Perfume「SXSW」ライブは入場規制に、驚きの演出で未発表曲披露(ナタリー 4月18日)アメリカ・テキサス州オースティンで現在開催中の世界最大規模のフェスティバル「SXSW 2015」にPerfumeが出演。現地時間3月17日(日本時間3月18日)に行われたインタラクティブメディアの祭典「SXSW Interactive」の最終日にヘッドライナーとして登場し、圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。会場前には朝からPerfumeのTシャツを着た熱心なファンやメディアの人々が詰めかけ、彼女たちのライブは数時間前からすでに入場規制に。客席からPerfumeコールが沸き起こる中、スクリーンにCGグラフィックが映し出され、まずはこの日のために用意された未発表曲「STORY(SXSW-MIX)」からライブがスタートした。「STORY(SXSW-MIX)」では3枚の半透明スクリーンを使用した、これまでのPerfumeのライブにはなかった新しい演出を披露。メンバー3人はスクリーンの前後に移動したり、スクリーンを自ら動かしたりしつつ、その動きに合わせてスクリーンに投射される幻想的な映像とシンクロしたダンスを繰り広げた。なおPerfumeは3月11日から海外展開用サイト「Perfume global site」にて、彼女たちの楽曲の歌詞を世界中の人々の力で46種類の言語に翻訳するという新プロジェクト「Perfume Translyrics Project」を始動させており、今回初披露された「STORY(SXSW-MIX)」は同サイトにて歌詞だけが先行して公開されていた。「SXSW 2015」のパフォーマンスではこのサイトでファンの手により翻訳された「STORY(SXSW-MIX)」の歌詞が映像の中で使用され、ファンとともに海外のステージに挑んだかのようなPerfumeらしい演出となった。「STORY(SXSW-MIX)」初披露の様子は、日本のバンドによるライブショーケース「Japan Night」を主催するSXSW Asia Repが、YouTubeのライブストリーミングを使って世界に向けて生配信。この中継映像は実際のライブ映像とCGで描かれたバーチャル空間が継ぎ目なく合成され、まるで会場内を縦横無尽に駆け巡り、時にはライブハウスの外まで飛び出したかのようなカメラワークで3人の動きを映し出した。その後のパフォーマンスも会場は大いに盛り上がり、すっかり海外ライブに慣れた3人は流暢な英語でMCを披露。あ〜ちゃんは「Make some noise!」、のっちは「We'll jump 4 times! Ready?」などと言いながら観客を煽り、彼女たちのライブでお馴染みの「P.T.A.コーナー」で海外のファンを楽しませていた。Perfume「SXSW」ライブをYouTubeで期間限定公開アメリカ・テキサス州オースティンで開催されている世界最大規模のフェスティバル「SXSW 2015」で、現地時間3月17日(日本時間3月18日)にPerfumeが行ったライブのオープニングの様子が、彼女たちのYouTube公式チャンネルにて公開された。Perfumeはインタラクティブメディアの祭典「SXSW Interactive」の最終日のヘッドライナーを務め、1曲目にこの日のために用意した未発表曲「STORY(SXSW-MIX)」を初披露。メンバーの体よりも大きな半透明スクリーンを動かしながら、そこに映像を投射するというパフォーマンスで会場を沸かせた。今回公開された映像は、SXSW Asia RepがYouTubeのライブストリーミングを使って生配信した「STORY(SXSW-MIX)」のライブ映像。中継映像では3人が実際にライブをしている様子とCGによるバーチャルなライブハウスがリアルタイムで合成され、不思議なカメラワークによる幻想的な映像で視聴者を驚かせた。なおPerfumeのYouTube公式チャンネルでの動画公開は本日3月19日より1カ月限定となる。Perfumeの公式チャンネルで公開されましたが、なんで1ヶ月の限定公開にしちゃうのか勿体無い。限定公開にするほうがコピーされて拡散されるだけなのに。動画は右下の歯車で画質を選べますが1080HD画質の画面フルサイズで見ましょう!◆「八紘一宇」発言、今なぜ国会で? 