I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME
|
|
2017年06月24日(土) ■ |
|
『ブリッジ』 |
|
サンプル『ブリッジ』@KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ
解散(活動休止)公演でした。やー、今年一月に上演されたワークインプログレスに行けなかったのが悔やまれる。本編のみでもとても面白かったけど、過程も観てみたかった。何せモチーフが宗教団体で、それが解体していくさまが描かれるのだ。コミュニティは必ずこわれる。劇団の終焉に重ねず観ることはちょっと難しい。
下世話な話だが、個人的には古屋隆太の離脱が気になっている。劇団の活動休止と関連づけようとは思わないが……一月の上演について感想を探してみても「古屋さんがすごかった、すごすぎた」というものが多く、それが具体的にどういうことなのかを書いたものが見つからないのがひっかかる。「役に侵食されていて、終演後に会ったら変な人になってた」というような感想もあった。何があった、とどうしても思ってしまう。入れ替わるように本公演には古舘寛治が出演。もうひとり、羽場陸子が加わっているが、出演者の筆頭に挙げられる演者が入れ替わったのは大きいように思う。そもそも扱われているものが自己啓発から発展した宗教団体、コミュニティ維持のための資本と欲望のシェア、そこから生まれる亀裂と崩壊だ。松井周いうところの「『演技下手だなあ…』と見えてしまう『やや人間』」のサンプルが提示される。現実と虚構を混同してしまいそうになる。そういう意味では、優れた解散公演だったようにも思える。
日常生活で「人間」を演じている演者(今回の出演者)が、稽古を重ねるにつれ「あ、自分はそんなに『人間』の演技上手くなかった」と気づき「人間」から「やや人間」へ、そしてもはや人間といっていいものかという存在へと変態していく。しかし彼らはまごうことなき人間で、観ているこちら側も同様だ。彼らはうらがえることで、今いる環境から離脱しようとしているが、そのうらがえる器官は人間そのものでもある。さて、私たちはどこ迄行けるか?
演劇の快楽と恐怖は紙一重。想像をつきつめることで自分の思考(嗜好)が露わになる反面、状況というものはその自身の脳を騙す域に迄追いつめることが出来るというサンプルにもなっている。勿論、騙すことは嘘だが、それが真実になりかわる可能性はいくらでもある。侵食力の強いのはどちらかというと、むしろ自分の脳内でつくりあげた側なのではないだろうか。ちょっとしたタイミングでそれは「うらがえる」。
顕著なのは野津あおい演じるキャン。スピリチュアルな志向と吉田戦車作品の登場人物にいそうな動きで見た目はとてもエキセントリック。しかし用心深く聞いていると、その言葉は冷めて冴えている。表出しているものは果たして周囲の状況、環境に左右されたものか? 全く無関係とは思えない。昔クラブにこういう子いたなあ、シラフでああいうふうに踊れるひと。いや、かかっている音楽によっては自分もああだったかもしれない。朝になればクラブを出て、24時間営業のファミレスやミスドなんかに寄って、眠って「やや人間」から「人間」に戻る。その往復がいつしかうまくいかなくなるひともいる。キャンはむしろ、「人間」へと変態していっているように思えた。
初めて観たサンプル作品は『自慢の息子』だった。あのときの「ガイド」と「息子」の鮮烈さは忘れられない。古屋さんと古舘さんの共演は、またどこかで観たいものです。キャラバンは『ゲヘナにて』のタクシーのように街を巡る。いつかまたどこかで。
-----
・劇中に出てきたある商品、「ロビーで売ってます」って台詞があって、思わず終演後物販コーナーを凝視しました(笑)
・うらがえりの話、『殺し屋1』の「人間は一本の管で出来てるんだね〜」という台詞を思い出した〜
そして「うらがえる」で必ず思い出すのがこれ。というか、人間ってうらがえそうと思えばうらがえせるんだよなあと最初に気づいたのがこれ。この画ヅラ、かわいいやら怖いやらびっくりするやらでこどもには強烈だったんだろうなあ。いまだに憶えてるし、ちょっとしたきっかけがあれば真っ先に思い出すし。コスモ・オルガン協会は下からうらがえろうとしてたけど、これは上からうらがえっちゃったんですね。 今でもそらで唄えます。ちなみにアニメーションは福島治によるもの。だいすき
|
|