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2018年11月17日(土)
Festival/Tokyo まちなかパフォーマンスシリーズ『テラ』

Festival/Tokyo まちなかパフォーマンスシリーズ『テラ』@西巣鴨 西方寺

『豊饒の海』から輪廻転生、仏教の世界へ。こういう数珠つなぎ好きなんですよね、呼んだわけではないのに自分の興味が一点に集まる。構成・演出は坂田ゆかり、出演は稲継美保と田中教順(田中さんは音楽、演奏も)。

テラにまつわるあれやこれ。三好十郎「詩劇『水仙と木魚』── ―少女の歌える──」ほかを原案に、落語的ひとり芝居、法話、木魚コールアンドレスポンス等楽しく真摯に死生観を探る75分。西巣鴨に何故寺が多いのかという話題から、区画整理の産物としての寺、ご近所さんとしての寺、コミュニティの場としての墓バー(行ってみたい!)と枝葉が拡がっていく。稲継さんの語り口が見事、劇場とは違う空間でのパフォーマンス環境に構えていた観客の緊張をあっという間に解いた。『グッド・デス・バイブレーション考』の演技にも嘆息したものだが、またも驚嘆。物腰は柔らかいが芯にドライな感触があるのは、ひとり芝居の公演を重ねることから生まれた強さなのかななどと思う。声色、言いまわしは正に落語のそれで、話に聴き入ってしまう。身体の弱かった幼少期、幼なじみの男の子。ロミオとジュリエットよろしく両家は対立するお寺さん。しばし芝居だということを忘れ、そうか、ちいさい頃の彼女はずっと家で寝ていたのだな、などと思ってしまう。

それを加速させたのは田中さんの介入。そもそもこの作品、田中さんが観られるというのでチケットをとったのだが、ここ迄ガッツリ作品の内容に彼のパーソナルな部分が結びつくとは予想外だった。幕開けも、幕切れも彼から。入場、演奏、トーク(後述のインタヴューで坂田さん曰く「ドラム漫談」(笑))、演奏、退場。ひとしきり話し続けた稲継さんが「じゃ、ちょっと行ってくるわね」と場を去るのは衣裳替え等の実務的な必要あってのものだが、その間隙は田中さんの独壇場。彼も話術(こんなに弁舌滑らかな方だったのか!)と演奏であっという間に観客の懐に入ってくる。そこで語られたのは、彼がお寺さんの子だったこと。当初から素敵な名前だなとは思っていたが、そうだったのか……妙に納得。そこから、後継ぎとして期待されていたこども時代、そんな自分が何故こうして音楽に携わっているのかといったかなりつっこんだこと迄開陳。その知識と体験を活かした田中訳「南無阿弥陀仏」、「塾長まじパねえ」は大ウケでした。

彼を観たのはdCprGとしてのラストステージ以来で、その退き際はかなりデリケートなことだったように感じたので気にはなっていた。そんな彼が、こうして過去(育った環境から得た知識と感性)を養分として現在(リズムアディクテッドなミュージシャン)を生きている様子に触れられたことはうれしかった。人生は繋がっている。

「じゃ、ちょっと行ってくるわね」。稲継さんは何度もそう挨拶し、その度に違う衣裳とキャラクターで帰ってくる。やがてこれは生まれかわりだな、と思えてくる。次は身体の自由が利くようになっている、次は女王様のような威厳を備えている。身体をいくつも乗り換えていくように。幼馴染としての田中さんはそれを見守り、応えていく。稲継さんによる「四誓偈」現代語訳と、西方寺の住職による読経も聴けました。理想は全国の寺で、その特性や地域との繋がりを都度とりいれ創りかえ乍らの、行脚スタイルでの公演。その遊行僧として選ばれたのが稲継さんと田中さんだったということすら、必然だったのではと思えてくる。それこそ何世代も前の頃から。

クライマックスは田中さんによるリズムにのせた煩悩108のアンケート。全員に配られていた木魚を叩いて答えます(笑)。死後どこに入りたいですか、実家の墓? 伴侶の墓? 樹木葬、それとも散骨? ひとを裏切られたことがありますか、裏切ったことはありますか……結構際どい質問もあったのにぶっちゃけちゃったなー。 田中さんのリードがまた絶妙で(「抱きたいリズム」がモットーなだけあるわ。セクシーだわ)、つい正直に答えてしまった。まあ当方喪中なんでねえ、いろいろ思うところありましたよ。演劇はセラピー、とはよくいったものだ。心の温泉旅行のよう。いいタイミングでこの公演に遭えたなあ。

「じゃ、ちょっと行ってきます」。田中さんが出ていった。終演とともに観客もそれぞれの先へ行ってきますとばらばらに。またどこかで逢えるでしょう。

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・坂田ゆかりが『F/T』で見せる、お寺や信仰と現代人との距離┃CINRA.NET
「見えない次元にあるものに触れることができる場所や時間を一時的に生み出すのが演劇だと思っている」
「パフォーマーはいずれ死んでしまう。建築や美術であれば物として残すことができるんですが、演劇は『いつか死ぬ』ものによって構成されている。そのあり方が、逆説的に死んだ先の未来についての思考を浮かび上がらせるというか……」
「盆踊りは、死んだ人の記憶を再生するメディアとも言える。演劇に限らず舞踊などの身体表現には、そういった儀礼的な性質が宿っています」


『わたしのすがた』(12)はもう八年も前のこと。にしすがも創造舎がなくなってからはなかなかこの辺に来る機会がなかったものなあ、また来たときもあるといいな