4つの季節を重ねながら

2001年10月25日(木) 札幌から来たメール

Date: Thu, 25 Oct 2001 18:40:12 +0900
Subject: 講演会に行って

なかめいです。

昨日、中村氏の講演会に行ってきました。こうやって書き始めたものの、一体何から書いていけばよいのかな。ただ、感じたことを、時とともに風化させてはいけないということしかはっきりとは言えないのですが、最も印象的だったことは、私がこれまで見聞きしてきたことと、実際にアフガンおよびその周辺で起こっていること、人々が感じていることの間には、想像以上のギャップがあったということでした。初めは単に驚きました。そして時間がたつにつれて、怒りと無力感とが入り混じったものに変わっていきました。「一体私はこれまで何を見てきたのだろう」と。もちろん、それはメディアに対してのことだけではなくて、自分自身の積極性の足りなさに対してのものでもあります。

話が逆になってしまったね。すでに知っていることもあるとは思いますが、とりあえず聞いてきたことを簡単に書いていきます。

ぺシャワール会は、’84年に中村医師が知人の勧めでパキスタンのぺシャワールに赴任したあたりから始まります。最初は山岳地帯を中心としてハンセン病の治療を行っていました。’79年からソ連軍の侵攻が始まり、それ以来、しばらくの間は難民がかなりいたようです。医療活動の規模は次第に広がり、そして、’91年、ソ連邦が崩壊して軍隊が撤退しました。難民は自分の故郷に帰りましたが、長らく続いた戦争のせいで町は機能を果たせる状態ではありませんでした。アフガニスタンは、国民の約95%が農業で生活をしているところです。そこでぺシャワール会は医療活動だけではなく、農村復興をも始めました。そんななかで、’93年、あの辺り一帯でマラリアが大流行し始めました。患者数はものすごい数だったそうです。一日中、寝る時間以外、ずっと診療にあたっても、全くこなしきれていない、そんな状況でした。ある夜、不安と焦りで人々が暴徒化しました。発砲もあり、職員の2人が亡くなりました。アフガンの人々は基本的に「復讐の民」だそうで、そのとき、現地の職員は当然報復に出るものと思っていました。そこで中村医師は「報復行動は一切しない。もしも発砲するのなら、私はその人を殺して報復を阻止する」と言ったそうです。彼らの論理ではやり返さないと面子が立たないのだそうですが、今ここで争ってもマラリアが大流行しているという状況は全く改善しないのだということを職員に説きました。そして、次の日、人々を集めて、誰のためにやっていると思っているのだと、声を荒げて怒りました。民衆は悪かったと深く反省し、診療は元通り再開されました。そして、ここ3年ほど大旱魃が続いていることは、知ってのことと思います。そこでぺシャワール会は2000年7月から、井戸掘りを始めました。会の活動規模を拡大して現地のスタッフを増員し、結構うまくいっていたところに、今年1月からのUNによる経済制裁が始まりました。中村氏はとても驚いたと言っていました。それはそうでしょう。食糧援助ならまだしも、その正反対のことが起こったのですから。

アフガニスタンはもう結構寒くなってきたようです。メディアではあれこれと連日報道していますが、現地の人々にとって今一番の関心事は「生きて冬を越すことができるか」ということです。食糧が絶対的に不足しているこの状況のなかでは、政権を担うのがタリバンであろうと北部同盟であろうとどちらでもよいのです。彼らの基本的な生活単位は村のような小さなコミュニティであり、そこで大概のことは解決されます。たとえば、誰かが何か納得できないことがあったとして、そういうことは週一回あるモスクでの集会でみんなに提案し、そこで話しあわれます。それによってコミュニティの秩序は保たれているのです。彼らが最も欲しいものは、水、食糧、そして平和な暮らしです。従って、そういったものが得られるのであれば誰が政治を行ってもよいのです。かつて共産党政権が崩壊し、その後北部同盟が政治を行うようになったとき、とても治安が悪くなり、そこにタリバンが現れ、秩序が回復しました。しかし、だからといって、人々はタリバン政権を全面的に支持しているのでもありません。あくまでも、”秩序が保たれている限り”のことです。