戦時中のスローガン(朝日新聞 3月19日) 「日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)」――。三原じゅん子・自民党参院議員(50)の発言は唐突だった。戦後70年の国会で、かつての戦争遂行のスローガンがなぜ? 16日の参院予算委員会。三原氏は国際的な租税回避問題についての質問で、八紘一宇とは「世界が一家族のようにむつみ合うこと」だとし、グローバル経済の中で日本がどう振る舞うべきかは「八紘一宇という根本原理の中に示されている」と語った。 そもそもどんな意味なのか。田中卓・皇学館大元学長(日本古代史)によれば、由来は日本書紀にある。神武天皇が大和橿原に都を定めた時に「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)に為(せ)んこと、またよからずや」と語った。地の果てまで一つの家とすることは良いことではないか、との意だ。 ここから「八紘一宇」を造語したのが、国家主義的な宗教団体「国柱会」の創設者、田中智学だった。 大谷栄一・佛教大准教授(近現代日本宗教史)によると、田中は1913(大正2)年、機関紙「国柱新聞」に書いた論説の中で初めて八紘一宇に言及。満州国建国を主導した関東軍参謀の石原莞爾らから熱狂的な支持を受けた田中は著書「日本国体の研究」で「ありふれた悪侵略的世界統一と一つに思われないように」としたが、やがて昭和前期には「日本が盟主となってアジアを支配する」という文脈で使われるようになる。 第2次近衛文麿内閣は神武天皇の即位から2600年とされた40(昭和15)年、「基本国策要綱」を決定。「八紘を一宇とする」精神にもとづき「先(ま)づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」とした。当時、日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争に突入する。 「挙国一致」「撃ちてし止まむ」。こうした戦争推進の国民的スローガンの一つとして「八紘一宇」も使われ、当時の小学生は習字で書き、少年向けの解説書も発行された。朝日新聞も「八紘一宇の大理想のもと父祖の大業を継ぎ……」などと戦争を支持した。 こうした歴史を背景に、この言葉に複雑な思いを抱く人は少なくない。 昭和天皇は79年10月、国体開会式出席のため宮崎県を訪問。当初、県立平和台公園にある高さ約37メートルの「平和の塔」で歓迎を受ける予定だったが、塔の前の広場に変更された。40年に建立された塔には、当時、日本が支配していた朝鮮や台湾などから運ばれた石も使われ、正面には「八紘一宇」と刻まれていた。 当時の侍従長による「入江相政(すけまさ)日記」の同年9月の記述には「八紘一宇の塔の前にお立ちになつて市民の奉迎にお答へになることにつき、割り切れぬお気持がおありのことが分り……」とあり、昭和天皇の意向が場所を変えた理由だったことを記している。 終戦時に海軍主計少佐だった中曽根康弘元首相も83年、国会で「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と述べた。 三原氏は取材に「この言葉が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化するスローガンとして使われた歴史は理解している。侵略を正当化したいなどと思っていない」と文書で回答し、「『人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう』という和の精神」を伝えたかったとした。 前坂俊之・静岡県立大名誉教授(ジャーナリズム論)はこう指摘する。 「八紘一宇は侵略のキーワードで、三原氏の質問は全く関係ない問題に『八紘一宇』を誤用した歴史無知の発言だ。終戦70年の首相談話が問題となっている時期に、グローバルな政治情勢の判断を欠いている」 「人類みな兄弟でお互いに手を取り合って」と言えばよかったのに、この時期にわざわざ使うような言葉ではないと思いますが、戦争に利用した側が悪いだけで言葉自体に罪はないんですよね。サヨクの人達は批判的ですが、実は八紘一宇の精神は鳩山由紀夫とか好んで使う「地球市民」や「東アジア共同体」に受け継がれていると思うのですよね(笑)