デスク余話『溶けゆく日本人』− 「溶けゆく日本人」――産経新聞で今週から始まった、中面(なかめん)に掲載される連載企画の題名である。表題の示すとおり、「本当に日本人は南極の氷のように溶け始めているのではないか」と、個人的に共感する部分が多い。いや、多いというよりはほぼ肯定したくなると言った方が、当たっているのかもしれない。 議場で携帯電話に興じる国会議員、給食費はおろか小学校の授業料まで「義務教育だから」と払おうとしない親、電車内で黙々と化粧にいそしむ女性たち、公園に家庭ゴミを捨てに走る人たち。昨日(12日)の紙面では、救急車をタクシー代わりに使う“懲りない面々”の急増を、その余りのわがままぶりと共に描いていた。「30分後に救急車を1台」という注文まであったことが、笑えない実話として紹介されている。 日本人のマナーの低下とその“公”意識のなさは、何も今に始まったことではない。しかし、その程度と開き直りはますます深刻になっているし、これは時と場合によっては人の生命にかかわる問題ですらある。救急車の例などは、下らない軽微なケガのために、重篤な心筋梗塞(こうそく)の患者の搬送が遅れる事態だって考えられないことではないのだ。 原因をどこに求めたとて、不毛な議論になってしまうことも分かっている。親が悪いと言ったところで、その親でさえ(例え40代、50代であっても)自分の家の事情しか考えない“自己チュー”の割合が増え続けているのが現実だ。あえて言えば、日本の戦後教育が「自分らしさ」とか「選択の自由」を強調し過ぎたため、私も含めて多くの人間が、人生の本質を教えられないまま育って来たのではないだろうか。 人は生まれれば必ず死ぬ。そして、生きていくために人の手を借りないといけない。また、ルールに従うという知恵をキチンと身に付けないと、争い事が絶えなくなるということだ。 『国家の品格』(新潮新書)を書いた藤原正彦さんではないが、本当にこの国の「国柄(くにがら)」と呼べるものは地に堕(お)ちたという気がする。かつて日本を訪れたイエズス会神父のロレンソ・メシアは「日本はわれわれの想像もつかぬほど清潔な国だ」と、その書の中に書いた。日本を訪れた外国人の印象は、信長の時代から江戸、明治とほぼ変わっていないのだ。「こんなに人々が親切で美しい国は、絶対に世界中にない」だったのである。 そして、ここに来ての兄弟によるバラバラ殺人事件、さらにセレブ夫婦(あえてこの言葉を使う)間のバラバラ殺人――この国で起こっていることはまさに、私の貧弱な想像と理解を、はるかに超えてしまっていますね。 今回の事件で特に印象に残る点とは言えば、夫婦バラバラの起こった渋谷区富ヶ谷は私の実家のすぐそばであるということ。かつてあのマンションの建つ辺りは大きなお屋敷が並んでいたのだが、切り売りの末にマンション群になった。また、歯科医の二男によって妹の短大生殺しが起こった同区幡ヶ谷だってよく知っている。父親が事件を届けたという所轄の代々木署はすぐ近くですな。体面なのかどうか、この猟奇的事件が発覚後、1時間半も届け出られなかったことは、どうにも腑(ふ)に落ちない事実である。 先述した藤原正彦さんは、著書だけでなく本人の語り口も明快だ。テレビでの「子どもが間違ったことをしたら、2、3発張り倒せばいいんですよ。私はそうしてきました。ただし、ほめる時は徹底的にほめ上げます」とのコメントが印象的だった。恐らく、この2つのバラバラ事件の被疑者の親たちは、子どもたちを“張り倒す”ことはできなかったのではないだろうか。【了】(ライブドア・ニュース 2007年01月13日)-----------------------------(引用終了)----------------------------昔から、親の子殺し・子の親殺しなどの家族間の殺人や、バラバラ殺人は発生しており、日常に溢れてきたモラルハザード(倫理欠如)と、メディアを賑わす極端な犯罪とを一緒にして論じてしまうのは、強引な解釈ではないでしょうか。 『国家の品格』の著者藤原正彦さんがテレビ出演していたのは見ました。子供が悪いことをして何度言っても理解できず同じ間違いを犯すようであれば、張り倒す体罰も必要だとは思いますが、子供が悪いことをしたら、イキナリ体罰を加えるというのはあまり同意できません。最近は、「怒る」と「叱る」の意味を混同しているような気がします。感情的に「怒る」のと、冷静になり諭すように「叱る」のはまったく違い、体罰は「怒る」に属していると思います。「叱る」というのは、子供が何か間違ったことをすれば、何故自分のしたことが間違いだったのか、その理由をしっかりと説明して、時間をかけ理論的に反省を促す行為です。言葉の意味を理解できない幼稚園児ぐらいまでの子供でも、手を握り締め、子供と同じ目線になりちゃんと目を見て、いけない理由を説明すると雰囲気で子供は理解するそうです。感情的になって怒るということは親ならば誰でも経験したことがあると思われますが、 怒りの中にイキナリ体罰という選択肢を選んでしまえば、今後も、感情的になって体罰に頼ってしまうことが発生します。冷静になって叱れる人というのは、先ず一呼吸(深呼吸)ついてから叱る行為に移るそうです。間をおくことで自分の感情を冷静に整理出来るという理由です。怒ると叱るの違いはここに集約されているのではないでしょうか。買い物に行ったりすると、たまに子供を感情任せに怒っているといか当り散らしている母親を見ることがありますが、子供は、ただ怒られたという恐怖心が植えつけられるだけで、何が間違いだったのかを理解できずにいるのだろうなと思います。体罰なく育っても立派な人間に育つ人はいくらでもいます。私の周りで「目配り気配り思いやり」が自然と出来ている尊敬できる立派な人は、子供の頃に親から感情的に怒られた経験がないだろうなという人が多いように感じることがあります。何がいけないかの本質を冷静に諭すように叱られていたことで、心の成長につながり、どういうことをやれば他者が嫌がるかを理解でき、他者にたいしての「目配り気配り思いやり」を持て、さりげない気配りができるようになったのではないかと思うのです。 先週の火曜日の日記で、>日本は“美しい国”に立て直せるどころか、>“美しくない国”へ急速に進んでいて、>もう手遅れなのではないかとすら感じることが多いです。と書いたところ、子供の教育を変えないとダメだという意見を多く頂いたのですが、これも正論ではありますが、それだけでは難しいと思います。子供は親や社会の背中を見て育つものであり、 モラルのない親がマナーやモラルを守れと言っても、子供は「お前が言うな。」で従わないでしょうし、子供の目に触れる大人が、マナーやモラルを守らない人間が多いので、そんな大人達を目の当たりしていれば子供だけが真面目に従うとは思えず、子供に対して、いかに恥の概念(羞恥心)が無くなることは自分が生きていくうえで、デメリット(損)のほうが大きいのだということを理解させるための教育だけで、日本人の下降するモラルの低下をある程度の水準に立ち直らせることは、難しいのではないでしょうか。まずは子供の手本となる大人が、せめて外出先だけでも「目配り気配り思いやり」を心がけるべきだと思います。↓エンピツ投票ボタンです。 押してくださると日記を書く励みになります。エンピツ時事/社会ランキング エンピツ総合投票ランキングMyエンピツ追加