白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2001年11月03日(土) 乙女達へ?

嶽本野ばら『カフェー小品集』青山出版社 を読んだ。
それは私にとって今年1番の衝撃的な1冊だった。

ベビーピンクの表紙に白い帯・・・
乙女が好みそうな装丁をほどこされた、その本のコピーを読んだ時
私は書店の店頭で卒倒しそうになった。

「乙女に捧げるカフェー巡礼」

乙女。おとめ。をとめ・・・
一家の大黒柱として働く29歳の私を打ちのめすにすは充分な言葉だ。
そりゃぁ、もう、恥ずかしくて逆立ちしたいくらいだった。
こんなに恥ずかしい思いをするなら買わなければ良いのだろうが
「食わず嫌いせずに読んでみて感想を」なんて約束をしてしまっていたので
後には引けなかった。

で。
あまりにも恥ずかしかったので2冊買って
余分に買った1冊は、私と同じように恥ずかしがるだろう友人へ
思わず送りつけてしまった。
↑いわゆる、ひとつの道連れって感じでしょうか。
こういう体験は「誰か」と分かち合いたいと思うものだ。
1人ぼっちじゃ、つまらない。

で。
肝心の本の内容だが想像通り
・・・いや想像以上に素晴らしいものだった。
ある角度から見ると
「優れた感受性と、たおやかな叙情性」を秘めた作品と言えるし
別の角度から見ると
「とても普通の神経では読めないナルシズムの世界」と言えるし
違う言葉で置き換えると
「一種のお笑い的要素をも含んだ名作」だとも言えるだろう。

たぶん上記の感想は、どれも間違っていて、どれも的確だと思う。
大笑いしながら読んでしまったのだけれど
なるほど納得と、うなってしまった部分があるのも事実なのだ。

が。
哀しいことだが、私に、この種の本は似合わない。
なぜなら私は「乙女」でないから。
「子供」「少女」という枠から「女性」
・・・という枠へ以降していった自覚はあるのだけれど
「乙女」であった自覚はないし、少なくとも現在「乙女」ではない。

「乙女」の定義とは、いったいなんなのだろう?
「少女」と「乙女」は違う。
年齢的には同じ束で括れてしまえそうなものなのだが
まったく異質なものだと思う。
ある程度、年齢を重ねた女性に
「乙女」を感じることもあれば
まだ学生だろう年頃の女性に
「乙女」を感じないこともかる。

「乙女」ってなんだろう??

いや・・・
それにしても嶽本のばら、侮りがたし!
たぶん、もう・・・私が彼の著書を買うことはないだろうけれど
彼の今後の動向には注目していきたい。

ふぅ。いいもん見つけたなぁ。
生憎と私は「乙女」ではないのだけれど
いつか「乙女」にプレゼントしたいと思った1冊だった。


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