2013年10月21日(月) |
第五章 面影 2203年 東京冬 (1) |
第五章 面影 2203年 東京冬 (1)
古い大型マンションの薄暗い廊下の突き当たりに、何度も塗り替えたためペンキの斑模様ができている古ぼけた鉄のドアがある。建物が密集し過ぎて最上階にもかかわらず日が当たらず、日中でも夕方のように薄暗い。
エレベーターの動く機械音が鈍く響いている。何処か下の方でシンセサイザーのサウンドに重低音のベースが重くリズムを刻むハードロックが唸りを上げている。
古びたその斑模様のドアが開き、サンダルをつっかけた中年の男が出てきた。廊下の隅にある機械ルームの中に顔を突っ込んで舌打ちしながら呟いた。部屋の電気配線の何処かに異常があるようだ。
「電気の調子がおかしくて困っちゃたな。仕方がないな、外で食べるか」
男はこの長い歴史を感じさせるマンションの最上階にずっと昔から住み続けている住人で青木裕作という。今日は休日なのでマンションの管理会社に連絡もつかず、仕方なく直に切れてしまうブレーカーのスイッチを押し上げた。
いたる所にガタが来ているのだが、裕作にとっては生まれ育った我が家であり、両親が苦労の末に彼に残してくれた唯一の財産なのだ。
裕作は厚手の靴下を履きウールセーターを着込み、ダウンコートを羽織るとショルダーバッグにカメラと三脚を詰め込み部屋を出た。今日は喘息で入院している母に見せる為の花の写真を撮ることにしていた。
裕作はマンションの並びのレストランで簡単な食事を手早く済ませて、厳しい寒さの訪れと共に花の盛りを迎える寒椿や山茶花の花を撮りに近くの公園を訪れた。
訪れる人もない冬の公園は寒風に吹きさらされて静まりかえっていた。 明るい日差しが木々の上に降り注ぎ、揺れる梢が白く光って見えた。北風が吹くたびに容赦なく体温を奪って行くので、じっとしていると深深と冷えて寒かった。
一面を被っている枯れ葉の上を踏む毎にかさかさと乾いた音がした。早咲きのぼけの白と緋色の濃淡の花が、冬枯れた枝に零れる日差しを受ける杯のように日に映えて咲いていた。
梅の枝にはまだ固く閉じた小豆色の萼のすき間から白い花弁をほんの少し覗かせている蕾が沢山ついて咲く日を待っていた。また、冬枯れの雑木林の中では、マンサクの梢の隅々にまで細かい黄色の花が咲き、春の訪れが近い事を告げていた。
寒椿は大きい樫の木の密集した枝に守られて、大輪の赤い花を枝一杯につけて咲き乱れ、黒々とした深緑の葉が木漏れ日を受けて艶々と漆塗りの器のように光って美しかった。
山茶花はジンチョウゲの可愛い薄紅色のブローチのような小花がちらほらと咲き始めている植え込みの後ろに、華奢な枝を風にゆらゆらと揺らして、朱鷺色のぼかしの、まるで薄紙細工のような精巧な美しい花をつけていた。
手振れが心配だったので、裕作は三脚を立てた。そして何度もファインダーを覗き、位置を小刻みに移したり、三本の脚の長さを調節したりして、細かくアングルを調整して時間をかけて何枚も写真を撮った。
冬の夕暮れは思いの他早く、あらかた花を撮り終った頃、気がつくと既に日は西に傾き梢の先にかかっていた。新たな被写体を探して辺りを見渡していると、雑木林の中に一人の少年がいるのが見えた。
その少年の表情は暗く瞳には悲しみの色が満ちていた。大きな鳥篭を手に下げて、林の中に続く細道をとぼとぼと歩いていく姿が夕暮れの残照の中にセピア色のシルエットに見えた。
重たそうな鳥篭の細い金属の取手が少年の華奢な指に食い込み痛々しく見えた。重みを支える為にくの字に曲げられた腕にも痛みが走るらしく、時々地面に篭を置いては腕をさすって辛そうにうな垂れている。
冷たい風が吹きつけてジャケットの裾がはためき、足元の木の葉が舞い上がっている。何かを探しているらしい様子で辺りの木々の梢を透かして見ている。やがて少年は林を抜けて不規則な石段を降りて、潅木に囲まれた池のほとりの石畳の道の先にあるベンチに腰掛けた。
少年の様子が気になって仕方がないので、いっそ思い切って少年に声を掛けてみようと、裕作も別の小道を巡り池の方に続く石段を下りながら梢越しに池を見下ろしていた。
