一昨日の朝、通勤路で自動車に轢かれた鳩の遺骸と遭遇した。
私は生きている物なら、動物でも虫でも平気だが、死骸とか死体は生理的に受け付けない。虫ならまだ視界に入らないよう気をつけていれば平気だが、鳩となると、そこそこの大きさがあるので、そうもいかない。しゃがみ込みたいほどショックだったが、止まるとそれを見続けないといけないので、視線を遠くにやって猛ダッシュした。
十中八九、鳩の死骸はずっとその場所にあると思われるので、昨日から遠回りをして、その道を避けるようにしている。おかげで高校の教科書に出てきた梅崎春生『猫の話』を思い出してしまった。あの作品は、猫の死骸が朽ちていく過程を描写したもので、呪わしいほど生理的に駄目だった。その頃から読書好きだったが「小説家の頭の中って、なんて気味が悪いんだろう」と、心底恐れた覚えがある。
「死」と言うのは特別なことではなくて、生きていればかならず通過しなければならない過程だし、だいたいからして死体や死骸は自分に対して何もしないのだから怖がることなんてありゃしないのだと頭では理解しているのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
可愛がっていた犬が死んだ時も、触るのが嫌で嫌でたまらなかったし、祖母の時も、父の時も、告別式の時に「最期のお別れだから」などと顔を見なければならなかった時、逃げ出したいほど嫌だったのを記憶している。「触ってあげなさい」とか言われた時には卒倒しそうだった。周囲の視線が怖くて、なんとか持ちこたえたが、あれは一種の拷問だった。
小さな死体よりも、大きな死体の方が怖い。動物でも人間に近ければ近いほど怖い。自分が死ぬまで、自分以外の人間の死とは遭遇したくないとさえ思う。「死」というものに対する哀しみや恐怖はある程度、仕方がないと思うが「死体・死骸」といった「器」に関することは、どうもなぁ……怖いと感じる事じたい馬鹿げているようにも思うのだがなぁ……
ちょうど今『芽むしり 仔撃ち』を読んでいて、やたらと死人が出てくるので、余計にツマラナイことばかりを考えてしまうのかも知れないけれど、なんとなく一昨日から鳩の死骸にとりつかれている。その類のことは考えたところで答えの出る問題ではないのだけれど、たま〜に囚われてしまうらしい。「死」は不思議だ。そして怖い。だけど「生」はもっと不思議だし、もっと怖い。
なんだかイビツなことばかりを書き散らしてみたところで今日の日記はこれにてオシマイ。