まつや清の日記

2005年04月30日(土) 『ナショナリズムの克服』(集英社新書)を読む

 韓国・中国の反日運動高まる中、ふと書店で見かけた姜尚中さんと森巣博さんとの対談集『ナショナリズムの克服』という新書本。姜さんはいろんなところでカウンター学者として有名人で森巣さんは全然知らない人。立ち読みで森巣さんの自称、博徒で国家を捨ててのさすらい人としてオーストラリア在住の肩書きに引っ張られました。

 二人の博識には驚きますが、第一章は、90年代のグローバリズムとの対抗関係での政治的ナショナリズムに焦点を当てながら、江戸期から明治、敗戦、戦後と歴史的にナショナリズムの系譜が分かりやすく解説されています。森巣さんの戦後日本の数多の「日本人」論を「俺のちんぽこ大きいぞ」論、「固いぞ」論、「古いぞ」論に加えて姜さんが「繊細」論まで展開して整理していくところは笑えて面白い。

 
 第二章は、姜さんの在日韓国人二世としての個人史を軸に展開。第三章が森巣さんの世界放浪を軸に、二人が同時代に生きながら、民族にこだわらざるえない在日韓国人、国家・国境を捨てた日本人がどこでお互いを認め合うか。ふたりにとって、「故郷とは何か」、「アイデンティティとは何か」の議論。第四章で、そうした二人が「民族概念をいかに克服するか」、第五章で「無族協和をめざして」で異質なものどおしの共存共栄の可能性を論じる、とい流れ。

 姜さんが指紋押捺拒否者であったこと、また、押捺をしてドイツ留学をされたことなど、いままでと違う側面が見えて、私自身の姜尚中さんという学者に対する評価がより深化。1980年代に、静岡県内での在日韓国人の指紋押捺拒否の運動に関わってきたものとして当時議論されていた「日本列島に住む日系、朝鮮系、中国系、アイヌ系、沖縄系の日本人論は展開できないのか」つまり血のつながりとしての戸籍=国籍でなく、出生地主義とししての国籍論転換の議論の意味を改めて再確認。

 その流れでいくと、知的刺激として「帝国」と国民国家の比較があります。アメリカも中国も帝国、それは異質ないくつもの民族を国家的共同性の元に包摂していく支配的システムをもっているが、日本は万世一系の天皇制でそこが超えられない。やっと女性天皇を認めるまでになろうとしているがヨーロッパ王室はほとんどが国際結婚。実は、グローバリズム時代に経済や安保だけでなく、国家構造のありかた自身も大きな転換点にあることをこの本は教えてくれます。


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K.matsuya

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