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2015年11月13日(金) 拉致被害者に冷たい人権派は信用していません。

民主・北沢氏代表支部も香典支出 防衛相在任中に(共同通信 11月13日)

民主党副代表の北沢俊美元防衛相(参院長野選挙区)が代表を務める同党総支部が、
2009〜11年の防衛相在任中、選挙区内で行われた葬儀の香典代として、
35件計約90万円を支出していたことが13日、分かった。
公選法は、政党支部や資金管理団体が選挙区内で香典を出すことを禁じている。
議員本人が出席し、私費で出した場合は罰則が適用されない。

 民主党長野県参院選挙区第1総支部の収支報告書によると、
香典は、いずれも県内の個人に対して支払っていた。

 北沢氏の事務所は取材に「収支報告書の内容を正確に把握していないので、対応できない」としている。


なぜ、民主党はいつも追及の前にブーメランで返ってこないか調べれないのか。


インタビュー 袋詰めで船へ 恐怖と不思議…蓮池薫さん(読売中高生新聞 11月12日)

北朝鮮に拉致され、2002年に帰国した蓮池薫さん(58)が
読売中高生新聞のインタビューに応じた。

 「若い世代に拉致問題をもっと知ってほしい」と拉致当時の状況や
24年間におよんだ現地での暮らし、家族への思いを語った。


あの日……


 「たばこの火を貸して」

 1978年7月31日。新潟県柏崎市の砂浜で今の妻・祐木子とデート中、
見知らぬ男からかけられた言葉が全ての始まりでした。

 ライターを取り出した瞬間、誰かに羽交い締めにされ、ぼこぼこに殴られました。
その後は袋詰めにされて船に。もうろうとする中、「何かの間違いであってくれ」と願いました。

 陸に着くと、日本語ができる人間がいて「ここは北朝鮮だ」と告げられた。
何を尋ねても「平壌で聞け」と言われるばかり。
「世の中にこんなことがあるのか」と恐怖と不思議しかなかった。
当初はなんであの海に行ったんだと悔やみ続けましたね。

 朝起きるのがとにかくつらい日々でした。
目が覚めた時、全てを失ったという思いが頭に刻まれるんです。
今でも起きた瞬間、「ここはどこだ」「あー日本でよかった」と思うことがあります。
私は楽しい朝を迎えられる人が一番幸せだと思っています。
向こうに残されている人は、毎朝がどんなにつらいか。



拉致の目的


 平壌では最初、「招待所」と呼ばれる工作員養成所に収容されました。
最初は私を工作員に育てようとしているようでした。
ただ、同じように拉致されたレバノン人女性が海外でのスパイ活動の実習中に
逃げ出す事件があり、私への工作員教育はすぐに中断しました。

 その後は平壌から離れた場所で工作員に日本語を教えたり、
日本の新聞の翻訳をさせられたりしました。

 拉致されて1年9か月後、私は祐木子と結婚しました。
それまで彼女は帰国したと聞かされてきましたが、
北朝鮮は2人が逃げ出さないよう結婚させたのだと思います。
実際、私たちは2人の子を授かり、北朝鮮で生きるしかないと覚悟を決めました。


現地の人々


 招待所で暮らしている時、当局の人間は我々を監視するのが役目なので、
踏み込んだ話はしてきませんでした。
私も距離を置き、自分の本心が悟られないように接しました。

 北朝鮮の一般社会のことを教えてくれたのは、
招待所に出入りする料理人や電気工事の職人です。

 知り合った一般の市民は、飢饉ききんや低い給料で生活が苦しい中、
家族をどう守り、子どもを育てていくかを必死に考えている人ばかりでした。
悪い印象はなかったので、食糧や生活物資を分け合ったりしながら生きてきましたね。


2人の子ども


 子どもたちには自分たちが日本人だとは言わなかった。
日本に帰ることもないとあきらめていたので、日本語を教えることもありませんでした。

 子どもたちは、地方にある寮つきの学校に入れられましたね。
そもそも招待所の存在が秘密のため、近くの学校に通わせることができなかったのです。

 95年以降、北朝鮮は深刻な食糧難に見舞われます。
招待所で配給される食材も質がすごく落ちて、
妻は半分腐っているような魚を一生懸命に下処理して調理していました。

でも招待所はまだ良い方。米は配給されたし、
畑でトウモロコシやゴボウを育てることもできた。

 一般社会は違います。平壌の街中でさえ、中学3年の子が小学校低学年くらいの身長しかない。
学校の給食は白米の入らない雑穀米が出て、おかずも野菜の塩漬けくらい。
生きてはいけるかもしれないけど、栄養の摂取が心配で、
子どもたちが帰ってきた時は取っておいた配給物の大豆を煎って持たせたものです。


日本に残る


 2002年、私たちは子どもを残して一時帰国を許されました。
北朝鮮は子どもがいれば我々は戻ってくると考えていたようです。
子どもたちに日本に戻るとは告げられず、国内旅行に出かけると言って別れましたね。
いつも子どもが寮に戻る時はそれほど多くの言葉をかけなかったのですが、
その日は「健康に気をつけろ」「勉強頑張れ」と言う私に何かを察しているようでした。

 子どもと離ればなれになるのは非常につらかったですが、
私たちは日本に子どもを呼びたいと思い、日本で待つことを選択しました。
日本のような国で、自らの意志で将来を描いてほしいと思ったのです。

 向こうは朝鮮労働党幹部との関係や賄賂が物を言います。
努力すればちゃんとご飯を食べられて、寒さをしのげて、
人並みに結婚できるというような社会ではないんです。

 1年半後、子どもたちはようやく日本に帰国することができました。
今は2人とも自分で選んだ道を歩いています。
私と妻が日本に残ったのは間違いではなかったと思っています。

 北朝鮮にいる拉致被害者が日本に帰国する日が来たら、
親と子どもをバラバラに、なんてことはしないでほしいです。


10代へ


 部活、趣味、ゲーム、家族とのだんらん……。
ほんの少しの時間でいい。自分の楽しいことが一つ残らず全て奪われる状況を考えてみてほしい。
拉致被害者の気持ちがわかると思います。


 拉致問題の解決は帰国させること以外ないのです。
彼らを救うために何かできないか、考えてみてほしいと思います。


【蓮池さんをめぐる経緯】

1978年7月  北朝鮮に拉致される
80年5月  祐木子さんと結婚。その後、2児を授かる
2002年10月  祐木子さんと帰国
04年5月  長女と長男が帰国。
「子どもたちが日本に来た日が私たちにとって本当の帰国日です」


「人が犯す最も大きい罪は、人の全てを奪う殺人、
 他人の自由を奪う拉致も殺人と同じぐらい罪が重い。」

これは、蓮池さんが翻訳した小説の作家が蓮池さんに語った言葉ですが、

拉致された本人は突然に自由を奪われ夢を絶たれ、

拉致被害者の家族は突然に家族を失い悲しみの日々を送る。

拉致は本当に殺人ぐらいに罪が重いものだと思っています。

人権派の中で拉致被害者に冷たい人たちを私は信用していません。

私は元々はサヨクでしたが、

北朝鮮が拉致を認めた2002年に、

普段は人権運動に熱心に取り組んでいたのに、

拉致被害者家族には冷淡だった社民党や

同じ仲間だった左翼運動家に疑問を感じて離れました。

ああ、この人たちの人権運動というのは反政府運動に利用できそうなものに

飛びついているだけなのだと気がついたためです。












名塚元哉 |←ホームページ