黒木知宏:現役引退…他球団からオファーなく 都内で会見プロ野球・ロッテを戦力外となった黒木知宏投手(34)が12日、東京都内で会見し、今季限りでの現役引退を発表した。他球団での現役続行を模索していたがオファーがなく、引退を決めた。 黒木は新王子製紙春日井から、95年ドラフト2位でロッテ入り。97年から5年連続2ケタ勝利を挙げ、98年に最多勝(13勝)、最高勝率のタイトルを獲得した。00年にはシドニー五輪にも出場したが、01年から右肩痛に苦しみ、復帰後も全盛期の球威は戻らなかった。通算199試合に登板し、76勝68敗1セーブ。防御率3.43。 今後について黒木は「未定」としながら、「(現役時代の)経験は僕の財産。野球の怖さと素晴らしさをファンに発信したい」と意欲を語った。 黒木の一問一答は次の通り。 −−まだやれるという思いは 01年に肩を壊してから6年経ち、今年は痛みもなく2軍でしっかり投げられた。10月2日に戦力外を通告された後も、現役を続けたい気持ちはありました。今の自分を必要としてくれるところがあると思っていたが、それがなかった。悔いはない。やり残したこともありません。いろいろなことを経験させてもらった。 −−一番の思い出は (98年のチーム)18連敗。(自身が先発したオリックス戦、九回2死から同点本塁打を浴びて17連敗を喫した)7月7日の敗戦が一番の思い出です。今後の財産にしなくてはならない。 −−ファンへ一言 千葉マリンスタジアムのマウンドに立ち、ファンの後押しを受けたことで、黒木という野球選手は育った。感謝し、これから恩返していきたい。 ◇「太く短く」の選手生命 新王子製紙春日井時代のコーチ、新美寿通さん プライドが高く、入社後2年間はアドバイスを何も聞かなかった。変わったのは3年目の春。1週間の合宿でフォームを修正し、速球が良くなり、エースになった。プロ入り後も時々春日井市に立ち寄り、今夏は「まだ投げられる」と言っていた。入社直後に「細く長く選手を続けろ」と言ったら、「太く短くで結構です」と言い返してきた。その言葉通りの選手生命だと思う。(毎日新聞 2007年12月12日 15時23分)-----------------------------(引用終了)----------------------------わたしは、プロ野球では一応「阪神タイガース」を応援していますが、どちらかと言えば、チームより選手個人を応援する気持ちのほうが強く、各球団に一人から数人応援している選手がいます。昨日、引退を表明した千葉ロッテマリーンズのジョニーこと黒木知宏投手もその中の一人で、日本で活躍している選手の中で一番応援していました。基本的に、わたしが応援する選手は熱い性格の人です。熱いといっても、ただ熱血なだけではダメです。マンガなら島本和彦作品が一番好きなように、熱さとともに優しさを心に秘めた本物の熱い人で、あの99年8月7日のジョニーの涙のインタビューを観ていなければ、ファンになっていなかったかもしれません。黒木投手は、7年ほど前まではロッテを、パ・リーグを、そして日本の野球界を背負うほどのピッチャーでした。マウンドに上がれば、いつも全力投球していたことにより、肩を痛めてしまい、2001年以降は度重なる故障に苦しみ、ほとんど活躍できず本当に苦しんだ連続でした。それでも、ロッテ球団が黒木投手と契約を続けたのは、黒木投手がファンからとても愛されていたからではないでしょうか。しかし、やはり球団としても、毎年、他の活躍できない選手をクビにする中で、ファンに愛されているからという理由だけで、いつまでも契約を続ける状況には行かないと判断したのでしょう。10月に戦力外通告された時点では、現役続行を希望して、そのまま引退はせず、他の球団や台湾などの海外チームからオファーを待つというチャンスに懸けましたが、残念ながらその願いは果たせず、ついにユニホームを脱ぐ決断をしました。 わたしは、千葉マリンスタジアムでのホーム最終戦後に、引退セレモニーをする黒木投手を見たかったのですが、それが叶わず、とても寂しい気持ちでいっぱいです。 黒木投手が歩んできた野球人生は、晴れた日、曇った日、そして土砂降りの日もあったことと思います。どんな逆境が訪れても這い上がるその不屈の勇姿に、勇気付けられることばかりで心から感謝しています。だれよりも熱く、だれよりも激しく、そしてだれよりも優しい、サムライのハートを持った黒木知宏さん、これまでの野球人生ほんとうにお疲れさまでした。黒木知宏さんの第二の人生に幸多からん事を祈って、これからも応援しています。大切な黒木知宏コレクションの一部です。