朝日新聞 2007年08月06日付:社説原爆の日―「しょうがない」の罪深さ(一部抜粋) だが、果たして日本の国民は、久間氏の発言を一方的に非難ばかりできるのだろうか。そんな自問もしてみたい。 日本はかつてアジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた。しかも、無数の人命を犠牲にして、負け戦をずるずると引き延ばした。その揚げ句に落とされた原爆なのだ。 一方、戦後の日本はといえば、圧倒的な軍事力を持つ米国と安保条約を結び、「核の傘」に頼ってきた。それでいて、「非核」を訴えるという居心地の悪さもある。 そうした事実を直視し、考えるきっかけにしなければいけないのではないか。-----------------------------(引用終了)---------------------------->だが、果たして日本の国民は、>久間氏の発言を一方的に非難ばかりできるのだろうか。さんざん批判していたものが、今更言えた義理なのでしょうか。> 日本はかつてアジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた。>しかも、無数の人命を犠牲にして、負け戦をずるずると引き延ばした。>その揚げ句に落とされた原爆なのだ。これはこれで、久間氏の発言(考え方)とは違った意味で、「原爆投下はしょうがない」という考え方を持っているからこそ、出てくる論調なのではないでしょうか。評論家の宮崎哲弥氏が様々な番組で述べていましたが、過去の朝日新聞を筆頭とする左派の論調は、「日本は戦争でアジアに酷い事を行ったのだから、 原爆を落とされても仕方がなかった。」 というような、“当然の報い”というスタンスで原爆投下を論じていました。30代ぐらいから上の世代もそのように教育された人が多いと思います。“当然の報い”というような論調が根強かったからこそ、1975年に昭和天皇が似たようなことを御発言された時や、本島元長崎市長の発言も問題にはなりませんでした。過去のそういった論調と久間氏の原爆投下しょうがない発言。思想的な部分を含めて意味合いが違えど、けっきょくのところ原爆投下そのものを「しょうがなかったのかも」と捉えていることにおいては、たいした違いはないのではないでしょうか。大量殺戮兵器である原爆投下そのものについて、落とされた側の論理を主張するのであれば、原爆投下に至った過程(結果論)を加えずに、原爆投下の行為そのものを批判するべきではないでしょうか。落とされた側の論理の中に、考え方の違いはあれど「しょうがなかったのかも」なんて肯定とも取れる結論を加えてしまえば、2発の原爆を落とされた日本が発する核兵器廃絶への思いの重みが薄らいでしまうだけだと感じ、とても違和感があります。