白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2001年11月05日(月) 必然なのだと・・・

すべての出会いは偶然ではなく必然であると思う。

唐突に真面目な書き出しだが、つくづくそう思う。
ある方の公開日記に「ネットの世界は広いようで狭い」
・・・という話が書いてあったけれど本当に・・・まったく。

ネットの世界は広大で、しかも「匿名」という手段が使えるにも係わらず
「偶然」知人を見つけてしまったりなんかする事がある。
いくら匿名であったとしても「あっ、あの人は!」
・・・と分かってしまうのは、どうしたものだろう?
そして何よりも広大な空間でバッタリ会ってしまうというのは
いったい、どうしたものだろう?

いや・・・つい昨日もネット上の思い掛けない場所で
知っている人を一方的に見掛けてしまったもので。
それは、その人にとって「そっとしておいて欲しい」であろう空間だった。
↑もちろん私の勝手な推察。
正直言って吃驚した。

偶然って恐い。

私自身、この空間で「日記用のハンドルネーム」を使って
言いたい放題というか、気持ちを整理しているというか・・・
とにかく毎日、ウダウダと書き連ねているのだけれど
「あっ。こんな場所にアイツがいる!」
などと私の知人が読んでいる可能性もあるのだと再認識した。
もしも偶然、この空間で知人と出会ってしまったのなら
それは必然の出会いなのだと私は考えているので
そんなことがあってもいいような物を書いているつもりだけれど
かなり「ス」のままの気持ちが書いてあるだけに
もしも私の知人が、この日記を読んで「あっ、あの人は!」
などと気付いた日にゃぁ、多かれ少なかれ吃驚するのではないかと思う。

「太陽の下」的な空間だったら、さほど吃驚しないのだろうけれど
そうでない場合は複雑な心境に陥ってしまう。
実際、私は偶然知人を見掛けて非常に複雑な心境だったのだ。
それにしても、広大な空間で「偶然」に出会ってしまうということは
なにか惹かれ合う物があるのだろうか?

たかが出会い。されど出会い。

「出会い」ひとつに、何某かの意味を付けたがるだなんて
なんだか思春期の少女みたいで気恥ずかしいのだけれど
「あ〜でもない、こ〜でもない」と色々と考え込んでしまった。

くどいようだけれど「出会い」というのはやはり必然だと思う。
決して出会わない、繋がらない関係だってあるのだから。

繋がることの幸せ・・・
繋がることの不幸せ・・・

「出会い」や「繋がり」に対する感じ方は人それぞれだと思うけれど
私の場合は「繋がっていたい」と願う部分が大きいようだ。


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