京のいけず日記
もくじ|前の日|次の日
サブタイトルは「五稜郭の碁石」 …にはは。
・・・・・・・・・・・・・・・・
例年なら桜の花もちらほらほころんでいる時分なのに、今年はまだ便りを聞かない。ずいぶんと肌寒い晩である。
母の春子は、放蕩人の夫、夏夫に、とうとう我慢の糸が切れたのか、昨晩、3つ違いの兄と、まだ赤ん坊の妹を連れて、家を出て行ってしまった。
冷酒をあおり、ごろりと寝てしまった父親の横で、幸は、小さな掌に碁石をのせて遊んでいた。まあるく、なめらかな、冷たい石の感覚が好きだった。
煤けた畳の六畳間。卓袱台以外にこれといって道具のない質素な部屋の片隅に、立派な碁盤が置いてある。父親の夏夫のものだ。
花札、競馬、競輪、競艇、麻雀、パチンコ、ビリヤード…。自称、勝負師の夏夫が、時にはその妻より、子供より、愛してきたものたちだ。好きな囲碁ですら、夏夫にとっては賭博の対象だった。
風がうなる。 立て付けの悪い戸がガタガタと鳴った。
母が帰って来たのだ。幸はそう思った。 急いで出ようとする幸を、夏夫が止めた。
「いい。あの男だろう。石を片付けろ」
風に髪を乱した背の高い男が戸口に立っていた。
「今晩は」 その男は幸を見ると微笑んだ。
「こ…んばんは…」 確か前に一度、夏夫が連れてきたことがある。
土方という男だった。 年のころは30代半ば。少し顔色が蒼白いが、鼻筋の通った、涼しげな目もとを持つ好男子だった。
「幸ッ。台所へ行って酒を持って来い。茶碗もな」 夏夫はようやくのろのろと体を起こし、隅にあった碁盤を運んできた。 気の利いた座布団の一つすらない。
勝手知ったように土方が腰を据えると、 「あんたも変わった男だな。…で。今日は何を持ってきた?」 と夏夫が嬉しそうに聞いた。
土方は上着の内ポケットをまさぐると煙草を取り出した。 薄茶色のパッケージにはSHINSEIとある。 碁盤の上にぽんと投げた。
「おい、おい。まさか、こいつを賭けようというつもりじゃないよな!?」
「あんたは何を賭ける?」
「…ふざけた男だ。おい。幸、酒はまだか」
夏夫の声は決して怒っていない。それどころか楽しそうでもある。 アマチュアにしては夏夫の囲碁の腕は相当なものだ。金を賭けて打つ。相手にもよるが、煙草銭どころの話ではない。
幸がその小さな両手に一升瓶と茶碗を二つ抱えてやって来た。
「こういうのはどうだ。お前が、わしに万が一勝ったら、この子をやろう」 そう言うと、夏夫は幸のか細い体を抱いて膝の上に乗せた。
土方は憮然としている。
幼い幸にも夏夫の言っていることは理解できた。 捨てられる。それが夏夫ならやりかねない事さえ、幸には分かっていた。
大きな博打に手を出し、借金まみれの夏夫に何度泣かされてきたことか。 腕のいい職人であった夏夫は職も失い、家も手放した。 母の春子は3人の子供を連れ、何度死のうと思ったかしれない。
ちょうど土方が初めてこの家にやってきたのも、春子と、夏夫が大喧嘩をしている真っ最中だった。夏夫とは街の碁会所でたまたま知り合ったらしい。カモになると踏んだ夏夫が、この男を誘ったのだろう。
気詰まりな沈黙も一瞬だった。 土方に醜態を見られてしまった夏夫は、余計に腹を立て、部屋の中の物という物に当り散らした。
「あなた。やめて下さいッ」 赤ん坊を抱えての春子の懇願も、もはや届かない。 兄は怯えたように春子の服をぎゅっと握って泣いていた。
「どいつも、こいつも、俺を馬鹿にしやがってッ!クソッ」 夏夫が自棄になって投げたビール瓶が、戸口付近に立っていた幸を襲う。
顔に当たるッ! 幸が目をつぶった瞬間だった。大きな影が彼を包み込んだ。
「あ…」 ひょいと体が浮いた。 足元には砕け散った琥珀色の破片が、幾つも散らばっている。
「おい。…馬鹿な真似はやめろ」 低いが、凄みのある、よく通る声だった。 土方が身をもって、飛んでくる凶器から幸を守ってくれたのだった。
「どうだ、土方。お前が勝ったら、幸をくれてやる」 夏夫がにやりと笑った。
「…正気なのか?」
「ああ。その代わりに、あんたも煙草なんかじゃ駄目だ。あんたが負けたら、もっと大切なものをくれ」
「大切なもの…?刀か…?」
「そんなもんはクソにもならねえ。どうだ。その金ピカの懐中時計は?」
「これか……」 ほんの一瞬、思案するように、土方は首をひねった。
「よかろう。俺が勝ったら、その子はもらう」
「成立だな。よし、幸、のけ」
夏夫はうるさそうに手を払った。 幸の顔が不安で押しつぶされたように歪んでいる。
夏夫は怖いが、何といっても父親なのだ。 目の前の男が、例えどんなに優しく、いい男だとしても、父親に捨てられるのは嫌だ。そう思うと、幸の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
夏夫が負けるわけがない。そうだ。負けるもんか。 幸は父親と静かに対峙している男の顔を、そっと覗き込んだ。
「どうした?」 何ともいえない微笑が、土方の口元に浮かんでいる。
・・・いつかに続く・・・・
さぁ。どっちが勝つでしょうか? 幸の運命やいかに。夏夫は、すさんだ生活から立ち直れるのか!?
なんて。おしまい。すみません。 m(__)m
以上、私だけのエイプリルフールの夢話でした。 函館であの碁石を見てからおかしいのよね…。
|