白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2003年07月23日(水) おばあさんになっても。

今日こそは戴いたチケットで映画を観ようと思っていたのだけれど、よくよく考えてみると本日は水曜レディースデイ。最終回は混雑しそうな気がしたので、明日か明後日にでも行こうと、真っ直ぐに帰宅。ヤバイなぁ……今週でオシマイなんだしチケットを無駄にしないようにしなきゃなぁ。「今日は混んでそうだから」と言うのは自分へりの言い訳。草臥れていて行く気になれなかったのだ。本当は。

帰宅したらば前職場の同僚から暑中見舞いが届いていた。

向日葵の柄のかもめーるにボールペンで走り書き。忙しい合間をぬって、ササッと書いたであろうハガキに胸が詰まった。頑張ってるんだなぁ。みんな。それにしても忙しい時にも、こんな風に手書きの暑中見舞いを出せるだなんて出来た人だ。出来すぎな人なだけにバテていないかと、ちょっと心配。「飲みに行きましょうメールください」とあったけれど、飲みに行きたいような気分なのかなぁ。またメールしてみよう。

暑中見舞いを読んでいて、ふと元・相棒の引越しの後片付けを手伝いに行った時の話を反芻してしまった。元・相棒は「私のいる場所はこんなところぢゃない」という気持ちの強い人で「やりがいのある仕事がしたい」というようなことを始終話していたのだけれど、転職して考えが変わったらしい。「取り立てて仕事に理想がないなら、面白い仕事ぢゃなくてもいいから、おばあさんになるまで働けたらいいかな」と思うようになったのだそうな。

思いもつかない言葉だったので、ひどく驚いてしまった。

私は「理想は専業主婦」とか「隠居願望が強い」とか散々っぱら言い散らかしているのだけれど働けるあいだは働いているだろうと思っている。宝くじでも当たれば別だろうが(それ以前に買ってもいないし)生涯、働き続けるのが当然のように考えている部分があったのだが、それは「当然」ではないのだということに、はじめて気付いたのである。働く場所が無くなるとか、働ける身体でなくなる可能性を実感として感じたことがなかったのだ。なんという能天気。色々な事情で働けなくなる可能性なんて、どこにでも転がっているのに。

先のことをウダウダ考えるのが好きなくせに肝心なところが抜けているぢゃないか。

もうちょっと、しっかりと先のことを考えた方がいいのだろうなぁ。行き当たりバッタリでブッちぎるというテもあるだろうけど。なんとなく、そんなことを考えてみたりして、だけど答えが出るわけもなく今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2002年07月23日(火) 三十路の憂鬱?

白蓮 |MAILHP