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2007年01月17日(水) 1・17 「誰かのために何かができる。」

「命を大切に」の思い込め=語り継ぐ「1.17」−阪神大震災から12年

6434人が犠牲になった阪神大震災から12年となる17日、
兵庫県内の各地では、さまざまな追悼行事が営まれ、
がれきの中から復興を遂げた街は鎮魂の祈りに包まれた。
住民たちは「かけがえのない命を大切に」という思いを胸に、
体験を語り継ぐ決意を新たにした。
 大切な人を失った肉親や友人の悲しみの記憶は、いまだに鮮明だ。
神戸市中央区の東遊園地では、今年も早朝から、
市民団体と市による追悼の集いが開かれた。
 「1・17」の数字をかたどって並んだ竹灯籠(とうろう)のろうそくは6610本。
震災による心労や病気が遠因となって亡くなった人を犠牲者に加えた数で、
昨年より15本増えた。 


(時事通信 1月17日7時1分)


-----------------------------(引用終了)----------------------------

六甲山中腹の諏訪山公園では、毎年この日に神戸市を眼下にして、

鎮魂のトランペットの響きにあわせ黙祷する追悼集会があります。

13回忌を節目に、この場所での追悼集会は最後となってしまうそうですが、

最後に演奏された曲が「千の風になって」でした。

私のお墓の前で泣かないでください。
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています。
秋には光になって畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る


 この歌詞には、もうこれ以上悲しまないでください。

千の風になって貴方を見守っているので、

どうか乗り換えてほしいという願いが込められています。

今日の日に相応しい曲だと思いました。

千の風になって  秋川雅史


・・・でも、やはり最愛の人を亡くした方にとっては、

時間の経過だけで乗り越えられるようなことでもないのも確かで・・・。

 朝日新聞の夕刊の「ニッポン人脈記」では現在、

「震度7からの伝言」が連載されています。

毎日、震災をきっかけに生き方や考え方が変った人の熱い話が綴られており、

読んでいて目頭が熱くなってしまいます。

 人口は震災前を上回り、街は震災以前よりも美しくなり、

元の賑やかさを取り戻したように見えますが、

しかし、その裏側では地域格差が広って、人の繋がりのない寂しい町があったり、

一歩路地に入れば手付かずのままの空き地がたくさんあります。

そして、復興住宅では寂しく過ごすお年寄りが大勢います。

最愛の人を亡くし、心の傷が癒されることのない人もいます。

あの日、震度7の揺れは等しく平等でしたが、月日が経つにつれ、

崩壊したり焼けたりして自宅や職場を無くしてしまった方や、

最愛の家族を亡くされた方と、

自宅や家族が無事だった人との心の差や経済格差が開いてきました。

12年の時間経過で被災されたすべての人が、

震災以前と同じぐらいの幸福感を取り戻せたわけではなく、

私たちは、そういう心の差や経済格差をちょっとでも埋める努力をしてこれたのか、

そんな思いが巡る中、被災した人々はそれぞれの思いを胸に今日を迎えました。

毎年そうですが、この日を迎える夜は、

やはり、いろいろ考えてしまいほとんど眠れません。

午前5時頃には必ず目が覚めてしまい、そのまま午前5時46分を迎え、

震災で亡くなった6434名の方々を思い黙祷します。

あの日を振り返ってみると、

地震が起きる寸前に、当時飼っていた犬のクッキーに起こされ、

クッキーが布団にもぐって来た直後、大きな地鳴りがし、

ズドーンと下から突き上げられる衝撃のあと、

とても文字では表現できない、激しくかき回されるような大きな揺れを経験しました。

布団の中で、必死にクッキーを押さえ、

何かが落ちる音や、ミシミシ、ベキバキという音を聞きながら、

揺れが収まるのを待ちました。

地震直後は、唖然呆然でいったい何が起こったのか理解に苦しみ、

すぐに地震だと認識できないほどでした。

今でも、背後から大型トラックが近づいてくると、

地鳴りを思い出して、思わず緊張感が走ります。

幸いな事に家族全員怪我も無く助かったのですが自宅は半壊でした。

外に出れば倒壊した家屋が目に入り、

風に乗って火事の煙や臭いが流れてきました。

日が暮れて夜になると、下のほうのJR六甲道辺りで燃えている火災により、

南の夜空が赤く染まっていて、火の気が近づいてくるような錯覚に囚われ、

とても怖かったことを今でも覚えています。

深夜の2時ごろに電気が復旧し、

テレビをつけたところ、「余震が続くので半壊の家であっても

避難所へ避難してください。」とアナウンサーが呼びかけていました。

それを聞き、近くの2階建ての小さな会館に避難して約3週間ほど過ごしました。

 あの日、淡路と神戸の人たちは、最愛の人や思い出のいっぱい詰まった家、

思い出の品、思い出のある町並みなど数多くのものを失いましたが、

それと同時に、全国各地から集まった自衛隊のみなさん、消防のみなさん、

警察のみなさん、医療チームのみなさん、電気、ガス工事のみなさん、

ボランティアのみなさんなどなど、

救助救援復旧活動に携わってくださった多くの人々からの

暖かい支援の輪の心に触れることができ、

多くの出会いや教訓を得たことも確かです。

今でも言い尽くしきれないほどの感謝の気持ちでいっぱいです。

全てのみなさん本当にありがとうございました。

政府やメディアは、この震災の多大なる犠牲や、

救助救援復旧活動に携わってくださった方々から、

何かをちゃんと学び取ることができたのでしょうか。

また明日になると、何事もなかったかのように、

来年の1月17日が訪れるまで、TVや新聞は報道しなくなりますが、

しかし、復興に向けて一生懸命努力している人たちや、

最愛の人を亡くし、寂しさの中で、

心の傷と懸命に戦って生きている人たちが、

たくさん居ることをどうか忘れないでください。

 震災からの10年間は復興への10年。

これからは、いかに減災に繋げていくのか教訓語り継ぐ10年なのだそうです。

他の地域にとっては、もはや他人事なのかも知れませんが、

被災した人にとっては一生忘れたくとも忘れられない記憶です。

震災を体験した当事者であれば、5年、10年後も

映像や文字でその日々の状況を伝えることができますが、

しかしながら画面を通しての映像や紙を通しての文字は記号の集まりですから、

細部にわたるリアリティーを伝えるには限界があり、

いかに説得力のある教訓を与えることが出来るのかが難しく、

このジレンマに悩むところですが、日本は地震大国なのですから、

またいつの日にか何処かの地域で大震災が起こる事は確実なので、

その時に減災の役に立てるように、

どのような事、些細な事であっても伝えていくことが、

生き残った者や被災者を支援した人々の責務ではないかと思っています。

「誰かのために何かができる。」それは命あるからこそできる

優しさを具現化した力の輝きなのだから。


あらためて震災で亡くなられた6434名のご冥福をお祈りいたします。


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