白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2003年09月19日(金) 記憶の重さ

空が高くなってきたなぁ。朝の空気を気持ちよく感じる季節になった。

昨日は「今週はお弁当を作れていない」なんて愚痴を書いたけれど、今朝はちゃんと作ることが出来た。今週の成績は一勝三敗。「出来そうにないけど、やりたいこと」は日記に書いておくと良いかも知れない。言葉には「言霊」が宿っていてのぅ……という説はもちろんのことだが「書いた手前やらなくちゃ」という見栄が大きく働くのだ。別にチェックが入る訳でもないし、本当にしたかどうかなんて書かなければ分からないのに、この律儀さは何なんだろうなぁ。

昨夜もFから電話があった。メールで済ませられるような用事だったのに、わざわざ電話をかけてくるのは人恋しいモードに入っているのだろうか。最近、Fからの電話率が高いような気がする。

昨夜は『ぼくらはみんな生きている』というドラマ(私は観ていないんだけど)の主人公について話をした。バイクの事故で酷い記憶喪失になった男性の話。以前、作者が『徹子の部屋』に出演しておられたのを観たことがある。人の顔はおろか、字の書き方から、箸の持ち方、キャンディは包みを開いて食べるというこさえ分からない状態になってしまったとのこと。そして事故の前と後とでは立ち振る舞いから趣味嗜好も変わってしまって、まったくの別人になってしまったのだとか。

とても哀しいことを体験した時に「胸が痛い」なんて表現をするが、こういう話を聞くと人間の心があるのは、やっぱり脳なのだなぁ……なんて思ったりする。こういう仮定は不遜だけれど、もし友人や恋人が、そういうタイプの記憶喪失になったとしたら、付き合っていけるだろうかということを考えた。私もFも「たぶん無理」と答えを出したのだが、どうなんだろうなぁ。

それでも付き合い続けられたとするとしても、純粋に「深い愛だ」と思えない部分がある。まったく別人になった人と付き合えるということは相手の人格でなくて「見た目」で付き合っていたということが考えられる。または別人であることは分かっている上で「それまでの記憶」を頼りに付き合っていくということも考えられる。人の心ってムツカシイ。

昨日のドラマでは家族が主人公をサポートしていったらしいのだけど、現実問題を考えると、家族だったら、付き合えるとか、合えないとかでなくて一緒に暮らしていかなきゃならないんだなぁと思うだに、血の繋がりとか、法律上の繋がりって、存外重たいのだと思ったりした。その人の記憶が真っ白になってしまった時点から、新しく記憶を作っていくのだと思うと、なんだか切ない。友人や恋人だったら出来ないんじゃないかなぁ……そういうこと。

人間って、いかに「記憶」で作られているのかってことを、はじめて考えたように思う。

そう思えば、楽しい記憶も、消してしまいたいような記憶も自分にとっては、ほとんど同じくらい重要なのだろう。あんな記憶も、そんな記憶も、積み重なってきたから今の自分があるのだから。もしそ記憶の一部が欠けてしまったら、今の自分ではない違った人間になっていたのだろうなぁ。そう思えば「嫌な記憶」というのも財産であり宝なのかも知れない。消したいような記憶を「宝物♪」なんて思うのは不可能だろうけれど。

「記憶している」ってだけでも、何か意味があるのかも知れないなぁ……ってことで、今日の日記はこれにてオシマイ。


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2002年09月19日(木) オフィスの妖精。

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