だが疲れて休んでいる寒さにこごえた少年にせっかく声を掛けるのに手ぶらというのも気のきかない事だなと気づき歩みを止め立ち止まった。せめて温かい飲み物を持って行って少年に飲ませてあげたいと思った。
裕作は図書館の方に続く根っこだらけの小道を足早に進み、古めかしい建物の中のロビーで暖かいコーヒーとココアの缶を買った。そして少年がまだ池の辺のベンチにいるかどうか心配だったので、林の中の小道を走り抜けて池の方に降りて行った。
少年はまだベンチに座ってぼんやりと水面を見ていた。裕作は乱れた呼吸を一時落ちつかせながらゆっくりベンチの方に歩み寄ると少年に声をかけてその隣に座った。
「その篭は鳥篭のようだけど、この公園で何か探しているのかい」
すると沈んだ表情で少年はジャケットのポケットから小さく折り畳んだ一枚の紙を取り出し、広げながら裕作の方に差し出した。鮮やかな色の小鳥の写真が裕作の目に飛び込んで来た。
「僕、この小鳥を探しているんです。手乗りのセキセイインコなんです。この公園でそんな小鳥を見ませんでしたか。」
文章の最後の連絡先に書いてある名前が少年の名のようだった。
「この矢島純一君っていうのは君だね。残念だけどこんな綺麗な小鳥は見かけなかったよ」
裕作は少年の真剣な眼差しを見詰めて静かに首を振った。そして、少年のために走って行って買って来た温かいココアの缶を差し出した。
「これ、良かったらどうぞ。さっきコーヒーを買う時うっかり間違えてココアを買ってしまったのでね。きっと体が暖まると思うよ」
裕作は適当にでたらめの事を早口に言って照れ笑いをした。 差し出したココアの缶を見て少年がにっこりと顔を綻ばせたのを見て裕作はほっとした。
「ありがとう」
純一は手にしたココアの缶の温かさにちょっと感激して早速缶を開けて一口飲んだ。ココアの甘い味が口いっぱいに広がって香ばしいかおりが辺りに漂った。裕作もこごえた手を温かい缶の温もりで暖めながらコーヒーを飲んだ。
「もう少し詳しくその小鳥の事を聞かせてくれないか。逃げたのは何時の事なの」
「三週間以上前です」
「部屋で篭に入れて飼っていた小鳥なのでしょう」
「手乗りの小鳥なので毎日篭から出してやって、部屋で遊んであげるのです」
「ああそうか、手乗りは遊んであげるんだね。手に止まったり肩に来たり、きっととっても可愛いがっていたのでしょう」
「ここは大きな木が沢山あって小鳥が住めそうな公園だから、迷子になったラピスが、その僕の小鳥だけど、迷い込んで来ているかもしれないと思って来てみたんです。ちょっと遠いからどうかなと思ったんですけど小さな小鳥でも飛ぶのが上手だから、もしかしたら来ているかもしれないと思って……でもいないみたい」
「この小鳥を見つけたら、ここに書いてある君のメールアドレスに連絡すればいいんだね」
「はい、僕、矢島純一です。おじさんは良くこの公園に来るのですか。僕は始めて来ました。地図を見ながらずっと歩いて来たんです」
「それは大変だったでしょう。地図で見ると近いようでも歩くと結構遠いんだよ。この重たい鳥篭を手に下げて来たんだね。これは重たくてさぞ骨が折れたろうなあ」
裕作は鳥篭をちょっと持ち上げてみてその重さに驚いた。少年の手は真っ赤だった。日がとっぷりと暮れて、園内の照明が輝きを増して白く光っていた。気温も急に下がって来て冷たい風が一層身にしみた。
「私は青木裕作。今日は仕事が休みで公園の花の写真を撮りに来たんだけど、この辺りは暗い裏通りが多くて夜に歩くのは安全じゃないんだよ。だから気を付けなければいけないよ」
「暗くなって来たからもう帰った方が良さそうですね」
「君の住んでいる所は文化ホールの近くだね。ちょうどその近くに行く用事があるから帰り道は同じ方向なんだよ。一緒に行きましょう」
裕作は少年の鳥篭を手に下げて歩き出した。
「それ僕が持ちます。重いから」
純一は裕作の後から着いて来て言った。
「純一君、重いから今度は私が持つよ。手が赤くて痛そうだよ。そうじゃないかい」
裕作は振りかえって微笑んだ。
( 続く )
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