タリバン政権が女性の人権を(私たちの視点からみて)ほとんど無視している点について外国から批判があることについて、中村氏は「では、あなたは彼女たちをどこかほかのところへ連れて行くことができますか」と問いたいと言いました。つまり、彼女たちは生まれ育ったアフガニスタンで、ずっとその価値観を持って暮らし、その中でいくつかの大切なものを手に入れ、また幸せを感じたりしているのだということです。これはこれでひとつの考え方である、としか私には言えません。本当に中村氏が一人の人間として思っているのかもしれないし、あるいは、(こっちのほうが尤もらしいと思いますが)外国で滞りなく活動をするためには、政治的な意見をしないのが良いからかもしれません。私としてはやはり不平等だと思うし、何事に対しても、誰かが何か意見することはそれ自体抑止力になると思うので、こういう風に批判があるのはいいのではないかと思います。

話を食糧不足の事に戻します。ぺシャワール会では、主な活動地域である東部において、この冬一割の人間が餓死するであろう、と予測しています。あの地域は非常に厳しい山岳地帯で、一般的な暮らしとしては、暖かい夏にアフガンの山岳地帯で生活し、寒い冬には比較的温暖なパキスタン側に移動するということを繰り返します。しかし、今年は旱魃のせいで暮らしは一層厳しく、移動することすらできず、寒いカブールに残っている、というのが現実なのです。メディアでは難民の大量発生がパキスタンに大きな負担になるとか、西側の国境は封鎖されたとか、いろいろと言っていますが、難民になることができればまだよいのです。なぜなら、移動するのにはお金が必要だからです。つまり多くの人たちは難民になることさえも出来ないほど貧しいということです。そこで今回ぺシャワール会では、なんとか少しでも餓死者がでないようにと、約一億円を目標とした募金を始めたのです。食糧は少しずつ現地に輸送されており、昨日、第一団が届けられたとの連絡が入ったと言っていました。講演のあと、輸送は安全なのか、という質問がありました。現在のところは全く心配はないそうです。というのは、アフガン自体が親日的(それも政府が米国寄りのため今は少し危うい)であること、そして長い間かけて築いてきた信頼関係や実績があるからとのことです。しかし、今後、本格的に地上戦になった場合はどうなるか分からない、状況が悪くなれば撤退することも大いにありうるとのことでした。そのときは”こうさくたい”になるのだとスタッフに言ったそうです。もちろん”工作”ではなく、”耕作”です(笑)。

中村氏はやや小柄で、顔立ちは写真で見たとおり、特に人目をひく感じでもなく、彼らが実際に行っていることの偉大さとは対照的な地味な人でした。しかし、彼の言葉には重みがあり、それは、心の声に従い行動してきた人だけが持つ、静かで力強いものだったと今改めて思います。昨日のことは「良い経験をした、いい話が聞けた」とか「すばらしい人だった」とかいった言葉で表せるものではありません。確かに、ふつふつと湧き上がる熱い思いはありますが、何かもっと重要なことについて考えざるをえません。

私たち(3人で行った)が着いた約一時間半前はほとんど誰もいなくて、一体どれくらいの人が来るのだろうかと思っていましたが、開始時間が近づくにつれ、椅子が全く足りなくなり、前列に座っていた私たちなどは地面に座りました。ステージが低くかったので、ステージに上がって聞いていた人もいました。後ろで立ち見の人もいました。ものすごい熱気でむんむんしていました。いくら現地の状況を知っても、私たちひとりひとりの力は悲しくなるほどちっぽけで、大した事は出来ないのですが、それでも何かをせずにはいられない人がいて、そしてそれを心から支援する人がいて、共感することが出来る、そのこと自体はとても美しいものだと思いました。とにかくなんとかして生き延びて欲しいです。

多くの人に読んでもらいたいので、掲示板に書きたかったのですが、方法がわからないのでメールにしました。もしもどこかに移したいというのであれば、どうぞ好きにしてください。

ながーい文章に付き合ってくれてありがとう。こういう気持ちを分かち合える友人がいることはとても幸せだなと思いました。



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