まつや清の日記

2006年01月02日(月) 『下流社会』(光文社)を読む

 昨年のベストセラーとなった三浦展氏の『下流社会』、金子勝さんが「ブッシュと小泉の選挙の狙いが奥深い所から見えてくる」と評する社会分析です。副題に「新たな階層集団の出現」とあるように「格差社会」の現状を客観的に明らかにした書として注目されていました。

 地域政策研究所で「団塊の世代とニート・フリータ世代が仕事をキー概念に語り合う」シリーズも既に4回を終わり、1月11日にはコピーライターでもあり演劇脚本家でもある高岡基さんが予定されています。この企画を通じて若者の仕事意識とは、ということでこの本も話題になっていました。

 目次は、第1章ー「中流化」から「下流化」へ、第2章ー階層化による消費者の分裂、第3章ー団塊ジュニアの「下流化」は進む、第4章年収300万円では結婚できない!?、第5章ー自分らしさを求めるのは「下流」である、第6章ー「下流」の男性はひきこもり、女性は歌って踊る、第7章ー「下流」の性格、食生活、教育観、第8章ー階層による居住地の固定化が起きている、です。

 団塊の世代(狭義には1947年から49年、広義には1945年から1952年、団塊ジュニア(1971年から75年、真性という別の区分でいくと1973年から80年)、新人類世代(1960年から68年)、昭和ヒトケタ世代(1926年から34年)の4つの世代、そして男女比較が入って8つの世代パターンを対象に様々な質問項目を用意して「上流」「中流」「下流」意識分析を行います。

 簡単に言えば、団塊世代は自分らしさを自他と共に求めた世代で「上流」意識を持つ人ほどその意思は強い、が、団塊ジュニアにおいては、自分らしさを強く感じるのは、「下流意識」を持っている人たちである、としてこのことが書全体を通じて何故そうなのか、が追求され、そのことが階層化社会にどうかかわるかを分析します。

 団塊の世代である私自身が、まさに「自分らしさ」を追い求めてきたが故に、現代の若者のあまりに個人を大事にして他者とのぶつかり合いを回避する、ディベートはうまいのですが、その姿勢はいったい何なんだろう、がいつも疑問としてありました。どこで、彼ら世代と対等な関係が結べるのだろうか、課題です。

 そのことを、私は、以前より、第1に若者の「自分らしさ」意識を、過剰な個人主義と未成熟な個人主義の2面性としてとらえ、社会参加=普遍的全体価値と個人の関係をどう紐解くか、第2に新自由主義的労働社会の中で学歴社会と年功序列社会の崩壊と若者のフリーター化現象との関係をどう紐解くか、との問題意識で考察してきました。

 ただ、ここまでデータ分析に徹底すると、「だから何なんだ」と言い返したくなるほどに執拗に「自分らしさ」意識を客観化します。変革の意思はどこに現れるかという点で、その答えを追い求めれば求めるほどいらだちを感じてしまうのは、団塊世代への思い入れでしょうか。

 最終章の東京の住居を、明治維新での「第1の山の手」、明治・大正時代の「第2の山の手」、関東大震災後の「第3の山の手」、戦後の「第4の山の手」と高級住宅街が移動していくさまと「上流」「中流」「下流」意識分析は圧巻です。階層社会論が単にアンケート調査分析だけでない歴史性と都市計画性をミックスしての問題提起は読者に大きな刺激を与えてくれます。

 そして、「おわりにー下流社会を防ぐための「機会悪平等」」で政策提起となります。階層化解消のために「機会平等」を説く学者への厳しい批判的始点を提示しながら、階層化社会をそのまま肯定する姿勢でないことを明示します。一読をお勧めします。


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K.matsuya

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