白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2004年01月02日(金) 反正月論

一応、日本人として暮らしているので「私って、なんだかんだ言ってもクリスマスより、お正月の方が好きなんです。やっぱ日本人はお正月ですよね」などと公言しているが、ぢつは私。正月に対してもビタ一文の思いいれもない。クリスチャンでない人間がクリスマスに肩入れできないというのが道理というのと同じならば、神道でない人間が正月に肩入れできなくたって当然だろうと思うのだが、しかし、クリスマス以上に「正月なんて、どーでもいいや」とは言い難いのも事実である。

正月のどこがいいのか、私にはまったく理解できないのだ。

正月が、時間を区切る節目という認識はあるので「新しい年は、自分にとっても、自分が大切に思う人にとっても良い年であるといいな」と思う気持ちに嘘はないし、文化的に「なるほど」と思う部分もあるが、私の中では「正月は冬場の長期休暇」以上の認識が持てないのだ。

しかし、だからといって「正月」を完全否定するつもりはない。もしも私に養育義務のある子供がいたら、おせち料理も作ったり、お年玉をあげたり、初詣に行ったりするだろう。だが、それは「愛する子供が、これから先の人生で困らない知識を与えるため」の教育であって、正月そのものに心酔しているからではない。自ら「ビバ! 正月!」な姿勢をとっているのは「そういう風にしていた方が何かにつけて、生きていくのに都合が良さそうだから」に過ぎないのである。

「お正月だから贅沢しよう」なんてノリをみても「本当にしたかったら、正月でなくてもすればいいじゃないの」と思うは「お正月はテレビが詰まらなくてねぇ」なんて話を聞いても「つまらないなら観なくてもいいのに」と思ってしまう。何故にゆえに、こだわってしまうのだろうなぁ。私には、つくづく理解できない。

ぶっちゃけた話「あまり大きな声では言えないけれど、正月なんて、どーだっていいや」って思っている人間も多いんぢゃなかろうかと思うのだが、どうなんだろう? やはり少数派の意見なのだろうか。桜が咲いたことを喜んだり、コタツの虜だったり、鍋料理が好きだったりという感覚は肌感覚的な部分で理解できるのだけどなぁ。歴史的な作り上げられた文化に共感できない……ってのは、動物的ってことなんだろうか?

要するに冬の休暇は楽しんでいるが、正月は楽しんでいないな……て事なんである。そりゃそうと正月は滅多に出てこない芸人さんの顔が拝めるのでお笑い好きとしてはありがたい。正月休みもあと少しで終わっちまうなぁ…サミシイなぁ……ってことで今日の日記は、これにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2002年01月02日(水) 元旦に己の未熟さを知る

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