昨日の小泉首相の北朝鮮訪問の評価は二分しています。 8人の帰国のはずが5人。 10人の不明者の調査が口約束。 核問題はピョンヤン宣言の枠組みの再確認。 にもかかわら食糧・医療費援助は具体的、のみならず経済制裁は行わない宣言。これでは、北朝鮮の外交政策の手助けのみで日本の外交成果はほとんどなしという政府批判が厳しく行われています。
今日は東京で働く長女との久し振りの議論、学生時代と違ってテーマ設定がお互いに了解できるものとなり成長を感じてしまいました。(親ばか?)
この議論をしながら実はテレビをつければ北朝鮮拉致問題の報道があることは分かっていても、そして、見たいと言う欲求もありながらも結局は団欒を優先、その中で感じることは、このようにして政治と生活にかかわる情報は取捨選択されているのだなという実感です。
この1ヶ月を見ても「自己責任」「年金未納」「拉致」この言葉があらゆる生活の場で大量のマスコミ情報として「流し込まれる」報道の一過性の怖さ、その大量情報への対抗する事の難しさ、しかし、一方で、これらを平気で捨て去れる生活のリアルな情報世界。この遮断はなんなのだろう。大量な政治情報もそんなに怖くないと言うことなのか、逆なのか。
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