らして見ても解からなかった。

花枝は胸が締め付けられるような言い知れない不安を感じたが、その膨らむ不安を慌てて否定して、きっと直ぐ見つかると自分に言い聞かせて前に進むしかなかった。

それで二十五階の別の三本の廊下も探したがラピスの姿はなかった。やはり心配した通り吹き抜けのオープンスペースへ出てしまったのだ。花枝は夢中で一階まで降りて行き、吹き抜けの一番下から見上げてみた。

何も小鳥らしい物は飛んでいなかったが、呼べば自分の所へ来てくれるに違いないと思ってラピスラピスと大きな声で小鳥の名前を呼び続けた。

すると、通り掛った婦人が花枝のただならぬ様子を見かねて、どうしたのですかと、声を掛けて来た。小鳥が部屋から迷い出てしまったのだと説明すると、婦人が

「小鳥はこの様なスペースへ出れば、上の方を目指す筈ね。きっと鳥は空を飛ぶ生き物だから空を目指して上に飛んで行くでしょう」

と花枝に言った。確かに下に飛び降りるより上に飛び上がる方が自然に思われた。
「本当ですか、なるほど、そうですね」

花枝もその婦人の意見を最もだと思い、言われるままにエレベーターで三十五階に上がってみた。平面的に見えていた天井は立体的で複雑な造りになっていた。

大きなジャングルジムさながらにパイプが組まれていた。花枝は三十五階の四本の廊下を隈なく探して見たがラピスの姿はなかった。

仕方なく一階ずつ同じように探しながら降りて行った。そして再び一階まで降りて来た。一階には出入り口が何ヶ所もあり、大きな自動ドアだった。

人が通ると暫く開いたままになっていた。人通りは少なくなかったから絶えず開いたり閉ったりを繰り返していた。小鳥がそれらの自動ドアを通って建物の外へ出て行くのはとても簡単だ。

特に部屋で飛び慣れていたラピスは、狭い扉の隙間をすり抜けて部屋から部屋へ器用に飛び回っていた。飛び回る事は自由自在だった。花枝は建物の外へ出てみた。

その出入り口は広い石畳の広場に面していて向う側は文化ホールだった。広場に立って上を見た時、水色の小さな小鳥が斜めに空中を横切って飛び去った様に見えた。

ほんの一瞬だったので本当に見えたのかどうか確信は持てなかったが、文化ホールの方へ行ったような気がして行ってみた。

文化ホールは建物の正面に三段のテラスが大きく張り出し、石造りで迫力のある馬蹄形の飾り階段が続いていた。花枝は夢中でその階段を上を見上げて、空を飛ぶ小鳥の姿を求めながら登った。

そして、もう二三段で登り終えるという所まで来た時、空中を宙返りして広場の反対側へ飛び去るラピスの姿を見たのだった。花枝は慌てて身を翻し階段を駆け降りようとした。

そして、ラピスが飛び去った方を見定めようと目線を上に移した。ところが、足は階段を捕らえず宙を踏んでバランスを失った彼女の体は前のめりに転がり落ちて行った。

一瞬空が回って花枝は何も解からなくなった。確かにあの時ラピスはあの広場を飛び回っていた。それなのに、あっという間に転がり落ちて気を失ってしまった。

ラピスを折角見付ける事ができたのに連れて帰ってやる事ができず、一日過ぎてしまった。本当に取り返しのつかない事になってしまった。花枝は文化ホールの前の広場でラピスが飛んでいたのにどうする事もできなかった、と言って涙を流して泣いて悔やんだ。

 純一は丁度その日の夜明け頃、その広場へラピスを探しに行ってみたのだった。母が階段から墜落する事故にあった時、きっとラピスを追っていたに違いないと思ったからだった。

やはりラピスはあの広場の空を飛んだのだ。花枝はまだ広場付近にラピスがいるかもしれないから探して欲しいと言った。幾筋もの涙が花枝の目じりから静かに流れ落ち枕を濡らしていた。

「解かったよ。おかあさん。何度も行って探してみるからね。ラピスはきっと見つかるから心配しないで、そんなに悲しまないで。どうかそんなに泣かないでよ。身体に良くないからね」

純一はそう言って花枝を慰めた。だが、この寒さの中、籠の小鳥が急に外に迷い出て無事でいられるのはほんの数日だけだろう。

純一はラピスを探しに行くからと言って病室を出た。ラピスを追いかけて酷い怪我まで負ってしまった母の為にもラピスを探したかった。

そして無事手元に戻った事を見せて、痛みと悲しみに苦しんでいる母を一日も早く安心させてあげたかった。

それに何より愛するラピスの小さな命を救ってやりたかった。ラピスを失いたくなかった。

父は日本に四日間居ただけだった。
花枝の事が心配だったが、オーストラリアの仕事場は更に重大で深刻な問題を抱えて切迫しており、指導的立場の剛の帰りを待っていた。

彼はプライベートな苦悩を胸に秘めて、家族への熱い思いを振り切って出発した。

 ラピスの大きな鳥籠は重く持ち歩くのは大変だったが、ラピスが自分のすみかとして記憶している籠でなければ進んで入ってくれる筈がないと思った。

純一はどんな苦労も厭わなかった。重たい籠の持ち手が手に食い込んで痛かった。支える腕の痛みなども全く気にはならなかった。唯ラピスに帰ってきて欲しかった。

ひたすらにそれだけを願って探し回った。親友のヨウジュスもレナ・ラスコールもミュー・リンガも一緒にラピスを探してくれた。

インターネットに迷子の小鳥のラピスについて情報を求めるページを出してみた。街角に張り紙も貼ってみた。

 一週間が過ぎた朝、外は一面の雪景色だった。未明より降り始めたその年初めての雪は深々と降り続いていた。

静かに、明るい重厚な油絵のような美しい朝が訪れて、純一の儚い希望を凍りつかせた。


( 続く )


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