2004年01月28日(水) |
映画『ミスティック・リバー』を観る |
クリントイーストウッド監督の作品である。 荒野の用心棒などマカロニウエスタンで一躍有名になったことで知られている。 映画を観ることなど、めったにない高校生の頃、この映画に興奮した.
きのうのスポーツ紙によると、ラスト・サムライの渡辺謙とミスティkック・リバーのティム・ロビンスがアカデミー賞の前哨戦となる第61回ゴールディングローブ賞で助演男優賞を争い、ティム・ロビンスが受賞したとのこと。
ジミー、デイブ、ショーンの三人の物語である。 遊び友達の三人が、あるいたずら事件をおこし、それがきっかけでデイブが性的虐待を受ける。この三人が25年後に再び出会う。デイブは、性的虐待の痛手から立ち直れまま、性的虐待現場を偶然に目撃し、加害者を殺す。この殺人事件が最後までストーリー的には隠され、ジミーの娘の殺人犯として疑われ、ジミーがそれを勘違いしてデイブを殺す。ショーンは、刑事としてこの事件を追い、犯人を発見する。娘の殺人犯は、ジミーの恋人の弟と友達であったことが最後にわかる。
ジミーがデイブを殺す、その同時刻にジミーの娘の殺人犯が発見される、そのサスペンス的シーンが観ている側に極めて高い緊張感を与えていて、どうしてデイブが殺されるのか、殺さないで欲しい、という切ない想いが無残にも裏切られる。幼児期に性的虐待を受けたデイブが、ジミーの娘殺しとして殺される。幼き被害者が、大人になっても被害者となる。殺人によって加害者にもなっているのだが。
ジミーは、一方で若い頃の強盗事件で、自分を警察に売った仲間を出所後に殺していた。その殺された男の息子がジミーの娘の恋人であるという複雑な設定になっていて、観るものにどうしてここまで悲劇を悲劇として観客に強要するのか、と想ってしまうのである。そして、過去の殺人事件をおこしたジミーが、再び殺人事件をおこして、普通に生きつづけるのである。 理不尽がストーリーを引っ張る。
25年後に出会った三人が、何度なく語る共通の言葉。 あの性的虐待事件でデイブでなく、ジミーが、ショーンが連れ去られていたら、その後の人生はどうなったのだろうか、と。 あれは、夢であったのか。
性的虐待事件も偶然性だが、ジミーの娘の殺人も偶然性の中にある。
人生の中の偶然的経験、その偶然がただ1回の人間の人生をその人の個的な人生として作り上げる、アメリカ社会の犯罪の陰に潜む人間の苦悩を描いている作品といえる。重苦しい映画であった。
救いは、最後のシーン。ショーンが殺人事件の解決の過程で家族の意味を悟り、家を出て行った妻の無言電話を相手に自らの生活を謝罪をするシーン。妻がその謝罪に語り始める。この場面に思わず涙が出てしまうのである。つまりは、心傷を癒すもの、それは、人間が強く自己反省にいたった時に持つことができる他者に対する寛容さであることを再認識させてくれる。暴力、復讐、寛容このことの意味があらゆるところで語られている映画でもある。
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