今日は母の三回忌法要。余命を告げられている父に、それとなく父方の親戚にも来てもらおうかと声を掛けると、特別な事はしたくないと言った。
父と、私達兄弟家族が集まって、お寺で追善供養をしてもらった。
ダンナと同じ年頃のお上人のお経を聞きながら、色々なことを思い出す。
二年前に自宅で亡くなった母のこと。
入院先の病院のベッドで、裏の墓地を気にしていた優しい義父のこと。
姉と二人で乳母車に乗せて、銭湯へ通った明治生まれの祖母のこと。
小さかった私を膝に乗せて可愛がってくれた先代のお上人さん。
お上人の隣で唱和するようにお経を唱えていた、祖母の知り合いの小母さん。
結婚して早々、20代前半の若さで、病魔に臥した私の友達。
数年前、数十年前、みんなもう亡くなっている。
亡くなった人は一人一人の心の中に生き続けているのだと、お上人が言った。
薄情な私は日々の忙しさに忘れ、心の中で何人の人を黙殺しているんだろう。
五稜郭祭始まりましたね。 読経の後は、卒塔婆を持ち、墓地へ向かう。夏のような陽射しが暑い。
墓石の上には、父が朝の内に供えた母の好物のコーヒーが開けてあった。
少し下がった筋向かいにある義父の墓にはワンカップのお酒が供えてある。
蓋が開いた酒は半分ほど父が飲んでいた。
父は時々こうして律儀というか、子どものような事をする。
カラス被害の為、花以外は供えてくれるなと、注意書きがあるのだけど。
「わしが死んだら、おまえとこのお父さん(義父)のように酒を供えてくれ」
と、墓参りの際には、いつも冗談のように言っていた。
午前中に墓の掃除をして、供養が終わったのが2時。
「お母ちゃん、もう十分飲めたやろ」読経が終わった後で缶を下げた。
読経の間、手許にあった経本を、意味も分からぬまま追いかけていた。
若い人でも、年寄りでも、どんなに偉い人でも…、
どんなに苦行を積んだ賢い人でも、命あるものはやがて死ぬ。
だから、まず凡俗のことより、臨終を学ばなければいけない…
何やらそのような意味のことが経本の裏に書いてあった。
死ぬことを学ぶ。
ありがたいお経にはあまり興味もないが、なるほどと思う。
どう生きるか、どう死んでいくか、結局、この二つはおんなじだ。
80を過ぎた父はやがて迎える死との折り合いを真剣に考え始めたようだ。
いや、そうならざない状況に追いやられたのだ。
法要の間、口には出さないが、鳩尾や、背中をさすっていた。
気休めの治療が始まる。これから先は辛い事が増えてくるだろうか…。
願わくば、最期の一日まで。
「花はいらんから酒を供えてくれ」と、いつもの軽口が聞ける事を願っている。
Sako